藤吉郎、故郷に赴く
天文十八年四月吉日を選び木下日吉丸は四郎が用意してくれた正装を着込み、春日大和守重房が烏帽子親となり、加冠の役を行った。
本来ならば烏帽子親の春日大和が烏帽子親なので、諱が春日大和の一文字から取るのが普通なのだが、四郎は前世の知識から木下藤吉郎秀吉と言う名を知ってる為、先に藤吉郎と決めて元服を行った。
秀吉と言う諱は、いずれ出世したら付けてやるつもりなので、暫くは藤吉郎で呼んでやろうと決めてた。
これに伴い木下藤吉郎は高遠城下の足軽長屋に住居を与えられて、知行三十貫の高遠家家臣に正式になった。
知行三十貫と言うのは、武田家では一貫が四石相当に当たる為、約百二十石ぐらいとなる。これは山本勘助晴幸が武田家に仕官した時、二百貫の知行を父上から与えられてたと言うから、それ程高い訳でしない。
ちなみに百二十石相当の収入とは一つの惣郷の住人約百人ぐらいの年収規模であるが、統治してる惣郷を持ってないので土地持ちよりも収入は多いが、将来的に収入増が見込めるのは領地持ちの方である。
領地持ちも領地無しも動員令がかかった時、足軽や武具防具を自前で用意しなくてはいけないのだが、領地持ちは自前の領民を足軽にすることで、動員令に対応出来るのだが、未だ領地を持ってない藤吉郎は非常時は自前で親族や傭兵に声をかけて集める事で、武田家からの命に従う事になる。
しかし藤吉郎は百姓上がりで年齢もまだ十三歳なので、その様に考えると破格の待遇と高遠家家中では、その様に見られていた。
特に四郎の傍で働いてる小姓達からは羨ましがられており、四郎も日頃から働きに見合った家禄を決めたいと申してるので、家中では近年の産業振興により高遠家の財政が向上してる事に伴い、皆の励みになった。
元服を済ませた藤吉郎は、一度故郷の尾張へ戻って親族とか家臣を募る予定で、その後高遠で帰還途中に海たわし(海綿生物)を集める算段を立てて、その事を四郎に報告した。
「四郎様、拙者は四郎様の御執り成しにより、御家を立ち上げる事が出来ました。 その事で四郎様に伝えたい儀がありまして、一度故郷に戻って親族や知り合いの中から、木下家家臣を集めようと思うのですが宜しいでしょうか?」
「藤吉郎、尾張へ赴く事を許す。良き家臣を集えよ。」
「ははっ、有り難き事であります。」
四郎は藤吉郎がその様な願い出る事は、当然だと思ってたので一言で済ませた。藤吉郎は、四郎から許可を得るとすぐに烏帽子親になってくれた春日大和の所に行って、木下家の家臣を集いに一度故郷の尾張へ赴くと言うと、春日大和は藤吉郎に元服した祝いに一頭の馬をくれた。
「藤吉郎よ、其方は武士になったのだから、馬を贈ろう。 この馬は、我々が一緒に四郎様り命で、家畜を求めて駿河に向かう直前に我が領地の牧で誕生した若駒だ。」
「大和様、あの頃に誕生した若駒ですか。そしたらまだ乗馬は無理ですが、来年辺りには乗れそうですな。」
「そうだ。今回の旅には藤吉郎を乗せるのは難しいが、荷物を背に乗せるのは出来そうだ。それに藤吉郎に馴らす機会でもあるから、連れて行ってやってくれ。」
「承知しました。 ところでこの若駒に名前は付けられているのですか?」
「いや付けてないぞ。もし付けたいならば、付けて良いぞ。」
「絶壁飛はどうですか? 山々をカモシカの様に駆けあがる事を願って考えました。」
「それは良い名だと思う。 こいつも良い名を貰って、機嫌も良かろう。」
藤吉郎は五月上旬に春日大和から譲られた絶壁飛に荷物を載せて、家臣を集める為に故郷の尾張に赴く事になった。
____________________________________________________________
藤吉郎が信州高遠を離れてた頃、武田家の周辺国では様々な動きが起きていた。
越後では、上杉弾正少弼景虎が兄長尾左衛門尉晴景に対して徐々に優勢となり、危機に感じた長屋左衛門尉は高梨家を通じて、五月頃から武田家との同盟交渉を行うようになった。
武田家としては、越後が友好勢力に統治される事を望んでいたし、去年村上家の救援に越後上杉勢が侵入しているので、越後の情勢に関心を持たれていた。
また越後の隣国越中では一向宗の力が大きくなり、それを抑えたい能登の畠山氏との間で幾度も戦が起こっており、畠山氏からは武田家へ一向宗への攻撃を要望する文が何度も届いていた。
しかし武田家としては、自国内の一向宗に関しては武田家の法度を守ってる限り、攻撃する対象にはされていない為、越中一向一揆が信州に流れ込んだ一時期よりは、一向宗との関係は悪くなかった。
続いて関東に目をやると、上毛では西上毛が武田家の統治を受けているが、残りの地域は長野信濃守業正が関東管領上杉兵部少輔憲政が上野国から去った後、国内の国人衆を纏めようと沼田氏、赤井氏、倉賀野氏、惣社長尾氏、高津長尾氏、白井長尾氏、岩櫃斎藤氏、岩松氏等が長野信州へ反発し、上毛は群雄割拠の状態に陥ってしまった。
その為、西上毛を除いた地域で、長野信州は軍勢を率いて各国人衆を臣従させようと、幾度も戦いが発生していた。
一方、他の関東見ると三年前に発生した河越合戦後の武蔵国では、北条家が領地経営に悪戦苦闘していた。
原因は、河越合戦時に関東管領上杉勢八万が河越城を包囲した時、補給の為武州北部を蹂躙して略奪や暴行を繰り返し起こしており、その結果武州の領民が周辺国へ流民として流れてしまい未だ荒れた土地が沢山放棄されていた。
北条家は領地経営に手間取る事になり、その中で天文十八年になってから大きな地震が発生してしまい、北条家の領国全域から、領民が逃亡する深刻な事態に陥った。(北条家だけではなく、里見家や佐竹家でも領民の逃亡が見られた。)
この為、北条家は同盟国で震災の被害が少なかった甲州武田家へ経済的支援を求める使者大道寺駿河守重興を送り、武田大膳大夫晴信はこの時北条家へ緊急に金千五百両も貸す事になった。
その代わり北条家か武田家へ見返りとして、武田家と北条家との間に両属になってた甲斐小山田氏や幾つかの国人を武田家所属に決められた。
また河越合戦後の武蔵国秩父郡など、北条家の影響が未だ及ばず武田家の影響が強い地域は、武田家所属に譲渡される事となり、北条家は立て直しを図った。
北条家の拡大が鈍った事で関東の有力大名各家は、北条家に敗れた河越合戦の被害からの回復に努める事が出来た。
特に佐竹家や里見家は、震災で領民が離散したにも関わらず領国拡大を図った為、北条家は否応に攻撃受けた同盟国救援の軍勢を派遣した為、領国経営が遅々として進まなかった。




