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美濃はさっさと駆け抜けよう

 信州高遠に帰る途中に藤堂源助虎高へ文を渡す為、江州藤堂村に立ち寄った猫有光江(みょううこうこう)一行は藤堂村から離れる際、再び藤堂源助から武田大膳太夫晴信と高遠四郎宛の二通の文を受け取った。


 そして美濃路を通って信州高遠に戻る事を藤堂源助に伝えると、最近の東海道の情勢がきな臭くなってきてるので、美濃の井ノ口の町まで御供しようと言い出した。



猫有(みょうう)殿、美濃の国も斉藤山城守利政が統治していて治安は一応安定しておるが、隣国の尾張や三河がきな臭くなってきておる。噂では、再び今川家と織田家との戦が起きるかもしれないと言われており、今年の正月には織田家の橋本一巴なる者が国友を訪ねて、鉄砲鍛冶達に五百丁の種子島の製造を依頼しておる。おそらく対今川に使うための発注だと思うが、今川方も美濃や近江で米を買い漁っておるのだから、近々大きな戦が起きるかもしれぬ。」



 それを聞いた光江(こうこう)は、藤堂源助が物資の流れで他国の戦を読んでしまう頭脳にとても驚いてしまった。



「藤堂様は、とても聡明なのですね。御屋形様や四郎様が文を送る意味が何となく判りましたわ。」


「拙者の兵学の師匠である荻原常陸介昌勝様が、物資の流れや物価の上下には必ず理由があると教えを受けました故、非才な拙者にとって荻原常陸介様からの言葉を(かたく)なに守ってるだけでございます。」



 その様な事を藤堂源助は、美濃井ノ口の町まで行く道中にその様な話を皆に教えてくれて、光江(こうこう)一行が畿内にいる間にも近江や美濃での情勢を知る事が出来た。



「藤堂さんよ、最近の美濃の景気はどんな感じか分かるかい?」



 高安彦右衛門一益は物流の流れによって、そこの地域の動向が(おおよ)そ分かると藤堂源助が言ってたので、美濃の情勢を知りたいが為に聞いてみた。



「昨年、斉藤家は武田家と争って和議を結んで以来、どうやら斉藤家は一旦国内の国人衆を引き締めに入ったみたいだ。そして斉藤城州の嫡男新九郎高政が、六角家に臣従した浅井家から正室を貰っておる。御蔭で江州と農州の緊張が緩和されて、商売がやりやすくなってると商人達は言っておった。」


「なるほどな。美濃の蝮は、今は金儲けに走って力を溜め込んでる感じか。俺達傭兵の仕事があるとしたら、やはり尾張の織田と駿河の今川の争いが当面の仕事場になりそうだな。」


「彦右衛門殿等の商売が傭兵ならば、織田や今川もきな臭いが畿内の情勢も中々のもんだぞ。榎並城を囲んでる三好家と救援しようとしてる京兆細川家や六角家が大軍を集めておるらしい。」


「ん?六角家もか? もし六角家が動員かけるのならば、浅井家も動員されないのか?」


「浅井家からは、家老の海北善右衛門綱親が六角弾正少弼からの指名で、六角家の援軍に参加しておる。なので拙者みたいな少身は声すらかからんな。」



 美濃路を進む旅自体は順調だったので二日余りで井ノ口の町に到着して、ここで藤堂源助達と別れる事になった。



「藤堂様、ここまで付き合ってくれて、ありがとうございます。御屋形様と四郎様には、藤堂様に大変御世話になったと言う事を伝えておきますので、どうか気を付けてで御戻りください。」


「皆さん、道中無事にいてください。高遠まではまだ五十里近くありますが、幸い今年に入ってから美濃の治安も悪くないみたいですので、拙者達は井ノ口で買い物してから藤堂村に戻りまする。」



 そういうと藤堂源助等は猫有(みょうう)一行と別れたので、その後井ノ口の旅籠に一泊してから信州高遠へ向かい、四月上旬に無事辿り着いた。



 ___________________________________________________________




 猫有光江(みょううこうこう)等一行が近江の道中を移動して藤堂源助に会う前の三月六日に、三河国岡崎城では城主松平次郎三郎広忠が岩松弥八に刺殺される事件が起きた。


 岩松弥八は、三河国広瀬城主佐久間九郎左衛門の家臣で、戦場において片目を失いながらも敵将の頸を取る勇猛な(やから)で、自ら片目弥八と呼んで己の武勇を誇っていたが宴の席で、武芸は優れど遊芸は未熟だと揶揄(からか)われてしまい、翌日寝所から出てきた松平次郎三郎は激情した弥八に腹を刺されてしまった。


 この騒乱を朝の城番交代の為、登城して来た植村新六郎家政と叔父の松平与十郎信孝が異変に気付き岩松弥八を追いかけて、植村新六郎が手傷を負うも捕え松平与十郎がその場で、槍にて岩松弥八を刺した。


 しかし松平次郎三郎は岩松弥八に刺された傷のせいで数刻後に亡くなってしまった為ので、この事を知った今川家と織田家は大いに動揺する事になった。


 まず今川家は、この刺殺された事実を知ったのは三月十日に早馬が到着、それを知った今川治部大輔義元と太原崇孚(たいげんそうふ)は評定が始まってからでは遅いと思い、西三河を今川領にする為に城下に滞在してた三河川手城主山田新左衛門尉景隆を呼び急遽岡崎城に派遣し、織田勢との三河争奪戦に一歩先んじた。


 一方、織田方の動きは、翌日の三月十一日には松平次郎三郎の刺殺の件を入手していたが、この頃から織田三河守信秀の体調が優れなくなっており、織田家の政務にも支障が出る位になっており、代行として嫡男三郎信長が政務を行うようになっていた。


 早馬で松平次郎三郎の刺殺の件を聞いた三郎信長は、すぐに家臣一同を終結させ軍議に入ると軍勢を集めて、三河安祥城を任されてる庶兄の織田三郎五郎信広に援軍を送り、混乱している三河岡崎城を攻め落とす機会がやってきたと喜んだ。


 しかしその直後に信長の従兄甥で尾張犬山城主織田十郎左衛門信清が、ここに来て織田三郎に対して独立の動きを見せ始めたので、当主代行を行ってる織田三郎は、庶兄の織田三郎五郎が守る三河安祥城への援軍を送る余裕が無く、安祥城にいる織田三郎五郎は岡崎城を攻める機会を失う。


 逆に四月なると約二万の今川勢を率いて岡崎城に入場した太原崇孚(たいげんそうふ)は、これを機に安祥城を攻略しようと、松平勢を先鋒に二万余りの今川勢が安祥城へ襲い掛かった。


 先鋒の松平勢は松平次郎三郎が亡き後、松平家の当主が不在状態となってたので、安祥城攻めの前に岡崎城での軍議を行った際に、太原崇孚(たいげんそうふ)は松平家の諸将にもし織田三郎五郎を捕らえる事が出来るのならば、織田家が捕えてる松平竹千代殿と交換出来るであろうと語り、松平勢に奮起を即した。


 合戦の始まりは、今川勢が織田三郎からの援軍を断つ為に鳴海城や大高城を抑えて、織田三郎家臣佐久間新吉兵衛正盛の山崎城を占領した。


 今川勢が安祥城を孤立させた後、先鋒の松平勢を率いた陣代の本多平八郎忠高と大久保五郎右衛門忠俊が安祥城の北側から夜襲を行い三の丸、二の丸を次々に落とし本丸まで迫ったが、織田三郎五郎が仕掛けた策に(はま)り、陣代の本多平八郎は矢の雨を受けて射殺されてしまった。


 陣代本多平八郎忠高の討ち死は先鋒の松平勢を大いに動揺させて、将兵の犠牲も増大したので太原崇孚(たいげんそうふ)は攻略を断念して、全将兵を岡崎城に退却を命じた。


 一方単独で安祥城防衛に成功した織田三郎五郎は、前年の小豆坂合戦の奮闘も相まって大いに武名を上げて、織田家中で東方を守る持国天の化身と(うたわ)われる事になった。


 その為、太原崇孚(たいげんそうふ)は一筋縄ではいかぬ織田三郎五郎の攻略の為、駿府に帰還したらすぐに主君今川治部大輔義元と評定を行い、武田家に対して援軍要請を視野に入れた安祥城攻めを検討する事となった。










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