9.樹の下の茶会
屋敷の正面玄関から外に出ると、正門までの庭には、隅に花壇が並んでいるだけだ。馬車を停めるためのロータリーがあるから、なにかを植える余裕がない。
ふと、フレンの頭上に影が差した。見上げれば、ノアが日傘を差しかけてくれている。
「どうぞ。フレンの肌が日に灼けてしまったら大変です」
「ありがとう……」
ここまで大切に扱われたのは、初めてのことだった。
ノアが手を伸ばさなくても済むよう、そっと彼の傍に寄る。
――どうしてかしら。なんだか、どきどきするわ……。
フレンはぱぱっとかぶりを振った。
――きっと、男の人の隣を歩いているから、緊張しているんだわ。
自分に言い聞かせるフレンである。
フリッツの横にいるときは、ちっともどきどきしなかったが、それは彼が、単なる幼なじみだったからだろう。
「フレン、顔が赤いようですが。もしや、熱でも?」
「いいえ。きっと、風が温かいから……」
「確かに、春もそろそろ終わりです。日差しも強くなりつつありますから、日傘を持ってきてよかった」
どうやら、謎の動悸は、ノアに悟られずに済んだようだ。
屋敷の側面をぐるりと回って、裏庭へ。途端に、はらはらと小さな花びらが頭上に舞った。
「これは、見事だ」
ノアが視線を上げている。
彼にならって、フレンも上を向いた。
頭上にそびえるのは、春になると、薄紫の小さな花を大量に咲かせる木だ。盛りを過ぎた花からは、絶えず花びらが散っている。
「この木は数百年もの間、ここに植わっているんですって。初代のリース公爵が、はるか東の国から苗木を取り寄せたと言われているの。本当かしら?」
「なるほど。リース公爵家は、アーデル王国の建国当時から存在したと伝えられる名家です。その可能性は高いと思いますよ」
「そうだったら嬉しいわ。この木の根元が、わたしのお気に入りなの」
「では、昼食はここでとりましょう。裏庭の中央に群生しているのは、白詰草ですね?」
ええ、とフレンは答えた。
「少しだけ、白詰草を見に行っても構いませんか」
「もちろんよ。幼い頃は、よく花を摘んで遊んだわ」
フレンは、ノアとともに白詰草の花畑の中心に行くと、そっとしゃがみ込んだ。
――そういえば、フリッツさまと『王太子殿下に婚約破棄されたので、華麗にざまあいたしますわ!』を読んだのは、この場所だったわね……。
幼い頃、フレンは体があまり丈夫ではなかった。
体を動かして遊ぶことのできないフレンに付き合って、フリッツは肩を並べて、本を読んでくれたのだ。
成長するにつれて、フレンは健康になり、将来の王妃としての勉学に励むようになった。
王太子であるフリッツを支えられるように、経済学から言語学、立ち居振る舞いにダンス、服飾の知識まで精一杯身に着けた。
ところが、フレンが努力を重ねるたびに、フリッツとの距離は開いていった。
フリッツへの思いは、決して恋ではなかった。それでも、幼なじみとして彼に親しみを抱いていたのは確かだったのだ。
『お前と過ごす時間は、退屈だった』
『ハズレ令嬢』
ざまあの第一段階が済んで、気の抜けた今、フリッツの言葉が胸に突き刺さる。
「あっ……」
ぽたりと、白詰草に一滴の雫が落ちた。
「フレン……? 大丈夫ですか」
ノアの気づかわしそうな声に、フレンはごしごしと目元を拭う。
「なんでもないわ。目に、砂埃が入ったみたい」
「フレン。これを持っていてくれますか」
ノアが日傘を差しだしてくる。
フレンが日傘を受け取ると、ノアはくるりと背を向けた。
なにをしているのかは分からないが、屈みこんで、手を動かしているようだ。
フレンは、ぼうっと白詰草を撫でた。
しばらくすると、ノアがこちらを振り向いた。彼が捧げ持つように、両手のひらの上に載せているのは、白詰草の花冠。
ノアは花冠を、そっとフレンの頭にかぶせた。
「ノア……?」
「私の姫君。あなたには、冠がふさわしい」
「全くもう。わたしはただの、公爵の娘よ。お姫さまなんかじゃないわ」
フレンは呆れて、ノアをたしなめた。
けれど彼は、いいえ、と空色の目を細める。
「以前のあなたは、王太子を、ひいては将来の国王の助け手となる存在でした。でももう、フレンは自分のために生きていい。私はどんな道に進もうとも、あなたを支えると誓います」
「男の人が女性を支えるなんて、聞いたことがないわ」
最近では徐々に見直されつつあるものの、アーデル王国は、まだまだ男性優位の国だ。妻は家庭を守り、夫に寄り添うもの、という価値観が根強い。
フレンの反論に、ノアが言葉を重ねる。
「でも、フレンは私の、ただひとりの姫です。騎士が姫に仕えるのは、当然のことではありませんか?」
ノアの面持ちは真剣そのもので、フレンはつい、吹き出してしまった。
「どうして笑うのです? 私は真面目な話をしているのですよ」
不満そうなノアに、フレンはくすくすと笑いながら答えた。
「ごめんなさい。なんだか、気持ちが軽くなって……。ノア、ありがとう。嬉しいわ」
「それはよかった。では、そろそろ昼食にしましょうか」
木の根元に移動すると、ノアが大判の布を地面に敷いてくれた。さらに、フレンの肩にストールを羽織らせてくれる。どうやら、これらが大荷物の正体だったようだ。
「木陰に入って、体が冷えるといけませんから。さあフレン、座って」
フレンが布の上に腰を下ろすと、同じく座ったノアが、バスケットの蓋を開ける。
中から出てきたのは、水筒とティーカップだった。
「まずは紅茶をどうぞ。水出しの紅茶は初めて淹れたので、フレンの口に合うといいのですが」
ノアにお礼を言って、紅茶を口に含む。
冷たい紅茶は口当たりがよく、爽やかな風味がした。
「とてもおいしいわ。ノアは、紅茶を淹れるのが上手ね」
「実は、かなり練習したのですよ。フレンに喜んでもらえるように」
次にノアがバスケットから取り出したのは、細長いものを挟んだパンだったからだ。
「これは、ソーセージだわ!」
「はい。酒場で、あなたが気に入ったようだったので。特別に仕入れてもらいました」
ノアに手渡されたパンは、ふわふわだった。
「さっそく、いただきます!」
はむっと食べれば、パンはほのかに甘く、塩気のあるソーセージとの取り合わせが最高だった。
「やっぱり、美味だわ! 本当は、酒場に行った次の日から、ソーセージが恋しかったのよ」
「そうだと思いました。たくさん作りましたから、いっぱい食べてくださいね」
そう話すノアも、ソーセージパンを口にしている。
見れば、紅茶の水面にはひとひらの花びらが浮いていた。
いつの間にか、フレンの涙はすっかり乾いていた。




