73 百合菜の思い出
夕紀百合菜は不安に取り憑かれながら、女子寮の廊下を歩いていた。
百合菜は、事情聴取が終わると、女子寮の自分の部屋に戻ろうと考えたのだった。ドアを開くと、室内には明かりもなければ音もなかった。スイッチを押すと、やはり今日の朝と寸分変わらぬベッドと机とが白い明かりに照らし出された。百合菜は自分の部屋に誰もいなかったことにほっとした。
百合菜が、壁にかかった鏡を覗き込んだ。そこにはあまりにも出来すぎている美しい顔が、憂鬱な表情を浮かべていた。百合菜はこの美しい顔に生まれたことに自信を持つと共に、いつも心のどこかで恨んでいた。このあまりにも美しい顔であるがために単純な人が集まってくるのを煩わしく思う気持ちもあった。それにどんな人でも惹きつけてしまうその見てくれの美しさは、浅はかな人間を数多惹きつけてしまい、そうした人間が群れを成して行進してくるように思えるのが、彼女には悩みの種でもあった。
善人と悪人とを見分けることに悩むこの美しい顔は、しばしば曖昧な微笑を浮かべた。肯定も否定もしない微笑だった。曖昧な微笑は美しい顔をかえって美しく彩る時がある。その美しい顔が今は憂鬱な色合いに染まっている。
百合菜はぼんやりとした心地で、鏡の前で制服を脱ぎ始めた。シャツのボタンが上から順に外されて、形の良い鎖骨が顕となり、白い明かりに照らし出された。それから百合菜は、シャツとスカートを脱ぐと、自分の姿を一周させてみた。由依のようなはち切れんばかりの健康的なボリュームはあまりなかったが、腰はしなやかな丸みを帯びていて、背中のくぼみなども、それなりに官能的だと思った。しかし、今の彼女はこんなことをしているのがただの現実逃避にすぎないことを知っていた。美醜を論じるべき時ではなかった。それなのに彼女は少し美醜が気になっていた。
(人が死んだんだ……)
彼女は突然、現実が押し寄せてきたように思った。それは鮮やかな感覚だった。途端、こんなことをしているべきではないと焦りだした。どうするべきか悩んだ末、彼女はもっとも単純な手段を選択した。洋服を着ることだった。
部屋着に着替えた彼女は、ふうとため息をついてベッドの上に倒れた。そして、あまりにも静かな部屋の天井を眺めた。時間が止まっているように感じられた。
この瞬間に至るまでの記憶が、彼女の脳裏に蘇ってくる。それは、天井の眺めを覆い隠して、鮮明なる情景となって眼前に現れてきた。
それは、遠い兄の記憶だった。それに、まだ幸せだった頃の我が家だ。父がいて、兄がいて、血の繋がらない母親とも距離を置きながら上手くやっていた時期のことだった。
百合菜は小学生だった。父と兄が百合菜の両手足を持って「ブランコだ」といって、左右に振りまわしていた。百合菜にとってはそれは苦行に他ならなかったが、父と兄が本当に笑顔だったのを覚えている。そうして、布団の山に向かって思いきり投げられて、百合菜は目を回して、床に転落した。「楽しいだろう?」と父に言われてカッとなった百合菜は、父の頬を思い切り打つと、泣きながら家の外へと駆け出した。外は一面の闇だった。「百合菜!」と父は叫んで追いかけてきた。百合菜は、高級住宅街の高い塀から飛び出し、一目散に河川敷の土手を駆けた。空と川だけが藍色に染まっていたが、草木は真っ黒に染まっている。ひっそりとした中で、鈴虫の声だけが響いていた。もうここまでくれば誰もこないだろうと思って立ち止まると、百合菜は途端に寂しくなった。しかし、彼女は家には帰りたくなかった。土手にうずくまって泣いていた。どれほど時間が経ったものだろうか、兄の声が近づいてきた。「百合菜、百合菜」。百合菜は、その兄の声を聴いて、はっと立ち上がった。百合菜はその影に飛びついた。
百合菜は、天井が映画のスクリーンのようになっていて、過去が思い出されてきたのを感じた。兄が死に、父が死んで、義理の母に捨てられ、親戚の家に預けられた今日までのことを思い出し始めた。




