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弱くて、臆病で、仲間に助けられながら紡ぐ最後の英雄譚  作者: だんご


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33/44

生き延びた日


 三つの光が、同時に消えた。


 東でサマエルが砕けた。十二枚の翼が一枚ずつ散っていく。リーファの風がその残骸を吹き散らし、ナーバスの闇が最後の核を呑み込んだ。毒の天使の美しい顔が光の粒に変わり、朝の空気に溶けていった。


 西でアザゼルが崩れた。山羊の角が折れ、片翼が灰になり、鎖と鉄球が地面に落ちて消えた。クールの凍気が、アザゼルの全身を覆い尽くしていた。氷の棺のように。その氷が内側から光り、中身ごと消滅した。


 南でムルムルが消えた。公爵の冠が砕け、騎乗していた獅子が先に灰になり、最後にムルムル自身が膝をついた。アイリスの光が貫いていた。白い光条が胸を通り抜け、出口から光の粒が溢れている。ムルムルの鎧が一枚ずつ剥がれ落ち、中から何もない空間が覗いた。


 ルシファーの消滅と重なるように、三体が同時に消えていく。主の力が断たれたことで、配下の存在も維持できなくなった。糸が切れた操り人形のように。


 街全体に、静寂が戻った。


 戦闘の残響がゆっくりと薄れていく。金属音も、咆哮も、詠唱の声も消え、代わりに風の音が聞こえてきた。瓦礫が軋む音。遠くで子供が泣く声。生きている音。


 終わった。


        *


 英雄たちが集まったのは、街の中央広場だった。


 ルシファーが降り立った場所。バッシュの隕石が焦土に変えた場所。今はその焦土の縁に、四人の英雄が立っていた。


 リーファ。風の英雄。軽やかな足取りは戦闘の後とは思えなかった。外套に汚れすらない。風が常に身体の周囲を巡り、埃も血も寄せつけなかったのだろう。


 ナーバス。闇の英雄。黒衣に乱れはなかった。ただ、目の奥に疲労が覗いていた。身体ではなく、精神の消耗。闇を操ることの代償が、この男の内側にだけ残っている。


 クール。凍の英雄。白銀の髪が風に揺れている。表情は読めなかった。最初から最後まで寡黙だった。戦闘中も、終わった今も。


 アイリス。光の英雄。白い外套に、微かな焦げ跡が一つ。ムルムルの獅子の咆哮を至近で受けた名残だろう。それ以外は無傷だった。金色の髪が乱れてすらいない。


 四人ともほぼ傷がなかった。


 それがかえって、事態の異質さを浮き彫りにしていた。英雄たちはこれほどの力を持っている。堕天使三体を倒して、なおこの余裕がある。それなのに——ルシファーに向かえなかった。


 リーファが口を開いた。英雄たちの中で最も表情豊かな女だった。けれど今は笑っていない。


「人が多すぎた」


 短い言葉に、全てが詰まっていた。


 街の中での戦闘だった。背後に逃げ遅れた住民がいた。全力を出せば街ごと吹き飛ぶ。堕天使を倒すことと人を守ることを同時にやらなければならなかった。制御に力を割く分、攻撃に回せる力が減る。


 それだけならまだ対処できた。問題は堕天使たちの回復力だった。


「あの三体、再生が異常だった」


 ナーバスが低い声で言った。


「核を潰しても、ルシファーの力で再生し続けた。ルシファーが健在な間は、何度倒しても復活する。完全に消滅させるには——ルシファーを先に断つ必要があった」


 けれどルシファーに向かう余裕がなかった。三体の堕天使の再生を抑えながら市民を守り続けるだけで、四人の英雄の手は埋まっていた。一人でも抜ければ、残りの三人で二体の堕天使と市民保護を同時に回すことになる。そのリスクを取れなかった。


 結果として、ルシファーには——バッシュとアスだけが向かうことになった。


 英雄たちの視線が、焦土の縁に横たわるバッシュに向いた。


 眠っている。壁にもたれたまま、大きな身体が力を失っている。呼吸はある。けれどそれだけだ。魔力を全て使い切った代償。英雄としての力を絞り出した跡が、全身の衰弱として残っている。


 誰も何も言わなかった。


 リーファが拳を握った。ナーバスが目を伏せた。クールは——いつもと同じ表情だったが、視線がバッシュから動かなかった。


 アイリスだけが、バッシュの横に膝をついた。片手をバッシュの額に当てた。光が微かに灯る。回復ではない。状態の確認。


「命に別状はない。けれど当分は——」


 言葉を切った。続きは必要なかった。当分は戦えない。英雄の座から一人が欠けた。ロキに続いて、バッシュ。七人のうち二人が不在になった。


        *


 街の被害は、ギルドの職員たちが手分けして確認した。


 結界北側の崩壊箇所。そこを起点に街の三分の一が戦場になった。建物の倒壊が四十七棟。半壊が百二十棟以上。大通りの石畳が数か所で溶け落ち、ルシファーが歩いた経路に沿って地面が黒く変色している。


 負傷者。三百人を超えた。


 そして——犠牲者。


 数字が読み上げられたとき、アスは広場の端に立っていた。数字。二十三。二十三人が、今日この街で命を落とした。


 数字は数字だった。聞いても、頭が処理しきれなかった。二十三。多いのか少ないのか。大罪の悪魔と堕天使三体が同時に街を襲った規模を考えれば、少ないのかもしれない。英雄たちが堕天使を抑え、冒険者たちが街を守り、アスたちが通りを死守した結果、被害は最小限に抑えられた——と、報告書にはそう書かれるのだろう。


 けれど二十三は数字ではなかった。人だった。


 東の通りで見た老人の顔が蘇った。瓦礫の下で動かなくなっていた影。路地の角で茶を飲んでいたかもしれない人。名前は知らない。けれど毎朝パンを買い、隣人と話し、日向で茶を飲み、結界に守られた日常を生きていた人だ。その人の日常が、今日途切れた。


 間に合わなかった。


 西の通りを守ったことで、東には行けなかった。ロイドと二人で前線を張ったことで、他の場所には手が回らなかった。正しい判断だった。西を守ったことで、もっと多くの人が助かった。頭ではわかっている。けれど胸はわからなかった。


 泣けなかった。ここで泣いたら、まだ動いている足が止まる。復興が始まっている。瓦礫を退かし、負傷者を運び、崩れた壁を支えなければならない。泣いている場合ではなかった。


 アテネが隣にいた。何も言わなかった。ただ隣に立っていた。目元が赤かった。泣いた跡がある。アテネは泣いたのだ。負傷者を治療しながら、それでも泣いた。泣いて、手を止めなかった。涙を流しながら回復の光を送り続けた。


 ミルは少し離れた場所で、職員と話をしていた。被害状況の整理に協力している。声は淡々としていた。感情を出さずに、数字と事実を並べている。いつものミルだった。けれどメモ帳を持つ手が、微かに震えていた。


 ロイドは瓦礫の撤去を手伝っていた。大剣を背に負ったまま、素手で石を退かしている。大きな手が壊れた壁を持ち上げ、道を開けていく。無言で。ずっと無言で。この男はいつも言葉ではなく行動で語る。


 四人全員が無事だった。レイたちも全員が生きている。通りで出会った五人組の若い冒険者たちも、核の情報を活かして生き延びたと聞いた。


 それだけが、今の救いだった。


        *


 夕方近くになって、アイリスがアスのところに来た。


 瓦礫を退かす作業をしていたアスの横に、白い外套の影が立った。顔を上げると、青い瞳がこちらを見ていた。


 無事を確認する目だった。身体を上から下まで一瞥し、大きな怪我がないことを確認している。


「……よく守った」


 一言だった。それだけだった。英雄としての言葉だった。感情を排した評価。「よく守った」。それは事実の確認であり、同時に——肯定だった。


 アスの胸の奥が、じわりと熱くなった。アイリスに認められた。「よく守った」と。この街を守った戦いの中で、自分の行動を、あの人が見ていた。


 泣きそうになった。堪えた。ここで泣いたら、また感情に飲まれる。飲まれてはいけない。


「……まだ足りなかったです」


 正直に言った。二十三人。守れなかった命。その数字が胸にある限り、「よく守った」を素直に受け取ることはできなかった。


 アイリスは何も言わなかった。少しの間、こちらを見ていた。そして——僅かに、頷いた。それだけだった。反論も慰めもしなかった。「まだ足りない」というアスの言葉を、そのまま受け止めた。


 アイリスが背を向けた。復興の指揮を取りに行くのだろう。白い外套が翻り、金色の髪が夕陽に染まった。


 その背中を見ながら、アスは思った。まだ遠い。けれど——前より近い場所に立っている気がした。同じ戦場にいた。同じ街を守った。同じ日を生き延びた。


        *


 復興作業の合間に、アリアドネが現れた。


 瓦礫の上に座っていた。いつの間にか。赤い髪が夕陽を受けて燃えるように光っている。周囲の冒険者たちは忙しく動き回っていて、誰もアリアドネに気づいていない。この人はそういう存在だった。見える人にだけ見える。


 アスが近づくと、アリアドネが顔を上げた。


 笑っていなかった。


「よくやった」


 短かった。バッシュの「本物だった」と同じ温度の言葉。短くて、重い。


「……ありがとうございます」


「バッシュから聞いたか」


「最後の英雄、と」


 アリアドネの表情が僅かに動いた。何が動いたのか、アスには読み取れなかった。いつもなら道化の仮面で隠すところを、今日は仮面が戻りきっていない。素の顔の端が見えている。


「その言葉の意味、いつか話す」


 それだけ言った。説明はなかった。いつかがいつなのかも言わなかった。アリアドネはいつもそうだ。必要なことを必要なときに。今はまだ、その「とき」ではないと判断している。


 アスは言葉を飲み込んだ。聞きたかった。聞くべきではないとわかっていた。この人が「いつか話す」と言ったなら、そのいつかを待つ。


 アリアドネが立ち上がった。瓦礫の上から飛び降り、埃も立てずに着地した。


「休め。明日からまた忙しくなる」


 それだけ言って歩き出した。赤い髪が人混みに溶けていく。三歩で見えなくなった。いつもの消え方だった。


 アスは一人残された。夕陽が瓦礫の影を長く引いている。


        *


 夜になる前に、レイたちが来た。


 東の通りの復興を手伝い終えて、こちらに合流してきた。四人とも疲弊していたが、全員が立っていた。レイの額の傷から血が止まっている。クロの腕は動いている。シアの顔色が悪いが、足取りはしっかりしている。ガルドは——無言で、いつも通りだった。


「帰るわ」


 シアが言った。


 アスを見た。銀色の髪が夕陽に白く光っている。切れ長の目。ギルドで初めて会ったときの冷たい目ではない。戦場を共にした者の目。


「お疲れ」


 短かった。それだけだった。たった三文字。けれどあのシアが——かつてアスたちを「経験が浅い、第1層のボスに挑むレベルじゃない」と切り捨てたシアが、対等な言葉をかけた。ガルム戦で変わり始め、侵食編で確定した変化が、この三文字に凝縮されていた。


 レイが手を上げた。アスも上げた。それだけだった。握手はしなかった。言葉も交わさなかった。上げた手が全てを語っていた。また会う。また一緒に戦う。


 クロがミルに何か言った。声は聞こえなかったが、ミルが僅かに顎を引いた。クロが笑った。ミルは笑わなかったが、否定もしなかった。


 ガルドがロイドの横を通り過ぎるとき、二人の間で視線が交差した。一秒にも満たない。けれどその一秒で、何かが伝わった。無言の戦士同士の、無言の了承。


 レイたちが去っていった。夕暮れの通りを四つの影が歩いていく。小さくなって、角を曲がって、消えた。


 四人が残った。


 アスとアテネとミルとロイド。崩れかけた通りの端に、四人で立っていた。夕陽が沈みかけている。空が橙から紫に変わっていく。壊れた建物の影が長く伸び、焦土の縁が暗く沈んでいく。


「まだ六体いる」


 ミルが呟いた。


 大罪の悪魔。ルシファーは倒れた。けれどあと六体。七つの大罪のうち一つが消えただけだ。残りが目を覚ませば、今日と同じことが——あるいはもっと酷いことが起きる。


 世界はまだ終わっていない。終わりかけてもいない。今日は一つの戦いの終わりであって、物語の終わりではない。


「でも今日は生き延びた」


 アスが言った。


 四人が顔を見合わせた。アテネの目がまだ赤い。ミルの手がまだ震えている。ロイドの肩に瓦礫の埃が積もっている。全員が疲れ果てている。全員が傷ついている。全員が何かを失った。


 けれど全員がここにいる。


 明日も戦う。明後日も。この街を守り、仲間を守り、まだ見ぬ敵に備える。六体の大罪の悪魔。堕天使の残党。強化され続ける悪魔たち。全てがこれから来る。


 それでも。


 今日を生き延びた。全員で。それだけが、今夜の答えだった。


 空に最初の星が灯った。結界の光が——北側の一部を欠いたまま、けれどまだ街を包んでいる。壊れかけた光。けれどまだ消えていない光。


 アスは剣の柄に手を触れた。バッシュの炎がまだ微かに灯っている。消えない炎。戦線を離脱した英雄が残していった最後の贈り物。


 明日から、また始まる。


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