母と妹
信行は眉を顰めていた。どうこの窮地を逃れようか、その一念が頭の八割を占めている。
目線の先には鳴海城付近の地図だ。
出来る限り正確に検分をされたその地図には、山の形、平野の規模などが事細かに記されている。
最大の軍事機密たるその地図は、鳴海と連携して今川に当たる予定だった末森と本城である那古野にしかない。
これは周り全てが敵である織田家の決まりであって、他の諸将の地図の扱い方がそうであるというわけではないのだが、たとえ阿呆と噂される大名であろうと地図の扱いは細心の注意を払うものであった。
そんな貴重品で、爆発物のように注意を払わなければならない地図を持ち出して信行のやっていたことはイメージトレーニングだった。
過去の合戦の陣地の張る位置や軍略を持って信長がどのように動くのか、鳴海の手勢はどのように動くのかをシミュレートしていた。
こう動けばああ動く。
などとまるで詰将棋を解くようにして顎を擦る信行。
何せ本来関わることのない戦に参加するのだ。けして信行の手違いで本隊の邪魔立てをするわけにはいかない。
まずは動かず静観し、事が成りそうになければ隊を動かすのがベストか。
戦とは武士に関わらず、足軽や小者にとっても出世のチャンスのある晴れの舞台であるからして出しゃばることは何よりのタブーだ。
手柄を奪われたとなれば信長配下の人間にいらぬ恨みを買う可能性も高い。
そうなれば信長の裁量で処分をされるだろう。
独断行動となると最悪処刑されても何も文句は言えない。
信長へ出兵の意を政秀を通じて知らせている。
静観と命じられれば静観する他あるまい。
しかし信行には信長が出兵を許可するだろうと思えてならなかった。
血を分けた兄だからこそわかる、と根拠も何もない理由だが自信がある。
きっと兄は俺を鳴海征伐に参加させてくれるだろう。
そういう確信だ。
だからこそこうして貴重な地図を引っ張り出してきて眺めているのだ。
どう戦うのが良いのかを考えることが一将の仕事だ。
那古野城を出た信長は東へと進み中根中城を経由して小鳴海へ向かう。
小鳴海は平原で、陣を敷くには危険すぎる。
だからそのまま更に進軍。二の山へと向かいそこに陣を敷くだろう。
二の山は鳴海城より高所にあって攻撃されるリスクがほぼ無い上に相手の行動が全て丸見えになるという地の利に富む。
「ここしかないか....」
どうだろう。
信行がかつて学んできたどの軍略に沿って考えてもここ以外に布陣の場など考えられない。
しかし信長勢の人数によっては場所が変わることもありうる。
何にしても信長からの報告無くしては何も分からないのが現状だ。
そうだとしても鳴海の件について何も考えないということは信行には出来ない。
生来の心配性な気からか。
「ううむ。俺以外に頭がもう一つ欲しい」
とにかくこれにつきる。
万事考えることが信行の今の仕事になり、その重圧は計り知れない。
参謀となり得る人間が一人でもいれば済むのだがそう簡単に優秀で信頼のおける人物など転がっているはずもなく、信行の手駒にはどちらかというと脳筋な人間ばかりが揃っていた。
大変に不本意なことなのだが。
(俺は脳筋というわけではないのだがな.....)
主と慕うものは主君に似た者である傾向が強い。
野望を持つもの、知に優れるもの、武に優れるもの....
ならば信行が武に優れるものかと問われれば否だ。
愚直なまでの鍛錬を積んでいるから人並み以上には優れて見えるかもしれないが、戦国の世で真に優れた人間とは経験を踏んだ天才に他ならない。
秀才は天才にはなれないけれど天才は秀才足るのだ。
間違いなく秀才の側であり、精一杯励んでようやく文武に優れると言えるようになった信行は、だからこそ地に足をつけた現実的な目線でそれを受け入れていた。
だから一層こうして脳筋と言える臣下に囲まれた現状が不思議だった。
「ふむ....分からん」
分からん。
いくら頭を捻っても原因には心当たりがないし、なんとなくぼーっと地図を睨め回しても教えてくれるわけもない。
星の巡りがそうなのであってこれからはもっと賢い人間も家来になってくれるだろう、そんな風に考えて自分を慰めるのが精一杯だった。
そうしてうんうんと戦とはまた関係のないことで唸っていると、背後から声をかけられた。
「....殿。客人にございます」
あきらかに逡巡したと分かる気配が声に含まれていて、なんだか照れくさくなる。
あまり見られたくない情けない姿を家来に見られてしまったようだ。
恥ずかしい。
「通せ。.....ああ、待て。誰だ?」
なんの考えもなしに思わず通せなどと言ってしまったが、今は信行にとって大事な場面で、だから客人が誰なのかを聞かねばならない。
先に把握しておけばここへと通されるまでの間長いこと考えることができる。
なんの用もない用事を帯びた客人などというものが信行にはいない。
その立場上友人など望むべくもなく、家臣もそこまで情の繋がった存在などいないのだから。
そうしてそれなりの覚悟をして投げかけた問いには意外な言葉が帰ってきた。
「御母上様とお市様です」
は?
母が信行を訪ねるのは理解できる。
信行の母は殊更に信行を溺愛しており、幼少の折は苦い顔をする父を尻目に信行を女装させて喜んでいたり、今も度々凝った文を送ってくるのだ。
その愛は織田家にいるものならば誰もが知るところだ。
だが、なぜその母が市を連れてきたのか。
皆目見当の付かない珍事だ。
「殿?」
呆けていた信行に思わず声をかける家来。
慌ててぽかんと開けていた口を閉じて、いかにもなしたり顔を取り作ると、通せ、とただ一言声を返した。
「で、母上。本日はどういった用向きです?」
「我が子に会うことに用が必要?」
ああ面倒くさい。
どうして母とはこうも面倒なのか、そんな風に心の中で嘆息する。
世の全ての子は思い通りに運ばない父母へとこうして文句を垂れているのだろう。
「それでは隣の幼子はなぜここにいるのでしょう」
「にいさま!わたしは幼子ではありません!」
「ああはいはい。それでは何故姫さまはこのような場所へと参ったのですか?」
市のぶーたれた顔に少し笹くれた心を癒やされながら信行がそう問うと、にまーっと笑って
「にいさまに会うことに用が必要?」
と気取った返しをした。
(きっちり受け継いでいる)
そう呆れるやら感心するやらでなんとも複雑な境地の信行であった。
「母上、市。今は大変に物騒な時期です。あまり那古屋から動かないでいただきたい。兄上も心配致します」
「その三郎が行けと申したのです」
兄上....
信行は信長の心中が心底読めずにいた。
端的に言うと呆れたのだ。
「なにゆえ」
「寂しがっていると聞いて」
はあ....
もはや信行は考えることを止めた。
そもあの兄の心を読もうとしたこと自体が愚かだったのだ、そう考えることにしたのだ。
齢十代ですでに老熟した諦めの境地を見出した信行を哀れに思うのか頼もしく思うのかは意見が別れるところであろう。
「まあはい。分かりました。それでは市は?」
「付いて来たいと申すので」
「もうしました!」
元気に返事をする市をただ愛でることに信行はした。
「はい。分かりました。それでは速やかに部屋を用意させますので今日は泊まっていってください」
「ああ、勘十郎!そうでした!これを三郎から預かっていました」
そう言ってゴソゴソと母が懐をまさぐって取り出したのは文だった。
渡された仄かに母の香りがする文を開いて読む信行。
内容はこうである。
・母と市の面倒をしばらく見るように。
・戦の準備を整えるように。
大まかに二点である。
ムダのない文体から間違いなく兄の記した文であると理解すると共に信行は苦い思いをした。
(あまりに常識がなさすぎる)
血を継ぐ女衆を本城から移すこともそうだが、本来こういった伝令は自らの家臣を用いるものだ。けして母や妹を用いるものではない。
ましてや戦の準備を整えるように、などと端的な文はあまりに酷いものだ。
如何ほどの軍備を備えるべきなのかも謎であるし、布陣の手筈などもさっぱり分からない。
すべて投げてこられても戦経験のない信行には何も察することができないのだ。
あるいは戦上手と噂される武田家などならば端的な文で完璧な支度を整えられるかもしれないが、少なくとも信行には不可能であった。
「....迷惑でしたか?」
七変化する信行の表情に何かを察したのか、市と母が心配そうに見つめていることに気づき、慌てて笑顔を繕った。
「いえ!けしてそのようなことは。母上は末森も久しぶりでしょう。那古屋にはない猪鍋を馳走いたします。あと奈緒も会いたがっていました。久しぶりに家族団欒を致しましょう」
「それは良いですね」
「わたしは?」
可愛らしく文句を言う市に信行は本心で目を細める。
「ひげが会いたがっていたぞ」
「ひげが!仕方ない、遊んであげなければ」
大人ぶる市と、優しい目で自分を見る母を見て信行は心底死にたくないと思った。
たとえ恥を晒してもこの二人と奈緒を悲しませたくない、と。
だから鳴海の一件はなんとしても無事収めなければならない、そう心に決めるのだった。
なんか投稿した気でいました。こわい。
次の回で姑と嫁さんの関係的なのを書いてからいよいよ鳴海戦。




