日常の重さ
瓦礫は、思ったより重かった。
崩れた壁の石を両手で抱え、運搬用の荷車に積む。一つ積んで戻り、もう一つ持ち上げて戻る。単純な作業だったが、身体に堪えた。戦闘の消耗がまだ完全には抜けていない。腕が重く、腰が痛む。それでも手を止めるわけにはいかなかった。
街の北側は、まだ傷だらけだった。結界の裂け目があった方角。悪魔が流れ込んできた通り。ルシファーが歩いた経路。バッシュの隕石が焼いた焦土。どこを見ても壊れた跡がある。建物の骨組みが空に向かって突き出し、石畳が捲れ上がり、窓という窓が割れている。
四人は朝から作業に加わっていた。冒険者も、一般の住人も、ギルドの職員も、全員が復興作業に駆り出されている。誰が指示したわけでもなかった。壊れた場所があるなら直す。それだけのことだった。
重い空気の中で、黙々と手を動かした。会話は少なかった。瓦礫を退かすたびに、昨日の記憶が蘇る。この壁の下に人がいたかもしれない。この石畳の上で誰かが倒れたかもしれない。考えないようにしていたが、手が触れるたびに思い出してしまう。
ロイドが通りの奥で大きな石を持ち上げていた。人間三人がかりでも動かせないような岩を、獣人の腕力で軽々と退かしている。黙々と。無表情で。いつものロイドだった。
その背中に、声がかかった。
「おじさん、つよいの?」
高い声だった。子供の声。
ロイドが振り返った。足元に、男の子が一人立っていた。五歳か六歳か。頬に泥がついていて、服は埃だらけだったが、目だけがきらきらと光っていた。恐怖の色はない。戦いの記憶が残っていないのか、あるいは子供の回復力がそれを上書きしたのか。
ロイドが固まった。
文字通り固まった。岩を退かしていた手が止まり、金色の瞳が子供を見下ろしたまま動かなくなった。アスはそれを通りの反対側から見ていた。あの堕天使と正面から切り結んだ男が、子供の質問一つで石像になっている。
「つよいの? おじさん、でっかいから。つよそう」
子供は動じない。ロイドの沈黙を気にもしていない。むしろ黙っているから安全だと判断したのか、さらに近づいてきた。ロイドの脚に手を伸ばし、太ももをぺたぺたと触った。
「かたい」
ロイドの眉が微かに動いた。困惑している。これほど困惑しているロイドを見たのは初めてだった。堕天使の揺さぶりには耐えたこの男が、子供の無邪気さには成す術がない。
アスはアテネと目が合った。二人とも通りの端で石を運びながら、ロイドの様子を見ていた。アテネが口元を押さえている。笑いを堪えている。アスも唇を噛んだ。笑ったらロイドに殺される。
「おじさん、けもの? みみがとがってる」
「……獣人だ」
ロイドがようやく口を開いた。子供との会話で声を出すロイドは、アスにとっても新鮮だった。
「じゅうじん! かっこいい!」
子供の声が通りに響いた。その声を聞きつけたのか、別の子供が路地から顔を出した。二人目。三人目。崩れた建物の陰から、好奇心いっぱいの目がいくつも覗いている。
「すげー、でっけえ!」
「けん持ってる! さわっていい?」
「だめだよバカ、けんはあぶないんだよ」
「でもさわりたい」
子供が四人に増えた。五人に増えた。ロイドが完全に包囲された。大きな身体の周りを小さな身体がぐるぐる回っている。ロイドの足にしがみつく子。背中の大剣の鞘に触ろうとする子。獣人の耳を見たくて背伸びする子。
ロイドの表情が、硬直から困惑に、困惑から諦めに変わっていくのが遠目にもわかった。
「自業自得だね」
ミルの声が横から聞こえた。荷車の横に座り、メモ帳に何かを書きながら、淡々と言った。
「大きくて無口な人は子供に好かれる。統計的に」
「統計あるのそれ」
「ない。今作った」
ミルがそう言った瞬間、通りの反対側から声が飛んだ。
「やあやあ諸君! 遊びたいなら俺が相手だぞ!」
アリアドネだった。
どこから現れたのか。復興作業をしていた気配もなかった。赤い髪を風になびかせ、大股で子供たちの群れに突っ込んでいった。
「おっちゃんだれ!」
「しがない旅人だ! ところで鬼ごっこは得意か?」
子供たちの目が輝いた。新しい遊び相手の登場。それもロイドより背が高く、ロイドより面白そうな大人の登場。
アリアドネが走り始めた。子供たちがわっと追いかけた。道化のような大袈裟な走り方で瓦礫の山を飛び越え、崩れた壁の隙間を抜け、子供たちを笑わせながら逃げていく。子供たちの笑い声が壊れた通りに響いた。昨日あれほどの悲鳴が溢れた場所に、今日は笑い声が。
ロイドが解放された。子供たちの注意がアリアドネに移った隙に、音もなくその場を離れた。獣人の足運びで、気配を殺して。壁の陰まで来て、アスの横に立った。
「見ていたのか」
低い声だった。
「見てた」
「……忘れろ」
「無理」
ロイドが無言でアスを睨んだ。アスは視線を逸らした。笑ったら殺される。確信があった。
*
昼を過ぎて、復興作業が別の区画に移った。
倒壊した住居の片付け。骨組みだけになった家の残骸を解体し、使える木材を選別して、道を塞いでいる瓦礫を退かす。力仕事だった。
アテネが太い梁に手をかけた。柱から外れかけた横木。二人がかりでも重そうな木材を、一人で持ち上げようとしている。
動かなかった。
びくともしなかった。アテネが両手で掴み、膝を曲げ、全身に力を込めている。腕輪が光った。無意識に魔力で補助しようとしたのだろう。それでも梁は微動だにしない。
「ん……っ」
アテネの顔が赤くなった。力を込めすぎて息が止まっている。小さな身体がぷるぷる震えている。梁は——動かない。
横から、大きな手が伸びた。
ガルドだった。
いつの間にそこにいたのか。ドワーフの巨体が、音もなくアテネの横に立っていた。太い腕が梁に触れ、片手で——軽々と持ち上げた。アテネが全身で挑んで動かなかった木材を、腕一本で。
アテネが見上げた。ガルドを。大きなドワーフが、梁を肩に担いで立っている。無表情だった。当たり前のことをしただけだという顔。
「あ……ありがとうございます」
アテネが頭を下げた。丁寧に。エルフの礼儀作法で。
ガルドの耳が赤くなった。
ドワーフの耳は分厚い。その分厚い耳が、目に見えてはっきりと赤くなった。首まで赤い。顔は無表情を維持しようとしている。けれど耳が裏切っている。
ガルドは何も言わなかった。一言も。梁を担いだまま、足早にその場を離れた。大きな背中が通りの角を曲がって消えた。
アテネが首を傾げている。何が起きたのかわかっていない。
アスにはわかった。ミルにもわかった。二人で顔を見合わせて、何も言わなかった。言わない方がいいことがある。
*
午後の休憩時間。
壊れた広場の隅で、アスは水を飲んでいた。木陰が少なくなっている。街路樹の何本かが根元から折れていた。
視界の端に、ミルの姿が見えた。
広場の反対側。崩れた噴水の縁に座って、クロと話していた。クロが何かを言い、ミルが答える。クロが身振り手振りで説明し、ミルがメモ帳に何かを書く。いつもの二人だった。
違ったのは、ミルの口元だった。
笑っていた。
ミルが。笑っていた。
大きな笑いではなかった。口の端が僅かに上がっている程度のもの。けれどそれはアスがこれまで見たミルの表情の中で、最も柔らかいものだった。クロが何か面白いことを言ったのだろう。ミルの目が細くなり、前髪の奥で表情が和らいでいる。
アスは思わず口を開いた。
「ミルって笑うんだ」
声が通りに響いた。思ったより大きかった。
ミルの表情が消えた。瞬間的に。まばたき一回分の速度で、いつもの無表情に戻った。完璧に。一片の笑みも残さず。能面のように。
ミルがこちらを見た。前髪の奥から、冷たい目が。
クロが椅子から転げ落ちるほど笑った。
「やっちまったなお前!」
クロが腹を抱えて笑いながら、アスに向かって叫んでいる。涙が出ている。
「あーあ、せっかく珍しいもん見れてたのに。お前が余計なこと言うから」
「い、いや——」
「ミルちゃんの笑顔は幻だから。見たって言ったら消えるの。知らなかったのかよ」
「知るわけないだろそんなの」
ミルが無言で立ち上がった。メモ帳を閉じ、クロとアスの両方に背を向けて歩き出した。背中が語っていた。この件は終わりだ、と。
クロがまだ笑っていた。アスは遠ざかるミルの背中に向かって、小さく謝った。聞こえていないかもしれない。聞こえていたとしても、返事はないだろう。
*
アリアドネは結局、子供たちと遊びすぎた。
鬼ごっこから始まった遊びが、いつの間にか大がかりになっていた。瓦礫の山を使った砦作り。崩れた木材を組み合わせた即席のブランコ。アリアドネが手を叩くと火花が散り、子供たちが歓声を上げる。
復興作業の通路を塞いでいた。
「すみません、そこ通れないんですが」
ギルドの職員が困った顔で声をかけた。アリアドネが子供たちと作った砦が、瓦礫の運搬路をふさいでいる。
「おっと」
アリアドネが笑いながら手を合わせた。子供たちは砦の中から顔を出して、職員を見ている。
「ごめんごめん。すぐどかすよ」
「あの……復興作業中なんですが」
「わかってる。わかってるんだけど、この子たちがどかないんだ」
子供の一人がアリアドネの脚にしがみついた。
「おっちゃんまだあそぼ!」
「ほら、こういうことになる」
職員が頭を抱えた。アリアドネは全く悪びれていなかった。赤い髪をかきながら、子供たちを一人ずつ砦から引き剥がしている。笑顔だった。いつもの道化の笑みではない。もっと素朴な、子供と同じ高さにある笑み。
アスは思った。この人は、何百年も生きてきた中で、こうやって子供と遊ぶ時間がどれだけあったのだろう。「昔からある街」で、何世代もの子供たちを見てきたのだろうか。
*
夕方近く。
復興作業の手が足りない区画があると聞いて、アスが向かった。崩れた壁の石を退かす作業。一人で黙々と始めた。
隣に人が来た。
白い外套。金色の髪。アイリスだった。
英雄が復興作業に加わっている。当然と言えば当然だった。英雄も街の住人だ。壊れたものを直すのに身分は関係ない。けれどアスの心臓は跳ねた。
二人で石を運んだ。黙々と。会話はなかった。アスが石を持ち上げ、荷車に載せる。アイリスが別の石を運ぶ。並んで作業をしている。肩が触れそうな距離。
アスの挙動が怪しくなった。
石を持つ手が滑った。落としかけた。慌てて掴み直す。次の石は力を入れすぎて、荷車の縁にぶつけた。大きな音がした。
「大丈夫?」
アイリスが聞いた。何気ない声だった。
「だ、大丈夫です」
声が裏返った。微かに。けれど確実に。アスの顔が赤くなった。耳まで赤い。ガルドのことを笑えなかった。
「石、重い?」
「いえ、全然。全然重くないです」
重かった。めちゃくちゃ重かった。けれどアイリスの前で重いとは言えなかった。
アイリスが不思議そうな顔をしていた。アスの挙動不審に気づいていない。この人はいつもそうだ。自分が人に与える影響に、壊滅的に鈍い。七歳のときに命懸けで助けたことを「大したことじゃない」と流す人だ。隣で石を運ぶだけで少年の心臓が暴走していることなど、想像もしていない。
通りの向こうで、アテネがこちらを見ていた。微笑んでいた。穏やかな、全てをわかっている笑み。「その人のために強くなりたいって、悪くないと思います」と言ってくれたときと同じ目。
アスは石を運んだ。必死で。アイリスが横にいる限り、この石は絶対に落とさない。何があっても。
*
日が傾いた。
復興作業が一段落し、人々が引き上げ始めた。まだ終わっていない。明日も続く。けれど今日できることはやった。
街に少しずつ日常が戻りつつあった。閉まっていた店の一つが、夕方になって戸を開けた。パン屋だった。焼きたてではないが、保存していたパンを並べている。その前に、小さな行列ができた。三人。たった三人の行列。けれどそれは日常の形をしていた。
四人が通りの端に並んでいた。夕陽を見ている。橙色の光が壊れた屋根の上を滑り、瓦礫の影を長く引いている。
壊れた街と、戻りかけた日常が、同じ空の下にある。
美しいとは思えなかった。けれど悪くはなかった。まだ壊れている。まだ傷ついている。けれど人が動いている。パンを並べ、列に並び、子供が笑っている。
「明日から訓練再開だ」
声が上から降ってきた。
見上げると、建物の残骸の上にアリアドネが座っていた。足をぶらぶらさせている。夕陽を背に受けて、赤い髪が燃えるように光っている。いつ登ったのか。さっきまでそこにいなかった。
四人が同時に顔を上げた。
同時に、嫌な顔をした。
四人揃って。示し合わせたわけではない。自然に。反射的に。全身が疲労している身体が、「訓練」という単語に拒否反応を示した。
アリアドネが笑った。
道化の笑みだった。いつもの。けれど今日一日の子供たちとの時間のせいか、いつもより少しだけ柔らかい笑み。
「嫌そうな顔するね、四人揃って。息ぴったりだ」
「今日くらい休ませてください」
「今日は休みだよ。明日からって言っただろ」
「明日も休みがいいです」
「却下」
軽い会話だった。取るに足らない、いつものやり取り。けれどそのいつもが、今日はやけに温かかった。
結界の光が、北側の一部を欠いたまま空を覆っている。壊れた箇所はまだ修復されていない。英雄たちが——アーサーとロキが維持を続けている。不完全な光。けれどまだ街を包んでいる。
明日からまた訓練が始まる。身体が悲鳴を上げている。けれど足は止まらない。止める気もない。
まだ六体いる。世界は終わっていない。
けれど今日は——今日だけは、夕陽を見ていてもいいと思った。
了




