#83 塵と煙の中で
少女と父親は邦間道路沿いのダイナー跡地で食事をしていた。外からは見えない席に向かい合って座った。魔鉱石の火で温めた缶詰のポーク・ビーンズ。お湯で戻したマッシュポテト。デザートは乾いたリンゴのチップスだった。テーブルの脇に置かれたラジオからはまるで神父の説教のような調子で言葉が紡ぎ出されている。それが店内の背景音楽の代わりとなっている。男の音声が白く濁った煙のように天井に立ち昇ってたゆたう。停止したシーリング・ファンは二度と空気をかき混ぜることはない。
――聞いたかい、アリサ。と父親は云う。何がさ、と少女は答える。口の端に付いたポテトを指で拭って舐めながら。父は微笑んで続ける。先生の言葉だよ。好いことを云っている。
また歴史の話?
ああ。
アリサは食事の手を止めて耳を澄ませた。父とはちがう男の声。番組なら他にいくらでもある。世界が灰色になってしまった後でも色褪せない遺産があるとすればそれはラジオから流れる戦前の音楽だった。なのに父が受信するプログラムは壁に投げつけた粘土みたいに扁平な声ばかり流れ出る。自分たち親子以外でこの男の訓話を好んで聴いている者をアリサは見たことがない。
アリサはしばらく時間を割いてから顔を上げて云った。……後からは何とでも云えるってことかな?
さすがだね。父は褒めてくれた。――でもそれだけじゃない。これは警告だ。一つひとつの選択を間違えれば世界がどれほど変わり果ててしまうかを僕たちは好く知っている。戦前の人びとはそうじゃなかった。やり直しは効くと思っていたしそのとき権力を握った連中の政府も数ヶ月と保たないと思っていたんだろう。国家の運営はスポーツクラブのようにはいかないぞって。
父はマッシュポテトの雪のように白い塊に目を落としていた。貪欲に水気を吸って膨らんだ命の結晶。もし魔鉱石に白色のものがあればあんな色彩をしているに違いなかった。
……戦前の人たちが、僕が分かっていなかったのは国境と同じく国そのものもまた目に見えているようで見えないものだったということだ。
また謎かけ?
みんなが信じることをやめれば国なんてまったくなかったものになるということだね。本を閉じれば消滅する物語と一緒だ。記憶や想い出の中には遺る。でも重みは褪せてしまって二度と還ってこない。――国というのは存外簡単に壊れてしまうことを知らなかったんだな、みんな。
アリサはスプーンを置いた。空っぽになってしまった缶詰に残された空間を見つめた。割れた窓の外から禿鷲が羽を揺する音がした。乾いた音だった。
アリサは口を開いた。逆のことも云えるんじゃない?
うん?
昔の人は目に見えないものがどれだけ簡単に壊れてしまうかをちゃんと識っていて。だからこそ必死になったのかもしれない。壊されるのは嫌だから壊すんだって追い詰められたのかも。
父は何度かうなずいた。――そのほうが分かりやすいな。ラジオの先生よりも僕の娘のほうが世界のことを好く識っている。嬉しいことだ。哀しいことかもしれないが。
なんで哀しいのさ。
時間をかけて識ってもらいたかったんだ。速成の訓練を受けさせられる兵士のようにじゃなく。世界なんかよりも自分自身について考えを深める時間をあげたかった。年相応にね。
もっと女の子らしくしてほしいって?
まさか。そんな意地悪は云わないよ。
父さんは……。
ああ。
父さんはもし戦争が起こる前に私が生まれていたら何かして欲しかったことはある?
さあ何かな。幸せになってもらえたらそれ以上望むことはなかったと思うよ。
母さんならどう願ったのかな。
きっと同じさ。――そろそろ出発しようか。
彼はラジオを切って立ち上がった。
◆
今になって思い出したことがある。
父はホプキンスの語りが特別好きでも嫌いでもなかったのかもしれない。
他の番組を聴こうとしなかった理由は分からない。
音楽は想い出と結びつきすぎているからなのか。
廃墟に朽ちた蓄音機を見つけると父は決まって足を止めてターンテーブルに針を落としてみせた。
繋がらない電話の受話器を持ち上げるかのように。
レコードもないのに。
灰が層を成しているだけなのに。
そんな彼の背中をじっと見ていた。
何をしてるのと訊ねると頭の中で聴いているんだと答えが返ってきた。
実際の音楽を耳にするにはそれは色づきすぎていた。
灰色の世界を灰色のまま見つめていなければたった一人残された家族を守れないと思ったのかもしれない。
彼は云っていた。
好き日の想い出を夢にみるのは今を生きるのを諦めかけているからだと。
だから赤の他人と席を囲んで戦前の話に花を咲かせるのを好まなかった。
ホプキンスの話に耳を傾けていた理由。
それが彼にとって唯一マシな選択肢だったからに過ぎないのかもしれない。
沈黙よりは退屈のほうがいいというだけで。
一度だけ父がはっきりと批判の言葉を口にしたことがある。
ラジオの先生は善きヴィジョンをたくさん持っている。
でもそんな手合いは戦前にもたくさんいた。
いざ試練が訪れたときそうした人びとは釘一本打つことさえ拒否した。
善きことをおこなうのに言葉はいらない。
この人は果たしてどうだったのだろうね。
そのようなことを云っていた。
どうして都合よく忘れていたのだろう。
彼が恐れていたことがようやく実感をもって飲みこめてきた。
想い出とは思い出すたびに美化されるものなのだ。
元の形が分からなくなるくらいに磨き上げられて。
やがては摩滅する。
◆
かつて築き上げられた高さ八メートルに及ぶコンクリート壁は砲撃と風化、国境という概念の消失によって意味を成さなくなっていた。人影はなく戦前の軍用トラックや装甲車の残骸ばかりが目についた。どれもが錆びて朽ち果てていた。道路は砲弾孔と廃棄車輛の存在によっていよいよ通行不能となっていた。
アリサは停車する前に再生機を起動させて周囲一帯の痕跡を両手いっぱいにかき集めた。最後に人が通ったのは何か月も前だった。ショッピングカートに家財を載せて西を目指す三人の親子。頭巾をふかく被った巡礼者のようなその姿。子どもの目は落ちくぼんでおり母親は杖にすがっていた。最も近い集落でも徒歩では幾晩とかかるはずだった。アリサとすれ違ったとき子どもと目が合った。親子の姿はバックミラーに映し出された世界の端へと消えていった。
他に誰もいないことを合図で知らせてから二輪車を停めた。トレーラーから隊長とホプキンスが降りてきた。護衛の男は銃架についたまま煙草を吸っていた。アリサは隊長にうなずきかけた。彼女は云った。今の映像の親子。――運が好かったね。
どうかな。ここで襲われなくても道中でどうなったのか。
襲撃だけじゃない。激戦地だったからねここら一帯は。
それは見れば分かるよ。
何はともあれ終点だ。こんな遠くまで出張るなんてこれきりにしたいよ。
アリサはうなずいて同意した。それから半装軌車に歩み寄った。スヴェトナが手招きしていた。
……もう一度確認させてくれ。藤色の髪の少女は云った。行かせるんだな?
人が死なない道を選びたいんだ。今回ばかりは。
今回は?
以前に、――スヴェトナと会う前にも選択を迫られたことがあった。依頼を受けて。瓦礫の山になった都市へと物拾いに行って。――でも私は選べなかった。生かすことも殺すこともできなかった。逃げ出したようなものだ。だから……。
わかった。また後で話そう。
ありがとう。
アリサは戻った。数日前は干からびそうな暑さだったのに今は外套の襟をかき寄せたくなっていた。隊長がホプキンスに荷物を手渡していた。彼女は腰に手を当ててうなずいた。――向こうに当てはあるんだな?
ああ。世話になった。
気をつけてな。
あんたも。
向こうでも変わらず放送を?
そのつもりだ。
変わらないな先生は。
そうありたいと願うよ。
続いてホプキンスはこちらに向き直った。アリサは何も云わなかった。彼が右手を動かそうとぴくりと震わせたのが分かった。握手でもしようとしたのかもしれない。とにかく彼は思いとどまったらしく荷物を背負いなおした。そして云った。
お嬢さんが幸せになることを心から願ってるよ。
……どうも。
あの時代、――多くの人が知的な潔癖症に屈した。木を見て森を見ない人間ばかりだった。
ええ分かります。
奇蹟が起こって我々が昔と同じような文明と呼べるものを手にしたとき同じことが繰り返されると思うかね。
考えても無駄です。奇蹟は起こりませんから。それに今の時点で私は仰るような潔癖症に自分がなっていないという確信が持てないんです。
いいや君なら大丈夫だ。命の重さと痛みを知っている。
そうだと好いんですが。
元気でな。
あなたも。
ホプキンスは空を見た。
禿鷲を探したわけではない。
もっと高い天穹を視ていた。
…………いや。私は。
と呟いた。言葉は続かなかった。彼は背を向けて歩いていった。
アリサは二輪車のサドルにもたれかかるように腰かけた。スヴェトナは腕を組んでいた。助手席に座るトフィーは瞬きせずにホプキンスの背中を見つめていた。コンクリート壁の残骸の向こうへ遠ざかる影をじっと追っていた。
隊長が手を打ち鳴らして注意を集める。――帰るまでが遠足だ。商品に報酬、何より大事な命を持ち帰らなきゃならん。
本当にぜんぶ私たちがもらって好かったの?
アリサは半装軌車の荷台に積まれた賊たちの遺品を指した。大した品はないが弾薬はもちろん車から抜きだした部品の一部は何日か過ごせるだけの値段で売れるはずだった。
持っていきな。上乗せ分の報酬代わりさ。
分かった。
帰りも頼むよスカベンジャー。
二輪車にまたがって発進させかけたとき後ろから爆発音がした。いつもなら瞬時に振り返るか退避していた。そのときアリサは動かなかった。最初に眼差しを向けたのは半装軌車であり中ではスヴェトナが目を見開いていてトフィーは両手で口を覆っていた。
アリサは目をぎゅっと閉じてから開いて後ろを向いた。地面から噴き上げられた砂煙が青空に溶けていくところだった。横たわったホプキンスの身体が灰と塵の色をした風景のなかで奇妙に浮き上がって見えた。右脚が腿に至るまで吹き飛ばされており左は足首までが弾けていた。鼓動に合わせて血が噴き出し砂地をみるみる塗り替えていった。彼は上体を起こそうとして電池の切れかけた機械人形のように腕を動かしていた。その動きはやがて小さくなり間隔は長くなっていった。
魔鉱駆動の内燃機を切りゴーグルを首元におろしてアリサは死を目前にしてもがいている男の肉体をじっと見ていた。
同じく振り返ってその光景を眺めていた隊長が隣で呟いた。
――やっぱり駄目だったかい。
護衛の男が鼻を鳴らす。悪運もそうそう長続きしないってこった。
思ってたより呆気ない最期だったね。
そういうものだ。
アリサは訊ねた。…………知ってたの?
何をだい?
昔のホプキンスのこと。
当たり前さ。こちとら情報が命の商売人だよ。
これは復讐?
そんな御大層なもんじゃない。隊長は護衛の男から煙草を一本拝借して吸った。指の間に挟んだ紙煙草の先に灯った火をじっと見た。――もしも踏まずに通過できたならこのまま見送って今生の別れにしていたさ。私らが撃ち殺したとしてそれが何になる? 詮索好きの誰かさんが墓を暴いて喋っちまったら取引先を喪っちまうよ。
私があんたの組合に告げ口でもするって云いたいの?
どこの誰がいつ何を見ているかなんて神様にしか分からないってことさ。
じゃあ何で行かせようと思ったのさ。
ケジメだ。――奴じゃない。過去の私自身への。隊長は動かなくなった男を見ながら云う。ここで奴が死のうが国境の向こうでくたばろうが大した問題じゃない。どうせお互い老い先は短いんだからね。大事なのは私が黙って奴を見送ったという事実さ。引き金だけは引かなかった。金を受け取った以上依頼は依頼だ。伝わらないかもしれんがそれが私にとって自分の命以上に大切なことなのさ。
アリサが何かを云う前に護衛の男が話を継いだ。
――奴も分かってたんじゃないか?
何が。
自分がここで死ぬってことがさ。
ああなることを知ってて?
彼はうなずいた。軍かそれに類する組織にいたんならここから先の地面に何が埋まってるかなんて知らないはずがない。それを承知で奴は足を踏み出したんだ。そして賭けに負けた。
わからない。
分からなくていいんだよ。下手に分かろうとするから迷うんだ。
以前にも誰かに似たようなことを云われたよ。
じゃあお前は何も変われていないということになるな。
そうだね。
見下げてるわけじゃない。男はうなずいて云った。――それがお前にとって大切なことなんなら今後も変わらないでいたほうがいいんだろうよ。
…………。
アリサは沈黙して立ち尽くしていた。禿鷲がホプキンスの遺体の周りに群がりはじめていた。二輪車にまたがるために足を上げようとしたが膝が云うことを聞かなかった。サドルに手を添えたまま荒野の果てのない景色を見ていた。
□
往路と同じルートを帰路もひたすらに走った。二日目の夜はやはり隊長の生家である牧場跡地で過ごし幾つかの話をした。まだ町に着いていなかったがその時点で隊長は報酬を全額支払うよう組合に連絡を入れてあると打ち明けた。それで私が朝になってあんたを置いて出発していたらどうするつもりなのと訊ねてみた。隊長は笑って瓶のピルスナーを飲んだ。もちろんそんなことはしないだろう。だから支払ったのさ。
三日目の昼過ぎにドライブイン・シアター跡地に到着し休息をとった。
スクリーンが張られていた構築物前の広場には行きのときと同じく人間の骨が山積みになっていた。アリサは再生機を使用し縮小した戦前の風景を手元に映し出してみせた。遺体は焼かれる前にすでに死んでいて家畜用の貨車から次々と降ろされているところだった。どの死体も目元が赤くただれており汚物にまみれていた。死体に燃料をかけて焼くよう指示を飛ばしているのはホプキンスだった。収容所時代の姿よりもさらに若かった。監視役の兵士や遺体を運ばされている貨車の他の乗客たちは全員があまりの臭いに顔をしかめていたがホプキンスは変わらず無表情だった。鉄製の容器から燃料が振りかけられ火が点けられた。
アリサは映像を止めた。手袋をはめた右手で大腿骨の一本を拾い上げまるで絶滅した古生代の生物の化石を手に取るかのように目を細めて見ていた。
□
町に到着し組合に報告を済ませるため隊長たちとは別れた。また依頼させておくれと彼女は云った。差し出された手をアリサは握った。力づよい握手だった。老境に差しかかってなお絶やされることのない灯を抱えて彼女は背筋を真っすぐにして立っていた。護衛の男とは握手をしなかったが彼もまた表情を緩めて云った。お嬢さんたちがいなかったらあの待ち伏せで一発喰らっちまっていたかもしれん。なかなか好いものを見せてもらったぜ。アリサはうなずいた。スヴェトナは車からは降りずフロントガラスごしに会釈した。トフィーがこちらこそありがとうと伝えると二人の男女は微笑んだ。そして車に乗り込んで去っていった。
□
組合の受付には事務係の男がいてオーデルを中心に仕事をするアリサにとっては顔なじみだった。鈍色にちかいくすんだ赤毛で初めて逢ったとき以来ずっとヒビの入った眼鏡をかけて書類と格闘している。普段は奥に引っ込んでいるはずだが今日に限って窓口まで出てきた。受付の子が急病で休んでるんだ、と彼は云った。人手不足だよ。
大変だね。
まったくだ。あんたみたいに無給で好きなだけ雇いたいもんだよ。
何が云いたいの?
お連れさんだよ。いつの間にか小さい子まで同行させて何やってるんだ?
関係ないだろ。
ないさ。ただ腐れ縁のよしみで忠告したいだけだよ。おれの耳にまで届くってことは噂になってるってことだ。
アリサは余計なお世話と云って腕を組んだ。事務員は話しながらも一ミリもずれていないのではないかという正確さで書類に印を押していった。散弾槍で使用した弾薬の申請届。再生機の使用日時と用途を細かい字でびっしり埋めた報告書。十数か条にわたる組合の免責事項。父の後を継いでスカベンジャーになったときアリサは組合のお偉いさんの部屋に通されて誓約書を声に出して読まされたことを覚えている。まるで頭を負傷して心的外傷を患った兵士にこれが懲罰ではなく必要なことなのだと納得させるかのような手続だった。たしかこんな内容だった。――わたしくず鉄拾いのアリサは人類の公益と文明の再興のために別紙の規定により定められた兵器を以下に定められた職権の範囲内で使用することをここに誓約するものでありこれに違反した場合には可及的速やかに組合への報告をおこない処罰を受け容れることを誓います。云々。
ほら報酬だ。事務員の男は書類の控えと共にいくつかの町で使える金銭と配給券を渡してきた。――報告書によると戦闘があったみたいだがそのときは再生機も散弾槍も使ってないじゃないか。大丈夫とは思うが突っ込まれたらおれはなんて話を合わせればいいんだ?
とびきり優秀な護衛のおかげだって伝えておいて。
それで上が納得するかな。鉄火場以外でばんばん無駄遣いしてるから目立つんだよお前。特に再生機な。
私が問題児だってことは知られてるからそんな神経質にならないでよ。
使った分は引いておいたからな。
分かってるよ。いつも通り。
ああ。
父親の形見である財布を父親の形見である背嚢に入れてアリサは受付を立ち去りかけた。思い出したことがあって振り返った。事務員の男はすでに次の書類に取り掛かっていた。
ねぇ。
なんだ。忘れ物か。
おすすめのラジオ番組ってある?
なんでおれに訊く。
あんたずっとデスクワークしてるから詳しいのかなって。
お前ずっと何かの堅苦しい番組のリスナーだったろ。
いいから教えてよ。
ジャズは好きか?
まあまあ。
じゃあ好いのがある。
◆
滞在用に借りた部屋でアリサはラジオから流れる戦前のジャズ音楽を聴いていた。ベッドのはしに腰かけて剝がれかけた壁紙をぼうっと見ていた。スヴェトナとトフィーは台所にいて何かを作っていた。トフィーが調理の手順を一つひとつ大きな声で確認するたびにスヴェトナがアリサの邪魔になるからやめろとたしなめた。温めたミルクの香りが漂ってきた。
二人に呼ばれて席についた。
ホワイトシチューだった。
器に盛られた具沢山の白いスープ。
オーデルでは珍しい緑野菜のソテーもあった。
祈りの言葉もそこそこにスプーンを手に取った。いつもなら真っ先にかきこもうとするトフィーが動かずにアリサを見ていた。シチューはこいつが作ったんだとスヴェトナが云う。あの隊長さんに教わったレシピだ。食べてやってくれ。魔鉱石は入ってないから心配するな。
失礼ね。トフィーが頬を膨らませる。アレは極上のお菓子よ。そのまま味わうのが通なの。
分かりたくもないグルメだよ。
アリサはシチューを口に運んだ。時間をかけて咀嚼した。味わいながら嚥下した。
……うん。すごい。とてもおいしい。
やったわ。
トフィーもハチミツを垂らして食べ始めた。今回の仕事で頑張ったご褒美にと一瓶買い与えた甘味だった。スヴェトナはホールの黒胡椒をミルで砕いて振りかける。これもアリサから彼女への贈り物だった。
一杯目を食べ終えたころにアリサは云った。
……今日はずいぶんと贅沢だね。
道中なかなかハードな仕事だったからな。英気を養うことも大事だ。
取り繕ってばっかり。アリサが元気なさそうだからでしょ?
云ったら台無しだろ気遣いの妙が分からんやつだな。
わたしは人に遠慮して誤解されちゃうほうがいやなの。
そうかい家令仕込みの礼儀作法を叩きこんでやろうか。
いくらお行儀がよくても目つきの悪さはごまかしようがないわよ。
云ったなこのチビ。
なによ分からず屋。
――二人とも。
割って入ると二人は口を閉じてうつむいた。
アリサは二人を見比べた。
従者の少女と水晶の少女。
毎日のように会話を交わしている相手を改めて。
初めて逢って以来スヴェトナの髪はいくらか傷んでいるように見えた。
あれだけ気を遣って整えているにもかかわらず。
トフィーは心なしか瘦せているように思えた。
あれだけ食い意地がはっているにもかかわらず。
それでも。
少なくとも。
ともに旅をすることについて二人が疑問を口にしたことはなかった。
ただの一度も。
ラジオからはジャズが流れ続けていた。
今一曲が終わった。
観客の拍手。
バンド・リーダーの感謝。
次の一曲へ。
いつの録音だろう。
演奏者にしろ観客にしろ今も生きているのは恐らく一人もいないはずだった。
こんなときアリサが考えるのは生きざま以上に死にざまのことだった。
戦場で撃たれたのかもしれない。
魔鉱兵器で灰にかえられたのかもしれない。
あるいは敵性分子として処刑。
飢餓か。
疫病か。
死の行進による行き倒れ。
労役所での過労死。
ホプキンスはそうやって何百あるいは何千もの人を死なせた。
彼も最期には脚を吹き飛ばされた。
あるいは父さんのように……。
スヴェトナを見る。
脚には今も包帯が巻かれている。
トフィーを見る。
脇腹の傷跡は完全に消滅している。
撃たれたときの二人の苦痛に歪んだ顔。
初めて逢ったとき二人は話してくれた。
スヴェトナの両親は借金が払えずに殺されて死体を有効活用された。
トフィーの親はどこかの収容所に移送されてそこで最期を迎えた。
今まで意識さえしてこなかった。
孤児なんだ。
私たちは。
またひとつ名前がついた。
自分たちをつなぐ目に見えない言の葉に。
アリサは首を振った。席を立った。どうしたんだもう食べないのかとスヴェトナ。もしかしてほんとうは美味しくなかったのとトフィー。アリサは答えずに両手を伸ばし少女たちの背中に回して引き寄せた。喉の奥につっかえた言葉のぶんだけ腕に力を込めた。目を閉じていたが二人が顔を見合わせているのが伝わってきた。それから二人はアリサに応えて腰に手を回し頬を寄せてくれた。アリサはその小さな宇宙を手放さなかった。ジャズの調べに区切りがついてしまうまで。
ラジオから流れる拍手の音を合図に我に返り両手を下ろした。スヴェトナもトフィーも腕を上げた格好のまま茫然としていたので肩を叩いて目を覚まさせた。なんだびっくりしたぞ。急にどうしたのアリサ。二人の言葉を受け流してアリサは空っぽになったお皿を持ち上げた。
シチューまだあるかな。――久々にお腹いっぱい食べてみたい。
あ、ああ。ソテーもいるか?
うん。
待ってて。よそってくるから。
台所に向かう二人を見送りながらアリサは椅子の背もたれに身体を預けた。
戦前の音楽が運んでくれる春の泥濘のように温かな流れに身を任せ続けた。
声に出さずにつぶやいた。
やっぱり私は父さんのようにはなれないかも。
灰色の世界を灰色のままに見つめられるほど強くはなれない。
それを強さと呼んで好いのかさえ分からない。
ホワイトシチューの味を思い起こしながらお腹をさする。
スヴェトナとトフィーが笑いながら席に戻ってくる。
アリサはスプーンを手に取る。
甘い香りを胸いっぱいに吸いこむ。
かつて父親と食事をともにしたダイナーの時分と同じように。
窓から差しこむ陽に照らされて丸々とした芋が光り輝いて見えた。
それで充分だった。
「ハイウェイ」の章、これにて幕を引かせていただきます。日々の合間を縫って細々と綴るなかで自分は彼女たちのことが本当に好きなんだと感じることができたのは何よりの幸福でした。幸せだけでなく辛さも共有しつつ足跡をたどったことで私自身も成長できた気がします。ここまでのご読了に心から感謝いたします。本当にありがとうございました。再び構想のお時間をいただきますのでまたの機会があればどうぞよろしくお願いいたします。




