【トオル】ムーンラプソディー
「売れないな」
人の部屋で煙草をくわえた先輩は呟いた。
「まあ、ぼちぼちですね」
煙草の先端で揺れる赤い火を見て、トオルは言った。
先輩帰ったら、ファブリーズしよ。てか、いつまでいるんだろ。
「うちのバンドの何がダメなのかね」
大きく煙を吐き出す。新曲の打ち合わせをしたいと言って、部屋に来てからずっとこの調子だ。トオルは、ベッドに置いた携帯電話が光ってるのを見ると、先輩に断わり電話に出た。
「ああ、今はちょっと。またかけ直すよ」
ぼさぼさの髪を触りながら、携帯電話をまたベッドに投げ、こたつに足をつっこむ。灰皿に溜まった灰を上手く避けながら、先輩は煙草を押し付け、火を消した。
「お前はいいよな。才能もあるし、彼女もいる。それにまだ若い。楽しくって仕方ないだろ。俺は27でフリーター。売れないバンドマンだ」
顎にはえたわずかな髭を触って先輩は言った。
「そんなでもないですよ。最近は彼女と会ってても楽しくないし、それに俺はバンドだってやってないし」
「なに、お前彼女と会ってて楽しくないわけ」
「まあ、マンネリってわけでもないですが、もう3年も一緒だと、ドキドキしたりとかの新鮮さは無くなってきますね」
「3年か」
そう言って先輩はセブンスターのソフトケースからまた1本煙草を抜き出す。
「先輩、煙草、やめた方がいいですよ、体にも悪いし、声にも」
「皆吸ってるんだし、そんな問題じゃねーよ、俺らが売れないのは」
机の上に落ちていた髪を拾い上げ、ごみ箱に捨てる。トオルは冷蔵庫からサイダーを出してきて、グラスに注ぎ、口をつけた。静かな部屋に炭酸の泡がはじける音が鳴る。
「窓、開けていいですか」
先輩が小さくうなずいたので、トオルは窓を開ける。乾いた風が部屋に吹き込み、コタツに置いたコード表がパラパラとカーペットに落ちた。
トオルはそれを丁寧に拾い上げると、ギターを持ってベッドに座った。先輩は猫背になって、顎をコタツのテーブルに乗っけて、煙をぷかぷかと吐いている。メジャーコード中心の軽い音が鳴る。それに合わせて小さな声で歌う。
背伸びして いつもバランスくずしていまいそうになるけど
それでも走っていこう 青い空はどこまでも続くよ
「BLUE SKY MELODY」
灰皿に煙草を押し付けると、コップに入ったサイダーをかけ、火を消した。小さな音がなって、か細い煙が天井に向かう。ゆらゆらと揺れながら、少しずつ薄くなって、それはやがて消えた。
「お前らしい曲だな」
「いい出来だと思いますよ、自分でも」
それは嘘ではなかった。ここ最近では最も気に入った曲である。本来、バンド用にはしたくなかったが、このままバンドが売れないと解散もあり得る。何だかんだ言ったところで、音楽を公表する機会は今のところバンド以外には無いのだ。
「いい曲だ。ライブで歌ってみたかったな」
コタツから出て立ち上がった先輩はこちらを見ずに、言った。
「え?」
「解散することにしたんだよ、今日はそれを言いに来たんだ」
「え、え?」
「お前には色々と協力してもらったのに、悪かったな」
「え、マジですか」
「お前は音楽続けろよ」
「え、なに、感動的な感じになっちゃってるんですか」
「ほんと、悪かったな。そんじゃあ帰るわ。また、飯でも食いに行こうぜ」
そう言って、彼は部屋を出て行った。トオルはギターを膝にのせたまま、目を丸くしていた。風はすっかりやんで、カーテンは気持ちよさそうに揺れている。部屋の電灯が、瞬いて、消えた。
トオルはしばらく動けなかった。
何分くらいそうしていたろう、思い出したように、
「電球買いに行かなきゃ」
とつぶやいて、パーカーを着込み、部屋を出た。外はもう暗くなっており、空を見上げると、輪郭の曖昧な三日月と目が合った気がした。