43 由依の死闘
由依は、深い森の中をまっしぐらに駆けたが、黒い人影は木々の背後に隠れるようにして逃げていて、その姿をちらりと見せたかと思うとたちまち見えなくなってしまうのを繰り返した。
由依は、生い茂った雑草に足を取られながらも、道なき道を突き進んだ。犯人の姿こそ、はっきりと見えなかったが、気配は常に間近にあった。
しかし、由依はどうするつもりなのか。彼女は、もとより犯人と格闘をするつもりなどなかった。直接の争いは避けて、犯人の正体を知ることが最大の目的だった。由依は足が速かったから、一目犯人の顔を見たら、たちまち引き返して、兎のように走って逃げてこられる自信があった。都合の良いことに、犯人は思ったよりも足が遅いらしく、由依からそう遠くないところを常にうろうろしているように感じられた。これなら逃げ切れる、と由依は思った。
森は、だんだんと下り坂になっていった。杉の大木の合間を縫って、木々の根っこや枝が絡まったところへと駆け下りてゆく。由依は、鬱蒼とした密林の底へと潜るような感覚だと思った。それは、おもちゃ箱をひっくり返したような、乱雑で混沌とした世界だった。……その時。
(何か音が聞こえる……)
由依は耳をそばだてた。坂を下ったその先から、水のせせらぎが朗々と聞こえてくるのだった。この先に小川が流れているのかもしれない、他に当てもない、きっと犯人はそっちの方へ向かったのだ、と由依は半ば自分を信じ込ませた。
由依は、不安定な足場の中で一層足を速めた。すると、ぱっと視界が広くなった。森の切れ目、青空の下に清らかな小川が涼しげに流れていた。しかし、そこに犯人の姿はなかった。
(……逃がしたか……)
由依はひどく残念に思った。あの脅迫状を送った張本人が、八重を脅かそうとしていたことは明白だと思った。この機会に、その人物が何者かを知ることができなくては、もはや打つ手がない。こうなっては、八重と百合菜の安全が保証されるのがいつになるのか、まるで見通しが立たなかった。その絶好のチャンスをみすみす逃したのだ。
由依は悔しさが込み上げてくるのを感じた。どうしようもないことほど、諦めがつかないものなのか、由依は無言で、気持ち良く透き通った緑色の水を呆然と見つめていた。
ところが、その時だった。由依は突然後ろから何者かに掴まれた。思いもしなかった力強さで後ろに引き寄せられた。
「うわっ!」
由依は叫んだ。小川のせせらぎの他に何の音もしない中で、その声は生々しく響いた。由依は咄嗟に、殺されると思った。彼女は手で振りほどこうとしたが、思ったようには力が出ない。今度は、足を振り回して、後方にいる人物の足を蹴ったが、手応えはあまりなかった。訳も分からず、宙を蹴っているようだった。足元で石がごろごろと音を立てて転がった。それが川に落ちて、水しぶきも起こった。ほとんど、腰砕けのようになった。その時、由依の視界の右端に、光沢を放つ刀身が映った。
「やめてっ」
由依は、思いもよらず大きな声で叫んだ。頭の中が真っ白になった。そして彼女はそのまま、意識を失った。




