不肖の結末
公爵令嬢イリス・タランチュランは、帝国の筆頭公爵家に生まれ、何不自由なく育った。
血筋も器量も良く、聡明で才能もあり優秀。生まれながらの淑女と褒め称えられる程の気品も持ち合わせた、完璧な令嬢だった。当然幼い頃から縁談話が後を絶たなかったが、父であるタランチュラン公爵が決めた縁談は、これ以上ないものだった。
いずれ皇太子となることが決まっている、エドガー皇子。齢10歳にして彼の婚約者となったイリスは、幼心にもエドガーに尽くそうと誓った。そのため努力を惜しまず妃教育に励み、その才覚は年々磨かれていった。
やがて成長し、立太子したエドガーとアカデミーに通うようになったイリスは、自分がこのまま皇后になることを疑いもしなかった。それは周囲も、そしてエドガーさえ同じだった。しかし、そんなイリスの人生は、突如として狂い出す。
田舎の男爵家の私生児にすぎず、平民として生きてきたミーナ・ランブリックのアカデミー入学を機に、イリスの生活は音を立てて崩れ始めたのだ。
ミーナは可愛らしく清らかな見た目に反し、明るく快活な女性だった。好きなものを好きと言い、嫌いなものは臆せず嫌いと叫ぶ。お淑やかな貴族令嬢達の中にあって目を引くミーナの行動に、誰よりも惹かれたのは皇太子であるエドガーだった。
交流を重ね、逢瀬を重ね、親交を深める中でミーナとエドガーは互いを想い合うようになっていく。そんな二人を物陰から見ていたイリスは、なんとも言えない屈辱を胸に抱くようになった。
イリスはそこまでエドガーを愛していたわけではない。ただ、幼い頃から婚約者として出会い、尽くしてきたイリスにとって、異性とはエドガーが全てだった。
しかし、エドガーはそうではないのだと思うと、悔しくて悲しくて堪らなかった。
そんなある日、事態はイリスにとって悪い方向へと転ぶ。何の取り柄もない田舎の男爵家の私生児だと侮蔑されてきたミーナが、聖女として神の加護を受けたというのだ。
ミーナのブラウンの瞳は聖女の証たるルビー眼に変わり、その力で雨を呼び、病人を治し、枯れた土壌に恵みを齎した。人々はミーナを崇め、彼女の愛らしい容姿もあって、ミーナはいつの間にか国中の憧れの的となっていった。
そうして最悪なことに、聖女であるミーナと皇太子エドガーのロマンスが、あちこちで取り沙汰されるようになる。そうなれば、正規の婚約者であるイリスは当然、存在するだけで悪者扱いされるようになった。何もしていないのに悪い噂を流され、身に覚えのないことで陰口を叩かれる。
数ヶ月前までは、誰もがイリスを未来の皇后として歓迎していたにも関わらず、今では誰もが聖女であるミーナと皇太子の婚姻を望むようになった。それは皇帝も例外ではなく、イリスの父であるタランチュラン公爵へと内々に婚約破棄の打診が届く程だった。
タランチュラン公爵は怒りに震えた。瑕疵のないイリスを除け者にし、公爵家を蔑ろにして婚約破棄を迫る皇室への怒りは、少しずつ燃え広がり。結果的に、タランチュラン公爵が選んだのは反逆の道だった。
父の企てに気付き思い悩んだイリスは、祖国に背く後ろめたさから父を止めようとした。しかし、そんなイリスに激怒したタランチュラン公爵の手により監禁されてしまう。
このままでは家門が崩壊してしまうと嘆くイリスを助けたのは、母と幼い弟だった。
「あの人はおかしくなってしまったわ。あんなに冷静だった人が反逆だなんて……。皇太子殿下にこの状況を伝えなさい。そして反逆を防ぐようご助力を願うの。あなたはまだ殿下の婚約者よ。殿下がいくら他の女に心を奪われているとはいえ、ずっと尽くしてきたあなたの言葉を聞き捨てるわけないわ」
「お母様……」
「姉上、どうか父上を止めて下さい。殿下のご協力が得られれば、まだ間に合うはずです」
「馬を用意しているわ。それと、これも持ってお行きなさい」
イリスが母から渡されたのは、母が祖母から受け継いだロケットペンダントだった。
「お守り代わりに。さあ、行って」
「必ず戻ります!」
そうしてイリスは、自ら馬を駆けて皇宮へと向かった。
「イリス、いったいどうしたというのだ」
着の身着のまま一人で馬を駆けてきたイリスを出迎えたエドガーは、イリスの話を聞いて協力を約束した。
「疲れただろう? あとは私に任せて暫く眠っていなさい」
安堵したイリスは眠気に襲われて目を閉じた。そして次に目を開けた時、驚くことに五日が過ぎており、全てが終わっていた。
皇太子エドガーは間に合わず、反乱を起こしたタランチュラン公爵はその場で殺され、母や弟を始めとしたタランチュランの一族はイリスを除いて全て処刑されてしまっていた。
一族の亡骸を前に絶望し泣き暮れたイリスは、母から預かったロケットペンダントの中に小さなメモが入っているのを見つける。そこには、『あなただけは必ず生き残りなさい。何があってもタランチュランの血筋を繋ぐのです』と書かれていた。
母の最後の願いを知り、家族の後を追う道すら奪われたイリスは、自分の処遇を検討する皇帝とエドガーに頭を下げた。何でもするのでどうか命だけはと懇願するイリスを助けたのは、ミーナだった。
「イリス様は事前にタランチュラン公爵の思惑を殿下に話しました。止めることは叶いませんでしたが、お陰で被害は最小限に抑えられました。どうかイリス様をお助け下さい」
ミーナの一声で、イリスは罪を免れることとなった。
「ミーナ……いいえ、ミーナ様、ありがとうございます」
「いいのよ。あなたとは仲良くなりたいと思っていたの」
イリスは自らの愚かさを反省した。こんなに清い人に、悪い感情を抱いていたなんて。そのまま和解をし、イリスが真の意味で救われていたならば、この物語も少しは神の意志に沿っていたのかもしれない。しかし、そうはならなかった。
この時ミーナは、感激するイリスに背を向けてほくそ笑んでいた。
それからイリスは、反逆者の娘としてエドガーとの婚約を破棄され、奴隷のような扱いを受けた。行き場もなく、財産もないイリスは、皇宮の使用人として働かされるようになったのだ。傷一つなかった手には皸ができ、公爵令嬢の落ちぶれた姿に周囲が嘲笑を向ける。
屈辱に苦しみながらもイリスが耐えたのは、母の残した願いを叶える為と、何よりこれが命を救われたことに対する対価だと思ったからだ。それ故に、目の前で元婚約者のエドガーとその新たな婚約者となったミーナが手を取り合い、愛し合うのを見せ付けられても、祝福するより他になかった。自分を救ってくれたミーナに、イリスは心から幸せになって欲しいとさえ思っていた。
しかし、イリスの想いは呆気なく踏み躙られることとなる。
「ねぇ、イリス。ちょっとお茶をしない? お義母様も呼んでいるのよ」
「はい、ミーナ様」
すっかりミーナの召使いと化したイリスが、茶の準備をしていると。ミーナは横から出てきてイリスの手から茶器を奪った。
「今日は私が淹れるわ」
「ですが……」
「いいから。座っていて」
ミーナに言われ、座るイリス。皇后と共にやってきた侍従長が、そんなイリスを叱り付けた。
「貴様! 使用人の分際で聖女様を働かせておるのか!」
「いいのよ、侍従長。私がお義母様にお茶を淹れたいと言ったの」
謝ろうとしたイリスを庇い、ミーナが茶を注ぐ。
「お義母様、さあどうぞ召し上がって下さいな」
ミーナの言葉に、無表情な皇后は片眉を上げた。
「貴女にお義母様と呼ばれる謂れはなくてよ。私はまだ貴女をエドガーの妃として認めていませんからね。せめてイリスのような気品を身に付けるまでは、婚姻は許しません」
「皇后陛下、聖女様にそのような……」
止めようとした侍従長を睨み、皇后は扇子で机を叩いた。
「私は今でも、あんなことがなければイリスをエドガーの妃にするべきだったと思っています。こんな下品な女を皇室に入れるなど……陛下もエドガーも、何を考えているのやら」
文句を言いながら皇后が茶を口にした時だった。
「ゴフッ」
血を吐いた皇后が一瞬にして倒れ、床に伏せたその身体はすぐに動かなくなる。即死だった。
ミーナの悲鳴に駆け付けた近衛隊が現状を把握し、真っ先にイリスが捕らえられる。
「皇后陛下が毒殺された!」
「犯人はイリス・タランチュランよ! 皇后陛下にお茶を淹れたのはイリスだわ!」
ミーナの言葉に、イリスは絶句した。疑いの目が自分に向かう中、イリスは必死に否定する。
「違う! 私じゃありません!」
皇帝、エドガーが駆け付け、大神官によって皇后の死が確認された。そしてその場で検証が行われる。
「皇后陛下とお茶をしたくて、私がお呼びしたのは間違いありません……ですが、私は茶器に少しも触れてません。準備は全てイリスが行いました」
泣きながらスラスラと証言するミーナに、イリスはただ違うとしか言えなかった。
「もしかしたらイリスは、エドガーを奪った私を殺そうとして毒を盛ったのかもしれません。それを間違えて皇后陛下にお出ししてしまったんですわ。命を救ってあげたのに、そんなに私が憎いの!?」
ミーナの一方的な憶測だけの言葉は、ミーナが発したというだけで真実のように伝わってしまった。誰もがイリスを蔑んだ目で見る。
イリスは、違うと訴え続けた。本当に自分じゃない。しかし、イリスの言葉を信じる者などいなかった。
「聖女様のお言葉が間違いであるはずはない! イリスは嘘吐きの背神者である! 神の名の下に粛清されるべきだ!」
そう断言したのは、大神官だった。
「間違いなく、イリスが皇后陛下に茶を淹れているところを見ました! 皇后陛下に毒を盛ったのはイリスです!」
侍従長のこの証言が決め手となり、泣きながら無実を訴えたイリスは周囲から憎悪の目を向けられた。
「エドガー様、どうか信じて下さい! 私は無実です!」
「お前の蛮行には反吐が出るっ!」
「きゃっ!!」
縋ろうとしたイリスを突き飛ばし、エドガーは冷たい目でかつての婚約者を見た。
「お前のような性悪女は死ぬべきだ」
幼い頃に将来を約束した相手から言われたその一言が、イリスから反論する気力を奪った。
黙り込み、放心して涙だけを流すイリス。その様子を見届けた皇帝は、立ち上がり高らかに判決を下した。
「皇后毒殺の罪でイリス・タランチュランを斬首刑に処す。処刑は皇太子エドガーと聖女ミーナの婚姻式の翌日、夜明けと共に実行する」
皇帝の宣言により、イリスは牢獄へ投げ込まれ、最低限の水と腐ったパンのみを与えられてエドガーとミーナの婚姻式まで暗い牢獄の中で虚しく生かされ続けた。
そんなイリスを唯一訪ねてきたのは、ミーナだった。
しかし、ミーナはイリスを慰めにきたのではなかった。
「ごめんなさいね、皇后が邪魔でずっと殺してやりたかったんだけど、罪をなすり付ける相手を探してたのよ」
開口一番にそう言われたイリスは、もしかしたらミーナが自らの行いを恥じて助けてくれるかもしれないという、唯一の希望さえ打ち砕かれたことを悟った。
「エドガーの婚約者だったアンタが落ちぶれていく姿を見るのも楽しかったわ。あの時生かしてあげたでしょう? その恩を返すと思って、潔く処刑されてね。ああ、アンタが何を言ったって無駄よ。みんな私の味方だもの」
言いたいことだけを言い、ミーナは機嫌良く去って行った。
最初のうちは泣き叫んでいたイリスも、次第に気力を失い、ただただ呆然と一日を過ごすようになった。牢獄の中にいても伝わってくる、来る皇太子と聖女の婚姻に向けての祝賀ムードが余計にイリスを追い詰めていく。
そんな中で、イリスの唯一の慰めになったのは、深夜の牢獄に何処からか聞こえてくる歌声だった。
イリスは、それが自分の幻聴なのか現実なのか、その区別すらつかなかったが、美しい澄んだ歌声に癒され、荒んで消耗した心を少しずつ取り戻していった。
どうせ死ぬのなら、華々しく、タランチュランらしく、優雅に死のう。そしてその日、エドガーとミーナの婚姻に沸く帝国の雰囲気を感じ取りながら、イリスは夜明けの処刑を前にして心穏やかに目を閉じたのだった。