姉妹と兄妹 其ノ壱
「いちかけ にかけ さんかけて」
―――姉ちゃん、続きは?
暗い。
誰も、いない。
「しかけて ごかけて はしをかけ」
―――……姉ちゃん。姉ちゃん?
◇◇◇◇◇
昨晩、羊は十匹しかいなかった。
青年、槌門明月は起きてすぐ、今し方見ていた夢ではなく、寝る前の記憶を辿っていた。
寝付きが良かったにも関わらず疲労感が残る身体を怠そうに起こす。
―――夢は嫌いだ。
十分に睡眠を取ったにも関わらず、その睡眠が浅かったというだけでも憤りを感じるが、記憶と間違うようなリアルな夢、特に今日のような良く意味の分からない夢は、彼を更に疲労させた。
明月は機嫌が悪そうに顔を顰め、寝癖の付いた頭を乱暴に掻く。
「朝から良い顔だな。明月」
「姉貴……」
突如現れたセーラー服の少女が、明月の様子を嘲笑う。
“姉貴”と呼ばれた少女、明月よりも十は年下であろうその少女は、槌門 柚月。明月の実の姉である。
「さして仕事もしてないのに、凄い隈だぞ」
柚月は浮遊して明月に近付き、嫌味っぽく笑いながらその目元に手を当てる。正確には、当たっていないのだが。
少女、柚月は実体を、身体を持たない。
魂のみの存在、つまりは死霊である。彼女の見た目が幼いのは、その命を亡くした年齢から成長していないということに他ならない。
「可愛い弟が魘されてた、っつうのに、酷ぇな」
「誰が可愛いか。愚弟が」
そう言うと、柚月はするりと明月を通り抜け、明月が先程まで寝ていたベッドの縁に座るような姿勢を取る。
「姉貴……、通り抜けんの止めろっつの」
「心配しなくても、お前には憑けない」
明月は、何か気色悪ぃ、と呟きながら、自分の胸元に手を当てる。その、当てられた手の上から柚月はまるで心臓を掴むような動作で、実体を持たない腕を貫通させ、そのまま意味もなく上下に振り、意地悪そうに笑って見せる。
「……憑かれそうとかじゃなく、触れないっつうのが、何か気色悪ぃんだよ」
何処までも天邪鬼な姉の行動に、諦めたような、或いは疲れたような溜息を漏らすと、お返しとばかりに柚月のその、見た目年齢以上に平坦な胸部に手を当て、腹部に掛けて撫でる。胸の平坦さを表すような動作である。
「明ちゃん、柚ちゃん! いつまで寝てるの! もうお昼だよ! ご飯冷めちゃうんだか……ら……」
「げ、篠……ッ」
と、その時。見計らったようなベタなタイミングで、ばん、と乱暴にドアが開かれた。
ドアの向こうの光景は、弟である明月が、姉である柚月の胸を撫でている光景である。否、正確に言うと明月は柚月の体を撫でられないのだが、しかしそんなことは些細な問題である。この背徳的な絵面が問題なのだ。
そんな状況を目の当たりにした、同居人であるエプロン姿の少女、篠は、その手に持っていたフライパン返しをぽとりと床に落とす。
「ひどい! 仲間外れなんて!」
「ちょ、おい!」
と、言いながら二人の座るベッドへ、というよりも、二人に向かって勢い良くダイブした。
「きゃー明ちゃん、浴衣が肌蹴てるっ! だいたーんっ!」
「誰のせいだ!」
「ねぇねぇ何イイコトしてたのっ? 柚ちゃんのぺったんこより私の方が良くないっ?」
篠はそう言いながら、自らの豊満な胸を明月の胸元に押し付けた。明月の堅い胸板とは対照的なそれは、密着することでその柔らかさをより一層主張するように押しつぶされる。
明月は少し女性的な印象を与える、線の細い外見をしているのだが、その中身は普通に男性だ。表情は狼狽え、頬は少しばかり紅みがさす。
「おい篠。大概にしろ」
一人争いの渦中から逃れていた柚月が、そう言って篠の片方の頬を強く抓った。実体を持たない幽霊である柚月だが、篠には触れる事が出来る。それは篠が妖怪であるからだ。
妖怪は言うなれば、人間と幽霊の狭間に位置するような存在である。実体を持つが、『確実性』の無い存在。存在しながら存在を持たない、そんな矛盾を孕んだ存在こそが、篠のような妖怪に共通する性質の一つである。
「いひゃいよぅ。らっへほんほほほほやらい」
「何言ってんのかまるでわからん」
明月の上に被さるような体勢のまま、反省の色が何も見られない篠に対し、柚月はもう片方の頬を抓り、さらにそのまま両頬を伸ばして遊ぶという制裁を加えた。
「いひゃいいひゃい〜。もー、はなれるはらおほららいれよぅ」
「ふん、聞こえんな」
「おい、その辺に……」
「あ?」
明月が制止にかかった瞬間、柚月は鋭い目付きで殺気を放つ。
「事の発端は、お前が人の胸を……」
今にも呪い殺さんような悪霊の如く、今にも刺し殺さんような鋭利なナイフの如く、そして或いは、凍りつくような冷めた、軽蔑するような視線を余すことなく明月一人に注ぐ。
「ごめんなさいもうしません」
「宜しい」
明月はひれ伏すような情けない姿勢を取り、両手を合わせて許しを乞う。見た目は柚月が年下でも、やはり姉である。
「お楽しみ中だったか」
またもや見計らったかのようなタイミングで、開け放たれた寝室のドアの方から、響くような低い声が発せられた。
「アス……!?」
「すまんな。ノックしたんだが返事が無かったから、邪魔させて貰った。姉さんは元気か?」
長身の、少しばかり顎髭を生やした男は、挨拶の代わりに片手を上げる。
「元気か、だと? 死んでいるが?」
「元気だよ、悪態つくくらいには」
馬鹿にするように眉を顰める柚月を横目で見てから、明月は苦笑いを浮かべて親指で柚月の居る方向を指す。
「……ねぇ。あの良いおっさんだぁれ?」
「あぁ、篠は会ったことなかったな。アス…、重峰 遊馬」
「こういう者です、お嬢さん」
そう言って男―――、遊馬が篠に、まるで印籠のように気取った顔で見せたのは、正真正銘本物の警察手帳だった。
「えっ、なに? もしかして明ちゃん何かやったの!? 詐欺!? 婦女暴行!? ついに!?」
「詐欺は良いとして、“婦女暴行”とか“ついに”は聞き逃せねぇなぁ」
「詐欺も駄目だぞ」
遊馬は一息分置いてから、「また、」と話しを切り出す。
「ちょっと協力して欲しいことがな」
……つまり、遊馬が警察手帳をドヤ顔で見せたのは、単に「やってみたかっただけ」である。きょとんとする篠に対し明月は鼻で笑うと、誇らしげに胸を張ってみせる。
「遊馬は俺の友人だ。俺様がたまに、捜査手伝ってやってんだよ」
「と、言っても。人間には知り得ない、否、“認められない”事件についてのな。つまり」
柚月は茶化すように、明月を真似て鼻で笑ってから付け足すように言った。それに対し、篠の表情が少し曇る。
「ぁ……、妖怪関連の、か」
自ら望んだ故では無いにしろ、自らが人を殺めたことーーと言うより、殺めても人として咎められないことに対する罪悪感が、まるで靄のように篠に纏まり付いているのだ。
そこで、「篠。」と、囁くような、しかし力強い声が響く。
「お前はそれを償いたくて、俺と居るんだろ?」
「ん……っ、うんっ」
篠はそのくりくりと大きな瞳に、今にも零れそうな涙を溜め、それが零れないように小さく頷いて見せる。
「ん?お嬢さん妖怪なのか……」
遊馬はそう言うと、触れることを確かめるように篠の頭を撫でた。ぐりぐり。
「ひゃー、私この人好き!」
先程の良い雰囲気というか、感動的なシーンは何処へやら。きゃっきゃとした雰囲気を醸し出しながら篠は遊馬に抱き付いた。遊馬は動じるでも抵抗するでもなく、「おやおや」なんて言いながら、どさくさ紛れに篠の背に手を回す。
「尻軽め」
「柚ちゃんは胸が軽いだろうけどね〜」
「……〜っ」
べー、と舌を出す篠に対し、思い切り不機嫌そうに顔を顰めながら柚月は舌打ちをする。明月にとって柚月は最強の存在だが、柚月にとって篠は天敵なのだ。
「柚月ちゃんも、会ってみたいものだ。いや、会ってはいるのか。メイの姉さんなら、美人なんだろうな」
「……ねぇ、明ちゃん。もしかしてさ」
篠は未だ遊馬に抱き付きながら何かを言おうとしたが、その途中で「あっ!」と声を荒げる。
「折角ご飯つくったのに!」
◇◇◇◇◇
「腐乱もゾンビ化も白骨化もしてない綺麗な死体が消える事件がな、最近多発しててだな」
「……それ食事中に話さなきゃいけねぇこと?」
篠の作ったオムライスに舌鼓を打ちながら、例の事件について顔色一つ変えずに話す遊馬とは逆に、明月は顔色を悪くしてスプーンを動かす手を止める。
「すまんな、俺もなかなか忙しいもんで」
「そうかい……」
明月はそう言うと、何かを考えるように目を瞑り、うーん、と唸ること、三秒間。
「死体に共通点は?」
「無い。仏さんになったばかりということ以外には、な」
「妙だな……」
「そうなのっ?」
首を傾げる篠に対し、明月は、あぁ、と首を縦に振り肯定する。
「妖怪っつうのはな、言わば人の思いっていうか、“感情”の結晶なんだよ」
「どういうこと……?」
「ほら、ガキの頃って脅かされるだろ。悪いことしたらナマハゲが来るだとか、壁に耳あり障子に目ありだとか。お前の場合は、雨の中の夜道が不気味だ、とか」
うんうん、と熱心に頷く篠に得意げになり、咳払いしてから明月は話を続けた。
「要するに、何かしたら妖怪が現れる、何か人に言い表せないことを妖怪の所為にする。そういう人間の、理由の分からない恐怖とか、罪悪感とか、災害や災難なんかが“妖怪”なんだよ。つまり、人が考えれば考えるだけ、妖怪が存在すんだ」
「へぇ……。なんか、私ってふわふわした存在なんだね」
「んなことねぇ。そう言ったら、ヒトだって何によって生まれたのかも良くわかんねぇだろ。元は同じ生物からの進化とか言うけど、何でこんな風に進化したのか、とかな。……っつーか」
明月は訝しげに目を細める。
「篠、お前妖怪の癖に、何でわからねぇんだよ」
「明ちゃんも自分が何で生まれたかとか分からないんでしょ〜」
「まぁ、そうだが……」
「それで、明月。一体何が“妙”なんだ?」
咀嚼を終え、ご馳走様の意を表す為に両手を胸の前で合わせながら、遊馬が問いかける。
「人の思い。故に、妖怪が何かするのは特定条件下っつうのが多いんだよ。篠なら、お前が惚れたらだとか、それこそ悪いことしたら、だとか。でも死んだら、っつうのはな」
んー……、と、明月は眉を顰め、腑に落ちないと言った様子で唸り声を上げた。
「……まぁ、お前が言ってくるってことは妖怪関連なのは間違いないんだろ。なら、何とかしてやるさ」
「あぁ。ありがとな」
と、明月の頭をぐりぐりと撫でる遊馬に対し、篠は「もしかしなくても、この人スケコマシじゃなく天然なんだね……」と、誰にともなく呟いた。