黒姫伝説
七月中旬から八月にかけて、北信の野尻湖近辺に集められた武田勢は、ただちに越後侵入と言う事にはならなかった。
春日山城を落とした上杉弾正少弼景虎は、暫く中条弾正左衛門尉藤資に信越国境近辺の対応を任せていたが、七月十日に春日山城に兵二千を残して元長尾側の国人衆も併せて、兵一万を率いて妙高高原まで進出してきたのだ。
この頃の武田の対応は、信州側にある赤川砦や内池館などの最前線の城塞に、兵を増やして防衛力を高める作事を行う他、信越国境の地形を把握する為いくつか探索方を編成し、越後勢に出し抜かれないように警戒する事になった。
吉田典厩信繁は、信越国境の関川を越えて何度か威力偵察を行ったが、思いの外上杉勢は積極的に反撃してくるので、大きな合戦が発生する前に越後から探索方を下げて、長尾家残党と連絡を取り合って、上杉方の情報を入手する事に切り替えた。
こうなると猫有光江に信越国境の別の侵攻路を見つけ出して、利用出来るか若しくは上杉方が利用を考えてるかどうか判明させる事で、膠着状態に変化させる事に信繁は期待した。
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猫有光江達は、赤川砦の守将赤川道貫斎清元に要請して付けて貰った山師や狩人など六人を案内人として、信越国境沿いの関川河岸を探索していた。
しばらく老いた山師の伝兵衛が同行してる若い狩人甚八郎に雑談がてらに、この黒姫山を始め北信五山には様々な伝承があると話をしてた。
道中、藪を切り倒しながら進む高安彦右衛門一益とかは、丁度良い暇潰しになると思い伝兵衛に俺らにも話を聞かせてくれと頼み、皆に聞こえるように話をしてくれた。
「御武家さんよ。 この北信五山は昔から神々の伝承や修験者の修行場に使われたり、戸隠の者達の縄張だったりするんだが、つい数十年前にも高梨家の今の当主政頼様の妹黒姫様に纏わる話もあるんだよ。」
現在の高梨家に纏わる話と聞いて、皆が老山師の伝兵衛の話に耳を傾けながら歩いていた。
「三十年以上にもなるのだが、政頼様の妹御黒姫様は、大層美人じゃった。 余りの美女な為、村上周防守義清や小笠原修理大夫長棟などの信州の諸将が是非嫁にと懸想していたんじゃ。」
「伝兵衛よ、その黒姫様はどんだけ美人だったのだ?」
高安彦右衛門の傍にいた伴喜左衛門一安が興味を持ったのか、黒姫の評判を伝兵衛に聞いてきた。
「そりゃこの信州では、高梨の黒姫様は諏訪の香姫様や禰津の里美様、それに楽巖寺の更科姫様などに並ぶくらいの美女さ。 黒姫様の評判は親戚の長尾信濃守為景様を通じて、将軍足利義稙様の耳に届き、上洛して侍女になる予定だったんだから、世が世ならば高梨家の血が将軍家に混じる所だったのだから、当主の澄頼様の喜びようは凄かったそうだ。」
「へえ、そりゃすげえな。 しかし今言った美女の内、香姫様と里美様は御屋形様の側室なんだから、羨ましい事この上ないな。」
すると伴喜左衛門の言葉に光江が怒り始めた。
「喜左衛門殿、御屋形様の奥方様達に懸想するならば、私が許しませぬぞ。」
「光江殿、すまなかった。 拙者には彦右衛門の様に懸想する女子はおらぬ故、この様な与太話は大好物なのじゃ。」
飄々(ひょうひょう)と光江からの文句を受け流す喜左衛門は、笑いながら高安彦右衛門の耳元で呟いた。
「彦右衛門よ、光江殿は本当に真面目だよな、お前さんが光江殿に認められるには、でっかい手柄が必要だよな。 例えば上杉家の大将を討ち取るとか?」
「勿論、その機会を狙ってるさ。 儂等の腕があれば、三十間の距離ならば眉間を撃ち抜く自信はあるぞ。」
二人でその様な事を話してる間も伝兵衛が言う黒姫伝説の語りは続いていた。
「しかし永正三年(1506年)の春、高梨家の居城日野城で黒姫の枕元に美少年が現れ、その者は黒姫様に惚れて拐かす所、騒動に気がついた侍女が当主澄頼様に報告した為、澄頼様は嫡男政頼様や家臣達を読んで、謎の美少年を捕らえようとしたが、片腕を澄頼様に切り落とされたまま逃亡して行った。 すると美少年が逃亡した直後、大嵐が発生して高梨領内にある三十余りの河川や池が溢れて、日野城は水に流されてしまったそうだ。」
高安彦右衛門の舎弟鈴木孫六が、その美少年の事が気になってどんな奴なのか伝兵衛に聞いた。
「伝兵衛よ、その美少年が去った直後に何で高梨の地に大嵐が起きたんだよ。 そいつは仙人か何かなのか?」
「そいつの正体はこの硯川や岩倉池を住処にしている黒龍が黒姫様に懸想して、拐かす積もりで日野城に侵入したとの事だ。 しかし澄頼様の名刀で片腕を切り落とされた事で、怒り狂い大嵐を起こしたと言う。」
「おいおい、伝兵衛さんよ。 黒龍様が黒姫様を奪おうとしたなんで、どうやったら防げるんだよ。」
「その後の話なんだが、水没した日野城から真山城へ逃げた高梨家の者達は、黒龍が怒り疲れて休んだ時に、一旦大嵐が収まった為、水害あった民衆の救済策を行った。 その時、米を使う酒造りが禁止となり、領内の米を確保して困窮してる民衆に分け与えたと共に、佐久や諏訪も米を買って手に入れた。 また黒姫様が祖先が信仰してる湯殿山の神社に参拝した後、黒姫様は夢のお告げにより黒龍の居所を教えてもらったそうだ。」
まだ十代半ばの鈴木孫六は、伝兵衛が語る黒姫伝説に夢中になって聞いており、いつの間にか伝兵衛の物語に引き込まれて相槌打って耳を傾けて聞いていた。
「黒龍の居場所を知った黒姫様は、再び黒龍が怒って大嵐を呼ぶ事を懸念し、父澄頼様の名刀によって斬られた片腕を内緒で持ち出して、夢によって知った黒龍の居場所に片腕をもって向かい、山の中ある池に潜む黒龍の前に行き、片腕を掲げて父澄頼が切り落とした片腕を返す事で、許しを請うたので黒龍は黒姫様を背中に乗せて天高く飛んで行ったそうだ。 そして片腕から流れた黒龍の血は赤川を作り、そこの傍にある山は黒姫山と呼ばれ黒姫様と黒龍が一緒に暮らしているんじゃ。」
「伝兵衛さん、そしたら黒姫様や黒龍に会った事あるの?」
「黒龍は知らないが、黒姫様は遠くから見た事あるし、大嵐が夏にやってきて日野城が水没のも誠じゃよ。 しかしその話にはまだ続きがあるんじゃ。」
続きあると聞いた孫六は伝兵衛に続きの催促をしようとした時、山の上の方から轟音と共に大きな煙が上がったのが見え、高安彦右衛門や猫有光江らが一斉に煙の上がる方向を見た。
すると山の頂上の辺りで何かが飛び跳ねているのが見えた。
実際の黒姫伝説とは内容が異なります。




