尾張の虎没す
予定では三十話くらいで完結
具足に身を包み、腰に見事なつくりの刀を差した男は雨と怒号の中畳床机からゆっくりと腰を浮かせた。
―――天下は遠い。
鼻をすすると、湿った土の匂いと洗い流されていく血の匂いがする。敗戦の匂いである。
どこからか含み笑いが聞こえた気がした。
(天が俺を嗤っているのか)
分不相応な夢を諦めよと。
たかだか尾張一国を滑られぬ人間が天下の夢を見るなと。
美濃の蝮と海道一の弓取りに挟まれ、進退窮まる状態である現状を打破せしめる一手は、この目の上のたんこぶである美濃の稲葉山城を落とさねばならない。
斎藤道三の築き上げたこの城は守りやすく攻め難い天然の要塞である。
それを落とすことが楽であるなどと一片の油断もなかったのだが、やはりたかが油売の成り上がり者、と道三を侮る気持ちが信秀にはあった。
だからこその敗北。それが信秀の限界であったのかもしれない。
敗戦の苦味に顔を歪め、敗走を始めんとする信秀は心中て今後の斎藤家との付き合い方を心算していた。
織田方五千の軍勢を打ち破られた信秀の心中は心底苦いモノだったが、それを飲み込んで次の一手を考える信秀の器量は大器。天下に届きうる器であった。
「我が一擲は届かぬか....全軍に告げろ!我らは直ちに木曽川を越え、尾張へと撤退する!」
「ハッ!」
伝令へと発令した信秀は苦味の残る心中を戦意で消し去り、兜の緒を閉めると濡れた顔を強く拭った。
◆
この戦いは後に井ノ口の戦いと呼ばれる。
かの大英傑織田信長の父である織田信秀は、この戦いに凡そ五千とも二万とも言われる軍勢を出兵した。狙いは梟雄、斎藤道三の居城稲葉山城。
しかしあえなく敗北した織田信秀は多大な犠牲を払いながらも撤退した信秀は、その後斎藤家との間に婚姻同盟の工作をしながらもすぐさま三河へと出兵した。
それはまるで何かに追い立てられるかのような連戦につぐ連戦。
本家筋にあたる織田信友の古渡城への出兵など、内外へと敵を抱えた信秀の状況は追い詰められた獣そのものだった。
そして、天文18年。
尾張末森城で信秀は頭痛を訴えて病に伏していた。。
◆
「....政秀」
「殿!」
信秀はしばらく動かさなかったせいで鈍い舌を懸命に動かしながら乾いた喉から言葉を絞り出した。
読んだ名は信頼する家臣、平手政秀の名だった。
「....我が.....天命は.....ここに、尽きるようだ」
「そんな....!まだです!まだ、殿の大望は成っていないではありませぬか!」
「大望....天下、か」
主家への反目と取られることは間違いないであろうあまりに大きなその夢。
それを話した数少ない人物の中の一人である政秀が心底で成し遂げられると信じていたことに僅かに驚きを感じた信秀は言葉を綴った。
「おれが、それを成せると政秀は思っていたか?」
「愚問....!愚問であります殿....!」
主君に愚かであると言った平手政秀であったが、この場にいるものは誰一人としてそれを指摘しようとしなかった。
信秀を信頼し、信秀が信頼する家臣たちは死を前にする信秀を前に醜い姿を見せることを良しとしなかったのだ。
「ふふっ、愚問か。そうだな、おれは愚かであったな....」
寝た状態でゆっくりと鈍くあたりを見回しながら信秀は思う。
若い頃は尾張という田舎の更に分家筋に産まれた身の上を随分と恨んだものだが、今ではこの地にこの身で産まれたことを好ましく思った。
良い家臣を得た。
与力の連中も気がよく、良く俺に仕えてくれた。
良い息子を持った。
吉法師の才は俺にも計りきれない。
心残りは土田御前、辰のことだ。
アレは良い女であったが、幾分愚かにすぎる。女の悪いとこがさらに悪く高じたようなもので、俺が死んだあと織田家に波乱をもたらすことだろう。
それが心配であった。
「辰は....辰はこれにいないか」
「...殿」
土田御前と呼ばれる彼女の名を呼ぶのは信秀しかいない。
その最愛の夫の最後を看取る辰の顔はぐちゃぐちゃに濡れていた。
「なんという顔をしている....」
「私とてこのような顔はしたくありませぬ...」
女は好いた男の前では常に美しくありたいと思うものだ。
辰はそう出来ないことを口惜しく感じていた。
「殿の....殿のせいです....」
「ああ、すまぬな」
信秀は女好きな男であったが、辰は心底惚れていた。
「ほれ、そのような顔をするでない」
ゆっくりと枯れた手で涙を拭う。
辰はその手を愛おし気にしかと握ると、笑顔を作った。
(良い女だ)
男とは愚かなもので冷静な所では愛情深くのめり込み易いところを悪しと考えるが、男としての情欲の部分ではそれを良しとしてしまう。
先程までは織田家の妨げになると忌々しく思っていた辰の性質をたまらなく愛おしく感じている自分を認識して信秀は苦笑した。
(俺も人の子か)
乱世を駈けていると自分が獣になったかのように感じてしまう。
あたかも大地を駆ける獅子であるかのように、猛虎であるかのように。
尾張の虎と称されるようになってからそれがより顕著になったように感じていた。
それが全てまやかしだったと知った。
―――だが、今はまだ自分が獣だと思うべきときだ。人になるにはまだ早い。
かつて見せたこともない柔和な表情になりかけた顔を信秀は引き締める。
そこにあったのは【尾張の虎】の顔であった。
その顔に家臣一同も表情を引き締める。
これが信秀の最後であると悟ったのだ。
「これより我が遺言を残す。我が家督は信長に託す」
その言葉に家臣の一部か動揺した。
織田信長。それは尾張のうつけものと尾張国内に留まらず近隣諸国にまでその悪評を轟かす厄介者の名前であった。
家督をそのうつけに継がせるなどたとえ主命であっても容易に従うことのできぬものだったのだ。
「静まれ!」
ざわめく家臣団を平手政秀が一喝して静まらせる。
「....信長は俺を凌ぐ大器じゃ。それは必ず誰もがいずれは知ることとなろう」
ギョロリと周囲を病人とは思えぬ目つきで睨めつけてそう告げる。
それは那古野城攻めを命じた時と同じ苛烈な虎の目であった。まだ不満そうにするものはいたが口を開くものは誰もいなくなった。
「さて、続いて相続までの斎藤家、今川家との方針を....」
次々と今後の尾張の在り方を信秀は告げていく。それはその身を削るような一言一言だった。
ガリガリと削りながらすべてを告げ終えたときに布団の上にいるのは尾張の虎ではなく、ただ一個の信秀という人間になっていた。
「...辰よ」
「...なんでしょう、殿」
「お前が信長を疎んでいることは存じている。だが、けして急いた真似をするなよ」
「....畏まりました」
渋々と辰が返事したことを確認した信秀は、目を辰の後ろへとやる。
そこにいたのは色白で端正な顔立ちをした十と少しの少年。
息子、信行である。
じっとその目を見ると、じっと見つめ返される。
思えば信秀は信行とあまり話をしていなかった。信行は品行良好で頭も良いのだが、兄である信長の異才には目劣りしていたからだ。
信秀の立場上、子と距離が開くのは致し方あるまい。信秀もそうだった。
しかし、親の愛を偏重にした場合兄弟関係が悪くなるのは道理だ。
辰は信長を疎み、信行を溺愛している。
信秀は信長を深く買っており、信行に無関心だ。
跡目争いの土壌は十分に出来上がっている。
しかし信秀には信行が信長を憎んでいるようには見えなかった。
むしろ尊敬している節すらある。
ならば一安心、と言えるのだがどうも座りの悪いものを信秀は感じていた。
「勘十郎」
だからだろうか、信秀が口を開いたのは。
「はい」
「....お前は兄をよく支えるように」
「はい」
何を言うつもりだったのか。信秀自身すらよく言葉にできず当たり障りのないことを口にした。
信秀の心残りは信長と信行のこと。
最後に親らしい心配を胸に信秀は目を閉じた。
◆
天文20年3月3日
尾張の虎、織田信秀はその激動の人生に幕を下ろした。
享年は42歳。流行病にて。
土田御前の本名は不明です。
が、作中では演出のために『辰姫』としました。なんだかしっくりしないのでもし別にそれっぽい名前がありましたら感想で教えて下さい。