[6]一筋の光明
「……」
静寂が白濁とした闇夜に響く。
相変わらず怨人の発する雄叫びや地響きは耳につくが、妙に静かに感じられた。
――どのくらい経った?
至誠は月の高度を見て、そろそろ3、4時間ほどが経過しただろうかと考える。
今が至誠の知る2月と大差ないならば、まだ日の出まで時間があるだろう。
――日の出までには何とかしてたどり着かないと。
至誠がそう懸念するのは、日が昇れば天の北極を目視することが難しくなるからだ。
だが至誠はその不安を顔に出さないように気をつける。
自分の提案が合っているという前提で、皆は踏ん張っている。
その前提が違ったとなれば、自分が殺してしまうに等しい。
言いだした以上、そうなる可能性も覚悟はしてはいるが、こればかりはいくら経験しても慣れることはない。
――ん? あれ……前にも同じようなことがあったっけ?
ふとした疑問だったが、至誠は首を振る。今は余計なことを考えるべき時ではない。
周囲に変化がないかと視線を背後にも向けた瞬間、ヴァルルーツの顔に視線が吸いよせられる。
「ヴァルルーツさん、右目の色が――」
至誠の言葉に、ヴァルルーツは動揺した素振り一つ見せず、むしろ柔らかい表情を浮かべ教えてくれる。
「まだ大丈夫です。少し霞みますが、このペースなら帰ってから治療しても間に合うとミグ殿に聞いています」
至誠はヴァルルーツのことをよく知らない。
それでもこれまでの言動から、彼も誰かのために自分が犠牲になることを厭わない性格だと感じていた。少なくとも、非常時に自分よりも他人を優先できるタイプだと理解していた。
「無理をするなとは言えない状況ですが、ここまできたら全員生きて帰りましょう」
だからこそ全員で生きて帰ることを強調し、精神的に励ますと共に、自己犠牲を伴う選択肢に釘を刺しておく。
*
この3時間の飛行の中で際どい場面はあった。
休憩する暇もなく飛び続けなくてはならないのは精神的な負担が大きく、集中力にも影響が及び始めている。
特に舵取りをし、全員の飛行を管理し、周囲も警戒しなくてはならないリッチェの負担はあまりにも膨大だ。
誰かと会話でもして気を紛らわせたいが、リッチェに声をかけて集中力を切らすわけにもいかない。
――テサロさんはよくあんな会話の片手間で怨人を避けられていたな……。
と思うが、年の功なのだろうと今は納得することにした。
「少し、怨人の数が減ってきている気がします」
それでも、少しでも気を紛らわせたいのか、リッチェは時々口を開く。
「確かに。それに、最初のころいたような巨大な個体をあまり見かけなくなりましたね」
至誠が肯定すると、リッチェは安堵した表情を少しばかり浮かべる。
至誠は改めて周囲を見渡してみるが、大型の個体は数えるほどしか残っていない。
不浄之地では奥地の方が巨大な怨人が多いらしく、大型怨人が減るということは神託之地に近づいてきている可能性が高い。それは今の自分たちにとって一筋の光明に感じられた。
その一方で問題もある。
「だからこそ気をつけましょう。小さい方が回避が遅れることがありますし」
「はい!」
周囲にいる怨人の体が小さくなった分、正面衝突のリスクは増えている。
小さいと言っても数メートルの巨体だ。一瞬でも気を抜いた瞬間に全滅という未来も十分にあり得る。
さらに中途半端に小さいと、目視による発見の難易度が上がる。これにより精神的な負担はむしろ増大している。
至誠もその視力を生かしてできるだけ事前に見つけるようにしているが、月光の中では限度がある。月が雲に隠れた時など特に困難極まる。
もう一つ、精神的につらいことがある。
怨人はこちらを一度捕捉すると、なかなか追うのを諦めない点だ。鈍足の怨人はすぐに引き離せるが、同程度の速度が出せる個体は延々と追いかけてきている。後方にいる大型怨人の大半がその追尾組だ。
空中にいる個体はまだ比較しやすいが、地上を猛追してくる個体は土煙と闇夜でどれほどいるのか、その全容が分からない。
だが、自分たち以上の速度が出せる個体にいまだ出会っていないのは不幸中の幸いだろう。
「ミグさん、今話しかけても大丈夫ですか?」
『うん、いいよ』
その声は疲労を含んでいた。どうやっているのか至誠には分からないが、3時間以上も連続して治療を続けていれば疲れもするだろう。
おそらく治療以外にも、至誠が気が付いていないだけで周囲にアンテナを張り巡らせているはずだ。
それでも、確認しておかなければならないと思い、言葉を続ける。
「僕らがこのまま不浄の地から逃げ帰った場合、後ろの怨人はどうなりますか? そのまま追いかけてきたりしませんか?」
『どうなるかは……断言はできない。けど、怨人は神託の地を嫌がっているようだから、大半は追ってくるのを諦めるはずだよ』
「諦めない場合もあるんですか?」
『そういうときもあるね。けど、その場合はウチが有象無象を処理するよ。その分の余力は残しておくから、最後にパパッと遠距離攻撃で処理できると思う』
「今、それは出来ないんですか?」
『怨人を殺すとより多くの怨人を引き寄せるからね。今は得策じゃないし、神託の地が見えるまでは可能な限り余力を残しておきたい。今のところウチらに追いつける個体もいないみたいだし』
「なるほど。すみません、素人考えでした」
『いいや。むしろ――』
会話の途中でミグの言葉がフェードアウトしていった。
直後、至誠の身体がミグによって強制的に動かされ、上空を見上げた。
視線の先には満月がのぞいている。
至誠の視力は2.0あったが、それでもさらに眉間に皺を寄せ、少しでも遠くの何かを見定めようと目を細める。
『――マズイ!!! 高高度の怨人に気付かれた!! 降下してきてる!!!』
ミグの次に気付いたのはリッチェだった。
疲弊はしていたが、研ぎ澄まされた感覚がそれを捕捉する。
至誠が認識したのは直上に浮かぶ月の中に映る極小の影だった。
だがその影はまたたく間に肥大化し、月を覆い隠していく。
リッチェは危険が増すのを承知で飛行速度を上げた。
そうしなくてはならないと直感がよぎるほど、その個体は超高速で降下してきていたからだ。
高速の怨人は、まるで湖面に映る魚を捕らえる鳥のように、その足裏に付いた巨大な口を開く。
リッチェは襲われる直前で急減速させると身を翻す。
直後、目の前を怨人が飛び抜けた。
急降下し勢い余った怨人は地上へ衝突――するかに思われたが、地上間際で機首を上げると再び高度を取り始める。
と、同時に、凄まじい衝撃波と空気を切り裂く轟音が一行を襲う。
――これは、まさか……。
至誠が懸念を抱く間にも状況は推移する。
リッチェの展開していた魔法によって衝撃による被害はなかった。
生身で飛行していても風をほとんど感じないのはその魔法の効果で、幸い衝撃波も防ぐことができた。
だがその衝撃波を受けた影響で、全体の高度が下がり十メートルは降下せられると、その瞬間に地上から数体の怨人が跳躍して襲いかかってきた。リッチェは杖先から魔法防壁を発動させると、怨人との間へ滑り込ませる。
その防壁はわずかな時間で破られたが、その間に飛行を立て直す。
高高度から飛来した怨人は、女性が仰向けに横たわったような体躯をしている。10メートルほど胴体には人と同じ形状の胸部と腹部がある。だが股間はなく、飛行する前方へ大きな一本の足を嘴のように突き出している。肩から腕が生えているが、腕は二の腕だけのようで肘から先がない。首から上もなく、代わりに乳房があるべき部位に頭部が生えている。それは人と同じ配置の顔だ。目が二つ、鼻が一つ、口が一つ。毛はない。その部位だけを見れば、中年男性の様相だ。それ片乳房ごとに違った容姿をしている。双頭は常にこちらへ視線を向け、視線を逸らすどころかまばたき一つしない。
至誠にはあの個体が脇をすり抜けていったとき、音がわずかに遅れてやってきたように感じた。もしその感覚が正しければ、あの個体は音速を超えていたことになる。
そんな個体がうじゃうじゃいるのであれば、ミグが高度を取ることに反対したのも頷ける。
超音速の怨人は、その速度のため大きく旋回していた。
しかしリッチェが体勢を立て直す間に背後につけると、衝撃波を可視化させながら急加速し、再度突進してくる。その際に一瞬見えた白い衝撃波は、低空で音速を超える際に生じる円形の雲――ソニックブームだと至誠の直感が告げていた。
リッチェはその機動力を生かし、直進してくる怨人を回避した。
直後、先ほどと同じように強い衝撃波が襲い、一瞬の間を置いた後、何かが炸裂した音が耳に付く。
至誠はそれが|音速を超える際に発生する音だと確信した。それも高高度からの急降下による加速ではない。あの個体は、自力で音速を超える力を持っている。
――マズイ! これじゃヘリコプターとジェット機だ!
加えて、周囲の別個体が待ってくれるはずもない。小型の怨人は衝撃波で吹き飛ばされることがあっても、こちらがそれをあらかじめ勘定に入れることなどできるはずがない。
リッチェは細かく方向転換を繰り返しながら不規則な回避運動をとり続ける。
その間、ヴァルルーツはあの怨人に対して何も出来ない未熟な自分が悔しかった。
しかし今はテサロという英傑をその腕で支えるという大事な役目がある。自分がしっかりと抱えているからこそ、リッチェは飛行に集中できるのだと理解している。
そしてヴァルルーツは勝手に行動して場を乱すような子供ではない。
不甲斐ない自分をかみ砕き、飲み込んで、今の自分にできるに注力する。
リッチェがあの高速の飛行怨人に意識を奪われているということは、周囲への注意力が落ちているかもしれない。
ならば自分がその索敵を補うのだと、ヴァルルーツは注意深く周辺を見渡す。
「……あれは――」
その中で、地平線近くにある雲がかすかに色づいていることに気が付いた。それは、よくよく見てみなければ分からないほどの変化だ。
月光に照らされているのとは少し違う。朝日が昇ってきているのとも違う。上からではなく、むしろ地上から――もしや街の明かりでは!?
ヴァルルーツの直感がそう囁いた。
「至誠殿!!!」
ヴァルルーツの尋常ならざる声に、至誠は即座に顔を向ける。
「あそこに見えるのは街の光では!!?」
両腕でテサロを抱えるヴァルルーツは指先で方角を示せず、マズルの先を向ける。
至誠がその意味するところを察して視線を向けると、確かに月光とは違う光が見えた。




