姉弟と兄妹 其ノ参
こじんまりとした相談所の二階には、これまたこじんまりとした居住スペースが存在していた。
こじんまりとはしているがリビングと寝室、そしてキッチン、トイレ、シャワールームが有り、住むのに不自由のない程度には便利である。
被害者宅巡りにより疲労した相談所の三人(柚月は幽霊で篠は妖怪であるため、正確に疲労したのは明月一人)は、まるでパジャマパーティーのような緩い雰囲気で会議(名目上)を開いていた。
「最初は死霊使いとかかと思ったが……、火車、しかねぇと思うんだけどなぁ……」
「『だけど』ー?」
“火車”。死体を運ぶ妖怪である。
その本体は、小鬼だとか、化け猫…猫又だとか、諸説有る。しかしその、火車が、死体を運ぶ先は必ず共通して同じ。
地獄、である。
「けどなぁ……」
そう。地獄。悪人が落ちるとされる場所。つまり火車が運ぶのは、悪人の死体なのだ。
「ねー! 『だけど』何って聞いてるんだけどー!」
「なぁ篠。お前、悪人の定義って何だと思う?」
明月は膨れっ面で人の頬を抓る篠の腕を掴み、抓るのを止めさせると、首を傾げながらそんな質問を投げかける。
「悪人? 悪いことした人……?」
「いや、なんつーか。もっと具体的に、線引きみたいな」
篠は少し考えてから、首を横に振る。
「そんなの人それぞれだよー。 わかんない」
「……だな。」
明月は自分と同じ考えに、納得したように頷くと、うーん、と再び思考に戻った。
―――悪人の線引きが厳しい火車なのかもしれない。
いやしかし、いくらなんでも。
他の遺体は歳を召した人が多かったが、14歳の燐はどうだろう。そんな少女が、地獄に行かなくてはいけない悪事を働いたのだろうか。
―――いや、親より先に死ぬと地獄行きっていうのは有名な話で。
「おい明月。納得するまで思考するのは良いが、火車なら一刻を争うぞ」
「そうなんだけど、そもそも地獄って何処―――」
―――ブオォン!という、けたたましい獣の咆哮のようなバイクのエンジン音が、明月の言葉を掻き消した。
「……なんだよ、こんなところに暴走族か………、―――ッ!」
明月は話の腰を折られたことに舌打ちし、心底迷惑そうな顔で、カーテンを開け、もうすっかりと黒く塗り潰された窓を覗き込む―――と、ほぼ同時に窓を開けると、躊躇うことなくそこから飛び降りた。
「へっ……、あっ、え、何事!? 此処二階! 明ちゃーん!?」
「五月蝿い。追うぞ」
柚月は眉を顰めながら篠の慌てた声に片手で耳を塞ぐと、もう片方の手で篠の腕を掴み、同じように窓から飛び降りる。
幽霊、魂である柚月と、幽霊と人間の狭間の存在である篠にとって、重力という概念はあまり意味をなさない。二人はゆっくりと明月の元へ着地した。
「―――っ!?」
そこで三人が見たのは。
憎悪だとか、怨念だとか、恐怖だとか、憤怒だとか。
全ての負の感情を混ぜ込み、煮詰めて凝縮したかのような。
―――炎に包まれた鬼が存在していた。
火車は、そんな負の感情を吐き出すように、ぐぅぅ、と低い唸り声を漏らしている。
同じ妖怪でも此処まで違いが有るのかという程に、人に近い雨女の篠や、いつぞやの雷獣とは全く異なり、彼らの相談所よりも巨大なその鬼の体は影のように何処までも暗く、その肩には、そんな鬼とは反対に真っ白で小さな少女を抱えていた。霧苑庵の妹、燐だろう。
「さ……」
明月は鬼―――、火車を見上げたまま、顔を青くし、がくがくと小刻みながら大きく震えだす。
「さんむい……!」
(……カッコ悪い。)
予想の斜め上を行く明月の叫びに、柚月と篠はこの場の雰囲気も忘れ、そんなことを思った。そりゃ十一月に浴衣で外に出たら寒いだろう。思ったことは同じだったが、柚月は馬鹿にしたように失笑し、篠は溜め息を漏らす。
柚月は咳払いしてから、震える明月に向かって釘を刺すような鋭い口調で声をかけた。
「……おい明月。いくらお前でもあれは」
「わかってる。やるさ……」
寒ぃしな、と明月は震える声を張り上げると、すぅ、と、息を吸い込む。そして空を切りながら、
「―――臨! ぴょおおぉおい!」
……切りながら、九字切りをしようとした明月だったが、薙ぎ払うかのように襲ってきた炎を纏う火車の腕に、明月は酷く情けない声を出した。
(カッコ悪い。)
再び柚月と篠の思考が一致する。
火車はそんなのお構いなしに、というより、寧ろ畳み掛けるように、その炎を纏う四肢を振り回している。しかしその動作は何処か、
―――苦しさに藻掻いているような。
明月は軽い身のこなしで火車の攻撃を躱しながら、そんな風に思った。確かに明月は全て器用に躱しているが、攻守は一方的。火車が苦しむ要素など何処にもない筈だ。
「危なっかしくて見てられないけど、明ちゃん、ちゃんと躱して、」
(―――躱して?)
そこで篠は、違和感を覚える。
祓い師、術師といえど、明月は普通の若者ではないのか。
普通の人間が妖怪の攻撃をこうも簡単そうに躱せるのだろうか。
「おい篠!」
「ひゃっ、ひゃい!」
「ぼーっとしてないで、消火!」
柚月の怒鳴るような声に、「簡単に言うよねっ」と文句を漏らしつつ、篠は天に両手を伸ばし、念じるように、んーっ、と唸り声をあげた。(その動作に効果が有るとはとても思えないが。)
―――何か、やっぱりおかしい。
ひっきりなしに襲う攻撃に、明月はそう思い、一旦距離を置いた。
そして、呼吸を整えるように空気を吸うと、火車に向かって一気に距離を詰める。何かを確かめんとするように。
「お待たせだねっ!」
と、丁度そのタイミングで、高く通る篠の声。その声に呼応するかのように、ぽつり、と雨が零れた。
纏った炎に雨が降り注ぎ、火車はそれに気を取られる。その一瞬の隙を突き、明月は少女、燐を救出した。
―――しかしその少女の体は、冷たいというよりも熱を失ったという状態であり、色を無くしたかのように、透けるように、白かった。
明月は少女の亡骸を抱きかかえたまま、小さく舌打ちし、顔を顰めて目を閉じる。そして篠にその亡骸を持たせた。
ぐおぉん! と、少女、死体を奪われた火車は、一際大きく、地面が震える程に咆哮。
それはまるで―――
「……成る程ね」
明月はそう呟くと、再び火車との距離を詰める。雨により纏った炎は失われたが、その体は力強く攻撃を続ける。
しかしその動きは、明月を見てではなく、ただひたすらに暴れているようだ。
「もう暴れる必要ねぇよ。」
明月は火車の腕に飛び乗ると、そこから頭の上へと飛躍する。
そして火車の頭に、文字を書いた。
―――「解」、と。
明月が頭上から降りるのとほぼ同時に、火車はまるで、蒸発するように黒い靄を発し、やがてその巨体が霧散した。
そしてそこには、柚月と同じ位の年齢であろう少年と、一台の真っ赤なバイクのみが残った。
「これは何事ですか……!?」
叫び声の主は、依頼人の霧苑庵。明月が呼んだのだろう。
庵は高級そうな車の運転席から降りると、少年を呆然と見ていた。しかしその視界の隅に燐の姿を見付けると、降りしきる雨を気にすること無く燐に駆け寄り、篠から受け取った。
燐の、亡骸を。
「燐……!? 燐……!」
燐は反応しない。
名を呼ぼうと、その真っ白な頬を叩こうと。
亡骸は、反応しない。
一頻り名を呼び反応しないことを知った庵の表情は、悲しみでも、怒りでもなかった。
それは、「無」だった。
「身体だけじゃなく、魂も其処にいるぞ……」
庵に、幽霊である柚月の声は聞こえない。その隣で頬を涙と雨でぐしょぐしょに濡らした小さな少女の声も聞こえない。姿も見えない。
「……『今までありがとう、大好き。』だってよ……」
明月の言葉に、庵は冷たくなった少女を抱き締めたまま頬を濡らした。