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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
聖女と英雄編

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第82話 決壊の前夜


 数百体もの魔獣が、同じ方向へ移動していた。


 東の森を見下ろす丘から目撃した光景は、ノヴァグラードへ戻った後も、私の頭から離れなかった。狼型や猪型、それ以外の魔獣までが互いに争うことなく歩き続け、草地の向こうまで途切れることなく連なっていた。魔獣同士が縄張りを争い、時には獲物を奪い合う光景なら何度も見てきたけれど、あれほど異なる種類の魔獣が一つの群れのように移動する様子は、私の知る習性とはあまりにも違っていた。


 あの群れがどこへ向かっているのかは、まだ分からない。森の地形に沿って移動しているだけなのか、それとも何らかの理由で特定の方向へ集まっているのか、判断するだけの情報がなかった。ただ、進路が少し変わるだけで、街道沿いの集落やノヴァグラードそのものが危険にさらされる可能性がある。遠くから眺めているだけでも、その数が持つ脅威は十分に理解できた。


 私とタクマがギルドへ戻ると、バルザックはすぐに会議室へ関係者を集めた。ガルドやフリーダたちもまだ残っており、机の上には今日一日で集まった報告書と、周辺の地図が広げられていた。私たちは斥候から聞いた情報と、実際に自分たちの目で確認した光景を、できるだけ正確に説明することになった。


「少なくとも数百体。正確な数は分からないけど、草地の端から端まで魔獣が続いてた。狼型も猪型も一緒に移動していて、争っている様子はなかったよ」


「赤い目の個体もいたんだな?」


「うん。全部じゃないけど、何体かは確認できた」


 バルザックは頷き、机の上に広げられた地図へ目を落とした。タクマが斥候から聞いた観測地点を指さし、群れの進行方向を書き加える。地図の上では一本の短い線にしかならないけれど、その先には街道や集落があり、さらに西へ進めばノヴァグラードの東側へ近づくことになる。


「ただ、街を目指しているとまでは言えません。今のところは森の地形に沿って西寄りに移動しているだけかもしれませんし、途中で方向を変える可能性もあります」


「そうだな。魔獣が人間の街を狙って行軍しているわけじゃねえ」


 ガルドが腕を組みながら頷いた。


「だが、あれだけの数が一つに固まって動いてるとなりゃ、進路上にある集落はひとたまりもねえぞ。たとえ襲うつもりがなくても、あんな連中が押し寄せてきたら逃げるしかねえ」


「その通りだ」


 バルザックは地図に記された複数の目撃地点を見比べた。北側と南側にも、赤い瞳を持つ魔獣や、異なる種類が争わず移動しているという報告が集まっている。昨日までは個々の目撃情報として扱っていたものが、こうして並べると、広い範囲で同じ変化が起きていることを示していた。


「群集相への移行は、もはや疑いようがない。問題は、これがどこまで拡大するかだ。北と南でも同じような動きが確認されている以上、東の群れだけを警戒していれば済む話ではない」


「それなんだけど」


 シエラが地図の南側を指さした。


「昨日、南の森で見た群れ。途中で進路を変えてた」


「進路を?」


「うん。谷に沿って進んでたのに、途中で東へ曲がった。そっちには、別の群れがいた」


 フリーダも思い出したように頷いた。


「そういや、あったね。あたしはてっきり、何かに驚いて方向を変えたんだと思ってたけど」


「驚いた様子はなかった」


 シエラは短く答えた。


「そのまま進んで、別の群れと合流した」


 ガルドが顎に手を当てた。


「北でも似たような話を聞いたな。小さな群れが森を抜けて、別の大きな群れに加わったらしい。偶然だと思ってたが、そうでもねえのか?」


 タクマは地図を見つめ、各方面の目撃地点を確認した。


「今の情報だけじゃ分かりませんけど、気になりますね。群れが移動した先に、別の群れがいたという報告が複数あるなら、何か共通する理由があるのかもしれません」


「理由、ねえ……」


 フリーダが首を傾げた。


「同じ種類の魔獣なら、仲間を探してるって考え方もできるけどさ。狼と猪が一緒に動いてる時点で、普通じゃないんだよな」


 確かに、その通りだった。


 魔獣が群れを作ること自体は珍しくない。けれど、それは基本的に同じ種類の魔獣同士の話だ。普段なら敵対する種類まで一緒に移動しているのだから、単に仲間を探しているという説明では足りない。まして、シエラの報告では、群れが地形に沿った進路をわざわざ変えているという。何かに追われたわけでも、目の前に獲物が現れたわけでもないのに、別の群れがいる方向へ向かったという事実が、私には妙に引っかかった。


「進路を変えた地点と、その周辺にいた群れの位置を記録しておこう」


 バルザックが指示を出した。


「今後の監視では、数だけでなく、どこで方向を変えたかも確認させる。群れ同士が合流しているなら、その前後の動きも知りたい」


 エリナが頷き、報告書に新たな項目を書き加えた。斥候には無理な接近を避けるよう改めて指示が出され、観測地点と時刻を揃えて報告することになった。同じ群れを別々の場所から見ている可能性もあるため、情報の整理を誤れば、実際よりも魔獣が多く見えることも、その反対もあり得るからだ。


 その夜の会議では、結局、魔獣の移動に明確な理由を見つけることはできなかった。ただ、各地で別々に起きているように見えた異変が、もしかすると一つの現象としてつながっているのかもしれない。


 私たちはそんな疑問を抱えたまま、翌日の避難と防衛準備に備えることになった。


     ◇


 翌朝、行政庁舎で開かれた緊急協議には、行政、衛兵隊、商人組合、冒険者ギルドの代表者たちが集まっていた。


 会議室の壁にはノヴァグラード周辺の地図が掲げられ、避難を終えた集落と、まだ住民が残っている集落が色分けされている。街に近い集落の大部分はすでに避難を完了しており、昨夜までに到着した住民は行政が用意した建物へ収容されていた。食料や水の配給も始まり、商人組合が確保した荷馬車による輸送も続けられている。


 ここ数日、街の各組織が協力して進めてきた避難計画は、確かに成果を上げていた。各集落にはあらかじめ伝令が送られ、住民の人数や移動に支援が必要な者の数も確認されている。荷馬車の割り振りや集合場所も決められ、現地での混乱を減らすための手配が続けられていた。


 それでも、地図にはまだ避難が終わっていない集落がいくつも残っていた。


「北東方面の三集落については、現在も輸送を続けています。ただ、街道の一部が傷んでおり、荷馬車の速度が上がりません」


 行政側の担当者が説明すると、衛兵隊の代表が続けた。


「東街道沿いの集落も、今日中には大部分を移動させられる見込みです。昨夜のうちに最終便の到着予定を伝えてありますので、住民の集合も進んでいるはずです。ただ、遠方の集落については、すべての住民を迎えに行くまでに時間がかかります」


「馬車を増やすことはできないんですか?」


 私が尋ねると、商人組合の代表が申し訳なさそうに首を振った。


「使える荷馬車は、ほぼ出し尽くしています。商隊の輸送予定を取り消して回しているものもありますが、馬も御者も休ませなければなりません。昨日から往復を続けている者も多く、このまま無理をさせれば事故が起きかねませんので」


 その説明を聞いて、私は何も言えなくなった。


 魔法で荷馬車を増やすことはできないし、馬や人間の疲れを都合よく消してしまうこともできない。街道の傷んだ場所を直すことはできても、すべての道を一度に整備できるわけではなかった。街の人たちは十分すぎるほど協力してくれているのに、それでも時間が足りなくなりつつある。


「外側の防衛拠点についても、撤収の判断が必要です」


 衛兵隊の代表が地図を指さした。


「現在は避難輸送隊を守るために部隊を配置していますが、魔獣の群れが接近すれば、拠点そのものが孤立する危険があります。住民の通過を待ちすぎて、衛兵まで戻れなくなる事態は避けなければなりません」


 バルザックが頷いた。


「ならば、今日を最後のまとまった輸送日と考えるべきだろう。各集落には撤収期限を伝え、監視情報によっては予定を前倒しする。荷物よりも人命を優先し、輸送隊が戻った拠点から順次撤収させる」


 会議室では、誰もその方針に反対しなかった。ただ、住民にとっては厳しい決断になる。家財を残すことも、飼ってきた家畜を連れていけないこともあるだろう。長年暮らしてきた土地を離れるだけでもつらいのに、戻った後の生活を支えるものまで置いていかなければならない。それでも、命を守るためには、すべてを運び出す時間がないのだ。


「問題は、輸送隊が戻るまで街道の安全を確保できるか、ですね」


 タクマが地図を見ながら言った。


「ああ。昨日確認された群れが西へ進んでいる以上、東側の輸送隊には十分な護衛が必要だ」


 バルザックはそう答え、私たちへ視線を向けた。


「そこで、お前たちに最後の輸送隊を任せたい」


 私とタクマは顔を見合わせ、頷いた。


 昨日の群れが確認された地域に比較的近いため、危険は小さくない。それでも、住民を無事に連れ帰るためには、魔獣に遭遇した場合に対応できる戦力が必要だった。私たちが護衛につけば、少なくとも少数の魔獣に襲われた程度で輸送隊が足止めされることは避けられるだろう。


「リカ、タクマ。無理に討伐を続けるなよ」


 出発前、バルザックが私たちに念を押した。


「お前たちの仕事は、住民を街へ連れ帰ることだ。魔獣を倒すことに夢中になって、輸送隊から離れるな」


「分かってるよ」


「ああ。危険だと判断したら、すぐに引き返します」


 私たちはそう答え、衛兵と御者たちが待つ東門へ向かった。


     ◇


 東街道を進む輸送隊は、全部で八台の荷馬車から構成されていた。


 そのうち何台かには、住民を乗せるための簡素な座席が設けられている。残りは食料や水、必要な資材を運ぶためのものだったが、帰りにはできる限り多くの人を乗せられるよう、積荷は最小限に抑えられていた。御者たちは出発前に馬具や車輪を確認し、衛兵も隊列の前後を何度か行き来して、異常がないことを確かめている。


 私とタクマは、それぞれギルドから貸与された馬に乗って隊列に加わった。先頭には衛兵が二人、その後ろに荷馬車が続き、最後尾にも護衛が配置されている。斥候はさらに前方へ出ており、街道沿いの安全を確認しながら進むことになっていた。


 街道沿いの森は、いつもと変わらないように見えた。


 木々の間から鳥の声が聞こえ、風が吹けば枝葉が揺れる。森の外縁には日差しが差し込み、道端の草も普段と同じように揺れていた。けれど、少し離れた場所では魔獣の群れが移動しているかもしれないと思うと、何気ない物音にも意識が向いてしまう。特に木々の奥で枝が折れるような音がすると、ついそちらへ目を向けてしまった。


「リカ、あんまり森ばかり見てると疲れるぞ」


 隣を進むタクマが声をかけてきた。


「分かってるけど、気になっちゃって」


「警戒するのは大事だけどな。斥候も先に出てるし、俺たちだけで全部見張る必要はないよ」


「……そうだね」


 私は少し肩の力を抜いた。


 今日の輸送隊には、森の様子を確認する斥候が先行している。街道の安全を確かめながら進むため、速度は決して速くないけれど、その分だけ不意の遭遇を避けられる可能性が高くなる。私たちがすべきなのは、斥候の代わりに森の奥まで見張ることではなく、何か起きたときに輸送隊を守れる位置にいることだった。


 昼前、私たちは目的の集落へ到着した。


 集落の広場には、すでに住民たちが集まっていた。先行する伝令から避難の指示が届いていたらしく、荷物をまとめた家族が順番を待っている。広場の片隅には持ち出す予定の荷物が並べられ、家畜をつないでいる場所もあった。村の代表者は私たちを見ると、すぐに輸送隊の責任者へ駆け寄ってきた。


「お待ちしておりました。住民は全員、こちらに集めています」


「ありがとうございます。人数を確認したら、すぐに乗車を始めましょう」


 輸送隊の責任者がそう答えると、衛兵たちは手分けして住民の確認を始めた。歩ける人と荷馬車に乗る必要がある人を分け、家族ができるだけ離れずに済むよう座席を割り振っていく。あらかじめ準備が進んでいたおかげで、集落へ到着してから慌てて人を集める必要はなかった。


 私は広場の端で休んでいる老人たちのところへ向かった。長い距離を歩くのが難しい人もいて、荷馬車に乗るまでの移動にも手助けが必要そうだった。


「体の具合はどう?」


「腰が少し痛むくらいだよ。こんな年になって、村を離れることになるとは思わなかったがね」


 老人は苦笑しながら答えた。


 私は痛みの様子を確かめ、必要な範囲で回復魔法を使った。痛みが和らげば移動は少し楽になるけれど、年齢による体力の低下まで消せるわけではない。荷馬車の揺れも負担になるだろうから、座る場所や休憩の取り方にも気を配る必要があった。近くにいた衛兵にも事情を伝え、乗り降りの際に手を貸してもらうようお願いしておく。


 少し離れた場所では、若い夫婦が荷物を前に困っていた。


 大きな木箱が二つと、布に包まれた道具がいくつも置かれている。どうやら農具や生活用品を持っていこうとしているらしく、夫婦は荷馬車の空き具合を気にしながら、何度も荷物を見比べていた。


「申し訳ありませんが、荷物はもう少し減らしていただけますか」


 衛兵が説明すると、夫婦は顔を見合わせた。


「でも、これがないと帰ってから困るんです。全部買い直せるようなものじゃありませんし……」


 その気持ちは、私にも分かった。


 家を離れるだけでも不安なのに、生活に必要な道具まで置いていかなければならない。魔獣が通り過ぎた後に無事なまま残っている保証もないのだから、できる限り持っていきたいと思うのは当然だ。まして農具は、帰ってから生活を立て直すためにも必要になる。


 けれど、荷馬車の数には限りがある。


 タクマは夫婦の話を聞いた後、輸送隊の責任者に確認し、荷物を積める余地がないか調べていた。荷台の積み方を変えれば少しだけ空間を作れそうだったが、他の住民の荷物もあるため、すべてを持ち出すことはできない。結局、大きな木箱は一つしか載せられなかったものの、中身を移し替えることで、必要な道具の一部は持ち出せるようになった。


「残りは、戻れるようになってから取りに来ましょう」


 タクマがそう言うと、夫婦は名残惜しそうに家のほうを振り返りながらも、頷いた。


 すべてを救うことはできない。それでも、少しでも多くのものを残せるように考えることはできる。私はタクマが夫婦と一緒に荷物を整理する姿を見ながら、避難する人々にとって必要なのは、ただ安全な場所へ運んでもらうことだけではないのだと感じていた。


 住民の乗車が半分ほど進んだ頃、集落の見張りをしていた若者が広場へ駆け込んできた。


「森のほうで魔獣を見ました! 数はまだ少ないですが、昨日より近い場所にいます!」


 その声に、広場がざわめいた。


 輸送隊の責任者はすぐに見張りから詳しい位置を聞き取り、護衛の衛兵たちへ指示を出した。確認された魔獣は集落へ向かっているわけではないらしいが、いつ進路を変えるかは分からない。遠くに見える程度だからといって、予定通りの時間まで留まる理由はなかった。


「出発を早めましょう」


 タクマが言うと、責任者も頷いた。


「ええ。乗車が終わり次第、出発します。荷物の積み込みはここまでにしてください」


 住民たちは不安そうにしながらも、衛兵の誘導に従って荷馬車へ乗り込んでいく。集落の代表者が最後に人数を確認し、家々に残っている者がいないことを確かめた。広場には積み残された荷物がいくつもあったけれど、それを取りに戻ろうとする人はいなかった。


 やがて八台の荷馬車が動き始め、私たちは来た道を引き返した。


 集落を離れるとき、荷台に座っていた一人の女性が、遠ざかる家並みをじっと見つめていた。隣にいた子供が何かを尋ねると、女性はその肩を抱き寄せ、小さな声で答えていた。


 私には、その言葉までは聞こえなかった。


     ◇


 帰りの街道で、私たちは奇妙な光景を目撃した。


 森の脇から現れたのは、狼型の魔獣が四体だった。赤い瞳の個体が混じっており、こちらを見つけると、一度だけ顔を向けてきた。私はすぐに魔法を使えるよう身構え、タクマも剣の柄に手をかけた。先頭の衛兵が御者へ合図を送り、荷馬車の列がわずかに速度を落とす。


 けれど、魔獣たちは襲ってこなかった。


 こちらを見ていた狼型の魔獣は、しばらくすると興味を失ったように顔を背け、そのまま街道を横切って反対側の森へ向かっていった。続いて現れた数体も同じ方向へ進み、荷馬車に乗っている住民たちへ目を向けることさえほとんどなかった。


「……え?」


 思わず声が漏れた。


 御者たちも驚いた様子でその姿を見送っている。魔獣が人間を見つけても必ず襲うとは限らないけれど、これほど近くに大勢の人間がいるのに、ほとんど関心を示さず通り過ぎていくのは不自然だった。


「今の、俺たちを見つけてたよな?」


 タクマが小さな声で尋ねた。


「うん。間違いなく見てたと思う」


「なのに、襲ってこなかった……」


 そのとき、最後に現れた一体が荷馬車へ顔を向けた。


 狼型の魔獣は低く唸り、荷台に乗った住民たちへ近づこうとした。私はすぐに地面を隆起させ、街道と森の間に低い土壁を作る。魔獣は土壁を回り込もうとしたが、タクマが前へ出て進路を塞いだ。


 飛びかかってきた魔獣に対し、タクマは半歩だけ身を引いて攻撃をかわし、着地したところへ剣を振るった。魔獣は地面に倒れ、再び立ち上がることはなかった。残りの魔獣はすでに森の奥へ姿を消しており、追撃しようとする気配もない。


「追わなくていいよね?」


「ああ。今は荷馬車を守るのが先だ」


 私たちは護衛の配置を整え、輸送隊を再び動かした。魔獣が通り過ぎた森の方向には、しばらく警戒を向けていたけれど、それ以上襲われることはなかった。


 幸い、住民に怪我人はいなかった。荷馬車の中では子供が泣いていたけれど、母親が抱きしめると少しずつ落ち着きを取り戻していた。御者たちも緊張した表情をしていたものの、誰も持ち場を離れず、輸送隊はそのままノヴァグラードへ向かって進み続けた。


 けれど、先ほどの魔獣の行動は、私の頭から離れなかった。


 あの魔獣たちは、確かに私たちを認識していた。それなのに、ほとんどの個体は襲ってこなかった。まるで、私たちよりも優先しなければならない何かがあるかのように、同じ方向へ移動していた。


「リカ、さっきの連中が向かった方向なんだけどさ」


 タクマが馬を寄せてきた。


「昨日、大きな群れが見つかった場所に近くないか?」


 私は頭の中で周辺の地形を思い浮かべた。


 確かに、魔獣たちが向かった森の先には、昨日私たちが数百体の群れを目撃した地域がある。正確な位置関係までは分からないけれど、少なくともまったく別の方向ではなかった。


「……そうかもしれない」


「昨日、シエラが言ってた話と似てるな」


「小さな群れが、大きな群れのほうへ向かったって話?」


「ああ。偶然かもしれないけど、戻ったら報告しておこう」


 私は頷いた。


 昨日まで、魔獣が人間を襲わずに移動する理由は、群集相によって習性が変化しているからだと思っていた。けれど、もし彼らが何か別のものを目指しているのだとしたら、話は少し違ってくる。


 その何かが分かれば、魔獣たちが次にどこへ向かうのかも予測できるかもしれない。


     ◇


 ノヴァグラードへ戻ると、街の外側では防衛拠点の撤収が始まっていた。


 昨日、私が土魔法で補強した木柵の周辺でも、衛兵たちが資材をまとめている。すべてを取り壊すのではなく、魔獣の進行を妨げる障害物として使える部分は残し、撤収する部隊や荷馬車の通路だけを確保していた。持ち帰れる資材は荷車に積まれ、街の防衛設備へ転用するために運び出されている。


「リカさん、お帰りなさい」


 作業を指揮していた衛兵が、私たちに気づいて声をかけてきた。


「輸送隊は無事に戻りましたか?」


「うん。途中で魔獣が出たけど、怪我人はいなかったよ」


「それはよかった。こちらも、住民の通過が終わった拠点から順次引き払っています。残っている部隊にも撤収の準備を進めさせていますので、夜までにはかなりの人数を街へ戻せるはずです」


 衛兵はそう言って、街のほうを指さした。


 東門の周辺では、新たな防衛設備の設置が進んでいた。木柵や土嚢が運び込まれ、城門の前には障害物を置くための場所が確保されている。街の中へ続く通路も整理され、荷馬車や負傷者を運ぶための経路が塞がれないようになっていた。衛兵隊が中心になって作業を進めているものの、資材を運ぶ商人や、木材を加工する職人の姿も見える。


「ずいぶん進んだね」


「ええ。衛兵隊だけでは手が足りませんが、商人組合や市民の方々も協力してくださっています。冒険者ギルドからも人を出していただいていますし、今のところ予定通りです」


 その言葉を聞いて、私は少し安心した。


 ノヴァグラードには大勢の人が暮らしている。冒険者だけで守ろうとすれば、とても手が足りないけれど、街の人たちがそれぞれにできることを引き受けてくれていた。魔獣と直接戦うことはできなくても、資材を運び、食料を用意し、避難してきた人々の世話をすることで、防衛に協力してくれているのだ。


「リカ、こっちも確認しておこう」


 タクマに呼ばれ、私は東門の内側へ向かった。


 そこでは衛兵たちが、負傷者を運び込む場所と、治療に使う物資の配置を確認していた。水を入れた樽や布、医薬品が用意され、負傷者を寝かせるための場所も確保されている。戦闘が始まれば、怪我をした衛兵や冒険者が次々と運び込まれる可能性があり、そのときになって場所を探していては対応が遅れてしまう。


「この通路、荷馬車が止まったら塞がりませんか?」


 タクマが衛兵に尋ねた。


「確かに、少し狭いですね」


「戦闘が始まれば、負傷者を運ぶ人と、補給物資を運ぶ人が同時に通ることになると思います。できれば経路を分けておいたほうがいいかもしれません」


 衛兵はすぐに担当者を呼び、資材の置き場所を変更するよう指示した。通路の幅を確認し、荷車が一台止まっても人が通れるだけの余裕を残すことになった。


 私も治療場所の位置を確認し、魔法を使う場合に邪魔になりそうなものがないか調べていく。負傷者が運び込まれたとき、すぐに対応できるようにしておきたかった。


 回復魔法は便利だけれど、どんな怪我でも一瞬で治せるわけではない。傷の程度によっては時間がかかるし、魔力にも限りがある。以前、タクマが負傷したときにも、傷そのものを治しただけでは、その後の体調まで保証できないことを思い知らされた。だから、魔法だけに頼るのではなく、衛兵隊が用意した治療場所や医薬品を活用することが大切だった。


 担当者との打ち合わせを済ませると、私たちは再び東門の外側へ戻り、土塁の補強を始めた。


 魔獣の突進を受け止める場所には厚みを持たせ、衛兵が移動する通路は塞がないようにする。城門の前には、突破された場合に備えてもう一段の障害物を設けたが、味方が退避する経路だけは確保しておいた。高い壁を作ってしまえば防御力は上がるものの、衛兵の視界を遮り、味方の移動を妨げる危険もある。今回は防衛設備そのものを頑丈にするだけでなく、実際にそこで戦う人たちが使いやすい形に整えることを意識した。


 作業の途中、街の中から荷車が何台も運ばれてきた。


 魔道具を扱う工房から提供された照明器具や、夜間の作業に使う魔石灯も含まれているらしい。衛兵たちはそれらを防衛位置へ運び、夜間でも周囲を確認できるよう準備していた。松明だけでは照らしきれない場所にも明かりを置き、城門の外側を見渡せるようにするためだという。


 私は運ばれていく魔石灯を見ながら、街には本当に多くの魔道具があるのだと改めて感じた。


 照明だけでなく、工房の設備や生活に使う道具にも、魔力を利用するものは少なくない。冒険者たちが持つ魔道具も含めれば、ノヴァグラードには相当な数が集まっているはずだ。普段は当たり前のように使っているものだけれど、こうして一か所へ集められているのを見ると、都市という場所がどれほど多くの魔力を利用して成り立っているのか、少し実感できた気がした。


 もっとも、今はそのことを深く考えている余裕はなかった。


 私たちは日が傾くまで防衛準備を手伝い、必要な作業を終えてからギルドへ戻った。


     ◇


 日が沈む頃、冒険者ギルドの会議室には、再び関係者たちが集まっていた。


 バルザックをはじめ、ガルド、フリーダ、クルシュ、シエラが席についている。エリナも大量の報告書を抱えており、机の上には昨日よりさらに多くの印が付けられた地図が広がっていた。各方面から届く報告が増えたためか、机の端には整理途中の書類が積み上がっている。


「リカ、タクマ。東の輸送隊は無事に戻ったそうだな」


「うん。全員連れて帰れたよ」


「ご苦労だった。だが、状況はさらに悪くなっている」


 バルザックはそう言って、地図の東側を指さした。


 そこには昨日、私たちが数百体の群れを目撃した地点が記されている。けれど、その周辺には新たな印が増え、群れの移動経路を示す線が何本も伸びていた。複数の斥候が別々の場所から確認した情報を照合した結果、昨日の群れが移動を続けながら、さらに別の群れと合流しているらしいことが分かったという。


「昨日の群れは、その後も別の群れと合流している。正確な数は分からんが、少なくとも昨日より規模が大きくなっているらしい」


「まだ増えてるの?」


「ああ。それだけじゃない。各方面の報告を照合したところ、妙な共通点が見つかった」


 バルザックはそう言うと、地図の上にいくつかの線を書き加えた。


 東側では、小さな群れが森を抜け、昨日確認された大きな群れへ向かっている。北側でも、別々に移動していた群れが合流を繰り返していた。南側では、谷筋に沿って進んでいた群れが途中で方向を変え、別の群れと合流している。


 それぞれの報告だけを読めば、魔獣が不規則に移動しているようにも見える。けれど、観測された時刻と位置を揃え、移動経路を一つずつ追っていくと、単なる偶然では片づけにくい共通点が浮かび上がってきた。


「……小さな群れが、大きな群れのほうへ向かってる?」


 私が呟くと、タクマも頷いた。


「そう見えるな。しかも、地形だけじゃ説明できない進路変更がある」


「そうなんだ」


 シエラが短く答えた。


「南で見た群れも、谷から離れて別の群れへ向かった。近道でもなかった」


 ガルドが腕を組んだ。


「北でも同じだ。小さな群れが何度も合流して、最後にはかなりの数になってるらしい。森の中を移動している連中まで全部確認できたわけじゃねえから、実際にはもっといるかもしれんな」


「群れ同士が仲間を探してるってことかねえ」


 フリーダが首を傾げた。


「でもさ、狼と猪が仲間ってのも変な話だよな。普段なら、近づいただけで争うこともあるだろ?」


「群集相によって、敵対行動が抑えられている可能性はあります」


 クルシュが答えた。


「ただ、それだけでは移動方向を説明できません。争わないことと、特定の群れへ向かうことは、別の現象ですから」


 私は地図を見つめた。


 小さな群れが大きな群れへ向かい、合流した群れがさらに別の群れへ向かう。しかも、種類の違う魔獣同士が争うことなく、同じ方向へ移動している。昨日の報告と、今日の帰り道で見た魔獣の行動が、頭の中で少しずつ重なっていった。


 何か共通するものがあるのだろうか。


 狼型でも猪型でも、それ以外の魔獣でも、同じように持っているもの。魔獣の種類が違っても変わらず存在し、数が集まれば、その分だけ増えるもの。


 私はそこで、ふと一つの可能性を思いついた。


「……魔力、かな?」


 全員の視線が私へ集まった。


「どういうことだ?」


 バルザックが尋ねた。


「魔獣も魔核を持ってるよね。種類は違っても、魔力を持っていることは同じだから……もしかしたら、魔獣たちは魔力が集まっている場所へ向かってるんじゃないかなって」


 私は地図の上にある、小さな群れと大きな群れの印を指さした。


「一体だけなら魔力は少ないけど、何十体も集まれば、その場所にある魔力の量は大きくなる。だから、小さな群れが大きな群れへ向かってるのかもしれない」


 タクマが地図を見つめながら考え込んだ。


「なるほど……。魔獣の種類が違っても、魔力なら共通してる。群れが大きくなるほど、そこに集まる魔力も増えるわけか」


「うん。もちろん、本当に魔力を感じ取ってるのかは分からないけど」


「いや、筋は通ってると思う」


 タクマはそう言って、私たちが帰り道で見た魔獣の話を始めた。


 狼型の魔獣がこちらを認識していたにもかかわらず、ほとんどの個体は襲ってこなかったこと。彼らが向かった方向には、昨日確認された大きな群れがいたこと。最後の一体だけが荷馬車へ近づいてきたものの、残りの魔獣は移動を続けたこと。


「人間を見つけても、そっちへ向かうことを優先してたように見えました。もし魔力の集まりを目指してるなら、説明できるかもしれません」


「なるほどねえ」


 フリーダが感心したように頷いた。


「人間を襲うより、大きな群れに合流するほうを優先してるってわけか」


「ただし、すべての個体がそうするわけではないのでしょう」


 クルシュが補足した。


「群集相へ移行していても、近づいた人間を襲う個体はいる。魔力の集積へ引き寄せられる性質があったとしても、それだけで他の習性が完全に消えるわけではないと考えるべきですね」


 私は頷いた。


 魔獣が魔力の集積へ向かうのだとしても、それがどのような仕組みで起きているのかは分からない。私たち人間も魔核を持っているけれど、普段から他人の魔力に引き寄せられて歩くようなことはない。魔力を感知する能力にも個人差があるし、魔獣の種類によっても違いがあるだろう。群集相へ移行することで、魔獣の感覚や行動に何らかの変化が起きているのだとすれば、今までの常識だけでは説明できないことがあっても不思議ではなかった。


「魔力を感じ取る範囲にも限界があるのかもしれないな」


 タクマが地図を見ながら言った。


「遠くに大きな群れがいても、最初からそこへ向かうわけじゃない。まず近くの群れに引き寄せられて、合流した後に、さらに別の群れへ向かう。そう考えれば、各地で小さな群れができてから、徐々に大きくなっていく理由も説明できそうだ」


「……うん。それなら、最初から全部の魔獣が同じ場所へ向かわない理由も分かるね」


 私はそう答えながら、地図に記された無数の移動経路を見直した。


 確かに、すべての魔獣が最初から一つの場所を目指しているわけではない。小さな群れが近くの大きな群れへ向かい、その群れがさらに別の群れと合流している。魔力の集積が大きいほど強く引き寄せられるのだとすれば、群れが大きくなること自体が、次の合流を引き起こす原因になる。


 それは、異常繁殖によって増えた魔獣が、次々と大きな群れを形成していく仕組みとして、恐ろしいほど筋が通っていた。


 バルザックはしばらく考え込んだ後、エリナへ声をかけた。


「過去のスタンピードの記録を持ってきてくれ。群れがどのように移動したか、分かるものがあればいい」


「分かりました!」


 エリナはすぐに資料室へ向かった。


 しばらくして運ばれてきたのは、古い報告書をまとめた数冊の記録だった。バルザックとクルシュがページをめくり、過去に発生したスタンピードの記述を確認していく。私たちも手分けして資料を読み、魔獣の移動経路や、群れが合流したという記述がないか調べることになった。


 記録には、魔獣が異常繁殖した後、複数の群れを形成し、やがて大きな群れとなって都市や集落へ押し寄せた例が残されていた。場所や規模はそれぞれ違うものの、最初から都市へ向かっていたわけではなく、途中で何度も群れが合流していたらしい。


 ただし、当時の記録は被害状況や討伐数を中心にまとめられており、魔獣がなぜその方向へ移動したのかまでは詳しく書かれていなかった。大きな群れが都市へ押し寄せたという結果は残っていても、その前にどのような経路を通り、何をきっかけに方向を変えたのかは不明なものが多い。スタンピードが発生したとき、現場の人々にとって最優先だったのは魔獣の行動を研究することではなく、生き延びることだったのだろう。


「……確かに、似たような動きがあるな」


 バルザックが呟いた。


「過去の記録では、魔獣が人間の多い場所を襲うと考えられていたようだ。だが、今回の観測では、人間を見つけても無視する個体がいる」


「人間を狙ってるんじゃなくて、人間が集まってる場所に、別の理由で引き寄せられてるとしたら……」


 タクマがそこまで言って、言葉を止めた。


 私も、ようやく気づいた。


 魔獣が魔力の集まる場所へ向かっているのだとしたら、周辺の群れが合流しきった後、次に目指す場所はどこになるのだろう。


 森の中にいる魔獣たちは、次々と大きな群れへ集まっている。北でも、東でも、南でも、それぞれの群れが成長を続けている。けれど、周辺の小さな群れを吸収し終えた後も、魔獣たちが移動を続けるのだとしたら、その先には別の魔力の集積が必要になる。


 そして、その周辺には、魔獣の群れ以外にも大量の魔力が集まっている場所がある。


「……街には、魔力を持つ人がたくさんいる」


 私は地図の中央を見つめた。


「それに、魔道具だって。工房にも、家にも、冒険者たちの装備にも……」


 ノヴァグラードには、多くの人々が暮らしている。人間も魔核を持つ生物であり、魔力を利用する魔道具も数多く存在する。街全体で考えれば、そこに集まる魔力は相当なものになるはずだった。


 昼間、東門で見た魔石灯のことを思い出す。防衛設備へ運び込まれていたのは、街に存在する魔道具のほんの一部に過ぎない。工房では魔力を利用した設備が動き、家庭でも生活のために魔道具が使われている。冒険者たちが持つ魔道具や、魔法を使う人々の存在まで考えれば、ノヴァグラードは周辺の森とは比べものにならないほど、多くの魔力が集まる場所なのかもしれない。


 タクマが、地図の北側にある群れを指さした。


「北の群れは、周辺の小さな群れを吸収して大きくなってる。東も南も同じだ。もし、それぞれの地域で群れが集まりきったら……」


「次に強く感じ取れる魔力の集積が、街になるかもしれない」


 私がそう答えると、会議室が静まり返った。


 バルザックは地図上のノヴァグラードを見つめた。


「……つまり、各方面で大きくなった群れが、最後にこの街へ向かう可能性があるということか」


「うん。魔獣たちが街を襲おうとしてるわけじゃなくても、結果的にはそうなるかもしれない」


 私は頷いた。


 もちろん、まだ仮説に過ぎない。群集相の魔獣がどの程度の距離から魔力を感じ取れるのか、魔力の量によって誘引される強さが変わるのかも分からない。そもそも、魔力以外の何かに反応している可能性だって残っている。


 けれど、これまでの観測結果を一つの理由で説明できるという点では、十分に検討する価値があると思った。


「厄介ですね」


 クルシュが静かに言った。


「もしこの仮説が正しければ、北と東と南の群れは、必ずしも途中で一つになる必要がありません。それぞれが周辺の魔獣を吸収しながら成長し、最後に同じ場所へ向かう可能性があります」


「……ノヴァグラードが、最後の合流場所になるってことか」


 ガルドが低い声で呟いた。


 私はその言葉を聞きながら、地図の中央に記された街の名前を見つめた。


 北から、東から、南から。


 別々に移動していた大群が、最後に同じ場所へ集まってくる。


 しかも、それぞれの群れが別々に移動している以上、街へ到達する時刻が同じになるとは限らない。東側の群れを退けた直後に北側から別の群れが現れることも、南側の防衛線が戦っている最中に東側へ新たな群れが押し寄せることも考えられる。どこか一か所で勝利したからといって、街全体の危機が終わるわけではないのだ。


 それは、私たちがこれまで想像していた以上に危険な状況だった。


     ◇


「だったら、街の魔力を減らせばいいんじゃないか?」


 フリーダがそう言うと、タクマも考え込んだ。


「魔道具を止めたり、住民を分散させたりすれば、誘引される力を弱められる可能性はありますね」


「でも、今から住民を街の外へ出すのは危険だよ」


 私はすぐに答えた。


「周辺にはもう魔獣が増えてるし、避難してきた人たちをまた別の場所へ移動させることになる。それに、人間が持ってる魔力まで消せるわけじゃないし……」


「そうだな」


 バルザックが頷いた。


「魔道具を停止させれば、街の防衛にも支障が出る。夜間の照明や工房の設備まで止めてしまえば、準備そのものが遅れるだろう」


「それに、魔力を減らしたとしても、どの程度の効果があるか分かりません」


 クルシュが補足した。


「仮説が正しいとしても、魔獣が感知する魔力の範囲や強さは不明です。今から街全体の魔力を減らすような大規模な対応を取るのは、危険が大きすぎます」


 私は頷いた。


 魔力を利用して魔獣を別の場所へ誘導する方法も、考えられないわけではない。けれど、数百体、あるいはそれ以上の魔獣を引き寄せられるほどの魔力を、どこへ、どのように集めればいいのか分からなかった。仮に成功したとしても、その先に別の集落があれば、危険を押しつけるだけになってしまう。


 何より、今は時間が足りない。


 仮説を確かめるために魔獣の群れへ近づくことも、街の外へ大規模な魔法陣を設置することも、すでに進んでいる避難や防衛準備を中断してまで行うべきことではなかった。私たちが魔獣の行動原理を理解し始めたとしても、それを利用して安全に群れを動かす方法まで見つかったわけではないのだから。


「理由が分かったところで、目の前の魔獣が消えるわけじゃない」


 バルザックが地図から顔を上げた。


「今の俺たちにできるのは、ここで迎え撃つ準備を整えることだ。少なくとも、街が危険にさらされる可能性が高いと分かっただけでも、備える理由は十分にある」


 会議室にいた全員が頷いた。


 バルザックは各班の配置を確認し、ガルドを北側の主力に、フリーダとクルシュを南側の防衛に回すことを決めた。シエラは引き続き斥候として情報収集を担当し、私とタクマは東門の防衛線へ配置される。


 各方面の報告はギルドを通じて共有され、必要に応じて衛兵隊と連携して戦力を動かすことになった。外側の防衛拠点についても、夜間のうちに撤収を完了させ、都市の防衛線へ戦力を集める方針が改めて確認された。


 これまでのように、魔獣を探して森へ入る仕事ではない。


 今度は、街へ近づいてくる魔獣を迎え撃つことになる。


     ◇


 夜になっても、ノヴァグラードの東門では作業が続いていた。


 城門の周辺には松明が灯され、衛兵たちが交代で警備についている。冒険者たちも担当区域へ集まり、武器や装備の点検を進めていた。街の中では夜間の外出が制限され、普段なら酒場から聞こえてくる賑やかな声も、今夜はほとんど聞こえなかった。代わりに、荷車を引く音や、衛兵たちが配置を確認する声が時折響いている。


 私とタクマは、東門の内側に設けられた防衛位置を確認していた。


 昼間に補強した土塁はそのまま残され、衛兵が移動するための通路も確保されている。負傷者を運び込む場所には水や医薬品が用意され、補給用の資材も整理されていた。城門を突破された場合に備えた二次防衛位置にも衛兵が配置され、万が一のときにどこへ退くかが共有されている。


「ここまで準備できたなら、あとは実際にどう動くかだな」


 タクマが防衛線を眺めながら言った。


「うん。でも、どこから魔獣が来るかによって変わるよね」


「ああ。だから、最初から全部を決めつけないほうがいい。衛兵隊の指示もあるし、状況を見ながら動こう。俺たちが勝手に前へ出て、他の部隊と離れたら意味がないからな」


 私は頷いた。


 広範囲の攻撃魔法を使えば、多くの魔獣をまとめて倒すことはできる。けれど、街のすぐ近くで大きな魔法を使えば、味方や防衛設備まで巻き込んでしまう危険がある。敵の数が多いからといって、ただ威力の大きな魔法を放てばいいというものではなかった。


 それに、魔力には限りがある。


 最初に全力で魔法を使い切ってしまえば、その後に別の群れが現れたとき、対応できなくなるかもしれない。攻撃だけでなく、土塁の補修や負傷者の治療にも魔法を使う可能性がある以上、どこで何を優先するかを考えておく必要があった。街の防衛は、一度大きな魔法を放って終わるような戦いではない。衛兵や冒険者たちが持ち場を守り続けられるよう、必要な場面で必要な魔法を使うことが大切なのだと思う。


「リカ」


 タクマに呼ばれ、私は顔を上げた。


「明日、もし本当に大群が来たら、俺は前に出ることになると思う。でも、無理に突出するつもりはないから」


「……うん」


「だから、リカも一人で全部止めようとしないでくれ。俺たちだけで守るわけじゃないんだ」


 私は少し驚いて、タクマの顔を見た。


 彼は真剣な表情をしていたけれど、必要以上に悲壮な様子ではなかった。きっと、私が何を考えているのか分かっているのだろう。大勢の人が危険にさらされていると知れば、私はできる限りのことをしようとする。けれど、どれほど魔法が得意でも、一人で街全体を守れるわけではない。だからこそ、タクマは今のうちに釘を刺してくれたのだと思う。


「分かってる。タクマも無茶しないでね」


「ああ。約束する」


 私は彼の手を握り、少しだけ体を寄せた。タクマは何も言わずに、私の肩へそっと手を回してくれた。


 街の中では、避難してきた住民たちが用意された建物で夜を過ごしている。子供たちの中には、初めて訪れた大きな街に興奮している子もいるかもしれない。けれど、その親たちは、故郷に残してきた家や畑のことを考えながら、眠れない夜を過ごしているのだろう。避難できたからといって、失ったものや、これから失うかもしれないものへの不安が消えるわけではない。


 私は昼間に訪れた集落の人々を思い出した。


 荷物を減らすよう頼まれた夫婦も、荷馬車に乗るときに腰を痛めていた老人も、今頃は街のどこかで休んでいるはずだ。昨日、東門で会った老人も、収穫を待つ畑のことを気にしていた。あの人たちが、いつか無事に家へ帰れるようにしたい。そのためにも、まずはこの街を守らなければならなかった。


「……明日、忙しくなりそうだね」


「そうだな。でも、今夜のうちに少しは休んでおこう」


「うん。タクマもちゃんと寝てね」


「リカもな」


 私たちはそう言って笑い合った。


 けれど、東門を離れようとしたときだった。


 街道の向こうから、馬の蹄の音が聞こえてきた。


 夜間の通行が制限されているため、城門の外を走る馬はほとんどいない。衛兵たちもすぐに気づき、門の前へ集まった。蹄の音は急速に近づき、やがて松明の明かりの中に、一人の騎乗した斥候が姿を現した。


 馬は激しく息を切らし、乗っている冒険者も疲れ切った様子だった。衛兵が声をかけると、斥候は馬から降り、急いで何かを伝えた。衛兵の表情が変わり、近くにいた仲間へ声をかけるのが見えた。


 その様子を見て、私は嫌な予感がした。


「リカさん! タクマさん!」


 斥候が私たちに気づき、駆け寄ってきた。


「東の監視所から、緊急の報告です!」


「何があったの?」


「魔獣の大群が、こちらへ向かっています。進行方向が変わりません。東街道へ向かう群れだけでも相当な数で、後続も続いています!」


 私は思わずタクマを見た。彼も険しい表情で斥候の話を聞いている。


「到達まで、どのくらいある?」


「正確には分かりません。ただ、監視所の判断では、夜が明ける頃には街の近くまで来る可能性があります」


 その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。


 昨日、丘の上から見た数百体の魔獣。あれほどの群れが、今も数を増やしながら、この街へ近づいている。昼間に整えた防衛設備が、もう明日の朝には使われることになるかもしれない。


 そして、それは東側だけの話ではない。


 北でも、南でも、魔獣たちは群れを大きくしながら移動している。もし私たちの仮説が正しければ、それぞれの群れが最後に目指す場所は、同じなのだ。魔獣たちが互いに連絡を取り合っているわけでも、誰かに指揮されているわけでもない。それでも、魔力の集積を求めて移動を続けた結果、北からも南からも、この街へ押し寄せてくる可能性がある。


 私たちはすぐにギルドへ向かった。


 バルザックは報告を聞くと、机の上に広げられた地図を確認し、斥候へいくつか質問した。観測地点、進行方向、群れの規模、最後に確認された時刻。必要な情報を一つずつ聞き取り、これまでの報告と照らし合わせていく。


 新しい目撃地点は、昨日よりも明らかにノヴァグラードへ近づいていた。東街道へ向かう群れの進路も、複数の監視地点から確認されている。途中で方向を変える可能性が完全になくなったわけではないけれど、少なくとも今は、街のある平野部へ進み続けているらしい。


 バルザックはしばらく地図を見つめていた。


「……来るか」


 その声は、驚くほど落ち着いていた。


 バルザックはエリナを呼び、衛兵隊と行政への緊急連絡を命じた。さらに、待機していた冒険者たちへ伝令を走らせ、各方面の防衛責任者を呼び出すよう指示する。外側に残っている監視要員にも、危険が迫る前に撤収するよう伝えることになった。


 会議室の外では、職員たちが慌ただしく動き始めていた。エリナは報告書をまとめながら伝令の行き先を確認し、別の職員が防衛担当者の名簿を取り出している。誰もが緊張した表情をしていたけれど、何をすべきか分からず立ち尽くしている人はいなかった。


 バルザックは最後にもう一度地図を確認すると、顔を上げた。


「全防衛線へ通達しろ」


 その声が、会議室にはっきりと響いた。


「東側に大規模な魔獣の群れが接近している。北と南も警戒を最大限に引き上げろ。夜明けを待たず、全員、配置につけ」


 エリナが頷き、すぐに伝令の手配へ走った。


 私とタクマも顔を見合わせ、立ち上がる。


 これまで何日もかけて避難を進め、防衛設備を整え、戦力を集めてきた。街の人たちはできる限りの準備をしてくれたけれど、それでもすべてが整ったわけではない。まだ避難できていない人もいるし、外側の拠点から戻る途中の部隊もいるだろう。明日の朝までに、すべての問題を解決することなどできない。


 けれど、もう待ってはもらえない。


 バルザックは会議室に集まった私たちを見渡した。


「これより、ノヴァグラード全域を戦闘態勢へ移行する」


 私はその言葉を聞きながら、静かに頷いた。


 街の外には、数えきれないほどの魔獣が迫っている。東門の先に広がる街道も、昼間に避難者たちが通ってきた道も、夜が明ければまったく違う光景になっているかもしれない。


 北から、東から、南から。


 それぞれの地域で大きくなった群れが、最後に同じ場所を目指している。


 そして、その場所には私たちの街があった。


 ノヴァグラードの長い夜が、始まろうとしていた。


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