30 百合菜の過去
羽黒祐介は、類い稀な美男子であったが、決して近付きがたい耽美な感じではなかった。親しみやすい微笑みがなんとも愛おしかった。
百合菜と八重は、祐介の座っているテーブル席に座った。八重は、この理解しがたい事態を理解しようとして、内容のない日本語の断片を口から出しては処理しきれずに中断した。
「でも、なんで……そんな……何が……どうして……」
「待って。八重ちゃん、落ち着くんだ……」
祐介はさも、自分は冷静だと言わんばかりの口調である。
「祐介さんだって、慌ててる癖に……」
「そうかもしれない。三人とも混乱している。だから、ここはひとまず冷静になって、状況を整理しよう……まずは深呼吸……」
祐介がそう言うので、八重は胸いっぱいに空気を吸った。
そこに口髭の店主が水の注がれたコップを両手に持って現れた。
「おや、三人はお知り合いですかな。ふふん。何を注文しますか」
八重は、混乱しているので、慌ててメニューに視線を落としたが、なんと言ったら良いか分からない。そうだ。珈琲を注文すれば良いのだ。
「あの、珈琲で……」
「ブレンド?」
「はい」
「そちらは……?」
と店主は百合菜の顔を見た。その時、店主は、いつかこの少女に会ったことがあるとでも言うような、懐かしいような、そんなどこか引っかかる顔をしたが、何も言わなかった。
「私はモカ……」
「分かりました」
店主は、頷くと、またキッチンの暖簾の奥へと消えて行った。
店内の、バイオリンの音色はいつの間にか止んでいて、それに代わって、ギターの弦を弾く、柔らかな音色が、いとも美しくリズミカルに響いていた。それは叙情的なメロディであり、踊りだしたくなるほどに軽快だった。
「お二人は、お知り合いだったのですね」
と、百合菜はそう口を開いた。
「従兄妹なんだ……」
と、八重がすかさず言うと、百合菜は深く頷いた。彼女は納得したらしかった。八重はそれを見てから、祐介に向き直り、
「それで、どうして、祐介さんがここにいるの?」
と尋ねた。
「私が依頼したんです」
と、百合菜が先に口を開いた。
「百合菜が、依頼を?」
八重は訳が分からなかった。
「……まさか、七不思議の調査を?」
そんな馬鹿な、と八重は思った。案の定、百合菜は首を横に振った。
「八重さん、私が調査を依頼したのは、以前から話している紫雲学園の恐ろしい秘密について、です」
「恐ろしい秘密……」
この言葉に祐介は頷き、目の前の白いカップを手に取って、珈琲を一口含み、テーブルの上に肘をついて、手を組んだ。
「そうか。八重ちゃんは紫雲学園に入学したんだっけ……」
「そうだよ。合格した時、電話しなかったっけ?」
「電話……。うん。確かに、合格おめでとうと言った記憶がある。忘れていたわけじゃないけど、ちょっと覚えていなかったな……」
と、祐介が理解しがたいことを真面目くさって言うので、八重は、はっ倒そうかと思った。
「でも、百合菜が依頼って、どうして……?」
「うん。夕紀さん。八重ちゃんに依頼のこと、話していいのかな?」
「ええ」
こんな時、百合菜は少しつんとして見えた。祐介はそれを見て、この場で依頼の内容を喋るべきか迷ったようでもあったが、百合菜本人がここに八重を連れてきたということは、八重に事情を話す覚悟があってのことだろうと思い切ったらしかった。祐介は頷いて、八重にこれまでの経緯を話し始めた。
「八重ちゃん。経緯というのは、こういうものだった。僕が、夕紀さんにはじめて会ったのは、今から一月ほど前のことだった。あれは、雨の降る日のことで、僕は一人で事務所にいた。助手は釣りに出かけていた。そんな時、夕紀さんから電話がかかってきて、三十分後に彼女が到着したのだ。ところが、事務所に訪れたのはまだ高校生の少女だったから、僕ははじめこの依頼を断ろうと思った。しかし、その依頼は、僕の関心を充分に引くものだった。それは、夕紀さんのお兄さんの不審死に関するものだった。夕紀さんのお兄さんは四年前に、君の通っている紫雲学園に入学し、そしてある日、行方不明になった。そして、しばらくして、紫雲学園裏の山中に転落死を遂げた姿で発見された。この一件は、今日に至るまで、単なる事故と説明されてきて、警察もその見解を崩しておらず、紫雲学園の関係者にいたっては、生徒が山の中に入るのを固く禁じたぐらいでことを済ませた。誰もその真相を疑っていないのが現状なんだ」
八重は、今までこんがらがっていたさまざまな謎がみるみる解けてゆくのを感じた。百合菜が、この喫茶マトリョーシカに至るまでの道を熟知していたのも、兄と一緒に訪れたことがあるからなんだ。そして、彼女がしきりに口にしていた紫雲学園の恐ろしい秘密というのは、彼女の兄の死に関する秘密のことなのだと、八重は想像することができた。しかし、だとしたら、気になることがある……。
「でも、そのことが……学園の七不思議と何の関係が……?」
と、八重はその疑問を口にした。
「七不思議? 何のこと?」
祐介は、七不思議という言葉にピンときていない様子だった。八重ははっとした。どうやら、祐介は七不思議のことについては何も聞いていないらしい。そうか、祐介さんが依頼されたことと私が調べていることは何の関連もなかったのか、どうやら、てんで見当違いのことを尋ねてしまったらしい、と八重は赤面した。
「それで、百合菜は……」
八重は、話題を変えるように、百合菜の方を向いた。
「……もしかして、お兄さんの不審死を解くためにこの学園に入学したの?」
「そうかもしれません」
と百合菜の返事は曖昧で、思わせぶりなものだった。
「お父さんとか、お母さんはそのことについて何も言わなかったの?」
「なぜ、父や母が私の転校に異議を唱えられるのでしょう……?」
そう答える百合菜は、今まで見たことがないほど気丈で鋭かった。
「だって、お兄さんが事故で亡くなった学園なんかに娘を入学させたいと思うかな……」
「父も母も、兄のことはよく知りません。それに、現在の父と母は、実際には私の叔父と叔母なんです。その二人は、私の本当の父が病死して遺していった遺産で、今の豊かな生活ができているのです。それは私を引き取ることが条件で、本家から毎月振り込まれてくるんです。今でも、私の為すことに二人は何も言いません。お金さえ、ちゃんと入ってくればそれで良いんです」
そう語る百合菜は、あまりにも坦々としていた。彼女は、感情がないもののように、そうした過去を機械的に語ってゆくので、八重はどのような表情で聞いて良いのか分からず、眉毛が上がったり、下がったりしていた。
「私は、父が病死した時、母親に捨てられたんです。父の遺言の通り、私一人だけ、叔父と叔母に引き取られました。多額のお金と引き換えにね。父が死んだ時、私が叔父叔母の家に引き取られたのは、それは、私が本妻の子ではなかったから……」
百合菜は人形のように無感情に過去を語り終えた。この子が、そんな過去を持っているなんて、思いもしなかったと八重は自分を恥じた。