濁流
最初の一体を斬り伏せたとき、もう次が来ていた。
小柄な悪魔だった。犬ほどの体躯に赤い目。個々の力は大したことがない。1層の雑魚と変わらないかもしれない。だが数が違った。一体倒して剣を引く間に、その空白を二体が埋める。二体を払えば、四体が壁を這ってくる。際限がなかった。
アスは炎を纏った剣を横に薙いだ。弧を描く炎が三体をまとめて焼く。倒した。足元に黒い塊が転がる。視界が一瞬開ける。その先にまた赤い目。十、二十、それ以上。通路の奥が赤い光で明滅している。
「後ろからも来てる。六体。いや、もっと——」
ミルの声が途切れた。数えることを諦めた声だった。ミルが数を諦めるのは初めてだった。
アテネが回復と補助を同時に回していた。走りながらの術式。腕輪の光が途切れずにアスの身体を支えている。けれど彼女自身の魔力にも限りがある。一体ごとの消耗は小さくても、それが何十体と積み重なれば——
「アス、左!」
ミルの警告。反応して剣を振ったが、間に合わなかった。左腕に衝撃。小さな顎が食い込んだ。振り払う。肉が裂ける感覚。浅い傷だが、数が増えれば致命的になる。
背中のアテネの光が温かかった。傷口が塞がっていく。けれどそのたびに、アテネの光が少し弱くなる。
一体倒す。三体来る。二体倒す。五体来る。算数が合わない。いくら斬っても減らない。群れは生き物のように波打ちながら、三人の円陣を少しずつ削っていく。
「ミル——突破口は」
「ない。前後とも密度が上がってる。天井にも——」
天井を見上げる余裕はなかった。けれどミルが言うなら本当だ。上からも来ている。三方向。逃げ場がない。
ミルの横を、一体がすり抜けた。
小さな身体が低く地面を這い、ミルの足元に飛びかかった。ミルには戦闘力がない。武器も持っていない。分析と判断が彼女の武器であって、悪魔の牙を防ぐ手段は持ち合わせていなかった。
「ミル!」
アスが前線を捨てて駆けた。ミルを庇うように割り込み、足元の悪魔を蹴り飛ばす。剣を振る。もう一体を斬る。けれど前線を離れた穴から、群れが流れ込んでくる。
体勢が崩れた。
三人の連携が乱れた。アスが前線に戻れない。アテネの支援がアスとミルの両方に割かれて薄くなる。ミルが分析に集中できない。一つの綻びが、連鎖的に全体を揺さぶった。
押し込まれる。円陣が縮小していく。三人の距離がどんどん近くなる。背中が触れ合うほどに。赤い目が四方から迫り、足元の空間すら奪われていく。
もう——
その瞬間だった。
衝撃が来た。
三人の頭上を、何かが通過した。風が吹いた。それだけではない。風圧。質量のある何かが空を切り、群れの中心に叩きつけられた。
破裂音。
悪魔が五体、まとめて弾け飛んだ。黒い体液が飛散し、赤い目がいくつも消えた。群れの流れが一瞬止まった。生き物の群れに杭を打ち込んだような、強制的な空白。
その空白の中心に、影が立っていた。
大きかった。アスより頭二つ分は高い。広い肩幅と長い四肢。髪は灰色で短く、耳の形が人間ではなかった。尖端がわずかに尖り、うっすらと毛が生えている。獣人。腕には使い込まれた大剣が一振り。
背中しか見えなかった。けれどその背中が、群れの圧を遮断していた。
獣人が動いた。
大剣が一閃した。横薙ぎ。たった一振りで、前方の悪魔が三体消えた。消えた、としか表現できなかった。斬ったのではなく、存在ごと吹き飛ばした。
足を踏み出す。群れの中に入っていく。単身で。
正気の沙汰ではなかった。あれだけの数の中に一人で突っ込むのは自殺行為だ。アスたちが三人で背中を合わせても押し切れなかった群れに、単独で。
けれど獣人は止まらなかった。大剣が弧を描くたびに悪魔が消える。動きに無駄がなかった。一歩ごとに位置を変え、一振りごとに最も密度の高い場所を薙ぐ。群れが左に寄れば右を崩し、群れが退けば追わずに次を待つ。戦い方が違った。力任せではない。群れという生き物の流れを読んで、要所だけを断っている。
三人が呆然と見てしまっている、と気づいたのはアスだった。見惚れている場合ではなかった。
獣人がこちらを一瞥した。目が合った。金色の瞳。鋭いが、冷たくはない。その目が三人の位置を確認し、一瞬で何かを判断した。
獣人が左に動いた。群れの密度が高い左側面を引き受けるように、位置を取った。言葉はなかった。合図もなかった。ただ動いた。それだけで、三人がやるべきことが明確になった。
左は任せろ。お前たちは正面と右を持て。
そういうことだった。
アスは剣を構え直した。正面に向き直る。群れがまだ押し寄せている。けれどさっきまでとは違う。左が消えた。左から来ていた圧が、獣人が一人で引き受けている。その分だけ、正面に集中できる。
「——立て直す。アテネさん、支援を俺に集中して。ミル、正面の数だけ数えてくれ」
声が出た。自分でも驚くほど落ち着いた声だった。
「十二。減ってる。押し返せる」
ミルの分析が即座に返ってきた。数えられる。もう数えられないほどの数ではなくなっている。
アテネの光が集中した。身体が軽くなる。アスは踏み込んで炎を振るった。三体を薙ぐ。四体目を突く。五体目を蹴り飛ばして六体目を斬る。
左で大剣の風切り音が響いている。獣人が群れを削り続けている。その音が心強かった。一人ではない。四人いる。
群れの勢いが明らかに落ちた。数が減ったのではない。群れ自体が後退し始めていた。押し返されている、と判断したのか。あるいは——何か別の理由で。
赤い目が次々に消えていった。逃げているのだ。散り散りに闇の中へ退いていく。壁を這い、天井を伝い、来たときと同じように——けれど来たときよりずっと速く。
最後の一体が闇に消えた。
静寂が落ちた。
通路に残されたのは、四人と、悪魔の残骸と、沈黙だけだった。
アスは剣を下ろした。膝が震えている。アテネが壁に手をついて呼吸を整えている。ミルは地面に座り込み、聴音器を膝に置いた。
獣人が大剣を肩に担ぎ、周囲を見回していた。残敵の確認。一体ずつ、赤い目が完全に消えたかどうかを目と耳で確かめている。慎重だった。群れが退いたあとの油断が最も危険だと知っている動き方だった。
確認を終えて、獣人がこちらを振り返った。
「生きてるか」
低い声だった。感情が乗っていなかった。心配しているわけでも、助けたことを誇っているわけでもない。ただ確認しただけ。生存確認。それ以上でもそれ以下でもない。
それなのに、その一言で全身の力が抜けた。安堵が三人の間に広がっていった。生きている。全員生きている。
「……生きてます」
アスが答えた。声が掠れていた。
獣人は小さく頷いただけだった。
*
息を整えながら、ミルが口を開いた。
「おかしい」
疲労の中にあっても、ミルの目は分析を止めていなかった。座り込んだまま、膝の上に広げたメモ帳に何かを書きつけている。
「あの群れの行動パターンが異常だった。2層にあれだけの数が出るのは記録にない。しかも——」
ミルが顔を上げた。
「逃げ方がおかしかった。私たちに押し返されて退いたんじゃない。最初から長居するつもりがなかったように見えた。通過しようとしてた」
「通過?」
「上の層に向かって移動していた。私たちはたまたまその進路上にいただけ」
アスは眉を寄せた。群れが上に向かっていた。つまり、2層から1層へ。なぜ悪魔が上の層に移動する必要がある。
「何かに追われてるってことですか」
アテネが聞いた。アスが思ったことと同じだった。
ミルは答えなかった。答える材料が足りないからだ。代わりに、獣人を見た。
獣人は壁にもたれて立っていた。大剣を足元に置き、腕を組んでいる。金色の瞳がこちらを見ていた。ミルの問いが自分に向けられたことを理解しているようだった。
「下から何かが来ている」
短かった。断定だった。推測や可能性の話ではない。知っている人間の言い方だった。
「何か、とは」
ミルが食い下がった。
「わからない。だが、深層の均衡が崩れている。悪魔たちがそれを感じ取って、上層に逃げ始めている」
獣人の表情が変わった。それまで無感情に近かった顔に、かすかな翳りが差した。眉間にわずかな皺が寄り、金色の瞳が暗くなる。それは怒りではなかった。もっと静かな何か。経験から来る警戒。この男は以前にも、似たようなものを見たことがあるのかもしれない。
「2層全体がおかしくなってる。空気の密度が通常より高い。魔力の流れが下層から押し上げられてる。第七層に近いところで——何かが動き始めてる」
第七層。
その言葉が、アスの記憶を刺激した。魔界の最下層。原初の英雄が封印した最強の悪魔が棲む場所。すべての悪魔の増殖の根源。1層の異変、6層の遠征、そしてこの2層の群れ。点と点が、見えない線で繋がりかけている。
「……撤退しよう」
ミルが立ち上がった。
「これ以上奥に進むのは危険すぎる。今の情報をギルドに持ち帰った方がいい」
獣人が頷いた。
「同意する。この先は今の人数では無理だ」
四人で来た道を戻り始めた。獣人が自然と最後尾についた。殿を務める配置。最も危険な位置を、何も言わずに引き受けている。
帰路は往路よりさらに緊張した。群れが通過したあとの通路は静まり返っていたが、いつまた同じことが起きるかわからない。ミルが聴音器を外さず、アテネが支援を切らさず、アスが前方を警戒し、獣人が後方を守る。即席の四人組は、それでも破綻しなかった。
門をくぐった。
魔界の重い空気から、街の光の中に出る。いつもの安堵。けれど今日はそこに、別の感覚が混じっていた。安堵の裏側にある、薄い不安。2層で感じたあの異質な空気が、門をくぐった後も胸の底に残っている。
門の前で、獣人が空を見上げた。
青い空だった。雲が流れ、光が降り注いでいる。結界に守られた、穏やかな街の空。
「まずい兆候だ」
小さな声だった。独り言のように。けれどアスの耳には届いた。
獣人の横顔を見た。空を見上げる金色の瞳に、さっきと同じ翳りがあった。この男が「まずい」と言う。群れを単独で薙ぎ払えるほどの力を持つこの男が、空を見上げて「まずい」と呟く。
その言葉の重さが、じわりと胸に沁みた。
1層の異変。6層の遠征。2層の群れ。そして第七層から何かが動き始めているという言葉。
世界が、動き始めている。
自分たちの手が届かない場所で、自分たちの知らない速度で。それでも——その波は、いずれここにも届く。そう感じた。根拠はない。けれど2層の暗闇の中で、あの群れに囲まれたときに感じた圧は、ただの魔物の脅威ではなかった。もっと大きなものの末端に触れた感覚。
アスは剣の柄を握った。
まだ何もわからない。わからないけれど、目を背けてはいけない。それだけはわかっていた。
了




