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越州擾乱

四郎が誕生した頃の越後の話です。

 天文十一年十二月、高遠四郎がまだこの世に誕生するどころか、母香姫が武田晴信の側室になったばかりの頃、甲斐とは遠く離れた越後の国では、天下無二の奸雄と呼ばれた長尾信濃守為景が死去した。


 越後守護で主君上杉民部大輔房能とその実兄で関東管領上杉四郎顕定を討ち果たし、下剋上を行った長尾信州は傀儡の上杉越後守定実を通じて越後国を治めようとしたが、今度は主君上杉越州が長尾信州に不満を抱き、守護家家臣宇佐美弥七郎房忠・四郎右衛門尉定満親子に支えられて、長尾信州に反抗を行った。


 長尾信州に対して挙兵を行う事にした上杉越州は、弟の上条播磨守定憲や越後揚北衆などを糾合して、一時は春日山城を占拠するが長尾信州に敗れて、上杉越州は捕らえられて幽閉する。


 しかし上条播州が享禄三年に再び挙兵して、越後守護上杉一門や揚北衆、守護家宇佐美弥七郎や家臣の大熊備前守政秀、国外では会津葦名家や庄内砂越家が上条播州に味方し、幾度か和戦を繰り返しながら、天文五年に春日山城郊外の三分一原にて、長尾信州対上条播州との合戦が発生する。


 合戦は、長尾信州側の辛勝に終わり、上条播州自身は戦傷を受けて十三日後の十二月二十四日に死去した。


 しかし反長尾勢力は、大部分の戦力を残したまま戦場を離脱した為、上条播州死後も越後国人衆の統制に大いに苦しめられる事になり、三分一原合戦に勝利したにも関わらず、越後国人衆への対策の為に長尾信州は、否応なく隠居して嫡男左衛門尉晴景に家督と越後守護代を譲る事になってしまう。


 長尾左衛門尉は、天文九年八月に父長野信州から家督を譲られて、同時に越後守護代と春日山城主になったが温和な性格の長尾左衛門尉は、父と異なる文治政治を試みたが越後国内の擾乱を鎮静化させるのにある程度成功した。


 しかし天文十一年に跡継ぎがいない越後守護上杉越州の後継者問題が起こり、米沢の伊達左京大夫植宗の三男時宗丸を養子に迎える事所まで決まったが、伊達左京大夫の嫡男次郎晴宗が以前から統治政策問題で、父伊達左京大夫と対立していた上、時宗丸の養子入りする時、精鋭百騎を付随させると言う事を知り、父伊達左京大夫を監禁してた為、奥州で天文の乱が勃発する事になった。


 奥州での天文の乱は、そのまま越後守護上杉家と守護代長尾家は戦乱に巻き込まれる事になる。


 その頃になると長尾信州は病にて瀕死になっており、伊達親子が奥州を二つに割った上杉越州は伊達左京大夫側、長尾左衛門尉は伊達次郎側として、越後国内でも分かれて争う様になった。


 越後国内の大乱に長尾左衛門尉は、当初父の生きてるうちに父の名を使い大軍を編成し、国内の反長尾勢力を屈服させる計画だったが、その年の十二月に亡くなってしまう。


 父長尾左京大夫を亡くした長尾左衛門尉は思うように国人衆が集まらず、逆にこれを機に上杉越州は中条越前守藤資、宇佐美駿州、大熊備州を中心に大軍を集めて、春日山城まで押し寄せてきた。


 この時、長尾左衛門尉の次弟長尾内記実景を中心に長尾左衛門尉の旗本衆が奮戦し、上杉勢を追い返したが、この戦の戦傷が元で長尾内記は命を落とす事になった。


 さらに天文十四年十月になると、上杉越州から長尾左衛門尉陣営に寝返っていた黒田和泉守秀忠が春日山城内で、突如謀反を起こし春日山城を占拠しようと城内で暴れた際、長尾左衛門尉の有力一門を形成していた三弟弥七郎景房と四弟弥八郎景康が討ち死し、嫡男猿千代も傷を負う事件が起こり、無傷だったのは天文十二年に親族衆の強化を行う為、還俗させられた末弟平三景虎ただ一人の状態に陥った。


 長尾左衛門尉の弟二人を殺害した黒田泉州は、春日山城を脱出して黒滝城に籠り兵を募った。


 長尾左衛門尉は、平三景虎を急遽古志郡代に任じて栃尾城に入ったが、若輩と侮る黒田泉州と三条城主長尾平六郎俊景は栃尾城を奪いに攻めて来た。


 この時、僅かな城兵しかいなかった長尾平三は、二手に分けた兵を敵勢の背後に廻して強襲を行い、混乱したところに城内から討って出て、数が上回る上杉勢を撃破してしまった。


 そして天文十五年二月になり、長尾平三は前年破った黒田泉州の籠る黒滝城を攻略して黒田家を滅亡させると、戦上手の長尾平三を当主に押す国人達が現れて、当主長尾左衛門尉と長尾平三との間が険悪になった。


 この頃辺りから、上杉越州側が長尾平三に対して調略を行い始めてた為、長尾左衛門尉は上田長尾家で妹婿の長尾新五郎政景と黒川備前守清実に長尾平三討伐の軍勢の動員を命じたが、長尾左衛門尉と長尾平三の叔父で北信濃の高梨摂津守政頼から、葛尾城の村上周防守義清から攻められてるとの救援依頼が届いた為、長尾平三討伐は延期となった。


 その間にも上杉越州は、天文十七年十二月に長尾平三を養子として迎い入れて、長尾平三は上杉平三景虎と名乗り越後守護を継承した。


 これにより、越後守護代長尾左衛門尉と越後守護上杉平三の兄弟は越後国内で相克の争いを起こし、伊達や葦名などの介入もあり、越後国全体が疲弊する事になった。




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― 新着の感想 ―
[一言] 史実のみの伏線回はコピペなのだろうか? 明らかにオリジナルストーリーと比べて下記違いが散見されます。 ・誤字脱字の数が違う(ほとんどない)こと。 ・語尾(です、ます、である、だった)の統一が…
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