名前のない光
三度目の震動が来た。
地面が割れるような衝撃が足の裏から突き上げ、アスの身体が浮いた。一瞬の無重力。そのあとに来る叩きつけ。背中から岩の床に落ち、肺から空気が絞り出された。視界が白く弾けて、戻るまでに数秒かかった。
立て。立て。
自分に言い聞かせても、腕が言うことを聞かない。指先が痺れている。剣は握っている。握っているはずだ。感覚がない。
周囲を見た。レイが片膝をついている。顔の左半分を血が伝い、片目が塞がっていた。いつ負った傷かわからない。シアは壁際にへたり込み、唇が蒼白だった。詠唱をしようとして、声が掠れて途切れている。魔力の底が近い。
ミルとクロは岩陰に身を寄せていた。二人とも無事ではない。クロの右腕が不自然な角度に曲がっている。それでもミルに何かを伝え、ミルは頷いている。
方針は見えている。震動の直後、甲殻が二秒だけ開く。そこに核がある。そこを叩けばいい。理屈の上では、ただそれだけだ。
身体が追いつかない。
ガルムは悠然と立っていた。甲殻に傷は増えている。全員の攻撃が積み重なって、表面に罅が走っている箇所もある。けれど核は無傷だった。一度も有効な打撃を与えられていない。
四度目の震動の予兆を感じた。地面が微かに震える。本震の前の、小さな揺れ。
「——来る」
レイが呻くように言い、盾代わりに剣を構えた。片目しか見えていないのに、足は前を向いている。
震動が来た。
今度は横方向だった。壁が震え、天井から岩片が降る。全員が体勢を崩す中、レイだけが歯を食いしばって踏み留まろうとした。踏み留まれなかった。足が滑り、身体が横に投げ出される。岩壁に肩から叩きつけられた。鈍い音がした。
「レイ!」
アスが叫んだ。レイは壁にもたれたまま、歯の間から血混じりの息を吐いた。片手で肋骨のあたりを押さえている。折れたか、罅が入ったか。どちらにせよ、前衛としてはもう限界に近い。
シアが詠唱を試みた。声が出ない。魔力が枯渇しかけている。何度も唇を動かし、ようやく絞り出した氷の矢は一本だけだった。ガルムの甲殻に当たり、紙吹雪のように砕けた。
崩壊が近い。
全員がそれをわかっていた。方針は見えている。実行する力が残っていない。理屈と現実の間で、七人が擦り潰されようとしていた。
そのとき、前線に残っている影が一つだけあった。
ガルドだった。
盾を構え、ガルムの正面に立っている。震動で一歩も退いていなかった。あの巨体が地面に根を張ったように動かず、ガルムの圧を一人で受け止めていた。
声は出さない。表情も変えない。ただそこに立ち、盾を構え、来る攻撃に備えている。全員が崩れかけた中で、ガルドだけが前線を維持していた。
アスはその背中を見た。大きかった。ドワーフの背丈は人間より低い。けれどその背中は、今この瞬間、誰よりも大きく見えた。言葉はいらない。行動だけがある。そういう人間がいるということを、アスは初めて実感した。
——まだだ。まだ終わってない。
ガルドが立っている。ならばまだ、戦える。
岩陰で、クロが動いた。折れた右腕を庇いながら、左手で腰の袋を探っている。取り出したのは小さな金属球だった。罠師の道具。戦闘中にも使える即席の妨害器具。
「ミル」
クロの声が低かった。いつもの軽さはない。
「次の震動のタイミング、どれくらいだ」
「これまでのパターンだと三十秒前後の間隔。でも最後の二回は間隔が縮まってた。次は二十秒以内に来る可能性がある」
「二十秒か。——なら、いける」
クロが金属球を構えた。左手だけで。
「震動の予備動作、あいつが足を持ち上げた瞬間にこいつをぶつける。衝撃波で足のタイミングがずれれば、震動の発生が一瞬遅れる。その一瞬で甲殻が開くタイミングもずれるはずだ」
「開いている時間が一秒伸びるかどうか、ってこと?」
「そう。一秒。それを作るのが俺の仕事で——」
「それを使い切るのが、私たちの仕事」
ミルが振り返った。アスを見た。
「アス。もう一回だけ、核に届く?」
身体はもう限界だった。炎の制御も怪しい。腕は震え、足は重く、視界が時折暗くなる。
「——届かせる」
声が掠れた。けれど頷いた。
ガルムの足が持ち上がった。五度目の震動の予備動作。
クロが投げた。左手一本の、正確無比な投擲。金属球がガルムの前足に直撃し、小さな爆発が走った。ダメージはほぼない。けれど足が着地するタイミングが——ほんの一瞬、ずれた。
震動が来た。けれど通常より遅い。その遅れ分だけ、甲殻が先に開き始めた。
「——今っ!」
ミルの声。
アスとレイが同時に飛び出した。レイは肋骨を押さえたまま走っている。走れるはずがない体で走っている。
甲殻の隙間が開いた。背中の装甲が左右にわずかに割れ、その奥に——赤い光。核だ。脈打つような光が、暗い体内から覗いている。
レイが先に届いた。剣を突き出す。核の表面に刃が食い込み、赤い光が散った。手応えがあった。けれど浅い。力が足りない。レイの身体が限界を超えていた。
アスが続いた。炎を灯す。細く——いや、今はそんな余裕はない。持てるすべてを乗せた。剣が核に向かって振り下ろされ、炎が核の表面を焼いた。
罅が入った。核に、確かに罅が入った。
そして——甲殻が閉じ始めた。
間に合わなかった。
アスの剣が弾かれ、レイの身体が甲殻に打ち付けられて吹き飛んだ。二人とも地面に転がる。核には罅が入った。入ったが、砕けてはいない。
閉じた甲殻の下で、赤い光が脈動している。再生が始まっている。時間が経てば、罅は塞がる。
全員の顔に、同じものが浮かんだ。
もう一度同じことをやる力は、残っていない。クロの妨害器具も尽きた。シアの魔力もない。レイは動けない。ガルドの盾が今の衝撃で歪んでいる。
ここまでか。
その沈黙を、ガルムが破った。
体側の甲殻が割れ、灰色の触手が一斉に伸びた。引き寄せ。これまでで最も多い本数が、同時に後方へ向かって射出された。
二本の触手が、アテネとシアを同時に捕らえた。
アテネの腰に触手が巻きつき、身体が引かれた。地面を引きずられながら、アテネが声にならない悲鳴を上げる。同時にシアの足に別の触手が絡みつき、彼女もまたガルムの本体に向かって引かれ始めた。
ガルドが動いた。シアの触手に手を伸ばす。けれど今度は二本同時だった。一本を止めても、もう一本が止まらない。
レイが地面で身を起こそうとして、肋骨の痛みで崩れ落ちた。
クロが走ったが距離がある。間に合わない。
アスは地面に倒れたまま、引かれていくアテネを見ていた。
間に合わない。
頭がそう判断した。明確に。距離がある。身体が動かない。足に力が入らない。腕は痺れている。間に合わない。間に合うはずがない。
——でも。
アテネの顔が見えた。恐怖に歪んだ顔。触手に引かれながら、それでもこちらを見ている。あの穏やかな笑顔をしていたアテネが、助けを求める目でこちらを見ている。
シアも引かれている。クールな仮面が剥がれて、初めて年相応の恐怖が覗いている。
頭では間に合わないとわかっていた。
足が動いた。
考える前だった。判断の前だった。身体が勝手に動いた。倒れた姿勢から、どうやって立ち上がったのか自分でもわからなかった。気づいたら走っていた。足が震えている。膝が笑っている。それなのに、走っている。
何かが変わった。
自分の内側で、何かが溢れ始めていた。炎ではなかった。いつも剣に灯すあの橙色の熱とは、質が違う。もっと深い場所から湧いてくる。色で言えば白に近い。光で言えば——夜明けに似ていた。
気づいていなかった。自分の身体から何が出ているのか、アスには見えていなかった。走ることだけに意識が向いていた。アテネに追いつくことだけに。
周囲の人間には見えていた。
アスの全身から、淡い光が滲み出ていた。炎ではない。炎よりも静かで、炎よりも鋭い光。それが剣に集まっていく。刃の表面を這うように広がり、橙色の炎とは全く異なる白銀の輝きを帯びていった。
アスはアテネに追いついた。追いつけるはずのない距離を、追いつけるはずのない身体で、追いついた。
触手が目の前にある。アテネの腰に巻きついた灰色の肉。
斬った。
何も考えずに、ただ振り下ろした。
白銀の光が、触手を断った。ガルムの甲殻すら通らなかった刃が、触手を紙のように両断した。断面から黒い体液が噴き出し、触手がのたうちながら引っ込んでいく。
一拍の間を置いて、アスはもう一本に向かった。シアに絡みついた触手。走りながら剣を振る。白銀の光が再び閃き、二本目の触手が断たれた。
静寂が落ちた。
全員が動きを止めていた。敵も味方も。ガルムですら、一瞬動きを止めた。断たれた触手の痛みか、それとも——今の一撃に含まれていた何かに対する、本能的な警戒か。
アスだけが、何が起きたかわかっていなかった。
触手を斬った。それだけだ。そのはずだ。けれど手の中の剣が、さっきと違う。感覚が残っている。今の一撃に乗っていたものが、炎ではなかったことだけは——漠然と、わかった。
「アス……」
アテネの声が聞こえた。地面に座り込んだまま、こちらを見上げている。目が大きく開かれていた。恐怖ではない。驚愕だった。
考えている暇はなかった。
ガルムがよろめいた。触手を二本同時に断たれた衝撃が、巨体のバランスを崩していた。四本の足のうち一本が浮き、甲殻が軋んだ。
崩れた。甲殻の合わせ目が——開いた。
「——核が見えてるっ!」
ミルの声が洞窟を裂いた。
悲鳴に近い叫びだった。冷静なミルが、初めてそんな声を出した。ここを逃せば次はない。全員がそれを理解した。
レイが立ち上がった。折れた肋骨を押さえたまま、歯を食いしばって走り出す。目は据わっていた。片目しか見えていない視界の中で、核の赤い光だけを捉えている。
アスも走った。白銀の光はもう消えていた。何だったのかわからない。わからないけれど、まだ足は動く。まだ剣は握れる。
シアが叫んだ。魔力の残滓を、最後の一滴まで絞り出した詠唱。氷の槍が一本だけ生まれ、ガルムの開いた甲殻の縁に突き刺さった。威力はない。けれど甲殻が閉じるのを、ほんの一瞬だけ妨げた。
アテネの手が光った。座り込んだまま、震える掌から支援の光が飛んだ。弱い。弱いけれど、アスの足に最後の力を送り込んだ。走れ、と。その光が言っていた。
ガルドが動いた。歪んだ盾を構え、ガルムの前足に体当たりした。巨体が僅かに揺れた。それだけで十分だった。核の周囲の甲殻が、もう一瞬だけ開いたままになった。
クロが地面から石を拾い、核に向かって投げた。何のダメージにもならない。けれどガルムの意識が一瞬散った。
全員が、持っているものの全部を出した。
アスとレイが核に届いた。
二人の剣が、同時に突き立てられた。
レイの刃が罅に食い込み、アスの炎が罅の奥に流れ込んだ。核の内側で赤い光が膨れ上がり、灼熱が逆流するように外へ噴き出した。
音が消えた。
核が砕けた。
赤い破片が飛び散り、ガルムの巨体が一瞬硬直した。四本の足が同時に力を失い、甲殻が内側から崩壊していく。灰褐色の装甲が割れ、砕け、洞窟の床に散らばった。
ガルムの体が傾いた。ゆっくりと。倒木が倒れるように。巨大な影が横倒しになり——地面に激突した。洞窟全体が揺れた。最後の震動。それきり、動かなくなった。
静寂が降りた。
誰も声を発しなかった。
アスは突き出した姿勢のまま、動けなかった。剣はまだ前に伸びている。腕を下ろす力が残っていない。隣でレイも同じ姿勢で固まっている。
膝が折れた。地面に崩れ落ちた。冷たい岩の感触が頬に触れた。
レイが隣で倒れた。仰向けに転がり、天井を見上げて、長い息を吐いた。
シアが壁にもたれたまま座り込んでいる。目を閉じている。
ガルドが盾を地面に置いた。初めて見る動作だった。膝をつき、両手を盾の縁にかけて、額を押し当てた。祈っているのか、ただ疲れ果てているのか。
クロが仰向けに大の字で転がった。折れた右腕を庇いもせず、ただ天井を見て笑っていた。声のない笑いだった。
ミルは岩陰にもたれたまま目を閉じていた。メモ帳は閉じられている。記録を取る余裕すらなかったのは、これが初めてだった。
アテネが座り込んだまま、自分の掌を見ている。最後に送った支援の光の残像が、まだ指先に残っているのかもしれない。
誰も何も言わなかった。言葉が出なかった。ただ——全員が息をしていた。それだけが、今この場にある確かなことだった。
アスは地面に頬をつけたまま、自分の右手を見た。
剣を握っていた手。触手を断ったとき、あの一瞬だけ、何かが違った。炎ではない何かが、自分の中から溢れ出した。それは確かだった。幻ではなかった。
けれど、それが何なのかはわからない。
名前のない力。自分でも知らなかった自分の中のもの。あの瞬間、仲間が掴まれて引かれていくのを見たとき、考えるより先に身体が動いて、それと一緒に何かが——。
手を握った。開いた。握った。感覚は普通だった。さっきの光はもうない。夢のように消えている。
でも確かにあった。
それだけが、疲弊しきった頭の中に残っていた。
了
おもろいよ
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