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弱くて、臆病で、仲間に助けられながら紡ぐ最後の英雄譚  作者: だんご


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八つの歯車


 ミルが食堂に現れたとき、全員の手が止まった。


 朝食のテーブルに八人が集まっていた。レイたちも含めて。今日の実践訓練に備えて、朝から同じ宿に泊まっていた。パンとスープの匂いが漂う食堂に、ミルが扉を開けて入ってきた。


 顔色が悪かった。蒼白、という言葉がそのまま当てはまる白さだった。唇の色が薄い。目の下に隈がある。昨夜一睡もしていないのだろう。身体全体が、何か重い負荷を受けた後の脆さを帯びていた。


 けれど立っていた。


 そして——腰に、見慣れないものがあった。


 黒い剣。短い刃。片手で持てるほどの長さの、黒い金属で作られた魔剣。ミルの小柄な身体に不釣り合いなほどの存在感を放っている。


 八人の視線が集まった。何が起きたのか。どうしてミルが武器を持っているのか。聞きたかった。けれど聞けなかった。ミルの顔を見れば、昨夜何かがあったことは明白で、それが軽い話ではないことも明白だった。


 沈黙が伸びた。


「大丈夫か」


 アスが言った。シンプルに。余計なことは聞かない。ただ一つだけ。


 ミルがアスを見た。前髪の奥の目が——変わっていた。色が同じなのに、光が違う。昨日までのミルの目には、どこか遠くを見ているような距離感があった。今の目は近い。ここにいる。この場所に、この仲間の中に、しっかりと立っている目。


「問題ない」


 短かった。ミルらしかった。それだけで十分だった。


 テーブルの空いた席にミルが座った。クロが黙ってスープを押しやった。ミルが一口飲んだ。温かいものが身体に染みていく。顔色が、ほんの僅かだけ戻った。


        *


「今日は実践だ」


 アリアドネが空き地ではなく、門の前に八人を集めた。朝の光が鉄の門を照らしている。いつもの訓練とは空気が違った。


「3層に入る。実戦で動け。指示は出さない。各自の判断で」


 八人を魔界に連れていく。しかも3層。強化悪魔が常駐する深さ。訓練ではなく、実践。


 アリアドネが先頭に立って門をくぐった。八人が続いた。1層を抜け、2層を通過し、3層の暗い森に足を踏み入れる。アリアドネの足取りが速い。普段の怠惰な歩き方ではなく、目的地に真っ直ぐ向かう歩き方。珍しく真剣な空気を纏っている。


 3層の森は相変わらず暗かった。黒い木々が天蓋のように枝を広げ、灯りの範囲を削っていく。音が吸い込まれる。足元の黒い土が靴底を掴む。けれど以前ほどの恐怖はなかった。四人で——八人で何度も踏み入れた場所だ。身体が覚えている。


 アリアドネが足を止めた。


「ここからは俺は見てるだけだ。各自動け」


 それだけ言って、木の幹に背をもたれさせた。腕を組んで、観察の姿勢。指示なし。助言なし。自分たちだけで戦え、という意味だった。


 森の奥から、気配がした。


        *


 最初の強化悪魔は、右の木立の間から現れた。


 二足歩行の大型個体。危険度4クラス。3層では標準的な相手だが、再生能力がある。核を壊さなければ倒せない。


 レイが動いた。


 最初に。誰よりも速く。剣を抜き、一直線に踏み込んだ。


 以前のレイなら、一歩目に瞬きひとつ分の迷いがあった。アリアドネが指摘した「判断の一歩遅れ」。踏み込むか引くかの選択に、わずかな逡巡があった。


 今はなかった。


 踏み込んだ。判断と行動が同時だった。悪魔の腕が振り上がるより先に、レイの剣が脇腹を裂いていた。一撃目で牽制し、悪魔の意識を自分に引きつける。二撃目で体勢を崩させ、三撃目の角度を作る。


 アスが左から合わせた。レイが作った三撃目の隙を、炎で埋める。二人の前衛が言葉なしに噛み合う。ガルム戦の呼吸が残っていた。けれど精度が違う。あのときは手探りだった。今は見えている。レイの次の動きが。レイもまた、アスの次の手が見えている。


「核は右脇腹の奥、深い位置」


 ミルの声が飛んだ。後方から。声は変わっていなかった。冷静で、正確で、必要な情報だけを必要な人に届ける声。魔剣を手にしても、ミルの本質は変わらない。声が武器であることに変わりはない。


 レイが右脇腹を狙って剣を突き入れた。深い。核に触れた手応え。そのまま捩じ込む。核が砕けた。


 一体目。速かった。以前の半分以下の時間。


「判断、速くなったな」


 アスが言うと、レイが口角を上げた。


「遅いって言われたのが効いたんだよ。あの人の指摘は嫌なくらい正確だ」


        *


 二体目は、左の暗闘から三体同時に来た。


 シアが詠唱した。氷の槍が空中に生成される。五本。以前より数が多い。そして——質が違った。


 一本目が飛んだ。先頭の悪魔の肩に突き刺さる。刺さっただけではない。着弾した瞬間、氷が爆発的に広がった。肩から胸にかけて一瞬で凍りつき、悪魔の動きが止まった。


 二本目。三本目。立て続けに放つ。正確さは変わらない。一本たりとも外さない精密機械のような射撃。けれどそこに——熱があった。


 シアの表情は無表情だった。いつもと同じ冷たい顔。けれど放たれた魔法の中に、感情が乗っていた。怒りか。意地か。あるいは——街を守り切れなかった悔しさか。感情の種類はわからない。ただ、氷の一本一本が以前より重かった。


 「感情を乗せろ」とアリアドネに言われた。シアはそれを、自分の形で消化していた。表情に出さない。態度にも出さない。けれど魔法に込める。冷たいまま、熱い。それがシアの答えだった。


 凍りついた悪魔を、ロイドが砕いた。


 大剣の一振り。氷ごと粉砕する。シアの氷が動きを止め、ロイドの大剣が壊す。後衛と前衛の自然な連携。言葉は交わしていない。けれどシアが凍らせた瞬間にロイドが動いている。


 残り二体が左右に散った。包囲しようとしている。


「右の個体、二秒後に跳ぶ。左は地を這ってくる」


 ミルの声が飛んだ。見えないものを読む。不完全な情報から仮説を立てて動く。ミルの目が二体の動きを同時に追っている。


 右の悪魔が跳んだ。ミルの予測通り、二秒後に。空中で身体を捻り、頭上から襲いかかってくる。


 その軌道上に——罠があった。


 クロだった。跳ぶことを予測していた。ミルの声を聞いてからではない。ミルが言うより前に、すでに仕掛けていた。地面ではなく、木の枝に。空中の罠。予想外の場所に。


 金属球が弾けた。爆発ではなく、粘着性の網が展開する。跳んだ悪魔が空中で網に絡め取られ、身動きが取れなくなった。


「お前の読みが正しいなら空中に来ると思ってさ」


 クロがミルに向かって笑った。ミルが仮説を立て、クロがその仮説の一歩先に罠を仕掛けていた。二人のサポーターが、言葉を超えたところで噛み合っている。


「よく考えた」


 ミルが言った。褒めることが滅多にないミルが。クロが目を丸くして、それから笑った。


 左の悪魔が地を這うように突進してきた。低い姿勢。前衛の剣が届きにくい角度。後衛を狙っている。


 ガルドが立っていた。


 アテネの前に。いつの間にか。音もなく移動して、盾を構えていた。悪魔の突進がガルドの盾に激突した。金属が軋む音。ガルドの足が一ミリも動かなかった。地面にめり込むほどの衝撃を、全身で受け止めている。


 誰も抜かせない。最初からずっとそうだった。この男の盾は最終防壁だ。ガルドが立っている限り、後衛は安全だった。


 アテネがガルドの背後から光を飛ばした。回復ではない。攻撃支援。ガルドの盾越しに、悪魔に向かって魔力を流す。自分の体力を管理しながら、ガルドに負荷がかかりすぎないように調整している。


 以前のアテネなら、自分の魔力を使い切ってでもガルドを強化していた。今は違う。自分を守ることも仲間を守ることの一部だと知っている。余裕を残しながら最大効率の支援を回す。その動きに、ゆとりがあった。


 ガルドが盾で悪魔を押し返した。後退した悪魔をロイドが迎え撃つ。


 ロイドの大剣が唸った。


 切れ味が別格だった。同じ大剣。同じ腕力。同じ技術。けれど以前の戦いとは一線を画す鋭さがあった。堕天使の因縁を断ち切ったあとのロイドには、迷いがない。一振りごとに全力を出し切れている。全ての力を目の前の敵に注げている。


 大剣が悪魔の体躯を縦に裂いた。再生が始まる前に、返す刀で核の位置を抉る。一連の動作が一呼吸で終わった。八人の中でも別格の速度だった。


 三体が片付いた。八人が息を整える間もなく、森の奥からさらに気配が膨れ上がった。


「多い。十体以上。四方から」


 ミルの声。


 来た。本番だった。


        *


 四方向から同時に。強化悪魔が木々の間から溢れ出してきた。


 八人が円陣を組んだ。侵食編と同じ形。けれどあのときより全員が上にいる。一人一人が持っている経験と技術が違う。


 レイとアスが正面を張った。二人の前衛が同時に踏み込み、押し寄せる悪魔を切り裂いていく。レイが右を切れば、アスが左を焼く。レイが退けば、アスが前に出る。二人の呼吸がぴたりと合っている。


 シアの氷が後方から飛んだ。五本、六本、七本。立て続けに。悪魔の足を凍らせ、腕を封じ、動きを止めていく。氷の精度と威力が、一本ごとに上がっていった。感情を乗せた魔法。冷たいのに、芯が熱い。


 クロが地面と木々に罠を張り巡らせた。前衛が押す方向に、予め設置してある。悪魔が押し戻された先に、粘着網が待っている。足止め。時間稼ぎ。一秒の隙が、前衛にとっては一撃分の余裕になる。大胆な配置。想定の外から来る罠。


 ガルドが後衛の前に壁のように立っていた。時折すり抜けてくる悪魔を、盾一つで弾き返す。一体も通さない。


 アテネの光が八人を包んでいた。走りながら。途切れずに。八人全員に行き渡る支援を、魔力を管理しながら回し続けている。


 ロイドが遊撃していた。定位置を持たず、最も危険な場所に飛び込んでは悪魔を叩き斬る。大剣が弧を描くたびに、戦線の穴が塞がれていく。


 ミルが全体を見ていた。声を出していた。指示を飛ばしていた。


「レイ、二歩右。三秒後に左から来る——アス、核は胸の左。シア、正面の三体をまとめて——クロ、次は上から来る」


 八人分の位置と敵の動きを同時に処理し、最適な指示を最適な人間に最適なタイミングで飛ばしている。


 五体を倒した。七体を倒した。けれどまだ来る。森の奥から次々と。


 十体目を倒した直後だった。


 前方と左右から、三体が同時に飛び出してきた。通常より大きい。危険度4の上位個体。一体だけでも四人がかりの相手。それが三体。


 円陣が崩れかけた。三方向に対応が分散し、前衛の密度が薄くなった。レイが右に引っ張られ、アスが左に走り、ロイドが正面を受けた。後衛が露出した。


 ガルドが前に出たが、一人で三方向は守れない。


 左の悪魔がアテネの方向に突進した。ガルドの盾が間に合わない。アスが戻ろうとしたが距離がある。シアが氷を放ったが、上位個体の体躯は硬く、足止めにしかならない。


 間に合わない。


 ミルの中で何かが弾けた。


 考えていなかった。分析していなかった。声を出す暇もなかった。ただ——仲間が危険にさらされている。それだけが、頭の中にあった。声が届かない。指示では間に合わない。でも守りたい。ここにいる全員を。


 左手のメモ帳が光った。


 いや。メモ帳ではなかった。ミルの身体が光っていた。昨夜、魔剣を握ったときに開いた回路。そこから青い光が溢れ出していた。冷たく、鋭く、澄んだ光。


 光が——八人全員に走った。


 細い光の糸が、ミルを中心に八方向に伸びていった。アスに。レイに。アテネに。ロイドに。シアに。クロに。ガルドに。八人全員の身体を、青い光の線が貫いた。


 全員の動きが変わった。


 速くなった。正確になった。視界が広がった。反射速度が上がった。一人一人の身体能力が、一段階引き上げられた。ミルの分析力が——声ではなく力として、直接全員に流れ込んでいた。


 アスの身体が軽くなった。左の悪魔に向かって走る足が速い。間に合う。間に合った。炎を纏った一撃が悪魔の突進を止めた。


 レイの判断がさらに速くなった。考えるより先に身体が動いている。右の悪魔を三撃で圧倒し、核を叩き割った。


 ロイドの大剣が正面の上位個体を一刀両断した。再生が始まる前に、核ごと。


 シアの氷が、信じられない精度で残りの悪魔を凍らせた。一本の氷も無駄にしない。


 ガルドの盾が、最後の一体の突進を受け止めた。足が一ミリも動かないどころか、盾で押し返した。


 三十秒で終わった。三体の上位個体が。


 静寂が戻った。


「——今のは何だ」


 レイが声を上げた。自分の身体を見下ろしている。青い光の残滓が、腕の上でまだ微かに輝いている。


「速くなった。明らかに。全身が——」


「俺もだ」


 アスが自分の手を見た。さっきまでより軽い。力が溢れている。ミルの光に触れてから、全てが底上げされている。


 全員がミルを見た。


 ミルは自分の手を見ていた。右手の魔剣が青い光を帯びている。左手のメモ帳が同じ光で縁取られている。自分の身体から出た光。自分でも制御していなかった。無意識に。仲間が危険にさらされた瞬間に。


「それがお前のスキルだ」


 アリアドネの声が飛んだ。木の幹にもたれたまま、腕を組んだまま。ずっと見ていた。


「全員の能力を底上げする強化スキル。お前の分析力が力に変換されて、仲間に直接流れ込む。声じゃなく、力で支える」


 ミルが顔を上げた。アリアドネを見た。前髪の奥の目が、大きく見開かれていた。


「声だけじゃない武器、と言っただろう。これがそうだ。お前の頭脳が、声以外のもう一つの形を手に入れた」


 声と力。分析を声で伝えるか、力で伝えるか。ミルの本質は変わっていない。仲間を支えること。全体を見て、最適を導き出すこと。その出力が、声だけではなくなった。


「やばいじゃないか」


 レイが叫んだ。興奮していた。自分の身体が強化されたことの衝撃がまだ残っている。


「これ全員にかかるのか? 反則だろ」


「ずるいぞ」


 クロが笑った。腕を振りながら。身体の軽さを確かめるように。


「こっちは罠をちまちま仕掛けてるのに、全員まとめて強化とか。格が違うわ」


「ミル、すごい」


 アスが言った。シンプルに。飾らずに。ミルの変化を、まっすぐ肯定した。


 ロイドが口角を上げた。笑みと呼ぶには微かすぎる。けれど確実に。この男が戦闘後に表情を動かすのは、極めて珍しいことだった。


 アテネが目を輝かせていた。光る腕輪を見下ろし、それからミルを見上げた。ミルの力がアテネの支援をさらに底上げしている。回復の効率が上がっている。二人の支援が重なったとき、前衛が受ける恩恵が倍増する。


「すごいです、ミルさん」


 声が弾んでいた。アテネのおっとりとした声に、興奮が混じっている。


 ガルドが無言で頷いた。一度だけ。深く。それだけだった。それだけで十分だった。この男の頷きは、百の言葉より重い。


 全員がミルを見ていた。


 お荷物だとは誰も思っていなかった。最初から。一度も。ミルがそう思い込んでいただけで、この七人の中に、ミルを不要だと感じた人間は一人もいなかった。


 けれど今この瞬間、ミルは新しい形で全員を支えた。声だけではなく。力で。自分の手で。


 ミルの表情が崩れた。


 崩れた、という言葉が正しいのかわからない。無表情が——溶けた。頬が緩み、眉が下がり、唇が震えた。泣くのとは違う。笑うのとも違う。全部が混ざった、名前のない表情。


 ミルはメモ帳を胸に抱き直した。魔剣を握り直した。青い光がまだ微かに残っている。


 仲間がいる。全員がここにいる。自分を見ている。お荷物だと思っていた自分を、誰も一度もそう思っていなかった。そしてこれからは——声だけじゃなく、この手で支えられる。


 顔を上げた。前を向いた。


 八人が並んでいた。暗い森の中に。灯りの範囲だけが世界で、その中に八つの影がある。それぞれが武器を持ち、それぞれが役割を持ち、それぞれが強くなった。


 歯車が噛み合っている。八つの歯車が。一つでも欠ければ回らない機械が、今日初めて完全な形で動いた。


 アリアドネが木から背中を離した。


「合格だ」


 短い一言。けれどその声に、珍しく満足の色が混じっていた。


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