切ない思い
「申し訳ございません、陛下。雪梅様は本日お体の具合が宜しくなく、会わせることは出来ません」
「……また来る」
高衢は次の日の朝、別邸を訪ねたが、雪梅には会えなかった。
仕方なく、きびすを返す。
「雪梅の具合はどうか」
「申し訳ございません、まだ本調子ではないようで…。」
次の日も次の日も、雪梅に会うことは出来なかった。
高衢は何日も彼女の顔を見ていない。
謝りたいが、無理に訪ねて彼女を困らせたくはない。
「……では、雪梅の調子が良くなったら、連絡をくれ」
「…承知致しました」
高衢はそう言い残して、別邸を後にする。
だが、別邸の庭を歩いている時に視線を感じて、ふと別邸の最上階の窓に目を向ければ、カーテンの隙間から彼女が覗いていた。
目が合えば、慌ててカーテンの向こう側へ隠れたが、高衢はしばし見つめていた。
(……何日も面と会っていないせいか、彼女が恋しい。少しでもいいから、話したい)
高衢の切ない思いはむなしく、カーテンの隙間から彼女が姿を現すことはなかった。
雪梅と会えていない1週間後、高衢は端から見てもわかるぐらいピリピリしていた。
彼女の侍女からも全く連絡がない。
そんなに具合が悪いのか。何かの病気ではないのか。
高衢の心配は日に日に募り、侍女の連絡を待たずに別邸へ足を運んでいた。
いつもは公務の休憩時の昼後に尋ねているが、今はもう夜になる寸前だった。
つまり、尋ねる連絡もしていないし、女性の部屋を尋ねるにはいささか非常識な行動だ。
だが、そんなことも構っていられないほどの焦りが、高衢の頭の大半を埋め尽くしていた。
別邸の庭に足を踏み入れたとき、女性の笑い声が聞こえてきた。
建物近くに男女が寄り添い、何か楽しそうに話していた。
女性は両手一杯の花束を抱えている。
男は農夫のようだった。
目を凝らして見れば、女性は雪梅だった。
高衢は絶句する。
あんなに楽しそうに笑う彼女を見たことがなかったからだ。
それに、体調が悪そうには見えない。
1週間も彼女に会えていないストレスで、高衢は心配で夜も眠れていなかったのに、彼女は農夫と楽しそうにしている。
しかも、高衢には向けたことのない笑顔で……。
さっきまでは心配で焦りがあったが、今は彼女が他の男と楽しそうにしているのを見て、別の感情が沸き上がってくる。
かっと顔に熱が上がると、気づけば、彼女の二の腕を掴んでいた。
「……陛下…、何故ここに……」
雪梅の消えそうな声を無視して、高衢は農夫に言った。
「……彼女と話がある。下がれ」
高衢のいつもと違う低い声に農夫は怯えたような顔を向け、頭を下げながら「失礼致します…」と姿を消した。
彼女の腕を掴んだまま、高衢は彼女の怯えた目を見下ろす。
「……体の具合が悪いのは偽りだったのか」
「…っ……」
彼女は罰が悪そうに目をそらす。
「何故避ける?嘘をいう程、俺に会いたくなかったのか」
彼女は視線をそらしたまま、無言を貫く。
「そうやってずっと、会わないつもりだったのか?俺はあなたが心配で夜も眠れていなかったというのに…。あなたは他の男と楽しそうにしていた…。俺の思いが迷惑ならそう言ってくれ。こういう風に避けられるのはつらい」
高衢の切なる吐露に、雪梅は思わず見上げる。
すると、高衢は悲しいような怒っているような、そのどちらも混ぜ合わせている感情を浮かべていた。
その表情を見た途端、雪梅は無意識に彼の頬に手を当てていた。
高衢は驚いていたが、すかさず頬に当てられている彼女の手を取る。
彼女の手がビクッとなるが、離さず、白魚のような真っ白な手のひらに口づけをする。
彼女の顔が真っ赤に染まり、離れようとするが力を込め逃がさないようにする。
雪梅の手に高衢が何度も口づけを繰り返す。
恥ずかしすぎる上に、雪梅の真っ赤であろう顔を見つめながら、高衢は口づけを止めない。
彼のいつもはクールな眼差しが、情熱を含んだ眼差しで真っ直ぐ、雪梅を見つめる。
「っ……や……」
雪梅の震える手と、真っ赤に染まった顔、涙が浮かんできた目を見つめ、高衢の理性は崩壊寸前だった。
彼女のか細い可愛い声を聞いたとき、思わず引き寄せていた。
「っ陛下……、離してください……」
彼女の抱えている花束が鼻いっぱいに香る。
高衢は今雪梅を抱き締めていた。
華奢でいい匂いがして、柔らかい。
夢にまで見た彼女が手の中にいる。
高衢はたまらず自分の想いをぶつけた。
「俺は…あなたが好きなんだ。どうしようもないくらい」
高衢の切ない声音に、雪梅は硬直する。
抵抗を止めた彼女に、高衢はさらに力を込める。
「あなたが兄さんしか見れないことは分かっている。けれど、どうしても諦められない。兄さんを忘れられなくてもいいから……、俺を好きになれなくてもいいから……、避けないでくれ。あなたに避けられるのは何より辛い」
陛下の低く囁くような声に耳を傾けていた雪梅は、驚きを隠せなかった。
だって、彼は夫の言いつけを守っていただけ……
私を本気で好きではないのだと、何度も自分に言い聞かせてきた。
でも、違うの___?
雪梅が微かに身じろぎをすると、陛下の力が弱まる。
その隙にそっと仰ぎ見れば、泣きそうな顔の彼と目が合う。
「あ……」
雪梅は思わずもう一度手を伸ばし、彼の片頬に触れる。
目尻をぬぐうように親指を滑らすと、彼はじっと見つめてきた。
「何故触れる?俺を嫌いじゃないの?」
手を下ろそうとした彼女の手を再び、高衢は掴む。
「嫌いじゃないです……」
雪梅が消えそうな声で言うと、高衢は踏み込んだ。
「では、俺のことをどう思っている?」
雪梅はどう答えればいいのか分からなかった。
彼はきっと雪梅のことを好いてくれている。
雪梅も彼が好きだ。
でも、それを伝えれば妻にと望まれる。
雪梅は怖かった。
高衢が夫のように彼女を扱わないと信じているが、どうしても怖いのだ。
夫との生活は、雪梅の心に深い傷を負わせた。
雪梅は何と答えればいいか分からないまま、涙をこぼしてしまう。
「…っ、すみません……」
「……」
ポロポロと涙を流す彼女に、高衢はどうすればいいか分からなかった。
ただ、先ほど自分が言った言葉が彼女を追い詰めたのだと……。
彼はただ彼女を抱き締める。
「ごめん。もう聞かないから泣かないで」
雪梅は暖かい胸に鼻を押し付け、声を抑えてすすり泣く。
涙が少し収まると、彼女は意を決して顔をあげた。
「私は陛下が好きです。でも、それは義弟としてです。私は生涯誰とも添い遂げません。ですから別の方と…、あなたをちゃんと好いてくれる方と…、一緒になってください。それが私の願いです」
真っ直ぐに見上げる彼女に、高衢は目をそらせなかった。
しばらく沈黙が二人を包むが、やがて高衢は唇を震わせながら囁く。
「それがあなたの本音か」
「はい」
「………分かった。もうここに来るのも最後にしよう」
彼は生気のない目で見つめ、やがて目を伏せもう一度見つめてきた。
そして、優しい声音で囁く。
「あなたを泣かせるようなことは言いたくない。けれど、どうしても言いたい。あなたが兄さんとまだ夫婦だったころ、あなたはどこか怯えていた。でも、それが何故なのかは分からなかった。俺は、当時は何もできない子供だったし、兄さんも答えてはくれなかった。けれど、今にも泣きそうで儚いあなたを俺はなんとか元気付けたくて…、笑ってほしくて…、けど何もできない自分が歯がゆくて……。
避けられるようになってからは、益々どうすればいいのか分からなくて…、話し掛けたいのにあなたは俺と距離を置くようになって…。」
高衢は彼女の潤んだきれいな目を見つめ、触れたくなったが抑える。
「兄さんが亡くなった後、あなたはすぐにここへ移動した。その理由も分からなかった。俺に遠慮したのか、単に嫌われているのかと思った。でも……、そうではないのだろう」
同意を求めるように彼の目が訴える。
雪梅は否定も肯定もしなかった。
「………。あなたは他に伴侶を見つけろと言った。けど、俺はあなた以外を娶るつもりはない。あなたじゃないとダメなんだ」
優しかった声音に、熱がこもる。
「でも……、それもあなたにとっては苦痛なのだろう。ならば、この国に一生閉じ込める気はない。故郷に帰りなさい」
雪梅は驚きを隠せなかった。
この国に嫁いだ妻は、夫が亡くなっても故郷に帰ることは許されない掟がある。
彼女の思いを読み取ったのか、彼は笑う。
「元々この掟は古い昔に作られたものだ。今の時代には合わないだろう。妻だけというのは不公平すぎるからな。だから、あなたも故郷に帰っても良い。ここが気に入ったのなら、ここに住めばいい」
彼の目は訴えていた。
帰るな___、ここにいろと___。
最後に「ここに住めばいい」というのが、彼の一番の本音に違いない。
雪梅は高衢の提案に載りたかった。
けれど、彼女の言葉は高衢の望んだものだった。
「ありがとうございます、陛下。けれど、私の故郷はもうこの国なのです。生涯ここで過ごします。あなたの気が変わりましたら、私をどこにでもやってください。将来の伴侶の方がここを使うのでしたら、喜んで移動します」
「俺は伴侶を……」
「分かっています。けれど、そのようなことは不可能です。あなたは後継者を作らなければなりません。一国の陛下として」
彼女の強い意思のこもった眼差しに、高衢は何も言えなかった。
やがて、小さいが熱のこもった低い声が風に載る。
「たとえ、伴侶を娶って子を為しても、俺はあなただけを想う。それはあなたさえも否定することは許さない」
雪梅の目に涙が光る。
「私も…、あなたを想います。あなたの永久に栄光ありますよう願っています」
涙を流す彼女に、たまらず高衢は力強く抱き締める。
たとえ、彼女の言葉が義弟として向けられていたものとしても、高衢にとっては十分だった。
雪梅の腕が彼の背中に回ったとき、高衢は彼女を上向かせる。
潤んだ目尻を親指でぬぐい、愛らしいピンクの唇に吸い寄せられるように短く深い口づけをした。
彼女の小さな声とともに離し、彼は再度腕の中に閉じ込め囁く。
「元気で。雪梅。困ったことがあれば何でも言って」
「……ありがとうございます」
どこまでも優しい陛下に、雪梅はすすり泣く。
20年後…___
高衢は隣国の姫を娶り、一人の息子をもうけた。
やがて、彼が成人すると、高衢は称号を息子に譲り、隠居を決める。
場所は、彼がずっと恋い焦がれていた彼女のもとへだった。
久しぶりに足を運び、庭の前まで行くと、あの頃と変わらない彼女が立っていた。
高衢の胸は張り裂けるように鳴り響き、一歩一歩慎重に進めていく。
こちらに気づいた彼女は、満面の笑みを浮かべる。
「おかえりなさい」
愛らしい唇から心地よい声が、彼の鼓膜を震わせる。
ずっと見たかった彼女の笑顔に、高衢は泣きそうになった。