[1]怨人
闇を浮き彫りにする満月の月光は、漂う靄によって減衰し、地表に届くころには心許ない光量となっていた。
近くに誰かがいると辛うじて分かる――その程度の視界の中で、周囲はひたすらに静寂が包み込んでいる。
がさごそと服のすれる音、立ち上がる際に地面を踏みしめるわずかな音だけが、至誠の耳についた。
至誠には何がどうなったのか分からなかった。目を覚ますと見知らぬ世界にいて、命の危険にさらされたかと思えば、また知らない場所に立っていている。
あまりにも立て続けに状況が移ろったことで頭が追いつかなかったが、アドレナリンの影響もあってか、冷静さを取り戻しつつあった。
「こ……ここは? いったい何が……?」
そんなリッチェの声が聞こえてくる。
至誠が振り返ると、充満する靄でかすかにシルエットが分かる程度だった。
至誠もゆっくりと立ち上がると、リッチェが至誠の存在に気が付いたらしく駆け寄ってくる。
途中、杖先が光を放つようになった。まるで杖からランタンを掲げたような魔法を使い、周囲を照らす。
表情が見て取れるほど近づいてくると、その表情は困惑一色だった。リッチェにも事態が飲み込めていないことを至誠は察する。
すぐ近くで金属の擦れる音がした。
振り返るとヴァルルーツの甲冑の音で、立ち上がろうとしているところだった。
『まずい。これは……』
ミグの焦燥のこもった小声が聞こえたのとほぼ同時、背後からかすかにテサロの動揺のこもった小声が聞こえてくる。
「なんという……なんということを――なんという失態を――」
『テサロ! 落ち着いて!』
懺悔にも似た呟きを漏らしていたテサロだったが、ミグの言葉で我に返る。
「師匠無事ですか!?」
その様子を見たリッチェがすぐにテサロの元に向かおうとするが、ミグがそれを制した。
『リッチェは至誠の近くから離れないで! ――テサロ、一刻の猶予もない。飛翔術式の準備を!』
ミグが声を荒らげると、テサロは足元に落ちていた杖を拾うと、周囲に術式を展開し始める。
「いったい、何が起こったのでしょうか……?」
ヴァルルーツも困惑した声を上げつつ、周囲に目を向けながら至誠の近くに寄ってくるが、テサロの発動する魔法の気配に視線を奪われる。
「すごい……これほど高度な術式を並列で構築できるとは――」
誰に対してでもなく小声で感嘆の息をこぼすが、今は賞賛すべき状況ではないようでミグが言葉を遮り問いかける。
『王子、これでウチの声が聞こえる?』
ミグは何かしたようで、至誠の脳裏にも声が届きつつ、その問いかけがヴァルルーツに向けられる。
「っ!? は、はい。確かに聞こえております」
ミグの声が全員に届くようにしたと教えてくれるが、どのような手段を使ったのかについては説明する時間がないようだ。
『時間がないから最低限の説明をするよ。ウチらは現在、不浄之地にいる』
「なっ!?」
「……えっ」
ヴァルルーツとリッチェから驚愕の声が上がる。
「な、なぜ世界の外側に我々が――」
理解できない。誰でもいいから説明してくれ――と言いたげな雰囲気がヴァルルーツの言葉には含まれていた。
至誠は改めて周囲を見渡す。
靄で遠景は見えない。
視界はせいぜい数メートルだ。
足下には土塊と雪が散乱していた。
しかしそれもこの周囲だけで、数歩も歩けば石灰のように白い砂利や岩石ばかりになる。
視界が悪いが、少なくとも見える範囲に人工物はおろか植物も見当たらない。
今なお、暗夜は一帯を包み込み、リッチェの周囲を照らす魔法とテサロの杖の周囲に浮かぶ魔法陣、そして靄で減衰する月光だけが周囲を照らしていた。
『こうなった原因は、おそらく彁依物か何かで転移させられたってことだと思う。でも今大事なのはそこじゃない』
ミグの説明の途中でテサロが「術式の展開を開始します」と報告を挟む。
と同時に、至誠のからだがふんわりと地面を離れる。
『まずはとにかくここから離れ――』
ミグの言葉の途中で、ズン! と地響きにも似た音が耳に届く。
静寂の中に響き渡った音の方に、至誠とリッチェ、ヴァルルーツの3人は視線を向ける。
だがミグとテサロは音源の発生原因が分かっている様子で、ミグは声を荒らげる。
『上から来るよ!!』
不意に暗夜が闇を増した。
ミグの言葉も相まって3人の視線が一斉に上に向く。
暗闇が増した理由は簡単だ。上空にまたたく月光が何かに隠れたためだ。
月が雲に隠れたのかもしれない――などと思う余裕もなく、全員の身体は爆ぜるように加速し、高度を取り始める。急加速に伴う重力は不思議と感じず、周囲の靄を吹き飛ばすほどの衝撃を残していた。
入れ替わるように、元いた場所に何かが降ってくる。
それは一瞬のことだったが、リッチェの掲げる杖から発せられる光によって目に焼き付いた。
――巨大な眼球がある。
だが眼球はソレの一部分でしかなかった。
饅頭のように丸い形状をしているは、巨大な目が不規則かつ無数にあり、全ての視線が至誠たちをとらえていた。
ズズズ……と身体を地面にこすりつけながら向き直したその肉塊の正面には、巨大な口が1つ。一回り小さな口が2つ付いていた。
直径が50メートルはありそうな肉塊は、身体を伸縮させると、再びこちらに向かって飛び上がってくる。
リッチェの甲高い悲鳴が不浄之地に響き渡る。
「バカな……」
ヴァルルーツは絶句していた。ヴァルシウル王国は不浄の地に面している。
そこの王子である以上、そのヴァルルーツはその化け物どものことは知っていた。
だがこれまで見たことのある個体はせいぜい10メートルの個体が最大で、これほど巨大な個体は見たことがない。
――これが……怨人?
至誠は不浄之地について記憶を手繰る。
不浄之地では動植物が育たない死の土地で、怨人と呼ばれるバケモノが無数に跋扈しているという。
怨人の姿はグロテスクだと聞き及んでいたが、実際に目にした怨人は想像の比ではなかった。
これがもし、ゲームに出てくる厳ついドラゴンのようなモンスターであれば、ただただ恐ろしい存在だと思えただろう。身の安全さえ確保できるならばむしろかっこいいとすら思える。
しかし怨人は恐ろしいだけではなくとにかく気持ちが悪い。脂肪の塊のような躯に、人の目や口が無作為にすげつけられているようで、よく見れば鼻らしき部位や手足のような部位も生えている。表面は皮膚で覆われているようだが、そこがまた忌避感を際立たせている。
こちらに飛びかかってきた怨人が至誠たちめがけて再び跳躍する。
だがテサロの飛翔速度には追いつかず、すぐに重力に捕まり遙か後方で落下する。直後、再び跳躍するが追いつける気配はなく、すぐに距離が離れていく。
怨人が追いつけないことを理解できたようで、リッチェの悲鳴が止まっていた。だがリッチェの表情は芳しくない。顔は真っ青に血の気が引いて、呼吸は荒く、その目元には明確な恐怖が映り、カチカチと奥歯をならしている。
ヴァルルーツは対照的に、危機を脱したことによる安堵をのぞかせる。
テサロは全員の飛行を操り、そのまま地上100メートルほどまで上昇すると、周囲を警戒しつつ三人の体勢を水平に整えた。
と同時、地上の靄の中から突然なにかが伸びる。
イカの足のような触手だ。
だがよくよく見ると細かく関節がり、それが上腕と前腕が無数に繋がった部位だと理解できてしまった。さらにその腕周りにはタコの吸盤のように人の口が並んでいる。口の周りには指がびっしりと生え、まるで咥えた獲物を押さえつけるために。
その触手が地上から十本以上出現し、明らかに一行を捕獲しようと迫ってくる。
しかしテサロは器用に触手の隙間を縫うように飛翔し、その全てを回避した。
触手の範囲外へ抜ける際、至誠とヴァルルーツは怨人の全容を目にした。
巨大な人の生首が地面から生えているように見えるが、目や口は本来の位置にない。巨大な口が頭頂部にあり、その周囲から触手のような腕が生え、さらに巨大な眼球が冠のように周囲を囲んでいる。
しかし既にこの怨人の手の届かない範囲まで移動している。
だが安堵する暇は与えられず、前方からのっそりと巨大な化け物が起き上がる。
テサロの飛行高度はおよそ地上100メートルほどだ。
その一行よりもさらに高く起き上がった化け物は、まるでムカデのような構造をしていた。節があり、そこから一対の腕が生え、それが無数に連なっている。だがムカデと明確に違うのは、その節一つ一つが人間の頭部だということだ。
その全てに老若男女の違いがあり、低くかすれたうなり声や、甲高く耳に付く叫び声をそれぞれの頭部が発し始める。
全ての顔が仰向けに接続していたが、唯一、最前の部位だけが前方を向いており、やつれた女性らしき顔面がテサロたちを視界に捉える。
テサロがその個体を避けるように転進すると、その巨大ムカデのような怨人は再び身を屈め、凄まじい速さで地面を這いずり大量の土埃を上げながら追いかけてくる。
「な、何なんだこいつらは!!! こんな規格外の個体なんて聞いたことがない!!!」
ヴァルルーツの悲鳴に、ミグが苦言をこぼす。
『あの数珠つなぎの怨人はかなり大きいね……このサイズがいるってことは、今ウチらの位置は、結構な奥地にいるってことか……』
ミグは絶望を噛みしめながら教えてくれる。
『いったいどの辺りに飛ばされた? せめて飛ぶべき方角が分かれば一縷の望みも見えてくるけど――』
その声は、考えを整理しつつ自分を落ち着かせるために発せられているようだ。
不浄之地は世界の97%を占める。そして現在地が分からない。どこにどの程度飛べば良いか分からない。一か八か、一直線に飛んでみて3%を引き当てるしかないのだとすれば、生還は絶望的だ。
「くそッ――ッ!」
ヴァルルーツがたまらず感情を吐き捨てる。
リッチェは恐怖からもう声すら上げることができない様子で、手にした杖を必死に抱え込んでいる。それでも何とか恐怖心に立ち向かおうとしている様子だが、少しずつ絶望に塗り固められようとしていた。




