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服部党からの文

 六月初旬、木下藤吉郎に話をつけて、文を書いてもらった服部党の文次郎は、信州へ入り武田領との境目の関所に到着した。


 文次郎は、関所の守将に三河からやってきて、途中高遠家家臣木下藤吉郎殿からの文を預かってると伝え、守将に見せると直接高遠四郎様に会わす事は出来ないと伝え、四郎様からの返答があるまでこの関所の近辺の旅籠にて連絡を待つようにと言われて、文次郎は焦る心はあったがそれを抑えて旅籠にて返答を待つ事にした。


 関所にいる伝馬が翌日高遠城に藤吉郎からの文を四郎に届けると四郎は早速読んでみて、宿老の保科弾正忠正俊や義父の高遠紀伊守頼継や傅役の跡部攀桂斎信秋、安倍加賀守宗貞や軍師の浪合備前守胤成に内容を見せて判断を(あお)いだ。


 (おおよ)その内容は、木下藤吉郎が尾張にて柳生新次郎宗厳を陪臣に加え柳生新次郎に東海道へ向かって、四郎が求めてる海たわしを入手を命じたところ、三河岡崎近辺にて服部党頭首服部半三正種と接触し、服部党が当主を二代続けて暗殺された松平家を致仕し、他家へ仕官を求めてきた。


 木下家家臣の柳生新次郎は己で判断は出来ないと拒否し、柳生新次郎の(あるじ)木下藤吉郎へ判断を仰ぐようにと文を書きつけて、服部半三へ渡した。


 その服部半三からの文を受け取った藤吉郎も己では服部党の受け入れの判断が出来なかった為、藤吉郎も一筆書いて、身軽に移動出来る服部党の文次郎に渡して、こうして武田領の関所までやってきたとの報告があった。


 服部党の置かれてる立場は実に不安定な状況であり、四郎としては前世情報の一つに服部党が松平広忠死後に松平家から致仕して、十年以上松平家から離れていたと言う情報は知ってた。


 その服部党を雇う絶好の機会なのだが、思った以上に服部党郎党の数が多い事を知り、こんなに雇う事は父晴信からの承諾無しでは絶対無理だろうと思い、自分の考えを秘めて重臣達からの意見を聞く事にした。



「各々(おのおのかた)、先程木下藤吉郎からの文が届き、さる事情で三河松平家の服部党が武田家を頼りたいとの嘆願があったと言う。 藤吉郎は自らの判断には出来ずと考えて、俺の判断を求めてきた。 皆は何か意見があるのならば、忌憚なく述べて欲しい。」



 すると足利学校卒の軍師、波合備州が防諜上の観点から話始めた。



「四郎様、服部党と言えば、本貫地は伊賀千賀地であります。 現在武田家と今川家に従属いる松平家とは何も因縁も在りませぬが、松平家の機密を預かってる服部党の離反は今川家が知る事になれば、要らぬ不和を起こす事になりかねまする。 また御屋形様の耳に入られて、服部党が武田家に所属する利点と欠点を天秤にかけた時、服部党を受け入れる事で三ツ目衆との関係に問題が発生する事を許されるでしょうか?」



 波合備州の意見に保科弾正忠を始め、皆がその意見に(もっと)もと言う表情で(うなず)いていた。


 一方、静かに話を聞いてた義父の高遠紀州は服部党が松平清康に仕える前は、第十二代将軍足利義晴に仕えていた事を重視した意見を語った。



「服部党の事なのだが遠い三河の国の話で、前当主松平清康公の元で槍働きも大いに上げていたと聞いた事がある。 さらに今の松平家は三河の一部を領するだけで、我々高遠家よりも石高は低いと思われる。 松平家で服部党を抱え込めたのだから、高遠家も服部党を養えると思うぞ。」



 そこで四郎は自分の考えを述べる事にした。



「俺の考えでは、まず服部党の臣従に関しては父上の裁可が必要は間違いないと思う。 また今川家の事に関して、今川家では三河の各松平家や国人衆の力を弱めて、空いた土地に今川家譜代の重臣達に充てがいたいはず。 だから三河から立ち去る者はおそらく引き留めないだろう。 もし引き留めるならば、武田家に山本勘助晴幸などを仕官させてないだろう。」



 山本勘助は、今や晴信の使い勝手の良い武将になっており、軍略家としての意見を父上から求められるようになる位信頼を勝ち取ってる為、今川家では外様の良将を求めるも譜代の家臣達を重用する家風となっており、近年遠江や三河と言った今川家領国を譜代家臣に領土を分け与える方針だった。


 その事の指摘を四郎が行うと、保科弾正忠や跡部攀桂斎も納得して、服部党の使者と面会する一方、父晴信へ服部党の臣従を望む事を伝える事にした。



 ____________________________________________________________




 六月上旬に高遠城の四郎から躑躅ヶ崎館に使者を送った頃、父晴信は越後情勢が北信濃に対して影響を出し始めてので、三ツ目衆の富田郷左衛門に諜報活動の強化を命じていた頃だった。


 そのような状況下、四郎から三河の服部党が松平家を離れて武田家に仕官を望んでいるとの文が送られてきた。


 父晴信は、四郎から送られてきた文を読んだ後、嫡男喜信や両職甘利備前守虎泰、軍師加藤駿河守虎景、山本勘助晴幸、駒井高白斎昌武に晴信の従兄で武田家一門筆頭の穴山伊豆守信友や喜信の傅役飯富兵部少輔虎昌、曽根出羽守政利、勝沼相模守虎甫、浦安芸守信本などに文を見せた。



「皆々(みなみなかた)、四郎よりこのような文が届いた。 勘助よ、其方(そなた)の故郷は三河宝飯郡牛窪だったな。 其方(そなた)は、松平家に仕えていた服部党の事は何か知っておるのか?」



 名を呼ばれた山本勘助は、父晴信に一礼してから語り始めた。



「御屋形様、その通りで御座います。 拙者が三河に暮らしてた頃に服部党は松平清康公に迎い入れられて、畿内より三河へ移住したので御座る。 しかし立て続けて松平家当主が凶刃に倒れて、現在は次期当主となる松平竹千代殿が尾張の織田家に拉致されていますので、当主不在の状態の三河は今川家からの代官が統治しております。」


「御屋形様、おそらく松平家当主不在の間に今川家が領国化を進めている事で、旧松平系の国人衆達の身の振り方が其々(それぞれ)に決断し始めてるのでしょう。 織田家や今川家に付く国人衆もいれば、服部党の様に三河に地縁が無く別の選択肢に迫られる者達もおるでしょう。 そうなると今後もこの様な者達が隣接する信州を頼って来ますので、ここは寛容な態度を示せば将来の三河方面の布石になるでしょう。」



 山本勘助は、いつ東海道の勢力が変化あるか分からないので、今川家や松平家から逃れる者達がいるならば匿ってやれば、(いず)れ力を発揮するだろうと語った。



「なるほどな。 ならば近々今川家の黒衣の宰相殿が躑躅ヶ崎館に訪れる故、三河への援軍要請があるだろうから、この時三河や遠江の動向を探る良い機会になるだろう。」


「甘利備州よ、此度(こたび)今川勢の援軍に適任者はいないか?」



 甘利備州は少し考えてから答えた。



「今川家にも縁を持つ跡部越中守行忠殿と御宿藤七郎綱清殿が宜しいと思います。 二人は葛山備中守氏元殿の従兄弟でありますので、今川治部大輔義元様は歓迎してくれるでしょう。」


「ならば跡部越州を此度の大将に御宿藤七郎を副将に任じて、今川殿からの正式な要請が来たらすぐに出兵させよ。 続いて四郎から南蛮渡来の新作物の栽培実験を行う旨の知らせが来た・・・・」



 四郎から、武田家の将来の大きな資金源になると言う知らせを受けた父晴信は、新しい産業の報告を嬉しそうに重臣達と語らって今後の武田領内の統治の話題になってた。

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