萱野惣郷への要請
信州萱野高原にある萱野惣郷は冷涼な土地柄なのか米作りには不適合な地域であり、萱野惣郷の名主を任せられてる桐原九紋次は近年武田領内が景気が良くなっている中で、余り恩恵を受けていない事に嘆いていた。
高遠四郎は畜産業にも力を入れる方針であったが、乳牛や家畜化しようとしてる猪や鹿などは、まだまだ数が少なく武田家への軍馬などを生産している萱野惣郷では未だ恩恵らしい事は少なかった。
したがって萱野惣郷では、萱野高原にて従来通り馬や育成中の農耕牛を放牧して育てていたが、四郎が勧めていた農産業革新の恩恵は少なかった。
ところが天文十八年四月末に高遠四郎から送られて来た使者が、まず名主の桐原九紋次の屋敷にやってきて、出産直後の牝牛を五頭売って欲しいと訪ねてきた。
「其方は、萱野惣郷の名主桐原殿で御座るか? 拙者、高遠四郎様の家臣片切二郎右衛門と申す。 桐原殿の惣郷には牝牛が幾ら育てておるのか?」
「へい、私どもの惣郷では、馬が四十頭余り、雄牛が二十頭余り、牝牛が三十頭余りを育てております。 して片切様は、牝牛を五頭ほど御所望なのでしょうか?」
「うむ、その通りでござる。 四郎様は牝牛から出す乳が必要なので、九紋次から購入したいのだ。」
「なるほど、承知致しました。 ところで四郎様は作物以外の事で、他の惣郷みたいに我々も何か新しい事は出来ないのでしょうか?」
「残念だが四郎様もやりたい事が沢山あり過ぎて、其方達にまで指導が及ばぬので、今暫く待っててくれぬか?」
「承知致しました。 四郎様には、我々の指導の事もよしなにお願い致します。」
片切二郎右衛門は、五頭の牝牛の代金銅銭二貫文を支払い高遠へ連れ帰り、原蹴煤の屋敷で乳牛として飼う事になった。
そして一ヵ月程経った時、再び片切二郎右衛門が萱野惣郷を訪ねてきた。
一ヵ月振りに、萱野惣郷に尋ねて来た片切二郎右衛門を見つけた桐原九紋次は、今度も牝牛か軍馬を求めてやってきたのかと思って、声をかけた。
「片切様、御久し振りですな。 今回も牝牛を求めてきたのですか?」
「いや今回は、高遠四郎様が其方達達に聞きたい事があり、こうして迎えに来たんだ。」
それを聞いて驚いた桐原九紋次は、何かしでかしたのかと大いに動揺した。
「かっ、片切様、儂等四郎様の御不興を買う事をしてしまいましたか?!」
すると片切二郎右衛門は九紋次達を怯えさせた事に気がついて、慌てて謝罪して軽く事情を話した。
「皆々方驚かして済まない。 前回の牝牛の件は、大変評判が良かったので、其方達へ御褒美を賜っても罰など与える事などあろうか。 今回は其方達に聞きたいのだが、この萱野高原は冷涼の地で、米などの作物を作るのに不向きだと聞いだが真なのか?」
「へい、その通りでございます。 先祖代々この地に我々は暮らしてますが、蕎麦や稗や粟などは何とか作れますが、米は無理ですので、昔から牧を営んで牛馬を売る事で生計を立ててます。」
「なるほどな、ならば其方達、冷涼な気候に強い南蛮渡来の作物を試しに作る気ないかと四郎様が申しておる。 もしその作物を作る気あるならば、明日高遠城へ登城せよ。 もし登城いならば、この話は別の惣郷へと持ち込むが如何に?」
「何と!! この様な萱野惣郷に新しき作物を作る事が出来るとは?! 甲斐の保坂惣郷の様に我々の惣郷も選ばれたのですか!!」
「それは明日、四郎様に会って話を聞く事となろう。 四郎様が求めるのは、この新しい作物を作るのに根気よく実験に付き合う覚悟を持った者達なのか、確認したいのだ。」
「わかり申した、すぐに談合します故、片切様は暫し御待ちください。」
片切二郎右衛門から聞かされた話に九紋次を始め惣郷の皆が驚いていたので、一刻余り談合する時間を与えると、桐原九紋次の妹弟や子供達、惣郷の者達を屋敷に呼び集めて、早速持ち込まれた話を談合し始めた。
「皆の者、高遠の殿様から我等に南蛮渡来の作物を作る実験をやらないかと申し出が来た。」
「九紋次よ、我等に今更畑を起こして作物を作れと言うのか?」
「弁蔵、その通りだ。 ここで話を断る事も可能だが、断ればこの話は別の惣郷に持ち込まれるろう。」
「ならば九紋次よ、その作物はどのような物か聞いたのか?」
「いや聞いておらぬ。しかし明日、高遠城に登城し高遠四郎様から直接説明をしてくれるそうだ。」
「九紋次よ、四郎様を信じてのか?」
「四之助は、四郎様が我等を騙すと思うのか? 何故呼ぶ前にどのような作物か教えてない事に疑念を感じるぞ。」
四之助の様にどのような作物なのか教えてくれない事が、四郎に何か裏があると邪推する者達が数人言い始めた。
すると九紋次が邪推する者達に苛立ちを見せて、四之助等反対する者達へ諭し始めた。
「ならば四之助よ。 この話を断り他の惣郷に持ってれた時、そこで成功たらどうする気だ? 片切二郎右衛門様からは、根気よく行ってもらいたいと申しなされてた。 それでも作物を作ってくれと言う話は、この冷涼な土地を活かせる作物だろうと思う。」
弁蔵も九紋次の考えに賛同し、反対してる四之助らを説得かかった。
「四之助、ここは九紋次の話に乗ってみようではないか? 我等の生活に新たな収入源が増えるのならば、いつやって来るか分からない飢饉に対して、餓死者を惣郷から出さなくて済むかもしれん。」
弁蔵から飢饉の備えの事を言われて、過去に女房や娘など売るはめになった者達の事を思い出すと四之助は自然の涙を流し始めて、明日皆で高遠城へ行って話を聞く事に同意した。




