古強者の教え
「兄上からの使者?」
「ハッ」
いつも通りの城主としての仕事をこなしている信行に使者がやってきた旨を側使え小姓が伝えた。
小姓曰くいきなり使者がやってきた、との話に信行は胸中の不安を隠しきれなかった。
信行の立場を信長は誰よりも知っている筈で、なら不用意に信行に接触することはありえないからだ。
もし接触する用向きがあるとすれば、家の大事かもしくは信行の首に綱を着けるため。その二者のどちらかだろう。
しかし後者は時が経てば立つほど策の鮮度が落ちるものだ。
信行に手綱をつけるのが遅ければ遅いほど事態は動かしづらくなる。
反信長勢力に頭から足の先まで侵されてしまう可能性が高まるからだ。
かといって半身のみ取り込まれている状態も不味く、信長側に付けようとするのであれば足の先ほども浸かってしまうことは避けるべきである。
ならば、信秀の死から二ヶ月が経とうとしているこの時期に接触した用向きは後者でなく前者となる。
今川領のすぐ隣に位置する信行を必要とする火急の用向きとは、それだけで物騒な響きをもっていた。
(....信友殿の件か?)
はたまた後者である可能性も捨てがたい。
ちょうどつい最近、尾張統一を信長が目指すのであれば目下の敵となる信友から茶会の申し出があったばかりだ。
それを断れるはずもなく同意したのだが、もしかしたらそれに対する苦言の可能性もある。
(....なら良いのだがな)
そう。ならば良い。
まだ信長は、信行を見捨てていない。
父は信長を支えるように、と遺言を残した。
尊敬する父の遺言だ。
是非もない。
そう心に誓うと、固く瞑っていた瞼を開けた。
「良い。通せ」
「ハッ!」
一つ頭を強く下げると小姓は外に待機する伝令に声をかけに出た。
部屋の中を守るのが今の小姓ならば、外を守る侍がいてそれに伝令となって貰ったのだ。
つまりはリレーのように交代で今部屋の外を小姓が守っている。
こうして常に城主たる信行は守られていた。
これから直ちに城内の屋敷で待つ使者に伝令が伝わってここにやってくるまで十分程度の時間がかかる。
ならその間を利用してこれから我が身に降りかかる試練に対応するための策を考えよう。
今川からの防衛に必要な兵糧は完備している。
もともと今川から攻められた場合は篭城して本城からの本隊と美濃を初めとする援軍、織田本家からの助太刀を待つ手立てになっている。
そちらは万全だ。
我が末森は鳴海の山口教継と手を合わせて今川に対抗するよう布陣を整えている。
軍学上はなんの問題もないはずだ。
(分からん。兄上は俺に何の考えがあって接触しようと言うんだ?)
よくよく考えればまだ反信長の連中は何も手を打っていない。
その全体像だって捉えきれていないはずだ。
考えれば考えるほど使者の目的が分からなくなる信行だった。
「.....考えても仕方ないか」
外から小姓と伝令の男が問答を始めた音が聞こえる。
信長の使者も一緒だろう。
「殿。よろしいですか?」
「ああ。入れ」
許可を出すと失礼します、と言いながら障子が開いた。
信行は入ってきた人間を見て仰天する。
「なっ!」
「お久しぶりです信行様」
そう言いながら慇懃に頭を下げる初老の武士。
「....政秀。使者とはお前か」
織田信長筆頭家老平手政秀。
今織田家の人間に信長の家臣は?と問えばその名が帰ってくるだろう。
「はい。ちとやむにやまれぬ事情がありまして、私が参りました」
それは仕方がない。時は待ってくれないし、何がこれから起こるのかを親切に教えてくれる神仏の類など存在しないのだから。
しかし、多忙な筈の平手政秀がその足で訪れるほどの事情とは間違いなく厄介事に違いない。
せめて使者がこの者であったことを知らせて欲しかった。
そう思いながら小姓を睨みつける。
あわあわとせわしなく目を動かす小姓の者には何が不味かったのか理解できていないようで、それか尚更信行の頭を痛めた。
小姓とは若い侍の中でも優秀な者がなる。
ということは信行の家臣とはその程度なのだ。
政秀を前にして深く溜息をつくのも仕方のないことだった。
「....武丸。席を外せ。誰も中に入れるなよ」
「ははっ!」
返事は立派に部屋を出る小姓を見送る。
「....信行様。あまり責ないでやってください。若い者は失敗から学ぶのです」
「分かっている」
分かっていないのだが。
信行とてまだ十五。
そこまで世を悟れる年齢ではなかった。
有能は失敗をせず、一度でも失敗をすれば即ち無能。
そういう若さ故の短慮な物の見方になるのも仕方のないことだろう。
「それで、本題に入ろう。政秀ほどの者が自らの参ったのだ。どのような大事だ。龍が出でもしたか?」
冗談めかすが政秀はニコリともしない。
老人特有の読めない温和な表情のままじっと信行を見る。
「心当たりはありませんか?」
「....龍に?」
自分で言い出したことが丸っきり帰ってきて、信行は思わず首を傾げた。
泰然自若とした態度が取れないのは幼さからか。
「まあ似たようなものではあります」
「龍に....悪いがまったく分からん。兄上の好きな屏風やら茶器やらそういった物か?」
「....ふむ」
そういえば兄は龍やら仏やら人の推し量れない大きなものがすきだったなぁ、なんて考えていると政秀は顎に手をやって考え出してしまった。
(なんなんだ....)
何もかもがさっぱり分からなず困惑していると、ややあって政秀は口を開いた。
「....誠に心当たりはないのですか?」
「ああ。皆目」
今更になって最初に茶化したことを後悔しながら曖昧な微笑でそう答えた。
政秀はじっと信行の顔を見ると破顔させた。
さらに訳が分からず困惑する信行に政秀は上機嫌に口を開いた。
「いやぁ、安心しました。信秀様の御遺言を違うことになるのではないかと私はハラハラしておりまして」
「よい。本題をはなしてくれないか?先程から訳が分からず尻がモゾモゾする」
「ハッ。すべて話しますと信行様に裏切りが感じられないのならば鳴海にて謀反の気配あり、そう信長様が伝えろと命じられました」
「なに!?」
鳴海。
言わずとしれた末森と並ぶ今川の要所だ。
そこが謀反を起こすとなればただ事ではない。
幾つかの砦がその側にあるが、支城として防衛に特化された鳴海城には一段も二段も三段も劣る。
末森と同じで奪われるわけにはいかない城だ。
その城主ともなると信用のおける人物を置くのは当たり前だ。
たとえば末森の城主は織田信行と一門の者であるし、似たような性質を持つ城、岩崎城の城主は織田家に代々仕える丹羽家の者だ。
同様に鳴海城の城主、山口教継は特に信秀に可愛がられた人間だった。
それが裏切るとは信行からすると瓢箪から駒。ありえないことだ。
「信じられないでしょう?」
「ああ。山口教継殿がそんな....」
「私も長く信秀様に共に仕えた身として信じたくない話です」
「兄上の戯れでは?」
「私もそう思いたいものです」
まったくだ。
ただでさえ纏まらぬ織田家。そこから裏切りが出ようとは....
そこではたと信行は思い至る。
「兄上が原因....か」
「ええ。ありえるでしょうな」
うつけとして有名な信長が織田家の後を継いだのだ。
見切りをつけても仕方がない。
行動の素早さは有能故か。
「....」
カリッと信行が歯を噛みしめる。
お家騒動など珍しくもないこの時代だが、それを疎ましく思うのもまた世の常だ。
「兄上がきちんとしていれば....」
思わずそう呟き、ハッとした。
その兄を誰よりも立てている人間が目の前にいることを思い出したのだ。
しかし、政秀は温和な表情を微塵も変えていなかった。
いや、少しだけ苦々しい顔に変わっていた。
「信長様の教育係として何も言えませんな」
「あ、いや!誤解するな!別にお前を責めている訳ではないぞ?お前はよくやっている」
あれだけ苛烈に雌雄を決しようと争っていた斎藤道三と婚姻を取り持った政秀だ。
信秀の右腕と言っても間違いではない。それを否定する気は信行にはなかった。
むしろ尊敬しているのだ。そんな人間の不備を責めるなどとんでもない。
「ただ、な。兄上も少しでも人心を理解してくれないのかと思ってな」
思わず内心を吐露する。
信行とて信長の家老にこんなことを言うのは間違いだと分かっている。
だが彼には正直に話を出来る人間がいないのだ。
奈緒の前では虚勢を張ってしまうし、家臣にそんな姿を見せるわけにはいかない。
もしかしたら暖かな笑いを見せる政秀に父性を見ていたのかもしれない。
政秀はその愚かとも言える信行の一言に、静かに笑って返すとその顔に好々爺然とした表情を浮かべた。
「信長様は分かっておられます。もし分かっていないのなら私が身命をとしてでも伝えましょう」
「...兄上がその程度で言うことを聞くとは思えないが」
「いえ、絶対です。良き君主となると約束しましょう。信行様とのお約束です」
そう言う政秀には何とも言えない覚悟が見えた。
人生経験も浅く、戦も一度しか経験したことのない信行にもその笑いの深さを感じ取ることはできた。
それに深い安心感を得た信行は微笑すると、
「安心した」
と一言だけ返した。
「ところで政秀よ。お前を信じて聞くが俺はどう行動したら良い?」
「信長様は直に確信を得たら山口を討伐しに行くでしょう。それに推参するのが良いかと」
「俺が勝手にか?」
「理由は如何様にでもつけられましょう。信行様。長く生きるものの助言ですぞ。戦国の武士は舌を二枚持ってこそです。正直者はそれこそ人外でもない限り長生きはできませんぞ」
そう言う政秀の瞳は言葉と反して澄んでいた。
とても二枚舌を持つ卑怯者とは思えない。
―――きっとそれがこの世の武士の作法なのだろう。
そう信行は深く納得すると、正直者こそ美徳!と叫ぶ心を落ち着かせた。
騙し討もまた常法。
信秀もそう言っていた。
「政秀との会話は勉強になる。ぜひ俺もお前みたいな家臣が欲しいな」
「お戯れを。私などただ長く生きているだけの古き人に過ぎませぬ。現に新しい世にてんやわんやです」
そう言うと微笑む政秀のあり方は眩しいまでにモノノフであった。
時系列的には赤塚の戦いのあたり。
凄いのはここが桶狭間の戦いの伏線になるところです。
歴史とは妙ですね。
※ブクマありがとうございます。
※ルビ修正。たまに訳わからんことになります。わからん....