90 根来拾三対石田宗次
根来は、石田宗次の姿をまじまじと見つめた。
(こいつが石田宗次か……)
実は、根来は、石田宗次が柔道部と文芸部を兼部していることを知っていた。そして、石田宗次と接触したいがために、このような柔道場に生徒を連れ出したのだった。
なるほど。この男子生徒が石田宗次か。まだ高校二年生のはずだが、大人びた顔立ちから、大学生ぐらいに見える。安定した姿勢を見ただけでも、がっしりとしていて、山のように動きそうもない。
骨ばったくるぶしが見える足がこちらに近づいてくる。この組手では、使える技は、柔道技だけではないから、不用意には近づいてこない。二人の間には空間が空いていた。それは、静かすぎるほどの静けさだった。
二人はぎりぎりの距離にあった。どちらかが動けば、どちらかが動く。もしも、この空間が崩れたら、それはどちらかが投げられる時だろうと根来は思った。石田宗次の距離感は完璧だったが、猛虎の如き根来は、そんなものを崩してしまうぐらいに素早かった。根来が飛び込んだ。掌底を石田宗次の顎に当てるつもりだった。石田宗次は、間一髪のところで、根来の手をかわしながら、反転して、根来の背面に飛び込んだ。二つの体が重なりながら、石田宗次が背後から、根来の手首をとらえているように思った。関節技に持っていかれると根来は焦った。途端、根来は振り向きざま、石田宗次の両足を跳ね上げようとした。が、そこに石田の足はなかった。避けたのだ。根来の足は無様に宙を舞って、その体はまったく、何もない空間に投げ出されたようだった。バランスを完全に失った。やられる。途端、石田の足が稲妻のように床を駆けめぐり、根来の体を勢いよくすくい上げた。そのまま、根来は畳の上に勢いよく放り投げられた。石田の手を離れていたので、根来の体は宙を舞って、辛うじて足の裏から着地した。つまり、倒れなかった。
「やるな……」
根来は、苦々しく思った。今のは、実戦でやられたらまずかった。しかし、やつは柔術と言っても柔道しか知らないはずだと思っていた。組み合わなければ、つまり距離さえあれば、当て身技で倒せると思っていたが、それにも柔軟に対応してきた。見事だ。まあ、若い頃の俺ほどではないが。いずれにしても、もう手加減をする必要はないということだ。
石田は、根来の尋常ではないスピードに驚いていた。それにどういうわけで、足の裏から着地できたのか、合点がいかなかった。とにかく、根来から手が離れたせいだろうとは思った。
根来は、すぐにまた姿勢を立て直すと、同じ距離感で二人は対峙した。
「食らえっ!」
根来のもの凄い怒号が柔道場に響いた。どどどっと空気が揺れて、男子生徒たちは息を呑んだ。
根来はまた、四メートルも遠くから、猛虎の如く飛びかかってきた。石田は龍の如く飛びのいたが、根来の電光石火のスピードには追いつかなかった。瞬く間のうちに石田の懐に根来が飛び込んできて、逃れる隙もなく、石田の足首は、たちまち、根来の足首に跳ね上げられた。石田は、世界が一回転するのを見た。流星が駆けめぐるようだった。あまりの速さに理解が追いつかなかった。意識だけ飛ばされて、内臓がまだ元の場所にあるかのようだった。石田は、畳に叩きつけられた。全身に、車に潰されたような衝撃が走った。うめき声も上がらなかった。しばし、彼は茫然と天井を見上げていた。ただ、そこにあったのは自分がいつかたどり着けるかもしれない神聖な境地を目の当たりにした感動だった。




