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弱くて、臆病で、仲間に助けられながら紡ぐ最後の英雄譚  作者: だんご


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第二層


 朝の空気が冷たかった。


 三人が門へ向かう道は、いつもと同じだった。石畳の通りを抜け、市場の脇を通り、ギルドの前を過ぎて門へ。何度も歩いた道だ。けれど今日は足音が違った。


 装備が変わっていた。アスの腰にはガルムの素材で強化された剣。アテネの腕には銀の腕輪。ミルの腰袋には聴音器と特殊インクの瓶。どれも1層のころには持っていなかったものだ。身体に馴染むまでにはもう少しかかるが、重さが心強かった。


 アスは歩きながら、無意識に剣の柄を握っていた。力が入っている。わかっている。意識して緩めても、気がつくとまた握り込んでいる。


 緊張している。


 1層に初めて入った日とは質の違う緊張だった。あのときは恐怖だった。何もわからない闇に踏み出す恐怖。今は違う。知っているから怖い。1層で何と戦い、何に追い詰められ、どれだけ消耗するかを身体が覚えている。その上の層に行く。知っていて踏み込む恐怖は、知らないときの恐怖より地味で、しかし深かった。


 門が見えてきた。あの鉄の門。古い紋様と結界の薄い光。その向こうに沈む暗闇。


 門の手前で、足が止まった。


 アイリスがいた。


 白い外套を羽織り、門の脇に立っている。一人ではなかった。数人の冒険者——いや、冒険者と呼ぶには装備の格が違う人間たちが周囲にいた。英雄級の人間が使う武装。どれも魔界の深層で採れる素材が使われているのがわかった。


 遠征帰りだ。


 アイリスの外套に汚れはなかった。傷もない。六層の遠征から戻ってきたはずなのに、まるで散歩から帰ったかのような佇まい。それが英雄というものだった。自分たちがガルムに七人がかりで死にかけたのと同じ魔界で、この人たちは別の次元の戦いをしている。


 アイリスがこちらに気づいた。


 青い目が三人を捉え、一瞬だけ視線が走った。剣。腕輪。腰袋。装備を見ている。前に会ったときとは違うことに気づいたのだろう。英雄の目は何も見逃さない。


 門の周囲が賑やかだった。ギルド職員たちが慌ただしく動き、冒険者たちが興奮した声で何かを話している。断片が耳に入ってきた。


「——第6層の中核域まで到達したらしい」


「英雄たちが深層の拠点を三つ制圧したって」


「未踏の領域だぞ。前人未到だ」


 6層遠征の成果だった。街中がその話題で沸いている。英雄たちが深層で大きな戦果を上げた。人類がこれまで踏み入れたことのない領域を切り開いた。それがどれほどの偉業か、門の前に集まった人々の興奮が物語っていた。


 アスは言葉を失っていた。


 第6層の中核域。前人未到の領域。未踏を踏みしめ、未知を切り開き、人類の版図を広げた。それがアイリスたちの日常だ。


 自分は今日、2層に初めて入る。


 その事実が、静かに胸の底に沈んだ。焦りではなかった。もっと透明な感覚だった。純粋な距離感。定規を当てるまでもなく、目で見てわかるほどの、圧倒的な隔たり。第6層と第2層。その間には三つの層がある。三つの、それぞれに途方もない壁がある世界が横たわっている。


 まだこんなに遠い。


 知っていた。最初からわかっていた。それでも、こうして具体的な成果を耳にすると、距離が数字ではなく実感として胸を押した。


 アイリスが歩み寄ってきた。周囲の人間に軽く会釈して離れ、三人の前に立つ。


「随分整ったね」


 自然な声だった。装備を見ての感想。それだけだった。褒めているわけでも、感心しているわけでもない。事実の確認。アイリスはいつもそうだ。大げさなことを言わない。ただ見たものを見たまま口にする。


 その一言が、アスの中で複雑に反響した。


 整った。確かにそうだ。1層を踏破し、ボスを倒し、素材で装備を揃えた。ここまで来るのに、命を何度も賭けた。仲間を得て、壁にぶつかり、教わり、戦い抜いた。その全部が「随分整ったね」に収まっている。


 アイリスに悪意はない。彼女にとっては、それが適切な距離感の言葉なのだ。自分たちの歩みを軽んじているわけではない。ただ——彼女の目から見れば、1層を踏破して装備を整えたことは「整った」という一言で表せる程度のことなのだ。


 それが、現実だった。


「2層に行きます」


 アスは言った。飾りのない言葉を選んだ。それしか言えなかった。


 アイリスが、少し間を置いた。


 普段すぐに返事をする人だった。必要なことだけを、必要な速度で口にする人だった。その人が、一拍だけ黙った。


「気をつけて」


 静かな声だった。前に門の前で「帰ってきたんだね」と言ってくれたときと同じ声。深い心配ではない。けれど空っぽでもない。その間のどこかにある、アイリスなりの温度。


 アスは頷いた。今度は声が出た。


「行ってきます」


 言ってから、少し驚いた。自然に出た言葉だった。「行ってきます」。帰る場所がある人間の言葉だ。


 アイリスの口元が、かすかに動いた。笑みとは言えないほど微かな変化。見間違いかもしれない。けれどアスの目には確かに映った。


 アイリスが背を向けた。白い外套が翻る。金色の髪が風に揺れる。いつもと同じだった。迷いのない足取りで遠ざかっていく背中。


 隣に立ちたい。


 その想いが胸の中で静かに燃えた。声にはしなかった。する必要がなかった。この火はもう、消えることがないとわかっていたから。


 まだ遠い。途方もなく遠い。第6層の中核域を切り開く人と、第2層に初めて足を踏み入れる自分と。その差は今日も変わらなかった。


 でも、足を止める気にはなれなかった。


 アテネが隣にいた。何も言わずに、ただ並んで立っていた。ミルも反対側にいた。メモ帳を胸に抱えたまま、アイリスが去った方向を見ている。


 三人とも、何も言わなかった。言葉がなくても通じていた。行くぞ、と。


        *


 門をくぐった。


 1層の入口は見慣れた暗さだった。何度も通った通路。足元の岩の感触。冷たく湿った空気。そこまでは同じだった。


 1層を抜けて、2層への境界に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。


 重い。


 物理的な重さではなかった。空気そのものに含まれる魔力の密度が違う。肺に入ってくる息が微かに粘り、肌の表面がぴりぴりと痺れる。1層にも魔界特有の冷たさはあったが、あれは夜道を歩くような冷たさだった。2層は違う。水底に沈んでいくような、全方向から押し込まれる圧。


 光が届かなかった。1層では結界から漏れる魔力が薄い照明になっていた。2層にはそれがない。携帯した灯りが照らす範囲だけが世界で、その外側は完全な闇だった。


「……全然違う」


 アスが呟いた。


 アテネが頷いた。腕輪が淡く光っている。魔力の密度に反応しているのだろう。


 ミルは聴音器を耳に当て、周囲の音を拾っていた。数秒聞いて、小さく首を振る。


「今のところ何もいない。でも音の反響が1層と違う。空間が広い」


 進んだ。


 ミルの言う通り、通路が広かった。天井が高く、壁と壁の間隔が1層の倍はある。岩場の構造も複雑になっていた。分岐が多く、上下の高低差がある。1層が一本道に近い構造だったのに対して、2層は立体的な迷宮だった。


 足元に注意しながら進む。灯りの範囲が狭いから、地形の把握に時間がかかる。ミルが逐一メモを取り、通ったルートを記録している。


 三十分ほど歩いたところで、最初の遭遇があった。


 ミルの聴音器が反応した。右の分岐路から接近する足音。軽い。だが速い。


「来る。一体。危険度——たぶん3」


 たぶん、とミルが言ったのは、2層の魔物のデータを持っていないからだった。1層の危険度3とは基準が違うかもしれない。


 闇の中から影が飛び出してきた。


 細身の二足歩行。1層で見た四足の魔物たちとは骨格が違う。動きが鋭い。直線的な突進ではなく、壁を蹴って角度を変えながら跳んでくる。


「速い——」


 アスが剣を構えた瞬間には、もう間合いに入られていた。反射的に刃を横に払う。金属と硬質の衝突音。腕に衝撃が走る。弾いた。弾けた。けれど勢いを殺しきれず、身体が半歩後退する。


「左!」


 ミルの声。壁を蹴った魔物が左から再び跳んでくる。アスは身体を回転させて避けた。ぎりぎりだった。1層の魔物なら反応できた距離が、2層では間に合わない。速度が一段違う。


 アテネの支援が飛んだ。走りながらの魔力付与。腕輪が光り、アスの反応速度が僅かに上がる。その差が生死を分けた。三度目の突進を剣で受け、今度は踏み留まれた。


 反撃。炎を纏った斬撃を叩き込む。細く、鋭く。アリアドネに教わった制御で、必要な分だけの出力を乗せる。魔物の側面を斬り裂き、黒い体液が飛散した。


 怯んだ隙にもう一撃。今度は深く入った。魔物が悲鳴を上げ、後退する。追い打ち。三連撃の最後の一振りが首筋を捉え、魔物は動きを止めた。


 倒した。


 息が荒い。心臓が鳴っている。たった一体で、ここまで消耗した。1層の危険度3とは明らかに格が違う。同じ数字の同じ等級でも、層が変われば中身が変わる。それを身体で知った。


「消耗が大きい」


 ミルが冷静に評価した。


「1層のときと比較して、一体あたりの戦闘時間が倍。アスの消耗も倍。このペースだと——」


「奥までは厳しい」


「今日は偵察のつもりで進むべき」


 アスは頷いた。無理をする段階ではない。2層がどういう場所なのか、身体で覚えることが今日の目的だ。


 さらに奥へ進んだ。慎重に。ミルが聴音器で先を探り、アテネが支援を途切れさせず、アスが前方を警戒する。1層で鍛えた連携が、2層の環境に適応しようとしている。まだ完全には噛み合わない。けれど崩れてもいない。


 静寂が続いた。魔物の気配がない区間が長く続く。それが逆に不気味だった。1層では常に何かしらの音があった。ここにはない。灯りの範囲外は闇と沈黙だけで、自分たちの足音と呼吸だけが反響している。


 ミルが足を止めた。


「変な音がする」


 聴音器を押さえる手に、力が入っていた。


「音じゃない。振動。地面から来てる」


 アスは足元に意識を向けた。——感じた。微かな振動。一定のリズムではない。不規則に、しかし少しずつ強くなっている。


「何かが近づいてる」


 ミルの声が低くなった。


「一体じゃない」


 振動が強くなった。足の裏から膝に伝わるほどに。空気が震え始めた。前方の闇の奥から、音が聞こえてくる。最初は低い唸り。それが層を重ねるように増えていく。一つではない。二つでもない。


 足音だった。


 無数の足音。


 闇の奥から、それが来た。


 最初に見えたのは目だった。赤い光点が一つ、二つ、三つ——数え切れなくなった。闇の中に赤い目が灯り、それが近づいてくる。通路を埋め尽くすように。壁を這い、天井を伝い、地面を覆い尽くして。


 群れだった。


 個々の大きさは小さい。1層の雑魚と変わらないかもしれない。けれど数が違った。十や二十ではない。視界の奥まで赤い光点が連なっている。通路の幅いっぱいに広がり、波のように押し寄せてくる。


「——多すぎる」


 アスの声が掠れた。


 ミルが振り返った。退路を確認している。来た道を戻れるか。間に合うか。計算している目だった。


「退路は——」


 背後からも、振動が来た。


 三人が同時に振り返った。来た方の通路にも、赤い光点が灯り始めていた。


 挟まれた。


「背中合わせ」


 ミルの指示は短かった。三人が背中を合わせた。アスが前方、アテネが右側、ミルが後方。円陣ですらない。ただ互いの背中を守るために、その形になった。


 足音が近づいてくる。前からも後ろからも。赤い目が闇の中で瞬いている。壁が、天井が、生き物で覆われていく。


 アスは剣を構えた。炎を灯す。橙色の光が通路を照らし、群れの輪郭を浮かび上がらせた。


 多すぎた。視界が赤で埋まっていく。


 背中にアテネの温もりを感じた。反対側にミルの肩がある。三人の呼吸が重なっている。


 群れの先頭が、灯りの範囲に入った。


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