騎士の一撃
どれくらいそうしていたのか、わからない。
ガルムだったものは、もう原形を留めていなかった。砕けた甲殻の破片が広間の床に散らばり、核の残骸が赤い微光を放っている。それすらも徐々に薄れていき、やがて消えた。
七人は、散り散りに倒れたまま動かなかった。天井の高い空間に、荒い呼吸だけが反響している。
最初に動いたのはガルドだった。
音もなく立ち上がった。嘘のような動きだった。あれだけ盾を叩きつけ、巨体をぶつけ、最後は歪んだ盾で押し込んだ男が、当たり前のように両足で立っている。
ガルドは七人の間を歩いた。一人ずつ見ている。レイの前で足を止め、シアの前で足を止め、クロの前で止まり、ミルの前で止まり、アテネの前で止まり、最後にアスの前に来た。
何も言わなかった。ただ見て、確認して、全員がまだ息をしていることを確かめただけだった。
それだけで、空気が変わった。全員が生きている。その事実が、ガルドの足跡をたどるように広間に染み渡っていった。
クロが笑った。
仰向けに転がったまま、天井に向かって笑い出した。最初は小さな、漏れるような笑い。それがだんだん大きくなって、腹を抱えるようになった。折れた右腕が揺れて痛いはずなのに、止められないらしい。
「はは——やば。まじでやばかった」
その笑いが伝染した。アテネが口元を押さえて、くすくすと笑い始めた。何がおかしいのか自分でもわからないという顔で、それでも肩が震えている。ミルですら、顔を伏せたまま口の端が微かに上がっていた。
レイとアスは、壁にもたれて並んで座っていた。笑えなかった。笑う力が残っていなかった。けれど空気が緩んでいくのは感じていた。死にかけた人間たちの間に流れる、奇妙な温もり。
しばらくして、クロの笑いが収まった。広間に再び静けさが戻る。
レイが口を開いた。
「お前、あれ何だったんだ」
隣のアスに向けた言葉だった。視線は前を向いたまま。片目は血で塞がったままだが、もう片方の目がまっすぐ前を見ている。
あれ。触手を断ったときの光のことだ。あの瞬間、アスの剣に宿った白銀の輝きを、レイも見ていた。
「……わからない」
正直に答えた。嘘ではなかった。何が起きたのか、本当にわからない。身体が勝手に動いて、剣に何かが宿って、触手を斬った。それだけしか覚えていない。
「わからないって——自分のだろ」
「自分のだと思う。でも、あんなの初めてで」
レイは少しの間黙って、それから短く息を吐いた。
「そうか」
それ以上は聞かなかった。追及しない。詮索しない。ただ「そうか」と受け止めて、終わり。その距離感が、今はありがたかった。
視線を感じた。
壁際にいるシアが、こちらを見ていた。
格下を見る目ではなかった。ギルドで初めて会ったときの、興味を失った冷たい一瞥とはまるで違う。何かを測っている目。評価を改めかけている目。けれどシアは何も言わなかった。視線が合った瞬間に目を逸らし、銀髪を耳にかけて、壁にもたれ直した。
それだけだった。それだけで十分だった。
*
素材の回収は、動ける者だけで行った。
ガルドとクロ、そしてミルが甲殻の破片と核の残骸を選別した。ミルの指示は的確で、どの素材に価値があるか、どれが加工に使えるかを即座に判断していく。クロが片手で素材を袋に詰め、ガルドが重い甲殻の大片を無言で担いだ。
帰り道は長かった。来るときの倍以上の時間がかかった。全員が足を引きずり、壁に手をつき、互いを支えながら進んだ。アスはアテネの腕を肩に回し、レイはガルドに半ば担がれていた。
門をくぐった。
魔界の闇から街の光に出た瞬間、全員が足を止めた。光が眩しかった。目が痛むほどの、ただの昼間の陽射しが。
そこで七人は別れた。
レイが去り際にアスの前に立った。片目が血で塞がり、肋骨を庇って身体が傾いている。それでもまっすぐこちらを見た。
「また組もう」
それだけだった。握手もしなかった。互いにそんな余裕がなかっただけかもしれないが、言葉だけで十分だった。アスは頷いた。
クロがミルに片手を上げた。ミルは頷きだけ返した。二人の間に言葉はなかったが、何かが通じていた。
シアが歩き出しかけて、一度足を止めた。振り返りかけた。唇が動いた。けれど声にはならなかった。そのまま背を向けて去っていった。いつか、あの口から何か出るのだろうか。今日ではなかった。
ガルドは最後まで残り、全員が歩き出すのを確認してから、静かに去った。
*
三人だけになった。
宿への帰り道を、並んで歩いた。アテネはまだ足元がおぼつかなかったが、自分の足で歩いていた。ミルは紙束を胸に抱えたまま、いつもより少しだけ歩幅が狭い。
誰も話さなかった。でも沈黙が心地よかった。言葉がなくても、同じ場所を歩いているだけで伝わるものがある。疲弊と充足が混じった、不思議な安らぎ。
宿に着いた。部屋に入って、三人とも寝台に倒れ込んだ。着替える気力もなかった。
アテネが最初に眠った。倒れた姿勢のまま、数秒で寝息が聞こえた。ミルも程なくして目を閉じた。メモ帳を枕元に置いて、資料を抱えたまま。
アスだけが、眠れなかった。
仰向けに寝転がって、自分の右手を天井にかざした。
薄暗い部屋の中で、自分の掌を見つめる。何の変哲もない手だった。剣だこと、小さな切り傷と、乾いた血がこびりついた、普通の手。
あの瞬間を思い出す。
アテネが触手に掴まれていた。引かれていた。間に合わないとわかっていた。頭がそう判断した。それなのに足が動いた。走った。何かが溢れた。剣に——炎ではない何かが宿った。
炎じゃなかった。
それだけは確かだった。炎は橙色で、熱くて、燃える。あれは違った。白に近い光で、静かで、鋭かった。自分の中から出てきたものなのに、見覚えがなかった。
手を握った。開いた。何も起きない。あの光はもうどこにもない。
でもあれは、夢ではなかった。触手を斬った手応えは、まだ掌の奥に残っている。
*
翌朝、目を覚ますと、アリアドネがいた。
宿の食堂の隅、窓際のテーブルに座っていた。頬杖をついて外を眺めている。いつからいるのかわからない。昨日も一昨日も訓練に来なかった人間が、何事もなかったように朝食の席にいる。
「……いつから」
「ん? さっき」
嘘か本当かわからない。いつものことだった。
アスは向かいに座った。アテネとミルはまだ寝ている。昨日の消耗を考えれば当然だった。
アリアドネが茶を一口飲んで、窓の外から視線をアスに移した。
「聞いたよ」
それだけだった。何を聞いたのか、誰から聞いたのか、説明はない。けれどアスにはわかった。ガルム戦のことだ。
「あれは——」
「スキルだ」
アリアドネが遮った。淡々とした声だった。いつもの軽薄さが薄い。目が違う。笑っているが、目の奥が笑っていない。何かを見定めている目。訓練のとき、アスの炎の色が一瞬変わったのを黙って見ていた——あの目だった。
「スキル……?」
「君の身体の中にある固有の力だ。炎とは別の系統。もっと根の深いところにあるもの」
アスは自分の手を見た。昨夜ずっと見ていた手。
「なんで俺に。そんなもの、今まで一度も——」
「出なかったからないってわけじゃない。条件が揃わなければ表に出ない力はある。特にこの手のスキルは、発動条件が感情に紐づいてることが多い」
「感情……」
「あのとき、何を考えてた」
アスは口を開きかけて、閉じた。考えてなどいなかった。頭で考える前に身体が動いた。でもその身体を動かしたものが何だったかは——わかっている。
「……守りたかった。アテネが掴まれて、シアも引かれて。間に合わないって頭ではわかってたのに、それでも——」
「それだよ」
アリアドネが茶碗をテーブルに置いた。小さな音が、静かな食堂に響いた。
「守りたいという感情が限界を超えた瞬間に、スキルが覚醒した。たぶんそういう性質のものだ」
それ以上は言わなかった。アスが問いかけの目を向けても、アリアドネは茶碗を手に取って口をつけるだけだった。煙に巻くいつもの笑みが戻っている。さっきの真剣な目はもう隠されていた。
「あの、もっと詳しく——」
「名前」
「え」
「スキルに名前をつけろ。お前のものなんだから、お前がつける」
唐突だった。話の流れを切るのがうまいのか、あるいはこれが本題だったのか。アリアドネの考えは読めない。
「名前……」
「力には名前がいる。名前がないと呼べない。呼べないと使えない。理屈じゃなくて、そういうもんだ」
アスは黙った。名前。自分のスキルの名前。何が相応しいのか、見当もつかなかった。
目を閉じた。
あの瞬間が蘇る。アテネが引かれていく。間に合わない。それでも走る。足が動く。心の奥で何かが弾けて、身体中を駆け巡る。剣に光が集まる。振り下ろす。
何を思っていた。
守りたかった。それだけだった。他に何もなかった。ただ目の前の人を守るために、自分の全部を振り絞って踏み込んだ。それだけの一撃。
騎士のように、とは思わなかった。そんな大層なものではない。ただ守りたくて、前に出た。でも——もし騎士というものがあるなら、きっとそういうことなのだと思った。強いから守るのではなく、守りたいから前に出る。それだけのこと。
「——ナイトブロウ」
静かに呟いた。自分でも驚くほど、自然に出てきた言葉だった。
騎士の一撃。守るために振るう力。あの光に、その名前を。
アリアドネは茶碗を傾けたまま、少し間を置いた。
「悪くない」
それだけだった。褒めもせず、けなしもせず。ただ「悪くない」と。
アスはそれで十分だった。名前がついた。自分の力に、名前がついた。まだ使い方もわからない。再現できるかもわからない。けれど名前がある。呼べる。それだけで、昨日までの自分とは何かが違う気がした。
アリアドネが立ち上がった。茶碗をテーブルに残し、出口に向かう。
「訓練は?」
「今日は休め。身体がぼろぼろだろ」
珍しくまともなことを言った。その背中を見送ろうとしたとき、アリアドネが出口の手前で足を止めた。
振り返らなかった。ただ窓の方に顔を向けて、空を見上げた。朝の光がその横顔を照らしている。赤い髪が風に揺れた。
何も言わなかった。数秒だけそうして、それから何事もなかったように歩き出し、食堂を出ていった。
アスは一人残された。
テーブルの上のアリアドネの茶碗が、まだ温かい湯気を立てている。あの人は結局、最後に何を見ていたのだろう。空に何があったのだろう。
わからない。いつもわからない。
アスは剣の柄に手を置いた。昨日とは少しだけ違う感触がした。気のせいかもしれない。でも——手が覚えている。あの光を、あの一撃を。
ナイトブロウ。
胸の中で、もう一度その名前を呼んだ。
まだ遠い。アイリスの背中も、自分がなりたいものも、すべてがまだ遥か先にある。けれど手の中に、昨日までなかったものがある。それだけで今は十分だった。
階段を上る足音が聞こえた。アテネとミルが起きたのだろう。二人に何を話そうか。いや、話すことは決まっている。
スキルのこと。名前のこと。そしてこれから先のこと。
アスは椅子から立ち上がり、剣を握り直した。
了
おもろいよ
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