存在しない病室
第八章 存在しない病室
『もし君がこれを読んでいるなら、きっと私は君に忘れられています。』
その一文から先は、涙で滲んで読めなかった。
何度も袖で紙を拭く。
震える手で続きを追う。
『だから、自分を責めないで。』
『私は、君が生きてくれることを選んだから。』
意味が分からなかった。
僕が生きることと、彼女が忘れられることに、何の関係があるんだ。
紙の端には、小さく住所が書かれていた。
『青葉市中央区 白鷺医療センター』
僕はすぐにスマホで地図を開いた。
検索。
該当なし。
病院名だけを入力する。
該当なし。
住所だけを入力する。
『現在、公園として利用されています。』
胸が嫌な音を立てた。
「そんなはず……。」
財布を掴み、家を飛び出した。
⸻
二時間後。
夜の公園に立っていた。
噴水は止まっている。
街灯だけが静かに地面を照らしていた。
僕は園内を歩いた。
何かあるはずだ。
ベンチ。
遊具。
花壇。
どこにも病院の面影なんてない。
「すみません。」
犬を散歩していた老人に声をかける。
「ここって、昔病院でしたよね。」
老人は少し考えてから首を横に振った。
「いやあ、四十年くらい前から公園ですよ。」
「そんな……。」
「君、大丈夫かい?」
僕は何も答えられなかった。
⸻
帰ろうとした、その時だった。
カラン。
足元で何かが転がる音がした。
視線を落とす。
一枚の銀色のプレート。
土に半分埋まっている。
拾い上げる。
汚れを拭く。
そこには、小さく刻まれていた。
307
僕の呼吸が止まる。
三〇七号室。
彼女の病室。
どうして。
どうして、こんなものだけ残っている。
「君も……見つけたんだ。」
後ろから声がした。
振り返る。
黒いコートを着た初老の男性が立っていた。
白髪交じりの髪。
痩せた身体。
首から古びた職員証を提げている。
「あなたは……。」
男は僕の手の中のプレートを見て、静かに目を細めた。
「その番号を覚えている人は、もうほとんどいない。」
「知ってるんですか!」
僕は思わず詰め寄った。
「彼女はどこですか!」
「白鷺医療センターは、本当にあったんですか!」
男は少しだけ悲しそうに笑った。
「……あったよ。」
その一言だけで、涙が溢れた。
やっぱり夢じゃなかった。
僕は彼女と出会っていた。
約束もした。
全部、本当にあった。
男はゆっくりと続ける。
「私はあそこの医師だった。」
「だった……?」
「十五年前に、病院は閉鎖された。」
「閉鎖……。」
「いや。」
男は首を横に振る。
「正確には。」
「この国から、存在そのものを消された。」
夜風が吹く。
噴水の向こうで時計台が午前零時を告げた。
男は僕を真っ直ぐ見つめる。
「君は、時間停止治療という名前を聞いたことがあるね。」
僕は頷く。
「あれは治療じゃない。」
その言葉に、全身が凍りついた。
「――あれは、隔離だった。」
男の瞳には、十五年間誰にも話せなかった後悔が静かに滲んでいた。




