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弱くて、臆病で、仲間に助けられながら紡ぐ最後の英雄譚  作者: だんご


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弱者の術


 夕陽が落ちかけていた。


 空き地の端。木の幹にもたれたアリアドネの影が長く伸び、ミルの小さな影と重なっている。風が草を揺らしている。遠くで復興作業の槌音が聞こえていたが、それも止んだ。人の気配が遠のいていく。


 二人だけが残った。


 ミルはメモ帳を胸に抱えたまま立っていた。アリアドネは木に背をつけて、腕を組んでいた。どちらも口を開かなかった。沈黙が重かった。けれどミルにとっては、この沈黙の方がまだ楽だった。口を開けば、ずっと押し込んできたものが溢れる。溢れたら——止められない気がした。


 口を開いた。


「私は戦えない」


 最初の一言が、それだった。


 感情を乗せなかった。乗せないように言った。事実を述べるように。ミルが一番得意な形式で。数字を読むように。報告書を読み上げるように。感情を排して、事実だけを並べる。


 けれどその事実が、ミルの全てだった。


「剣も持てない。魔法も使えない。盾も持てない。罠も作れない。体も小さい。魔力もない。できるのは——見て、考えて、声を出すことだけ」


 一語ずつ、丁寧に。崩れないように。感情が混じらないように。まるで自分の弱点を分析しているかのように。サポーターとして他者の弱点を見抜くのと同じ精度で、自分自身の欠落を列挙していく。


「指示を出す。分析する。数字を並べる。それだけ。アスは剣を振れる。ロイドは前線を支えられる。アテネは回復できる。レイもシアもクロもガルドも、それぞれ自分の手で何かを——」


 声が揺れた。ほんの僅かに。ミルは唇を噛んで、揺れを止めた。


「自分の手で、守れる。私にはそれがない」


 アリアドネは黙っていた。腕を組んだまま、ミルを見ている。遮らなかった。相槌も打たなかった。ただ聞いていた。


「侵食編で——結界が割れて、悪魔が来て、街が壊れていくのを見ていた」


 メモ帳を抱える手に力が入った。指が白くなっていく。


「私は何をしてた。建物の二階から見下ろして、声を出してた。アスが前線で悪魔を斬ってる間。ロイドが群れを薙ぎ払ってる間。アテネが走りながら傷を治してる間。全員が身体を張ってる間——私は安全な場所にいて、声を出してた」


 安全な場所。その言葉を口にしたとき、ミルの声が掠れた。


「二階の窓から見てた。東の通りで建物が崩れて。人が——動かなくなるのを。見えた。私のいた場所から。安全な場所から。見えてた」


 あの日の記憶が、言葉と一緒に溢れてくる。止められない。止めるつもりで来たのではなかった。吐き出すために来た。


「指示を出してた。アスたちに。西を守れって。正しかった。西を守ったことで、もっと多くの人が助かった。数字の上では最適だった。最適な判断をした。報告書にはそう書ける」


 声が低くなった。


「でも東の通りで人が死んだ。私の判断が正しかったから、被害は最小限で済んだ。そう言われた。最小限。二十三人。それが最小限」


 メモ帳を握りしめた。紙が歪む音がした。


「数字で言えば最善だった。でも私がもう一秒速く判断できていれば。もう一つ先を読めていれば。あの通りに一人だけでも送れていれば——」


 止まった。言葉が詰まった。喉が締まって、声が出なくなった。


 数秒間、草が揺れる音だけがあった。


「——お荷物なんです」


 絞り出した声だった。感情を排するつもりだった。排せなかった。声が震えていた。ミルが人前で声を震わせるのは、初めてのことだった。


「私がいなくても変わらない。指示なんて——アスでもレイでも出せる。完璧じゃなくても、動ける人間が判断すれば、それで回る。私がいなくたって戦える。私がいなくたって守れる。私は——」


 目が熱くなった。泣きたくなかった。泣く気はなかった。データを並べているだけだ。事実を述べているだけだ。それなのに目が熱い。


「私がいなくても、誰も困らない」


 声が割れた。最後の一語で。


 ずっと思っていた。


 仲間と出会ったあの日から。アスが炎を振るい、アテネが光を灯し、ロイドが大剣を握る横で。自分だけが手ぶらだった。自分だけが、何も持っていなかった。頭と目と声。それだけ。それだけで十分だと言い聞かせてきた。十分だと信じようとしてきた。


 信じきれなかった。


 侵食編が、最後の一滴になった。あの日、安全な場所から声を出していただけの自分が。人が死ぬのを見ていただけの自分が。仲間が血を流しているのに——声しか出せない自分が。


「足を引っ張るくらいなら、邪魔するくらいなら——消えた方がいい」


 初めて感情が乗った。


 冷静で、合理的で、感情を排することで自分を守ってきたミルが。初めて感情のままに言葉を吐いた。消えた方がいい。そう思った。本気で。仲間の足枷になるくらいなら。自分のせいで誰かが死ぬくらいなら。


 声が止まった。吐き出すものを全部吐き出して、空っぽになった。胸の中にあった重さが——消えたわけではない。外に出しただけだ。空き地の空気の中に漂っている。


 アリアドネが黙っていた。


 長い沈黙だった。ミルの言葉が全て落ちきるのを待っていた。最後の一滴まで。急かさず、遮らず、ただ聞いていた。


 風が吹いた。草が揺れた。夕陽の最後の光が、空の端で赤く滲んでいた。


「お前がいなければ、あの戦いで全員死んでいた」


 アリアドネが口を開いた。静かな声だった。道化の仮面はどこにもない。


「ガルム戦。危険度3の魔物。2層の群れ。3層の強化悪魔。4層の堕天使。侵食編の防衛。全部だ。全部の場面で、お前の分析がなければ誰かが死んでいた」


 事実を述べていた。ミルと同じ形式で。感情ではなく、事実として。


「指示だけなら誰でもできる——と思ってるだろう。違う。お前がやっているのは指示じゃない」


「じゃあ何ですか」


「命綱だ」


 ミルが顔を上げた。アリアドネの目が、真っ直ぐこちらを見ていた。


「前衛が戦えるのは、後ろに声があるからだ。ミルの声が聞こえている間、アスは前だけを見て走れる。ロイドは全力で振れる。アテネは支援に集中できる。お前がいるから、全員が自分の仕事に集中できる。それを命綱と呼ぶ」


「でも——」


「二十三人の話をするなら、こう言おう。お前がいなければ、二十三人じゃなかった。二百三十人だった。あるいはそれ以上」


 ミルの口が閉じた。


「お前の分析が通りの守備配置を決めた。お前の指示がアスを正しい場所に送った。お前が核の情報を叫んだから、知らない冒険者たちまで助かった。全部お前がやったことだ。安全な場所から。声だけで」


 アリアドネの声に、強さが混じった。


「声だけで守った命の数を、お前は数えないのか。数字が得意なくせに、そっちの数字は計算しないのか」


 ミルの目から涙が落ちた。


 こらえていた。こらえきれなかった。アリアドネの言葉が、ミルが一番見ないようにしていた場所を突いた。守れなかった二十三人ばかりを数えて、守れた数百人を数えていなかった。サポーターとして当然のことをしただけだと切り捨てて、その当然が何人の命を繋いだかを見ていなかった。


 涙が頬を伝った。拭わなかった。拭えなかった。手がメモ帳を握りしめたまま離れない。


「でも——それでも。声だけじゃ届かない場所がある」


 震える声で言った。涙声だった。ミルが涙声で話すのを聞く人間は、この世界にいなかったはずだ。今日まで。


「私の声が届かなかった場所で、人が死んだ。それは事実です。分析が全部の場面をカバーできるわけじゃない。声が届かない場所がある。見えない角度がある。そこで人が——」


「ああ。その通りだ」


 アリアドネが否定しなかった。


「声だけでは届かない場所がある。それも事実だ」


 ミルが唇を噛んだ。涙が止まらなかった。


「一つ方法がある」


 アリアドネの声が変わった。さっきまでの説得の声ではない。もっと静かで、もっと重い声。何かを差し出す前の、覚悟を問う声。


「スキルの強制解放だ」


 ミルの涙が止まった。目が見開かれた。


「スキル——私に?」


「全ての人間にスキルの種はある。発現するかどうかは条件次第だ。アスのナイトブロウは感情がトリガーだった。自然に発現するのを待てば、いつか出るかもしれない。待てないなら——強制的に開く方法がある」


「それを——」


「リスクがある」


 アリアドネの目が鋭くなった。


「強制解放は身体に負荷をかける。魔力回路を無理やりこじ開ける。成功すればスキルが発現する。失敗すれば——二度と戦えなくなる可能性がある。魔力回路が焼き切れる」


 ミルは黙った。二度と戦えなくなる。サポーターとしても。声すら出せなくなるかもしれない。


「やります」


 間を置かなかった。


 アリアドネの目が見開かれた。珍しい反応だった。この人が驚くところを見たのは初めてだった。


「即答か」


「はい」


「本当にわかっているか。戦えなくなるだけじゃない。最悪の場合——死ぬ」


「わかっています」


「わかっていない。お前は今、感情で動いている。冷静な判断ができる状態じゃない」


「冷静です」


 ミルの声が戻っていた。涙はまだ乾いていない。けれど声から震えが消えていた。冷静だった。感情を吐き出した後の、空っぽの冷静さではない。全てを受け止めた上での冷静さ。


「お荷物で、邪魔で、声しか出せなくて。それでも仲間のそばにいたいと思った。そばにいるなら、もっと役に立ちたいと思った。それが感情だというなら、感情で動いています」


 ミルがアリアドネの目を見た。前髪の奥から、真っ直ぐに。


「でもこの判断は間違ってない。リスクは承知してます。失敗すれば終わる。成功すれば——声だけじゃない武器を持てる。どちらに転んでも、今のまま何もしないより意味がある」


 合理的だった。ミルらしかった。感情で決めて、理性で裏づけている。


 アリアドネがミルを見ていた。長い時間。何百年を生きてきた目が、十五歳の少女を見つめていた。何を見ているのか。覚悟の真偽か。それとも——かつて同じ目をした誰かの面影か。


「……わかった」


 アリアドネが背筋を伸ばした。木の幹から背中を離し、まっすぐ立った。道化の仮面が完全に外れた顔。教官でもない。師でもない。ただ一人の、途方もなく長い時間を生きてきた人間の顔。


 外套の内側に手を入れた。取り出したのは——剣だった。


 短い剣。片手で持てるほどの長さ。刃が黒かった。金属ではない。金属に似た何かで作られている。柄に紋様が刻まれていて、それが結界の紋様と似ていた。古い文字。読める者がいるのかも怪しい文字。


 魔剣。


 空気が変わった。その剣がアリアドネの手に収まった瞬間、空き地の空気が震えた。魔力を帯びた武器。ただの武器ではない。意思を持っているかのような存在感。


「これは遠距離攻撃が可能な魔剣だ。お前が使う」


「私が——」


「スキルが発現すれば、これを扱える。お前の分析力と組み合わせれば、後方から核を直接狙える。声だけじゃない武器になる」


 ミルの目が魔剣を見ていた。黒い刃に、夕陽の最後の光が映っている。


「始めるぞ」


 アリアドネが魔剣をミルの前に差し出した。


「握れ」


 ミルが手を伸ばした。メモ帳を地面に置いた。初めてメモ帳から手を離した。両手が空になった。空の手が、黒い柄に触れた。


 指が柄を包んだ瞬間——


 痛みが来た。


 全身を貫く痛みだった。電流のような。火のような。骨の中を走る鋭い痛みが、指先から肩を通り、胸を抜けて全身に広がった。


 声が出なかった。出そうとした。出なかった。喉が締まっている。痛みがあまりにも速くて、声を出す間もなく全身を覆い尽くした。膝が折れそうになった。折れなかった。歯を食いしばって堪えた。


 魔力回路が開かれていく。


 ミルの身体の中に、細い管のような通路が走っている。生まれてから一度も使われなかった通路。錆びて固まった扉。それをアリアドネの力が——魔剣を媒介にして——こじ開けていく。一つずつ。力ずくで。


 痛みが増した。こじ開けるたびに。回路の壁が裂け、そこに魔力が流れ込む。使ったことのない道に、大量の水が流れ込むような。身体が持つかどうかの瀬戸際。


 涙が出た。痛みの涙だった。さっきの涙とは違う。純粋な苦痛が目から溢れている。けれど手は離さなかった。柄を握る指が白くなっている。折れそうなほど力を込めて。


「——っ」


 声にならない声が漏れた。歯の隙間から。押し殺している。叫びたかった。叫べなかった。叫んだら、握っている手が離れてしまいそうだった。


 身体が壊れそうだった。内側から裂けていく感覚。魔力回路の一つが限界を超え、焼けるような痛みが背骨を走った。視界が白く明滅した。意識が遠のきかけた。


 両親の顔が浮かんだ。


 深層で消えた父と母。冒険者だった二人。情報があれば死なずに済んだかもしれない——そう思ってこの道を選んだ。分析を武器にした。声を武器にした。二人が足りなかったものを、自分が持とうとした。


 それだけじゃ足りなかった。


 声だけじゃ届かなかった。


 今度は届く。今度は——守る。声だけじゃなく。この手で。この剣で。


 痛みの中で、何かが開いた。


 身体の奥の奥。これまで触れたことのない場所。鍵のかかった扉が——軋みながら開いた。古い扉。生まれてからずっと閉じていた扉。


 その向こうから、光が溢れた。


 ミルの身体を中心に、光が放射状に広がった。白くはなかった。青だった。冷たい、鋭い、澄んだ青い光。ミルの知性の色。分析と判断の色。それが魔力の形を取って、体外に溢れ出している。


 魔剣が応えた。黒い刃が青い光を吸い込み、紋様が光り始めた。剣と持ち主が繋がっていく。回路が完成していく。


 痛みが引いた。全てが一瞬で。嵐が過ぎ去るように。身体の中の道が開通し、魔力が滑らかに流れ始めた。もう軋まない。もう裂けない。通るべき道が、通るべきものを通している。


 ミルは膝をついていた。いつ膝をついたのかわからなかった。手は魔剣を握ったまま。黒い刃の上で、青い光が静かに脈打っている。


 顔を上げた。涙の跡が頬に残っている。息が荒い。全身が震えている。けれど目は——生きていた。


 アリアドネが見ていた。腕を組んで。笑ってはいなかった。けれど目の奥に——安堵に似た何かがあった。


 ミルは魔剣を見下ろした。自分の手の中にある、新しい武器を。声だけじゃない。もう声だけじゃない。


 メモ帳が地面に落ちていた。風でページがめくれている。何百ページ分の分析と記録が詰まったメモ帳。ミルの武器だったもの。これからも武器であり続けるもの。


 けれどもう、それだけじゃない。


 ミルは空いた方の手でメモ帳を拾い上げた。胸に抱えた。右手に魔剣。左手にメモ帳。


 声と、剣。


 両方を持って、立ち上がった。


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