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首を引っ込めた亀

 別室で待たされてた高梨摂津守政頼と下平修理亮吉長は、晴信から呼ばれて越後上杉家へ時間稼ぎの為に、調略をかけようと考えてると伝えると二人共賛成してくれた。


 本来ならば、調略とは時間と資金がかかるものであり、僅かな時間で成果を上げると言うのは、本来あり得ない話であった。


 しかし今回は、長尾左衛門尉晴景が春日山城で追い詰められており、自力で上杉弾正少弼景虎に打ち勝つ事は、非常に難しいと見られていた。


 だからこそ高梨摂州と下平修理亮は武田家への援軍を求めてきたのだが、兵を集めるにせよ越後までの遠征に行くとなると商人達と物資調達の打ち合わせや、越後国内の地形の把握などが必要と晴信は考えていたので、まずは先遣隊を春日山城へ入場させる事に決めた。


 そして先遣隊が春日山城を維持している間にも、越後国人衆の調略と上杉討伐の軍勢を起こすと高梨摂州と下平修理亮の二人に伝えて、上杉家の国人衆で調略にひっかりりそうな人物を数人教えてもらった。


 その教えてもらった越後国人衆の情報を、武田家三ツ目衆頭領富田郷左衛門に教えて、それらの国人衆を調略し謀反または軍役放棄させて上杉勢の動員に不参加させよと命じた。


 また春日山城に入れる者として、重臣の栗原伊豆守信友と栗原左衛門佐昌清の兄弟に甲府で銅銭で集めた傭兵達と栗原家の武士達を合わせて兵二千余りを率いて、六月二十日には春日山城へ向かった。


 その時高遠家から、高安彦右衛門一益や鈴木孫六、それに伴喜左衛門一安など種子島や強弓に自信を持つ五十名余りの傭兵達が四郎から頼み込まれて、栗原豆州の指揮下に入った。


 高遠四郎からの文を栗原豆州に渡した目付の猫有光江(みょううこうこう)は、いつもの白拍子の姿とは違い、馬に(またが)り四郎から授かった緋色の女武者の鎧を着て、傭兵達の集まりの中で目立ちまくってた。


 他国から来た傭兵達は、ここに女武者が混じってるに驚いていたが、甲信や関東出身の者にとっては女武者がいるのは珍しくない話であったので、その説明を受けると他国の者達に受け入れられた。


 しかも光江(こうこう)は見目麗しい少女だった為、口説こうと近寄る者達が数多くいたが傭兵仲間の間で実力者として有名な高安彦右衛門が睨みを効かせて、近寄る男を口頭や実力で排除していた。



 ____________________________________________________________




 栗原豆州を大将に栗原勢兵二千が越後春日山城に向って甲府を出発してた頃、上杉勢を率いてる上杉弾正少弼景虎は今年なってから越後府中を抑えた為、目前にある兄長尾左衛門尉が籠る春日山城をどう降すか、幕僚達と軍議を幾度も開いていた。


 そして此度(こたび)以前義父上杉越後守定実の居館であった御館の本陣で、軍議を行ってた時に上杉家の忍び集団軒猿衆頭領雪之鴉鵠(ゆきのうじゃく)が、重要な情報を軍議の最中(さなか)に持ち込んできた。


 雪之鴉鵠(ゆきのうじゃく)は上杉弾正少弼の耳元にやってきて、他の幕僚に聞こえないように耳元で(ささや)いた。



「御実城様、実は配下の(いかる)が春日山城に侵入した際、長尾左衛門尉家臣下平修理亮が密命を受けて春日山城を出立し、信州高梨家の中野城に入った事を掴みました。そして翌日には、高梨摂州と下平修理亮一行は南の甲府へ目指した事ですので、恐らく武田家からの援軍を募りに言ったと思われます。」


「承知した。軍議の後に指示を与える故、このまま別室で待機せよ。」


「御意。」



 雪之鴉鵠(ゆきのうじゃく)を下げた後、上杉弾正少弼は幕僚達に兄長尾左衛門尉の動きをまず伝えた。



「此度は、兄長尾左衛門尉を平穏に降す心算(つもり)でいたが、どうやら長尾左衛門尉は高梨摂州を通じて、武田の援兵を望まれたみたいだ。このままだと、恐らく七月半ばには越後に武田勢が出現する可能性が出てきた。皆々方の御考えを私に教えて欲しい。」


 最初に叔父長尾十郎景信が姪上杉弾正少弼に話かけた。



「御実城様、此度(こたび)こうして堅城たる春日山城の目前まで軍勢を出したのは良いが、越後統一を目前に左衛門尉は、他国の力を借りようとしておる。あ奴戦下手なのを自覚しているせいか、春日山城より籠って我等と戦おうとしないので、逆に我々が焦る事になりそうだ。このままでは、形勢をひっくり返されてしまうぞ。」



 その意見に同意したのは、去年上杉弾正少弼と共に信州に入り込んだ柿崎弥次郎景家と山吉孫次郎政久が武田勢の精強な将兵に油断ならぬと言葉にしていた。



「去年、御実城様と共に村上防州殿を救出したのだが、武田家の軍勢は油断ならぬ。我等が奇襲したのに崩れず反撃もしてきた。あの軍勢を正面が組んで戦えば、双方の犠牲は目に当てられぬ事になるぞ。」


「拙者は後方に待機しておりましたが、御実城様と柿崎弥次郎殿達が率いた騎馬の内、三分の二の馬達が越後に戻った時に傷ついており使え物にならなくなった。 この事を(かんが)みると武田家との闘いを越後で行うのは避けねばならん。 越後を戦場にしたら、京の都の様に荒廃してしまうだろう。」



 そして今や景虎の軍師格と言われるまでに重用されてる宇佐美四郎左衛門定満は、実際戦った柿崎弥次郎や山吉孫次郎等の意見を重視して、春日山城の攻略に時間をかける事は危険だと悟った。


 その為、早期に勝たずける案を景虎の前に提示した。



「御実城様、武田勢が来月にもやってくるようならば、大変危険な事になるでしょう。したがって(それがし)は、長尾方と早く決着をつける事を提案します。」


「ほう、四郎左衛門は何か策でもあるのか?」


(それがし)此度(こたび)の状況を(かんが)みて、謀略を持って対処する事を提言します。」



 宇佐美四郎左衛門が謀略を持ってと言う言葉を使い始めたので、景虎を始め上杉勢の幕僚達はその様な詭計(きけい)(うと)く好まない者達が多かったので、柿崎弥次郎を始め武将達は宇佐美四郎左衛門の方を見て、苦々しい表情を作っていた。


雪之鴉鵠(ゆきのうじゃく) 1533年生まれ 越後忍び集団軒猿の頭領。 生まれた時にアルビノだった為、気味悪がった親に捨てられたのを先代頭領の山震孤朽(さんしんこちく)に拾われて、忍びとして育てられた。


鴉の様に賢く白鳥の様に気高き者となれと言う意味で、育ての親山震孤朽が名付けた。

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