[5]干天の慈雨
『――分かった』
テサロの覚悟に、ミグが応える。
『リッチェ、術式の引き継ぎを』
その決断に、テサロは柔らかな微笑みを返す。
「あなたには、いつも苦労をかけますね」
涙を流すことでかすかに思考が戻りつつあったリッチェは、いたたまれない声を上げる。
「でっ、でも! 師匠が……お母さんが……」
『リッチェ、今優先すべきは至誠の身の安全を確保することだよ。それ以上に重要なことは、ない』
「そうですリッチェ。はじめましょう。もう、長くは持ちません」
このまま見過ごす訳にはいかない――そうヴァルルーツは割って入ろうとしたが、それを事前に静止したのは至誠だった。
その行為に、ヴァルルーツは怒りを覚えた。
――確かにこの至誠という人物は重要な人物なのだろう。それは王子たる自分など比にならない程なのだろう。だがテサロの行動を容認すると言う事は、すなわち見捨てるのと同義だ。そうなれば確かに彼の生存率は上がるのだろう。その我が身可愛さで、これほど秀でた叡智と人格を持つ淑女を見せ捨てるというのか!
そう憤慨を感じずにはいられなかった。だがしかし、だからといってこの状況をひっくり返すだけの言動が思いつかない。
――感情論に任せて場を掻き回すことは簡単だ。
それでは意味がなく、下手をすれば全員の命に関わると理解していた。だからこそ、ヴァルルーツは自らの無力さに怒りを感じずにはいられなかった。
それでもなんとか感情を押し殺し、まだ間に合う方法が何かないかと考える。
ヴァルルーツの葛藤の最中、テサロは周囲の怨人が少なくなったタイミングを見計らい、飛行に関わる術式をリッチェへ継承させる。
リッチェは涙を押さえ込もうと奮闘していた。
それでもリッチェは、いまだその事実を受け入れがたく、感情で疲弊した頭が思考を鈍らせ始める。
時間にして数分。
その間に怨人の襲来はあったが、テサロは器用にそれを回避しつつ、術式の継承を続行する。
「リッチェ、あとは――」
術式の受け渡しが終わり、あとは可能な限りの注意事項と、最期に遺言を伝えるだけ――そう、テサロが言葉を紡ぐ。紡ごうとした。
と、同時の出来事だった。
至誠の体が飛行術式の影響下から強制離脱すると、テサロとの距離を一気に縮め、その老いた体を抱きかかえた。
「何を……ミグ!」
テサロが至誠の身体を操作しているであろうミグに声を荒らげる。
「何をしているか分かっているのですか!?」
テサロの怒りの声に答えたのはミグではなく、至誠だった。
「これで墜ちるときは一蓮托生ですね」
至誠はにっこりを微笑む。
「ミグ……?」
その行動が、至誠の体内にもぐりその体を動かしているミグによるものと思っていたテサロは、雰囲気の違いに動揺を露わにする。
「これはミグさんの意志ではありません。こうやって力を貸してくれたのは事実ですが」
「なぜ……このような真似を――」
その行動は、彼の命を無為に危険にさらすだけの行為だ。
「皆さんにとって僕の価値が高いようで嬉しいですが、僕はここで誰かを犠牲にして自分だけが生き残るような生き様に、価値は見いだせません」
つい先ほどまでで彼は死に怯え、生き残りたいからこそ知恵を働かせていた。そんな彼が自ら命の危険性をはらむ行動に出るとはテサロには考え至らなかった。
ミグの入れ知恵か――そう脳裏によぎったが、彼の表情を見てそれが違うと悟る。
「テサロさんは言いました。『全員死ぬか、一人を犠牲に他が生き残るか』と。でもそれは違うと、僕は思います」
この狂気の場において、至誠はにこやかに表情を投げかける。
「ここは、『全員死ぬか、全員生き延びるか』ですよ」
至誠は、自分にはテサロを説得できないと理解していた。
ミグの口調やリッチェの悲哀を見れば、それまで彼女たちが積み上げてきた関係性の一端を見てとれる。
それに比べて至誠は目が覚めてからの数時間の間柄でしかない。そんな信頼関係で命を大事にするよう説得したところで全く響かないのは明白だ。
故に至誠は、自分の切れる行動を考える。
テサロが自己犠牲を選択する大義名分は『加々良至誠』という未知の人物を連れて帰ることであり、それを縛るのは『至誠の保護を最優先せよ』というリネーシャの言葉だ。
すなわちテサロの自己犠牲の過程において、至誠が巻き添えになる状況を作り出せることができれば必然的にその行動は無に帰する。
そこで至誠は、組み付くことにした。
魔法で抵抗されれば至誠にはどうしようもないので、リッチェが魔法術式を継承する間にミグに小声で提案し、実行してもらった。
「ミグ――! あなたという人は――!」
至誠の考え方や行動がどうであれ、その実行には高度な鬼道が必要だ。
その実行犯たるミグに、テサロは不服を口にする。
『悪いね。でも至誠の安全を最優先ってのは嘘じゃない。この先必ずテサロの力が必要になるからこそだよ』
テサロの脳裏にミグの声が響く。
流血鬼は他人の体に忍び込み、肉体の制御を奪うことができる。人体構造を熟知しているテサロであれば、流血鬼の侵入に対しある程度は自衛ができる。
だがそれはコンディションが万全の場合だ。
鬼道によって肉体が強化された至誠と、体内で体の自由を奪うミグの両方に対応し抵抗するだけの力は、すでにテサロには残されていなかった。
ヴァルルーツは浅慮を恥じた。
この至誠という男が、自分の命のみを優先するような浅はかな男だと早とちりした事についてだ。
――自分は何もできなかった。口では自分が犠牲になるべきだと主張しておきながら、何一つできていない。
だが彼は違った。
口ではなく行動を以て状況を一変させた。窮地を脱する道標を示した上に、さらにテサロの自己犠牲をも食い止める最善の一手となった。
――自分は、なんと拙劣なんだ。
ヴァルルーツは自責の念に駆られる。己の無力さから目をそらすように前方へと視線を向けた。
その拍子に前方より跳躍してくる怨人を捉えた。だがリッチェは至誠の方を向いてその脅威に気付いていない。
「前ッ! 前方から怨人が!!!」
若い女性の胴体が仰向けになっている。顔から腰まである巨大な体躯は四肢が無く、代わりに背中から人と同等の足が四本生えている。顔は体に対して正常に付いているが、体が仰向けなので大きく見上げるようにこちらを向け、そこに目や鼻はなく、口が顔一面に裂けるように入っている。
そんな怨人が、まるで四足歩行動物のように跳躍していた。
ヴァルルーツの叫びによってリッチェは我に返ると、怨人の口がすぐ目の前まで差し迫っていた。
反射的に飛行魔法を操作し、間一髪でそれを回避する。
『リッチェ!! 飛行に集中して!!』
ミグは檄を飛ばしつつ宣言する。
『大丈夫!! テサロは必ず助けるから!!!』
リッチェは目の前で起こった事をうまく理解できなかった。感情で思考力が圧迫されていたからだ。しかし聞こえてきたミグの言葉は、脳裏の感情を一新する。
――助ける? 助かる?
至誠の行動とミグの言葉の意味を察したリッチェは、目頭が熱くなるのを感じた。
「絶対……。絶対ですよ――!?」
『ああ、絶対に!』
リッチェは違った感情がわき上がってくるのを感じた。まさに干天の慈雨だ。この安堵、この高揚、この感謝を他にどのように表していいか分からない。
だがやるべきことは分かっていた。
絶望が反転した。
ならば随喜の涙で視野を歪ませている時ではないのだと、リッチェはしっかりと前を見据えた。
「私もテサロ殿の近くにッ!!」
声を上げたのはヴァルルーツだ。
自分だけ何もしない訳にはいかなかった。
自分がどれほど無知であり無能であろうと、今できる事があるなら何だってやるべきだ。
そんな彼の言葉で、ミグは方針を修正する。
『リッチェ、編隊を変更するよ! うちはこれからテサロの治療に専念する。ヴァルルーツはテサロの体を! テサロにかけられた浮遊術式を解除してリッチェの負担を軽減するけど大丈夫!?』
「大丈夫です!」
それはヴァルルーツに負担が回ってくるということだ。
しかし、先ほどの浅慮を返上する機会を与えられたことにむしろ奮起し、即答した。
『至誠はリッチェの横へ! 星々を理解できるのは至誠だけだから、進行方向の指示を!!』
「離れても大丈夫ですか?」
『大丈夫。もうテサロの体はウチの支配下にあるから』
「分かりました」
ミグの返答を聞いてゆっくり手を離すと、リッチェの魔法によって再び体が捕捉された。
周囲の怨人を警戒しつつ、リッチェは編隊を整え、杖を握りしめる。
しかしそれは、すでに怯える自分を支えるためではない。そして至誠を自分の方へ引き寄せると、彼の手を握った。
直後、一体の怨人が上空から飛来していることにリッチェは気付いた。
精神的な緩急が激しかったこと、術式を受け取った直後であること、編隊の調整に意識が取られていたことが重なり、完全にその個体を見落としていた。
直径30メートル程度の肉塊だと思われたそれは、重力によって加速し一行の頭上まで急接近すると、折りたたんでいた手の平を広げると100メートルにも及ぶ長さになる。
雪花のように六つの手の平が広げられ、その手の平と甲には巨大な眼球が露出しており、手首の結合部分には巨大な口が付属している。そして、なおも一行を逃がすまいと降下している。
――マズイ! 回避が間に合わない!
飛来する肉塊の大きさなら、気付いた段階では避けられる算段だった。
それがこれほど大きく変形するとは想定していなかった。
リッチェの脳裏に最悪の光景が過ぎる中、背後で魔法術式はまたたく間に構築されると即座に収束し、放たれていた。
その攻撃はその怨人の一翼を吹き飛ばし襲撃網に穴を開ける。
リッチェが振り返ると、虚ろな瞳で魔法を放ったテサロの姿があった。
「しっか……と、前を……見――」
テサロは叱責の言葉もままならず、ゆっくりと瞳は閉じられる。ヴァルルーツに抱えられた体は力なく横になり、先ほどまで魔法を行使していた腕は垂れ下がっていた。
『大丈夫、気を失っただけだよ』
嫌な想像が脳裏をよぎった。
しかし先んじて教えてくれるミグによって、リッチェの動揺は安堵に変わる。
『でも今みたいな援護はこれ以上できない。注意して』
事実、あの魔法がなければ危なかった。そしてそれが自分の未熟さ故だと痛感する。そして、次がないことも。リッチェは肝に銘じ、いっそう気を引き締める。
「少し西にずれています。修正しましょう」
今すぐ脅威となる怨人が周囲には見当たらないことを確認し、至誠は声をかける。
方向がずれたのは今の襲撃の結果だが、その事にリッチェは気付いていなかった。
そもそも現在の方角が分からない。
「あのひときわ明るい星がベガで、その隣の赤い星がエルタニンです。その間に向かって下さい」
至誠は天の北極を指さすことで大まかな方角は分かる。
だがこれまで対して星に興味を抱いてこなかったリッチェは、どれがどの星か分からない。
狼狽えた言葉をもらしていると、至誠はリッチェへ体を近づける。
「あれです。あのよく光ってるやつ」
視線に合わせて指し示してもらうことで、ようやく天の北極の位置を理解した。
「また分からなくなったら言って下さい」
至誠はリッチェの体からは離れつつ、それと――と、問いかける。
「先ほど速度は毎時255㎞と言ってましたが、今はどうなっていますか?」
「今も同じを維持しています」
「なら、4時間で目的地に着くはずです。回避行動のことも考えると5時間ほどかかると思いますが、持ちますか?」
「マナは持ちます。あとは集中力を切らさなければ――」
「速度はこのまま維持で問題ないですか?」
「できればもう少し落としたいですが……」
リッチェは不安そうに後ろを一瞥する。
至誠が背後に目をやると相変わらず怨人が地響きを立てながら追いかけてきている。
速度の出ない怨人は次第に距離が離れていくが、百足のような大型怨人は未だに距離が空いていない。速度を落とせばすぐに食らい付かれるだろう。
「高度を取るのはどうでしょう?」
至誠の提案に、ミグが待ったをかける。
『これ以上は昇らない方がいい。上空の怨人の方が強力な個体が多いし、高高度には飛行速度が桁違いに速い奴が混じってる。一度でも見つかったら、今のウチらじゃ振り切れない』
「分かりました。ではこのまま行きましょう」
リッチェの集中力を少しでも削がないよう、至誠が代わりに返事をする。
「北東方面へ転進するのはある程度北へ進んでからにしましょう。リッチェさんは、今は北へ向かうことと回避にだけ集中して下さい」
「はい!」
リッチェは力強く返事をする。
そこには確かに、希望と生気がこもっていた。




