第一話 死と目覚めの刹那
――ああ、これは死んだ。
比喩でも誇張でも何でもなく、眼前のモノを見やりながら、僕はそれをただの事実として認識した。
自身へと向かってきているそれは、切っ先の鋭い刃だ。真っ直ぐに突き出されたその剣は、そのままであれば間違いなく僕の顔面へと突き刺さる軌跡を描いており、貫くのに十分なほどの勢いを有している。
そしてその未来が訪れるのには、最早秒という時間すらも必要としないだろう。瞬きを――否、瞼を下ろした次の瞬間には、僕の命は失われているに違いない。
回避することは、可能だ。後方には壁があるものの、左右には何もなく、怪我はしているけれども、手足は健在。出来ないわけがないだろう。
もっともそれが成功するかどうかは、また別の話だけれども。ついでに言うならば、それが成功するならば、死を確信のレベルで認識してなどはいないに違いない。
何せ死が訪れるまで一秒を切っているのである。ちょっと幾ら何でも厳しいと言わざるを得ないだろう。
とはいえ時間の問題というよりは、どちらかと言うならば単純に速度の問題だ。僕が左右のどちらかに動き、回避しきるよりも、あの剣が僕の顔を貫く方が早い。そういうことであった。
ところでそんな状況だというのに、何故このように暢気に思考をすることが出来るのかというと、今の僕には全ての物の動きが非常にゆっくりと動いているように見えるからである。
完全に止まっているわけではない証拠に目の前の剣はほんの少しずつではあるけれども動き続けており、しかし本当に僅かずつだ。そこから察するに、現在の体感時間は本来のそれの数百倍ほどになっているのではないだろうか。
ただしそれはあくまでもそれだけに過ぎず、僕の身体能力などが強化されたわけではない。要するにこの状態で動こうとしても僕もまた非常にゆっくりと動かざるを得ず、そこから算出した結論は先と同様である。
つまり。
――僕はここで死ぬ。
それだけは、どうしようもなかった。
きっとこの状況というのは、死を目前にした僕の頭が必死で現状を打破しようとした結果なのだろう。けれども、根本的なところで対処法が存在しなければ、どうすることも出来ないのだ。幾ら思考する時間を与えられたところで、意味などはない。
むしろ、ある意味でこの状況は、無意味どころか害悪だとすら言えるだろう。自分へと確実に訪れる死を、ただ眺めているだけの時間。無駄に考える時間がある分、より絶望を覚えやすいに違いない。まったく我ながら悪趣味である。
――妙に自分が冷静であることには、先ほどから気付いていた。もっと取り乱し、絶望してもおかしくはないだろうに、どうやら自分はそうしたことをするつもりはないらしい。
どうにか出来ると思っているわけではないし、死が怖くないというわけでもない。どうしようもないと思っているのは本心だし、出来れば痛い思いなどはしたくもなく、心の底から死は恐ろい。
だけれども……おそらくこれは開き直りに近いのだろう。どうせ人は何時か死ぬとか、死ぬ覚悟は出来ているとか、そういうことではなく――ああ、そうか。
その時不意に、全てを理解したような気がした。
簡単な話である。どうやら人という生き物は、死ぬことにも慣れる事が出来るらしい。
「……っ!」
そこに至った瞬間、僕の身体は自然と動き出していた。
とはいえ身体能力が変化したわけではないので、相変わらず眼前のそれをかわすことが出来ないことに違いはない。それは既に決定事項だ。
けれどもそれは問題には成り得ない。というよりは、こう言うべきだろうか。
――最初からそれをかわす必要などはなかったのである。
痛いのは怖い。痛いのは嫌だ。そんなことは当たり前のことである。
そして、その何倍も、死ぬ事の方が怖く、嫌だ。それもまた、当たり前のことである。
「……づっ!」
動きは最小限に。首だけを横に、さらに捻る。
回避する必要はないのだ。当たっても構わないのである。死にさえしなければ、後はどうとでもなるのだから。
全てがスローモーションの中で、僕はもう向かってくるものに視線を向けてはいなかった。ひたすらに自身の首の動きにのみ集中し、望んだ場所へと傾けていく。
そして。
轟音が耳に届いたのは、頬に焼けるような熱を感じた直後であった。
しかしその音が何によって引き起こされたものなのかは、確認するまでもない。そんなことをしなくても、眼前にその原因があるからである。
僕の頬をざっくりと斬り裂いた一撃は、その勢いのまま後方の壁を貫いていた。確か壁は基本破壊不可能とかいう話だった気がするけれども……今はそんなことを悠長に考えていられる余裕はない。
既に体感時間は元に戻っている。次はあんなことは起こらないだろうし、そもそも次があったらコレもあんな真似はしないだろう。確実に殺す気であったのか、僕にかわせると思ってはいなかったのかは知らないけれども、胴体に薙ぎ払いでもされていたら本当にどうしようもなかった。
浅くはない傷を負いながら、それでも生き残ることが出来たのは、ただの幸運か、或いは相手の慢心によってか、だ。次はない。
だからこそ、この機を逃がすことはなく、今度は首だけではなく全身を横に、地面へと倒れこむようにして転がる。一瞬の後、何かが弾け飛んだような轟音が聞こえたけれども、そちらに視線を向けるよりも先に、立ち上がりかけた不恰好な姿のまま、さらに後方へと飛び退く。
瞬間何かが眼前を通り過ぎたような気がしたものの、それはきっと気のせいではないだろう。三度響いた轟音とその結果が、それが振り切られた剣の軌跡であったことを伝えていた。
立ち上がりながら視線を一度だけ横に移動させれば、そこ以外にも地面が陥没している場所が存在している。それは先ほどまでは確かになかったものであり、位置関係などから察するに、斜め下へと振り抜かれた、その終点なのだろう。
ちなみにその途中の場所に、先ほどまで僕は立っていた。まさに間一髪である。
とはいえ当然ながら危機は未だ去ってなどはいないし、現在はその真っ只中だ。次の一秒後に僕が生きている保証はない、そんな状況ですらある。
そんな中で相手を正面に構えるような体勢になっているのは、何も好き好んでではない。出来れば振り返って全力で逃げたいところなのだけれど、生憎と串刺しにされる未来しか見えないのだから仕方がないだろう。
しかし幸運にもというか、今までとは少し異なる動きを見せたせいで警戒しているのか何なのか、少なくとも相手はそのまま即座に行動に移すつもりはないようであった。剣を構えつつも、動く気配は見せない。
ならば――
「――オープン」
視線は外さないままに呟いた瞬間、その視界の端にそれは現れた。
それは言うならば、板だ。ただし模様のようなものはなく、向こう側が透けてすらいる。半透明の板。そう表現するのが最も適切だろう。
しかし模様はなくとも、何も書かれていないというわけではない。板に比べそこだけははっきりと、そして見覚えのある文字列が並んでいる。
けれどもそれらを悠長に眺めている暇はなく、また意味もない。それが出現したということに安堵を覚えたりもしたけれども、それも押し殺し、視線をその中央付近へと向ける。現在用があるのは、それだけだ。
――スキル。
そう書かれているそれに右の人差し指で触れ、そのまま横にスライドする。半透明な板の横に同様の板がもう一枚出現し、しかしそこに書かれている文字列は二つだけ。
――パッシブスキル。
――アクティブスキル。
アクティブの方に同じように素早く触れ、再びスライド。さらに同様の板が出現し――
「……さすがに早々都合よくはいかない、か」
溜息を零しながら眺めるそこに並んでいる文字列は、三つしかなかった。
もっともこの場合は、三つもあると考えるべきかもしれないけれども。
それに、よくよく考えてみれば、落胆する必要はないかもしれない。
「やり方次第なら……或いは? ま、どっちにしろ――」
逡巡したのは一瞬。何にせよ、時間を掛けていられるほどの余裕はない。
伸ばした指が、その中の一つに触れる。
瞬間。
――アクティブスキル、サポートスキル:ハイジャンプ。
足を地面に叩きつけるように踏みつけながら、後方へと飛び退いた。
直後、視界に映る光景ががらりと変化する。自分の居る場所そのものが変わったためだ。
何が起こったのかは、そのスキルの名が示す通り。真下に視線を移せば、五メートルほど離れた先に地面が見えた。
それを認識したあたりで、思い出したように僕の身体も通常の物理法則に囚われる。重力にいつまでも逆らっていることは出来ないと、そういうことだ。
軽い衝撃と共に、地面に降り立った。
空中に居たのは、数秒というところだろう。しかし十分な距離は稼ぐことが出来た。視線の先に居るソレとの距離は大体十メートルといったところか。
もっともこれで逃げ出したとしても、やはり追いつかれるイメージしか浮かばない。
けれど少なくとも、一息吐ける余裕は出来た。思い切り息を吸い、吐く。
そして。
――どうやら僕は、所謂転生者というやつであるらしい。
その事実を、しっかりと受け止めた。
死を前にして狂ったわけでもなければ、世迷いごとを言っているわけでもない。まあ誰かに言えば、そう捉えられても仕方ないとは思うけれども。
それを認識した上で、はっきりと断言することが出来る。僕は一度死んで、生まれ変わったのだ。
この世界で生きた十六年分の記憶はしっかりとあるし、転生前の二十年分の記憶も持っている。さすがに時間が経過しているため所々は曖昧だけれど、それでもはっきりとそれは自分のものだと断言することが可能だ。
とはいえ、だからどうしたと言われてしまえば、それまでなのだけれども。残念ながらそれが分かったところで、現状は好転しないのだ。知識が増えたところでスキルは増えないし、肉体が強化されるわけでもない。
そして増えた知識にしても、現状の役に立ちそうなものはなかった。まさに無意味である。
もっともだからといって悲観しているわけではないし、諦めるつもりなどは毛頭ない。折角前世の記憶が蘇ったというのに、また死ぬのはご免である。
とはいえ幾らそう意気込んだところで、現状をどうにかする術が存在しないのもまた事実だ。アクティブスキルは他にも二つほどあるけれども、それでどうにか出来るのならばとっくに使用している。
それは先ほど使用したハイジャンプに関しても、同じことが言えた。確かに距離を離すのには使えたけれども、逆に言うならばそれにしか使えないのである。アレはその名の通りあくまでも跳躍力を強化するためのスキルだ。脚力が強化されるわけではないので、例えばそれを使用してから蹴りを放ったところで、蹴りの威力は上昇しないのである。
そもそもハイジャンプは補助系のスキルであり、しかもどちらかといえば、高所への移動をする際などに使用されるものだ。先ほどのように戦闘時にも使えないことはないけれども……まあ結局のところは、使い方次第、というところだろうか。
ともあれ。
「さて、と……どうしたものかな」
呟きながら、視線は切らずに思考を回す。これまでにない動きをさらに見せたからか、視線の先のそれは変わらず動く気配を見せない。
けれども、ここで睨み合っていたところでそれも長くは続かないだろう。相手も思惑があってこうしているのだろうから、当然のことだ。
あんな姿をしていようとも――いや、或いは、あんな姿をしているからこそ、その思考能力は僕とほぼ変わらないはずである。
――それを最も端的に言い表すならば、豚、だろうか。ただしそれは頭部に限定しての話であり、首から下は人のそれと変わりない。
否、その逞しさ、各部位の強靭さは、普通の人を遥かに上回っているだろう。
当然人では有り得ず、かといって動物でも有り得ない。
――魔物。
それは、そう呼ばれている存在であった。
その右手には一振りの剣が握られており、それも含めてアレがどれだけ危険なのかは今経験した通りだ。正直言って、勝てる光景などは微塵も浮かばない。
しかし、だからといって諦める道理もないのである。
自身の身体は万全……とはいかないまでも、問題はない。所々に切り傷や擦り傷があり、特に頬の傷が大きいものの、まだ何とかなるだろう。
武器は……視界の端に転がっているのは、愛用の剣。とはいえその位置がアレの後方な時点で、回収は最初から考えてはいない。残されたのは、予備の為に持っていた一本のみ。あっちに比べると多少劣ってしまうのだけれども、贅沢を言っている場合ではないだろう。
そうして現状を改めて確認し、判明した絶望的な状況には溜息すらも出てきはしない。それを打破するための何かも、当然のように思いつくことはない。
まあでも、そんなものだろう。世界が優しく出来てはいないことなど、とうの昔に知っている。
だからこそ僕はこんな状況に追い込まれているのであり、もっと言えば転生をするような羽目に陥ったのだ。……どっちに関しても、自業自得の部分があるのは否定出来ないけれども。
「何にせよ……結局はやるしかない、か」
逃げることが出来ない以上は、戦うしかない。一先ず、それだけは確実だ。
けれども、勝ち目のない戦闘は自殺と変わらない。それは悲観的な思考によるものなどではなく、これまでのことから判断した客観的な事実だ。覆すには、相応の何かが必要である。
しかしそれを探している暇はない。であるならば、手持ちのもので何とかするしかないだろう。例えそれに不安があったとしても、それしかないのであればどうしようもないのである。
まあつまりは、一応ながらそのアイディアはある、ということではあるのだけれども……正直なところ、かなりの部分が出たとこ勝負だ。運の要素も強く、勝算としては二……いや、一割もあればいい方だろう。
だからこそ出来ればもっと確率の高い方法を探したかったのであり、けれども見つからないのならば仕方がない。
それに――
「勝ち目があるだけマシ、かな?」
先ほどまでならば、その勝機すらも存在していなかった。ならば、それがあるだけで十分であり、賭けに出るに値するだろう。
そしてどちらにせよ、いつまでもグダグダと考えていられる時間はもうない。今はまだ様子を見ているようではあるけれども、それも長くはないはずだ。さらに言うならば、僕の思いついたアイディアを実行するならば、守るよりは攻めの方が合っている。
つまりは。
「それじゃあ……思い切ってやりますか」
――アクティブスキル、サポートスキル:ハイジャンプ。
先手必勝、だ。
踏み込みと同時、蹴り付けた力の方向に従い、けれどもそれ以上の力で以って肉体が宙を舞う。上空約五メートル。普通では決して見れないだろうその景色の中に身体が滞空し、しかしすぐに重力に従って落下を始める。
二回目のそれは、先のものに比べしっかりと目的を見据えたものだ。我武者羅に逃げ出すために行なったものではなく、攻撃のためのもの。視線の先、落下の先にあるのは、当然ながら決まっている。
彼我の距離十メートルを一歩で埋め、けれどもこちらの能力は先ほどから何も変わってはいない。普通に攻撃したところで何も通じないのは実証済みであり、しかしこの状況はその時にはなかったものだ。
自分だけの力でどうにもならないのであれば、他からもってくればいい。上空五メートルからの落下、その力を加えた一撃は、果たしてそれに成り得るか。
答えは一つ。それは結末だけが示している。
腰の後ろに括りつけた鞘から抜き放った剣を上段に、全ての力を籠めるつもりで振り下ろす。直後、腕には確かな衝撃が伝わり、周囲へと轟音が響いた。
そして。
――視線の先にあるのは、罅一つ入っていない地面。
「……ま、だよね」
音だけはそれなりだったんだけど、やっぱり威力はまったく足りないかとか、この様子ならそもそもかわす必要すらなかったんじゃないかなとか思うも、安全策を取るのはむしろ正しいことだろう。相手にはこれがただ跳躍力を強化しただけだとは分からないだろうし。
そう、何と言うことはない。確かに一度の跳躍で十メートルの距離は埋められたけれども、それは一瞬ではないのだ。どちらかと言えば緩慢ですらあり、その上空からの一撃を回避するのは簡単なことだと、ただそれだけのことであった。
そもそも当たったところで結果は変わらなかったようであるし、何にせよこの結末は変わらなかったと、そういうことのようだ。
もっとも。
――そんなことは、最初から知っていたけれども。
むしろ回避してくれなかったらどうしようかと思っていたところである。
次の瞬間、肌を風が撫でた。
しかしそれはきっと気のせいだ。何故ならば、確かに空気は動いたかもしれないけれども、それを感じ取るよりも、おそらく僕の身体が両断される方が早いからである。
だからそれは、予測によって再現されたものに過ぎず、この一瞬の後にそんな軌跡が描かれると、攻撃の直前に目にした光景から推測したものに過ぎない。
それでも。
右腕が、剣を持つその腕が振り被られていたのは、右斜め後方。そこからの軌跡は、先ほども見た……否、予測したばかりだ。
僕が目を離した後に腕の位置が変わっている可能性。振り抜かれる方向が先ほどとは異なる可能性。予想以上に速い可能性、遅い可能性。反応できない可能性。
その全てを、有り得ると判断した上で破棄する。そんなものに対応出来るような余裕などは欠片もないのだ。故に、狙うのはその中で最も可能性の高いもののみ。
だからこその一割である。
とはいえ現在の僕の状況は最悪も最悪だ。攻撃を振りきった直後であり、体勢は不十分どころか今ようやく両足が地面に着地したところである。これからやってくるだろう相手の攻撃を防ぐことも迎撃することも、どころか回避すらもおぼつかないような状態だ。
けれども。
まともに反応することが出来なくとも、剣を持ち上げることは出来なくとも、腕を伸ばすだけならば出来る。その軌跡の先へと向かい、手を、拳を差し出すことぐらいは十分可能なのだ。
しかしそんなことをすればどうなるかは、考えるまでもないことだろう。勿論恐怖はある。出来るならばやりたくはない。
それでも、これしか方法が思い浮かばないのだから――
「……っ!」
予測されるその場所に、拳を振り上げた。
次の瞬間に感じた風はきっと気のせいではなく、極限にまで集中した感覚が見せたものだ。或いはただの錯覚であった可能性もあったけれども……その時はその時であった。
もしもそうであったのならば、失敗するだけ。それもまた可能性の一つに過ぎず……やはりいちいちそれを考慮している暇はなかった。
そしてそれが間違いでなかったことを示すかの如く、直後に拳へと痛みが走る。何がどうなってそうなっているのかは、敢えて確認するまでもなく分かり、だからこそ僕が覚えたのは安堵だ。
一瞬でも躊躇していれば間に合わなかっただろうけれども……おかげで間に合った。
――アクティブスキル、アタックスキル:スマッシュ。
それが発動したのは、さらなる痛みを覚えた瞬間だ。それに合わせるように拳に力を入れ、さらに振り上げる。
けれどもそれによって剣を破壊することに成功した……などということは、さすがに起こらない。というかそんなことが出来るのならば、ここまで身体を張る必要もないだろう。
だから出来たのは、ほんの少しだけ剣の軌道を変える事だけだ。拳に半ば食い込んでいた刃が肉を削ぎ落としながら、それでも直後に発生した衝撃によって僅かに逸れていく。
それは僕の身体を両断するはずだった軌道からも外れることを意味しており――しかしそれは、回避できるということを示すわけではない。
確かに両断はされないだろうけれども……おそらくこの軌道であれば、頭の半分ぐらいはもっていかれるだろう。そして当然ながら、それで生きていられるほど僕は人間を止めていなかった。
つまりどちらにせよこのままでは結末は変わらず――けれども、そこに至るまでの時間が、ほんの僅かに伸びている。ならば、それで十分であった。
そちらに視線を向けることはなく――そんな暇もなく、つま先だけで地面を蹴る。
瞬間。
――アクティブスキル、サポートスキル:ハイジャンプ。
三度発動したそれが、僕の身体を押し上げた。
ハイジャンプの強化は、割合で行なわれる。要するに、元の跳躍力が高いほどにその補正値は高くなるのだ。故に今行ったようなものでは大した効果は発揮されず――しかし問題はなかった。
必要なのは、ほんの少しの加速。ここまで接近している以上、それ以外のものは必要ない。
そもそも、厳密に言えば必要なのは跳躍力ではないのだ。すべきことは、上空へと逃れることではない。
だからこそ身体の向きは前傾に、押し出した力は前に。視界は一瞬で流れ、気が付いた時眼前にあったのは、それの肉体であった。
何かを考えるよりも先に、結果が来る。
即ち。
「――っ!?」
正面衝突だ。
痛みと音が同時に頭を襲い、強引に事を成した反動が直後に身体へとやってくる。受身はおろか、後のことを何も考えていない特攻は、胸部への強い衝撃で終わりを告げた。
頭と胸、それとついでとばかりに全身に伝った衝撃にのたうち回りたくなるも、そんなことをしていたら折角の苦労が水の泡だ。幸運か必然か、望み通りの結末を得たのだから。
そう、つまりは。
――これが僕のやろうとしたことであった。
文字通りの意味で、相手を倒すための行動。勿論この程度では大したダメージにもなっていない……どころか、傷一つ負っていないだろうけれども、これでいいのである。
別に一矢報いるとか、そういった目的のものであるから、というわけではない。僕が勝てないことは揺るぎようのない事実であるので、僕が出来ることは何としてでも逃走する為の隙を作ることであったのだ。
地面に倒れれば、幾ら何でも隙も生じるだろう。要するに、そういうことなのである。
ただしこれの問題は僕も地面に倒れてしまうことであり、当然即座に逃走とはいかない。けれども、何が起こるのかわかっているのといないのとでは、その後の行動を行なう時間に差が出るだろうし……あとは、賭けだ。
僕が立ち上がって走り、逃げ切る方が早いか。それとも、追いつかれる方が早いか。分は悪く、しかし可能性があるだけで十分過ぎる。
ともあれ、これで準備は成った。あとは――
「逃げ切れるかどうかだけ……って、あれ?」
立ち上がり、駆け出そうとしたところで、ようやくそれに気付く。
その瞬間まで、僕に周囲を見やる余裕はなかった。地面に倒したはずのそれの姿を見る暇さえなく、とにかく出来るだけ早く立ち上がることだけに集中していたのである。
いや、それは今も変わってはいない。今考えるべきことは、ひたすらにこの場から逃げ出すことだけだ。それでも視線を向けたのは、単にそちらに移動するにはそうする必要があったからであり、さらにはその時点で相手に立ち上がられていたらもうどうしようもなかったからでもある。
結論を言ってしまえば、その懸念は当たらなかった。それは未だその場にうつ伏せに倒れたままであり――そして。
「……え?」
呆然とした呟きが漏れたのは、その光景が信じられなかったからだ。ある意味で、それは今日最大の衝撃を以って僕の身を襲った。おそらくは、この時点でそれが既に立ち上がっていたとしても、ここまで驚くことはなかっただろう。
何があろうとも立ち止まることはない、とまで思っていたはずなのに、そもそも身体はピクリとも動かずに、視線はそこから離れない。
そこ――その真下。倒れている地面の、さらに下。赤黒く染まり、今もその範囲を広げているそれ。
それと……倒れている身体の、その喉から生えている、鈍色の刃。
僕の身体とは違い、今もビクリビクリと動いている――痙攣を繰り返しているその姿を、僕は馬鹿みたいに呆然としながら眺めていた。
「……っ!?」
しかし不意に襲ってきた拳の痛みに、我に返る。視線を向ければ、そこも大分酷いことになっていた。
控えめに言っても、血塗れ且つグロい。下手なホラー映画も真っ青な状態である。まあこの世界にホラー映画などというものは存在していないわけだけれども。
アレがああなった一因には、きっとこれも関係しているのだろう。その場面を見たわけではものの、予想することは出来る。
つまり、こういうことだ。
僕の体当たりで吹っ飛んだアレは、予想外のことであったために咄嗟に反応も出来ずにうつ伏せに倒れた。反応というのは、剣を持った腕を含めてのことである。さらにそれは吹っ飛ぶ直前に僕によって僅かにその軌跡をずらされており、そのことが余計に想定外の動きを生み……結果的に身体の下に潜り込むこととなった。
偶然にもその切っ先は上を向いており、そこに倒れこんできたのは巨体の、それも喉。吹っ飛んだ勢いと、全体重がかかったことにより、それは容易に貫通し……現在へと至る。
細部は異なるかもしれないけれども、大体のところはそんなところだろう。まさかこの機会にちょうどいいからとエクストリーム自殺を図ったわけではあるまいし……とはいえ。
「ご都合主義と言うか……何と言うか」
さすがに釈然としな過ぎるというか、幸運にも程があるというか、幾ら何でも間抜け過ぎるというか。
いや、確かに攻撃を逸らしたのには、そうしないと間に合わないという理由が主ではあったものの、それによって多少目測を誤って自分を攻撃するようなことがあれば……などと思っていたのも事実だ。
事実ではあるものの、それによって少しでも意識を逸らし時間を稼げれば、程度の考えでしかなかったので、こんなことが起こるなどと思うわけがない。
自分だけの力でどうにもならないのであれば、他からもってくればいい、などとは言ったけれども、その程度の意味でしかないのである。
しかし結果は結果。起こったことは変えられず、さらには喜ぶ理由はあってもそこに不服を感じる意味はない。それでも何とも言えない気分を抱いたまま、痙攣の間隔が長くなってきたそれへと視線を戻す。
確かに幸運と偶然が重なった結果でしかないものの、それを起こした最初の切欠を作ったのが僕であることは間違えようのない事実だ。だからこそ、この光景は最後まできちんと見ていなければならない気がした。
そうして、やがて痙攣そのものをほとんどしなくなり……完全にその身体が静止する。気が付けば、溢れ出ていた血の流れも止まっていた。
それを確認し、深い溜息を吐く。それと共に、思い出したかのように拳が痛み――不意に眩暈のようなものを覚えた。
「……っ!?」
頭がふらつき、足元が覚束ない。全身の痛みが遠ざかり、妙に心音が煩かった。安心したことで一気に疲れや痛みが出たのかとも思ったけれども、何か違うような気もする。
不思議であったのは、同時に妙な力強さというか、万能感のようなものも覚えていたことだ。今ならば、何でも出来る……とまではいかなくとも、少なくとも目の前に倒れているそれが立ち上がり襲ってきたとしても、何とか出来そうな気がした。
こちらは強敵を倒したことによる高揚感のようなものにも思えたけれども、やはり何か違うような気もする。というかそもそも僕が倒したのかというと、違うような気もするし。
それらの感覚は消えることなく尚も続き……けれども、一先ずそのことは脇に置いておくことにした。
何はともあれ、僕は生き延びることに成功した。しかし――
「帰るまでが遠足、って言うしね」
いやこれは遠足ではないけれども、気分的な問題だ。つまりは、家に帰る事が出来て初めて、無事生き延びることが出来たと喜ぶべきであると、そういうことである。
そのためにも、気を引き締め直す。折角拾った命だ。ここで気を抜いて死ぬなど馬鹿らしいにも程があるだろう。何としてでも、脱出してみせる。
そう決意しながら周囲に視線を向ければ、視界に映るのはこの場そのものの光景だ。今までは集中していたために完全に意識の外にあったそれを、改めて見やる。
端的に言い表すならば、それは洞窟の内部のようなもの、であった。壁や天井がむき出しの岩肌であるあたり、まさにそんな感じだ。足元もそれらと大差なく、軽く蹴ってみれば周囲に小さな音が反響する。
人工物には見えず、されど天然に作られたものなのかも分からない。
人々はこの場所のことを、こう呼んでいた。
――迷宮、と。




