#Ex.08 コーリング・フォア
中空をただよう埃が陽にさらされてクロエの視界の隅で踊っていた。目の前で肘かけ椅子に座っているリシュカがカップを持ち上げて珈琲をひとくち飲んだ。薄暗い室内に二人きりだった。クロエは黙っていた。珈琲を半分飲み終えたリシュカがカップを傍のテーブルに置いた。
うん。――もう大丈夫。彼女は云った。開けてもらっていいよ。
わかりました。
クロエは立ち上がりカーテンを引いて午前の光を部屋に取り入れた。リシュカが瞳を細めた。目の下には青黒い隈が浮かんでいた。所在なげに膝のうえに置かれた両手。右の手の甲には赤くただれた跡がまだ残っていた。二週間前のことだ。紅い雨の降りしきるなか外に飛び出した自分を追いかけてきてくれた彼女が代償として負ってしまった傷。紅梅色の髪とは似ても似つかないあざの色合いは腐った林檎を思わせた。
クロエは数瞬ためらってからその手に自身の手を重ねた。
……それではリシュカさん。
クロエは云う。
かつてここで暮らしていた方々の真似事、――やってみましょう。
リシュカはうなずいた。
□
おお、――あったあった。さほど傷んでないな。重畳さね。
老いたスカベンジャーは二輪車の速度を緩めて二人に云った。彼が指さした先。枯れた針葉樹の木立の奥にたたずむ一棟の建物。かつては真っ白に塗られていたであろう外壁は時計の針に容赦なく突き刺されて煤けていた。
あれが……。
昔つかわれていたサナトリウムさ。私も世話になった。
ご病気を?
いや。破滅の時代に部隊がしばらく拠点にしていたんだ。人里離れていて目立たない。生き延びるには悪くない隠れ場所だった。
なるほど。
クロエと老スカベンジャーが話しているあいだ後部に席を増設したサイドカーの中でリシュカは子猫のように背を丸めていた。手が震えていた。口の中は唾液の一滴もないほど渇いていた。ただの水では満たせない渇きだった。脱出したと思っていた迷いの森に引き返して藪の中へと舞い戻ってしまった気分だった。
……リシュカさん。着きましたよ。歩けますか。
うん。いや、――うん。
どっちですか。
お前さんも人のこと云えんのじゃないか。老スカベンジャーがクロエに云う。あれだけ紅い雨に打たれて死なずに済んだのが奇蹟だというのに。
リシュカは顔を上げてシスター少女を見た。顔。首。両の手。聖衣から覗いた地肌にはくまなくただれた跡が走っていた。完全に消えるにはまだ何か月もかかるだろう。
平気です、と云いながらクロエはサイドカーから降りようとして足を引っかけてしまい頭から地面に落っこちた。リシュカが力を振り絞って彼女を助け起こしているあいだ隣で老スカベンジャーはため息をついていた。
…………お前さんが快復するまでここに留まるしかないようだね。
□
施設の周囲を歩き回って人の痕跡がないことを確かめたあとエントランスで荷物を置いて老人はひと息ついた。再生機は使わないのですかとクロエが訊ねると老人は埃だらけのソファにもたれかかったまま云った。――昔の生活の名残さ。今でこそ組合に金を払えばいつでも充填してもらえるが破滅の時代だとそうはいかなかった。小麦ひと粒分の物資も無駄にできなかった。お前さんたちは好い時代に生まれたよ。
――いい時代? リシュカは手を広げてがらんどうのロビーを眺め渡した。これが好い時代、と繰り返した。
老スカベンジャーは無視して云った。……お前さんたちはこういった療養所を訪れるのは初めてかね。
私は生まれた集落を出たことがなかったものですから。
クロエの言葉にリシュカもうなずく。サナトリウムなんて廃墟でも初めてだよ。
意外だね。老人は云う。お前さんほどの器量よしなら大事に育てられたんじゃないかと思ってたんだがね。あのモーレイの屋敷で働いていたんだろう?
あたしの親は毎日のようにあたしを産んだことを後悔してたよ。
出身は?
なんで答える必要がある。
ロイツェヴァ嬢。この姓はドリステンか。
だったら何さ。
合点がいっただけさね。私もあの地域は御免こうむりたい。たとえ高額の報酬を吊り下げられてもね。
リシュカは笑った。――それで正解だよ爺さん。
□
雨が降り出しそうで降らない曇り空だった。かつて患者たちがレクリエーションに使っていた部屋でリシュカとクロエは向かい合って座っていた。大きな窓がついていた。晴れた日には充分すぎるほどの日光を採り入れられるはずだった。リシュカはスタッフに配布されていた書類を暇つぶしに読んでみた。そこには持ち込み禁止の生活品が次のように列挙されていた。
――剃刀。ハンガー。ネクタイ。スカーフ。ベルト。靴紐。スウェットの腰紐。ロープその他の縄状のもの。六十センチより長いネックチェーンや鎖の類。長めの靴下。ガラス製品。電気コードつきの電化製品。ビニール袋……。
ある患者が発作を起こしたときの様子が日誌にメモされている。
――十三時三〇分。食後。Aが椅子ごと床にひっくり返る。仰向けになって目を閉じ足でバタバタとリノリウムを叩く。Bが駆け寄って口に手を入れ舌を引っ張りだす。救急車を呼ぶ。Aは病院に運ばれる。明日に予定されていた一時帰宅が取りやめになる。楽しみにしていた反動のショックは大きいと予想される。今後のケアについてグループで討議する。――
リシュカは日誌を閉じた。眉間に寄ったしわを親指の腹でほぐした。どうされたのですかとクロエ。リシュカは日誌を渡してつぶやく。うちの親にそっくりのことが書かれてる。シスター少女はさっと目を通してから答える。ご入院されていたのですか。そうじゃない。リシュカは首を振る。――発作を起こした人のことが書かれてるでしょ? それと同じ。突然言葉が出なくなる。語彙という語彙がさっと拭い去られちゃったみたいに。次の瞬間にはぶっ倒れて痙攣して口から泡を噴いてた。まるで地面がぱっと消えたみたいに足をバタつかせて。あたしはそれが動かなくなるまでずっとそばで見てたんだ。九歳か。十歳。それくらい。
リシュカは薬指の爪を噛んだ。悪い癖がまた顔を出していた。
……あたしは小さくて何も知らなかった。人間が自分の舌で窒息するなんて起こり得るんだってことさえ。
クロエは椅子に座りなおして前かがみになった。
――お話しくださりありがとうございます。
満足した?
え?
カウンセリング。ここにかつて暮らしていた人たちの真似事。
私のために?
そう。――あんたいちど心に決めたらしつこいから。
リシュカは指で後ろ髪をかいた。クロエが視界の端で微笑んでいた。それから彼女は訊ねてきた。ご家族の発作の原因は何だったのでしょう。
アルコール。
ああ……。
あたしが稼いできた金で二人して飲んでたんだ。毎日。風呂桶一杯ぶん。稼ぎが足りないと罵声が飛んできた。でも顔面を殴られたことはないよ。あたしがやってた仕事は腫れ上がった顔じゃできないからね。それくらいの理性はあの人たちにも残ってたってわけだ。
最初はビールだった。ラジオを聴きながら二人は毎晩飲んでいた。この世界にもまだ節度という言葉が残されているとするならばその飲みっぷりは常識の範囲内だった。しかしいつからかジンのカクテルに手を伸ばすようになった。香料に何が使用されているかも分からない蒸留酒をスキットルに忍ばせた。手には常にグラスがあった。そのうちに食事の支度までリシュカに押しつけるようになったが夕食をすっぽかすこともしょっちゅうだった。酒場のつまみで腹を一杯にしていた。そのことで文句を云うと皿が払いのけられ載せられていた手料理が床に散らばった。グラスを片手に両親は毎日のように喧嘩をしていた。互いの容姿や性格を罵りあいながら代えの酒を要求してきた。時には殴り合いに発展して治療費がかさんだ。
――その果てにあの男がぶっ倒れてまず逝った。リシュカは自分の父親を指してそう云った。あの女はそれでぴたりと酒をやめたけど手遅れだった。後を追うように地面の下に埋まった。こんなときだけ夫婦らしいんだな。死ぬ前に云われたよ。お前が次々と酒を飲ませるせいで私もあの人も駄目になったんだと。後にも先にもあんなに頭の芯が冷え切ったことはなかったよ。
リシュカは話し続けた。唇を引き結んで座っているクロエに向けて。
……――これで少しは分かったろ。あたしは羨ましかったんだ。あの金髪のスカベンジャー、――アリサの奴。あいつが幸せそうに自分の父親のことを話してくれたとき心の底から願ってた。モーレイ様に拾われなくたっていい。もっと貧乏でもいい。あたしもそんな親の子に生まれたかったって。馬鹿みたいでしょ。馬鹿だって云ってよ。
クロエは顔をうつむけて黙っていた。やがて椅子から立ち上がるとリシュカの前で膝を折り身をかがめた。ただれた跡の残るリシュカの右手を両手で持ち上げて自らの額に押し当てた。何のつもりと問いかけても返事がない。
リシュカが天井を見上げて汚れや染みを数えているとシスター少女は呟いた。
…………馬鹿になんてしません。
そう。
そんなこと云いません。云えません。
うん。
こんなに頑張っていらっしゃるのに。
リシュカは窓の外を眺める。右手の甲にクロエの体温が伝わる。うつむいている彼女の髪の束が音もなく肩から宙へと舞い落ちる。幾筋もの白金色の川が薄暗い部屋の中でも輝いて見える。川底に敷き詰められた宝石の光。
リシュカは胸の底から息を吐きだした。
左手をクロエの肩に無言で置いた。
□
予想はしていた。ひどい悪夢だった。目を開けるとクロエに身体を揺すられていた。息が落ち着いてから差し出された水を口に含んで激しくむせた。肩の先から鎖骨にかけての神経にむずがゆい感覚が走っていた。千の蟲が這っているかのように。手の震えで水の入ったコップを取り落としそうになる。
リシュカさん……。
飲んでない。リシュカは自らの身体をかき抱いて云った。あれから一滴も飲んでない。本当に。ああもう。
知っています。見ていましたから。
なのになんで……。
焦っちゃだめですよ。
分かってるよ。でもだめ。クロエお願い。消毒用のやつがあるだろ、――グラス一杯でいいから。
いけません。腕をつかむ彼女の手に力がこもった。あなたは好く頑張っています。せっかくここまで還って来られたんですから――。
頭が爆発しそうなんだよ。
リシュカは手を振りほどこうとしたが逆に抱擁されて動けなくなった。シスター少女の白金色の髪が頬をなでた。部屋は暗かった。まだ夜明け前だった。静謐に沈んだ部屋の中で二人の吐息がたゆたう。クロエに背中をさすられているうちに震えは凪いだ。
……何の夢を?
クロエがささやいた。彼女の腕の中でリシュカは首を振った。
今は云えないのですね?
…………。
急がなくてもけっこうですよ。
――あの時の夢。
え?
お父さんが死んでいくのを傍で見てたときの。
ああ……。
茫然としてたんじゃない。頭はすっきりしてた。思ってた。これで楽になれるって。
後付けの理由なのではないですか。
あとづけ?
リシュカさんがご自分のせいだって思いこもうとして――。
ちがう。リシュカは首を振る。あたしは、――ほっとしてたんだ。これでお酒なんかじゃなくてもっと大切なことにお金が使えるって。なのに今じゃ自分が欲しくて欲しくてたまらない。もうやだ。こんなの。
…………リシュカさん。
なにさ、と応える間もなかった。クロエの細い指がリシュカの紅梅色の髪にもぐりこみ顔を引き寄せられていた。唇にじんわりとした温もりが伝わる。血管を通じて全身を駆け巡る。夜明け前のもっとも暗い時刻。もっとも寒い時間。もっとも静かなひと時。そこで渡されたのは小さな灯だった。両手で包んで胸の奥にしまっておかなければならないかけがいのない命の燈。息が絶えるその瞬間まで手放してはならない生命の熾火。
唇が離れていった。クロエが頬を寄せてきた。リシュカは少女の背中に腕を回してそれに応えた。窓の外を見た。空が明るみ始めていた。
□
サナトリウムの旧い厨房には食器が残っていた。皿からスプーン、フォークに至るまでがプラスチック製で軽くて扱いやすかった。ありがたくもらっていこうと老スカベンジャーが提案した。クロエがうなずいてどうして金属製のものがないのでしょうと訊ねた。老人が答える前にリシュカは云った。患者が別の目的に使うかもしれないからだろ。クロエは再び小さくうなずいた。
埃を払ったテーブルにクロエはリシュカと向かい合って座った。老人は別の卓に。彼は皿に食品を盛らずに缶詰から直に食べていた。コンビーフをパンに挟んでサンドウィッチにしクリーム・チキンの缶詰を椀に注いだ。湯気が立ち上っていた。スプーンですくうと粘り気のあるスープの雫が滴った。口の中に熱を感じる。それもまた命のもたらす灯だった。
食事を終えた後でリシュカが老人に訊ねた。あんたの部隊がここを拠点にしてたって云ったけど。
ああ。
前にいた人たちはどうなったわけ?
職員が一人残ってたな。
それ以外は誰も?
ああ。
何があったのさ。
老スカベンジャーは色が付いただけの味のない茶を飲んだ。天井を見上げながら話した。――残ったそいつの証言だから確かなことは分からんが。私らが到着する前に兵士の一団がやってきたそうだ。完全武装で。ライフルに弾は装填済みだった。まだ魔鉱兵器の投入前で戦争もいよいよ煮えたぎった釜の底だった。国から派遣されたという医者も同行していたらしい。そいつが施設の職員に対して云うには君たちのような技術を持った貴重な労働力が国家の重荷となる存在のために捧げられているのは客観的に見て矛盾であり悲劇である。面倒なことはいらない。あとは我々に任せてほしい。君たちにふさわしい職場がある。そんなことを滔々と述べたあと患者をバスに乗せて林の奥へと連れていったんだと。半時間ほどして遠くから銃声がした。晴れた空にその音はよく響いたそうだ。それが再び半時間続いたあとで静かになった。――で、施設にいた医師やスタッフは全員が野戦病院や前線救護所へと異動になった。
…………何それ。
リシュカはそう云って周囲を眺めた。施設の壁面はあまりに長いあいだ静寂の内に置かれていたために沈黙の色が染みついていた。向かいでクロエがうめき声を上げた。老人は意に介するそぶりも見せずに続けた。
……私は今でも確信してるんだがあの職員は嘘を混ぜてたな。まるで軍が突然やってきて何も分からぬままに大切な患者を連れていかれたかのような口調だった。脅されて仕方なく引き渡したんだと。――だが違うねあれは。私もあの時代を生きていたから分かるんだがこの国の医者はただの奉仕者じゃあなかった。患者の健康だけじゃなく国家の健康を守ることも仕事のうちだと豪語していた。脅されたどころか事前の通知に基づいて粛々と引き渡したのかもしれん。お出かけをしますよと患者をなだめすかしてね。
クロエが手で口を抑えて首を振った。リシュカは空っぽになった食器に視線を落として云った。……食事中にこの話を始めなくてほんとうに好かったよ。
□
午後になりクロエは再びリシュカをカウンセリングに誘ったが首を振られた。暗い部屋で暗い話をするのはもう充分。別のにしよう。お行儀よく椅子に座ってるだけがプログラムってわけでもないでしょ。クロエはうなずいた。では何をしましょう。それを探すんだよ。
二人は備品室に向かった。ロッカーを開けて中身を確認してからリシュカはこちらを振り向いた。微笑んでいた。
――キャッチボールとかどう?
球技もそれに類する遊びの経験も一切ないクロエの投げたボールは山を駆け下る雪崩のごとく制御不能で相方の少女をあちこちに振り回すことになってしまった。息を切らしながら施設の庭を走るリシュカはそれでも笑顔だった。十中八九の正確さで投げ返してくる彼女のするどいボールを受け止めるのは至難の業だった。もっと優しく投げてくださいと泣き言を漏らすとリシュカは矢車草のブルーの瞳を揺らしてまた笑った。昨夜のしおれた姿が嘘のようだった。
クロエは言葉をボールに乗せて中空に放った。
お上手ですねリシュカさん。
まぁね。
どこで習ったんです?
子どものとき。仕事のあとで友だちと。家に帰りたくなかったから。
何年も空白があるのにすごいコントロール!
運動だけは自信あるから。
運動だけ? ご謙遜を!
何がさ。
誰もがうらやむ綺麗なお顔。宝石のような髪。それに――
――前に云ったろ。あたしの顔のことはもう触れないでって。
ごめんなさい。つい。
まあでも……。
え?
悪い気はしないよ。あんたなら。
――これからもたくさん届けます!
調子乗ンなッ。
□
夕暮れが迫っていた。枯れてしまった木々に柑橘の色をした陽が当たって地面に新たな枝や幹を縫いつけていた。施設の周りを散歩していたクロエが老スカベンジャーを見つけたとき彼は積まれた二塔の石の前に佇んでいた。乾いた腐葉土が彼の体重をじっと受け止めていた。
誰のお墓ですか、とクロエは声をかけた。
老兵はこちらを一瞥してから墓標に視線を戻した。
古い戦友さ。負傷で一人。病気で一人。薬も抗生物質もなかったからね。
お気の毒に……。
墓を建ててもらえるだけ幸運だったのかもしれん。まだ私らがスカベンジャーになる前の話だったからね。
せめてお祈りを。
いらんよ。それは望まんよこいつらは。
老兵はその場に立っているだけだった。声かけもなければ供え物もない。墓標に視線を注いでいるだけだった。微動だにしなかった。彼の時間が静止しているわけではないことは煙草の吸いすぎでしわがれた呼吸音と毛虫のように歩みを進める影の動きで分かった。
クロエは墓に一礼した。歩き去ろうとしたところで背中に声をかけられた。
分かっているとは思うが――。彼は云う。私が旅の途中で死んだら祈りも埋葬もいらんからな。
弁えています。クロエは応える。でもあなたは誰よりも長生きしそうな気がしてなりません。
私も最近はそう思いはじめていたところだ。
老人は笑った。
□
眠りの訪れない夜だった。風もなかった。おそろしいほど静かだった。窓から採られた月明かりで青白く照らされた天井を見ていた。寝返りをうつと目蓋を閉じて寝息を立てているクロエの顔が目の前にあった。リシュカはそっと身体を寄せて彼女の額に唇で触れるとベッドを抜け出した。
廊下を歩いた。音は立てずに。手に取れるような質量を持った静寂を破ってしまうとしかるべき報復がありそうな気がした。行き先も決めずに施設のなかをただ歩いた。
かつてここで暮らしていた人びとがいた。ある晴れた日に連れていかれ世界からも人生からも振り落とされてしまった人びとの影が目の端にちらついているように思えた。再生機の映像を視るのに慣れてしまうと柱についた染みのひとつにさえ何かしらの物語を見いだしてしまいそうになる。あたしでさえそうなのだ。彼女は、――アリサはどうなのだろう?
エントランスに差しかかったところでリシュカは立ち止まった。物音がした。老スカベンジャーだった。施設の入り口から染み出した月明かりの中で彼は立っていた。来客用の公衆電話の前で。彼は電話機に並んだボタンの数々をじっと見ていた。リシュカは動けなかった。引き返すこともできずに老兵の姿を見つめていた。
やがて老人はおもむろに受話器を手に取り耳に当てた。もう一方の指で番号を押していった。ゆっくりと。でもよどみなく。ボタンを押し終えると彼はひとつ深呼吸を入れた。そしてリシュカにもはっきりと聴こえる声で云った。――やぁ。僕だよ。
その声はリノリウムの床に奇妙に反響した。金槌で電車のレールを叩いたかのように響き渡った。施設の反対側にまで届いたのではないか。クロエが今の声で起きたのではないか。そう思ってしまうほどだった。リシュカは唇をわずかに開けて老人の姿を見ていた。彼はそれだけを云って受話器を戻していた。
微動だにしなかった。
◆
部屋に引き返してベッドにもぐり込んだ。感じていた寒気のようなものが唐突に消えた。始めから存在などしていなかったかのように。隣で身じろぎする気配があり続いてリシュカさんというささやき声がした。クロエが目を開けていた。月明かりの中で彼女の海色の瞳は深海の底に灯された青い電球のようだった。
起こしちゃった。ごめん。
いえ。どちらに?
散歩。寝つけなくて。
分かります。静かすぎですね。
うん。
でも好かった。
え?
昨日はとても苦しんでいらっしゃいましたから。
どうかしてた。もう起こらないといいけど。
まだご不安ですか。
そりゃ……。
ここにいますよ。
うん。
ここにいますから。
わかってるよ。
わかってる、とリシュカも繰り返した。目を閉じるとクロエの手が背中に回されるのを感じた。頭を彼女の胸へと引き寄せられた。髪を手のひらでそっとなでられた。瞳を閉じてもなお目蓋の裏に月明かりの蒼を感じた。
朝までまだ時間はあった。
そこは海の底でいられた。
海月のように睡魔に任せて漂っていられた。
リシュカ・ロイツェヴァは目を閉じている。
今も。
この時も。
彼女の灯は消えていない。
ここまでお読みくださり本当にありがとうございました。
お久しぶりになってしまい恐縮です。リシュカさん、クロエさん、老スカベンジャーの三人は他のグループとはまた異なる関係性や緊張感があるので、書いている身としても新鮮な楽しさや意外な発見があります。不定期の投稿で申し訳ありませんが、今後ともよろしくお願いいたします。




