第一話 映画化決定
「映画化が決定しました」
エリスのその一言に、私は思わず立ち上がった。
春の陽光が柔らかく差し込む編集部の小会議室。
コーヒーの香りと積まれた資料の匂いが漂うその場所で、担当編集の彼女はいつになく嬉しそうな顔をしていた。
「ほ、本当ですか!?」
「はい。『氷薔薇の公爵令嬢』、王都劇場による魔導映画化です」
やった。
ついにやった。
思わず両手で口を押さえる。
それでも頬がにやけるのはどうにも止まらない。
この世界で最も権威ある映画賞、黄金竜賞。
その候補作を次々と生み出す映画制作会社である王都劇場から、ついにオファーが届いたのだ。
私が四年前に書き始めた婚約破棄ものの恋愛小説が、書籍化、舞台化を経て、映画化まで辿り着いた。
胸の奥からあふれてくる感情に、今すぐ名前をつけることが難しかった。
喜びか、驚きか、それとも感謝か。
おそらく全部だろう。
「先生、椅子に腰掛けてください。お茶をお持ちしましたので」
「あ、ありがとうございます」
席に戻りながら、自分の手がかすかに震えているのに気づいた。
これほど動揺したのは、初めて書籍化の話をもらった日以来かもしれない。
エリスが淡々と資料を並べていく様子を眺めながら、私は深呼吸をひとつした。
担当編集として三年間付き合ってきた彼女は、いつも冷静で感情をあまり表に出さない人だ。
それでも今日ばかりは目元が緩んでいて、この知らせを心から喜んでくれているのが伝わってくる。
私も同じ気持ちだった。
『氷薔薇の公爵令嬢』は、私の代表作と言っていい。
婚約破棄された公爵令嬢アイリスが、失われた尊厳を取り戻しながら真実の愛に辿り着くまでを描いた物語だ。
書き始めた当初は「婚約破棄ものの一つに過ぎない」と思われるかもしれないという不安もあった。
けれど主人公の細やかな心理描写と緊張感ある恋愛劇が読者の心を掴み、気づけば王国中で読まれる人気作品に育っていた。
舞台化の際には「主人公と一緒に泣いた」「何度観ても泣ける」という感想を多くいただき、作家として本当に幸せだと感じたものだ。
その物語が、今度は映画になる。
「ちなみに監督も決まりました」
「え?」
エリスが笑顔のまま資料を差し出す。
映画化の知らせで頭がふわふわしていた私は、反射的にそれを受け取る。
どんな監督が手がけてくれるのだろう。
黄金竜賞を射程に入れた骨太な作風の人だろうか。
感情描写に定評のある繊細な気鋭の若手監督だろうか。
期待に胸を膨らませながら資料へ視線を落とした。
そこに記された名前を目にした瞬間、私の思考はぴたりと止まった。
バルト・ギャグウェル。
見間違いかと思い、もう一度確認する。
バルト・ギャグウェル。
やっぱりそう書いてある。
全国各地で記録的な興行収入を叩き出し続けてきた、王国最高のヒットメーカー。
同時に業界内では「原作改変王」という不名誉な異名でも広く知られている人物だ。
彼の過去作品を思い返すと、心が沈む出来事ばかりが浮かんでくる。
感動系の恋愛小説を原作にした映画では、読者が待ち望んだ涙の最終シーンが突如として謎の大爆発で幕を閉じた。
由緒ある貴族一族の歴史を描いた大河小説の映画化では、随所に脈絡のないコメディシーンが挿入され、原作ファンが集団抗議文を提出したという。
そして今でも語り草になっているのが、王国屈指の名ミステリー小説の映画化だ。
知略と心理戦が売りの原作が、なぜか終盤からラップバトルの展開になり、試写会に来た評論家たちが揃って絶句した。
そういう人が、今度は私の作品を映画にするというのだ。
アイリスの婚約破棄シーンで爆発が起きたら、どうしよう。
渾身の告白場面がラップになったら、どうしよう。
原作にいない謎の人物が突然画面に現れて何か叫び始めたら、どうしよう。
想像するだけで胃の奥がきゅっと締まる。
「……終わった」
声が漏れていた。
さっきまでふわふわと舞い上がっていた気持ちが、一瞬で地面に叩きつけられた感覚がある。
黄金竜賞候補を生み出す名門映画会社からのオファーという夢のような話が、たった一つの名前によって悪夢の色へと変わっていく。
「落ち着いてください、先生」
「エリス、これは落ち着けません」
「……そうですね」
エリスが珍しく同意した。
いつもなら「落ち着いてください」で会話の八割を占める彼女が、今日はそう言えないらしい。
それほどこの状況が深刻なのだということを物語っている。
私は額に手を当てた。
まだ頭は痛くないが、近い将来確実に痛くなる。
そういう確信がある。
机の引き出しを開けて、常備している頭痛薬の瓶を取り出す。
残り六錠。
絶対に足りない。
大量に補充しておくべきだろう。
「何かの間違いということは……」
「残念ながら正式決定です。先ほど王都劇場から直接確認を取りました」
「監督の変更交渉は……」
「興行収入の観点からは、この王国で現在右に出る方はいませんので」
「……そうですか」
私は深く椅子に沈んだ。
資料をめくると、バルト監督の過去作品リストがずらりと並ぶ。
どれも記録的な興行収入を叩き出した大ヒット作であり、同時に原作ファンから「これは別の作品だ」「返金してほしい」という声が相次いだ作品でもある。
この二つが完全に一致している。
興行と改変を同時にやり遂げる、ある意味では天才なのだろう。
ただ、その才能の使い方が著しく惜しい。
「来週、王都劇場へお越しいただくことになります。監督との第一回打ち合わせです。それから、もう一点」
「もう一点?」
エリスがわずかに口ごもる。
珍しいことだ。
いつもはっきりものを言う彼女が言葉を選んでいるということは、続く話がろくでもないという経験則がある。
「王都劇場の総責任者でいらっしゃる、レオン・アークライト第二王子殿下も同席されるとのことで」
「……殿下が直接」
レオン・アークライト殿下。
二十八歳。
王都劇場を含む複数の王立文化施設を管轄する、映画会社の最高責任者。
超有能、冷静、無表情という評判の方だ。
面識はないけれど、文化政策における手腕は業界内でも高く評価されていると聞く。
その方が今回の映画化に深く関与しているという。
「殿下が先生の作品を直接ご推薦されたとも伺っています」
「……光栄なことです」
光栄なのは確かだ。
ただ同時に、バルト監督という選択もその方が絡んでいる可能性が高い。
そうなれば覆せない。
たとえ覆したくても、そう簡単にはいかないだろう。
私は頭痛薬の瓶に視線を落とした。
六錠。
やはり六錠では焼け石に水だと思う。
ドアのノック音がしたのは、そのときだった。
「失礼します」
低く、よく通る落ち着いた声。
エリスが目を見開き、反射的に立ち上がる。
私もつられた。
ドアの前に立っていたのは、見慣れない男性だった。
深みのある紺色の上着を端正に着こなし、背筋がきれいに伸びている。
整った顔立ちに、何を考えているか読み取りにくい静かな瞳。
エリスが私の隣に近づき、小声で囁いた。
「レオン・アークライト殿下です」
この名前が話題に上がったその直後に本人が現れるとは、どういう偶然だろう。
「急に伺って申し訳ありません。この近くに別件がありましたもので」
「とんでもございません、殿下」
「アルフォード先生もちょうどご在席で、よかった」
殿下の視線がまっすぐこちらへ向く。
感情の起伏が見えにくいが、その目には静かな知性が宿っている。
「今回の映画化について、直接ご挨拶をと思いまして。そして一点、先にお伝えしておきたいことがあります」
「はい……」
殿下が一拍置いた。
机の資料へ視線を落とし、それからゆっくりと私を見る。
「バルト監督の件ですが」
「……はい」
「私もそう思います」
短い沈黙が部屋を満たした。
「容易ではないと」
エリスがそっとお茶を口に運ぶ音がした。
私は目の前の殿下を、しばらくの間ただ見つめた。
超有能で冷静だという評判の方が、初対面の挨拶でそんなことを言う。
予想外で、少しだけ可笑しくて、それ以上に妙に心強い。
少なくとも、無条件にバルト監督の暴走を許容するつもりはない人らしい。
「来週の打ち合わせ、よろしくお願いします」
「こちらこそ。よろしくお願いいたします、殿下」
殿下が静かに頷いた。
部屋を出る前に、もう一度だけこちらへ視線を向けた気がした。
ドアが閉まり、足音が廊下の向こうへ遠ざかっていく。
私はゆっくりと深く息を吐いた。
エリスが小声で呟く。
「……殿下が直接いらっしゃるとは思いませんでした」
「……私もです」
頭痛薬の瓶をそっと引き出しに戻す。
六錠。
さっきまで絶対に足りないと思っていたそれが、なぜか今は少しだけ多く感じられた。
来週の打ち合わせ。
バルト監督と、殿下と、私。
嵐が起こるのは間違いない。
ただ、どうやら一人きりで戦うわけではなさそうだ。
それだけは今日、確かに分かった。




