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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
聖女と英雄編

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第80話 守るべき場所


 冒険者ギルドの広間には、朝から慌ただしい空気が漂っていた。


 昨日、私たちが各地で魔獣の討伐に当たっている間にも、ギルドでは新しい依頼の整理や冒険者の再配置が進められていたらしい。受付の前には出発を控えた冒険者たちが集まり、職員から担当区域や注意事項について説明を受けている。壁際の机では別の職員が報告書を仕分けており、届けられたばかりの書類が次々と積み重ねられていた。


 依頼掲示板から採集依頼が消えたこともあって、広間の雰囲気は以前とはすっかり変わっていた。薬草や鉱石を探しに森へ向かう冒険者の姿はなく、代わりに街道警戒や物資運搬、周辺集落への連絡といった仕事を引き受ける者が増えている。経験の浅い冒険者たちも、討伐へ参加するのではなく、安全が確認された区域での後方支援を担当することになっているようだった。


「……昨日より、また忙しくなってるね」


「ああ。新しい報告が相当届いてるみたいだな」


 タクマの言う通り、受付へ運び込まれる書類の量は昨日より明らかに増えていた。私たちも昨日は商隊の救援と集落への対応に追われていたけれど、ほかの場所でも同じようなことが起きていたのだろう。


 受付へ近づくと、エリナが私たちに気づいて手を上げた。


「あっ、リカ! タクマも、おはよう!」


「おはよう、エリナ。今日も忙しそうだね」


「もう大変だよ。昨日の報告を整理してたら、今朝になってまた新しい報告が届いちゃってさ」


 エリナは苦笑したけれど、いつものような明るさは少し控えめだった。手元の書類を揃えながら、私たちの方へ身を乗り出す。


「それでね、北側からちょっと気になる報告が届いてるんだ。ギルド長が二人にも聞いてほしいって」


「北側って、ガルドが担当してるところ?」


「そう。昨日の討伐で、普通とは違う魔獣が何体か見つかったらしいの。詳しいことはギルド長から聞いてほしいんだけど……」


 エリナはそこで言葉を切り、広間の奥へ視線を向けた。


 ガルドが苦戦したという話なら、もっと大きな騒ぎになっているはずだ。昨日の報告では、彼の班は五十体以上もの魔獣を討伐している。だから今回の問題は、討伐の成否ではなく、魔獣そのものに何らかの異変があったということなのだろう。


「分かった。すぐ行ってみるね」


「うん。お願い。ギルド長、朝からずっと古い記録を調べてるんだ」


 私たちはエリナに礼を言い、ギルド長室へ向かった。


     ◇ ◇ ◇


 ギルド長室に入ると、バルザックは机いっぱいに書類を広げていた。


 昨日までの報告書に混じって、古い記録らしい黄ばんだ紙も何枚か置かれている。普段から書類仕事を嫌がっているバルザックだけれど、今日はそんなことを言っている余裕もないらしい。私たちが入ってきても、しばらく記録から目を離さなかった。


「来たか。悪いが、まずはこれを読んでくれ」


 差し出されたのは、ガルドの班から届いた報告書だった。


 北側の森の外縁で討伐した魔獣のうち、数体に通常とは異なる特徴が確認されたという。最も目立つのは瞳の変色で、普段は黄色や褐色の目を持つ魔獣が、赤みを帯びた瞳になっていたらしい。


 けれど、報告書にはそれ以上に気になることが書かれていた。


「……違う種類の魔獣が、一緒に移動していた?」


「ああ。しかも、近くに獲物がいたにもかかわらず、そちらへ向かわずに移動を続けた個体もいたそうだ」


 バルザックは机に置かれた地図を指差した。


「ガルドたちが確認したのは、この辺りだ。森の外縁に沿って複数の群れが移動していたらしい。最初は偶然同じ方向へ向かっているだけかと思ったそうだが、互いに争う様子がなかったという」


「普通なら争う種類なんですか?」


 タクマが尋ねると、バルザックは頷いた。


「少なくとも、あの組み合わせなら互いを避けるか、縄張りを巡って争うのが普通だ。魔獣にもそれぞれの習性があるからな。どんな種類でも仲良く群れを作るわけじゃねえ」


 私は報告書をもう一度読み返した。


 魔獣の数が増えたことで、普段なら森の奥にいる種類まで街道の近くへ出てきている。それ自体は昨日までにも確認されていたことだった。けれど、異なる種類の魔獣が争わずに行動し、獲物にも反応しないとなると、単に餌を求めて移動しているだけとは考えにくい。


「赤い瞳って、何か意味があるの?」


「そこが問題だ」


 バルザックは机の端に置かれていた古い記録を開いた。


「過去のスタンピードについて調べた記録だ。発生前に、魔獣の瞳の色や行動に変化が現れたという報告が残っている」


「……スタンピード?」


 私は思わず聞き返した。


 大量の魔獣が群れを成して移動し、進路上の街や集落に大きな被害を与える現象。冒険者として活動する中で、その名前は何度か耳にしたことがある。けれど、私自身は実際に経験したことがなかったし、どうしてそんな現象が起きるのかまで詳しく調べたこともなかった。


「まだ決まったわけじゃねえ。赤い瞳の個体が見つかったからといって、それだけでスタンピードが起きるとは限らん」


 バルザックはそう前置きしてから、古い記録の一節を示した。


「だが、魔獣が異常に増えた地域では、普段とは違う集団行動が見られることがあるらしい。古い記録では、これを『群集相』と呼んでいる」


「群集相……」


「簡単に言えば、魔獣の行動が変わるんだ。縄張りを巡る争いが減り、同じ種類だけでなく、別の種類の魔獣までまとまって移動するようになる。瞳の変色は、その変化に伴って見られる特徴の一つだと考えられている」


 タクマが腕を組んだ。


「つまり、魔獣が増えすぎた結果、群れを作りやすくなるということですか?」


「そういうことだ。もちろん、詳しい仕組みまで分かっているわけじゃねえ。記録によっては瞳の変色が確認されていない場合もあるし、どれほどの個体が変化すれば大規模な群れになるのかもはっきりしていない」


 バルザックは地図へ目を落とした。


「ただ、複数の群れが合流し始めると厄介だ。魔獣は本来、人間の街を攻めるために集まるわけじゃねえ。それでも、大量の魔獣が同じ方向へ移動すれば、進路上にある集落や街道はひとたまりもない。そうして手に負えない規模になったものが、スタンピードと呼ばれる」


 私は北側の森で討伐した母巣獣のことを思い出した。


「……それって、母巣獣が魔獣を集めているわけじゃないんだよね?」


「ああ。少なくとも、母巣獣がほかの魔獣を操っている証拠はねえ。あいつらが引き起こすのは、異常な繁殖だ。増えすぎた魔獣が群集相へ移行するのだとすれば、母巣獣を倒しても、既に増えた連中の動きが止まるわけじゃない」


 それなら、北側の母巣獣を倒した後も魔獣の目撃が増え続けていることと矛盾しない。私たちは繁殖の原因の一つを取り除いたけれど、森の中には既に大量の魔獣が残っている。東側で確認した母巣獣もまだ討伐できていないし、ほかにも存在している可能性があった。


「……じゃあ、もし本当に群集相への変化が始まっているなら」


「ああ。今までと同じ対応じゃ間に合わなくなる」


 バルザックは短く答えた。


「既に行政と衛兵隊には連絡してある。これから緊急の協議を開く予定だ。お前らにも来てもらいたい」


「俺たちもですか?」


 タクマが尋ねる。


「昨日、実際に街道と集落を回ってきただろう。現場の状況を知ってる奴の意見は必要だ。それに、これから防衛の方針を変えることになれば、お前らにも相当働いてもらうことになる」


 私はタクマと顔を見合わせ、頷いた。


 群集相への移行が確定したわけではない。けれど、もし過去の記録にあるような現象が始まっているのなら、確かな証拠が揃うまで待っていては遅いかもしれなかった。


     ◇ ◇ ◇


 緊急協議は、昨日と同じ行政庁舎の会議室で開かれた。


 集まっていたのは、街の行政担当者、衛兵隊長、商人組合の代表者、それにバルザックと私たちだった。机の中央にはノヴァグラード周辺の地図が広げられ、魔獣の目撃地点や街道の状況、現在の警戒区域などが細かく書き込まれている。


 会議が始まると、バルザックは北側から届いた報告について説明した。


 赤い瞳の魔獣が確認されたこと。異なる種類の魔獣がまとまって行動していたこと。そして、その特徴が過去の記録に残る群集相の兆候と一致していること。


 衛兵隊長は説明を聞き終えると、険しい表情で地図を見つめた。


「……つまり、今後さらに大きな群れが形成される可能性があるということですか」


「その可能性がある。まだ断定はできねえが、もし群集相への移行が本格化すれば、今の警戒体制では対応できん」


 バルザックは地図に置かれた印を指差した。


「現在、冒険者と衛兵隊で各街道や集落を警戒している。昨日はそれぞれの場所で成果を上げた。だが、魔獣の出現地点は増え続けている。このまま全域を守ろうとすれば、どこも中途半端な戦力しか置けなくなる」


 行政担当者が頷いた。


「我々も同じ懸念を持っています。昨日から各集落への警告を進めていますが、警戒地点を増やすほど、一か所に配置できる人員が減っています。衛兵隊だけでなく、冒険者ギルドにも限界があることは承知しています」


「ですが、街道の警戒を縮小すれば、周辺集落が危険に晒されます」


 衛兵隊長が口を開いた。


「昨日、東側の集落が襲撃された際も、近くの部隊が駆けつけたことで被害を抑えられました。警戒地点を減らせば、今度は救援が間に合わなくなるかもしれません」


 その懸念はもっともだった。


 私たちが昨日向かった集落も、衛兵隊が救援に駆けつけたからこそ、大きな犠牲を出さずに済んでいる。警戒を縮小すれば、魔獣が現れた時に対応できる範囲も狭くなるだろう。


 けれど、バルザックは首を振った。


「だからこそ、今のうちに住民を動かすんだ。魔獣が押し寄せてからじゃ、避難させることもできなくなる」


 会議室が静まり返った。


「……周辺集落の避難、ということですか」


「ああ。全域を守るのは諦める。守れる場所へ人と戦力を集めて、そこを確実に守る方針に切り替えるべきだ」


 行政担当者はしばらく地図を見つめ、それからゆっくりと頷いた。


「確かに、現状の戦力で全域を守り続けるのは難しいでしょう。群集相への移行が確定していない段階ではありますが、避難の準備を始める理由としては十分だと思います」


 ただし、と言葉を続ける。


「実際に住民を移動させるとなると、相応の準備が必要です。避難先の確保だけでなく、食料や水、寝る場所も用意しなければなりません。集落によっては家畜や農作物を置いていくことになりますから、住民への説明も慎重に進める必要があります」


 私は地図に目を落とした。


 ノヴァグラードの周辺には大小さまざまな集落が点在している。街に近い場所もあれば、森や丘を越えなければならない場所もある。そこに住む人たち全員を短期間で移動させるのが難しいことは、地図を見るだけでも分かった。


「それに、護衛の問題もあります」


 衛兵隊長が続けた。


「魔獣の出現地点が増えている以上、避難の途中で襲われる可能性があります。かといって、すべての集落へ十分な護衛を送れるほどの人員はありません」


 会議室に重い沈黙が落ちた。


 守る場所を絞ると決めても、そこへ人々を移動させるまでが危険なのだ。昨日、私たちが助けた商隊も、護衛が付いていたにもかかわらず魔獣に襲われている。老人や子供を含む住民たちが長い距離を移動するとなれば、なおさら慎重に考える必要があった。


 その時、隣に座っていたタクマが口を開いた。


「……一つ、よろしいでしょうか」


 バルザックが顔を上げる。


「何だ、タクマ」


「全員を直接ノヴァグラードへ移すのではなく、途中に避難のための拠点を設けることはできませんか?」


 タクマは地図の東側を指差した。


「例えば、街から遠い集落の住民を、いったん近くの大きな集落へ集めるんです。そこに衛兵や冒険者を配置して、ある程度まとまった人数になってから街へ移動させれば、護衛の人数を減らせると思います」


 行政担当者が地図を覗き込んだ。


「……確かに、いくつかの集落には石造りの倉庫や、比較的頑丈な建物があります。避難の中継地点として使えるかもしれません」


「ただし、そこに長く留まらせるのは危険でしょうね」


 衛兵隊長が言った。


「大きな群れが現れれば、集落の柵程度では防ぎ切れません。あくまで一時的な集合場所と考えるべきでしょう」


「はい。俺もそう思います」


 タクマは頷いた。


「それと、避難に使う荷馬車は、できるだけ歩くのが難しい人を優先した方がいいと思います。家財を全部運ぼうとすると、どうしても移動が遅くなりますから」


 商人組合の代表者が顔を上げた。


「荷馬車については、こちらでも手配を進められます。商隊の運行を一部止めていますから、使える車両はあるはずです。ただ、馬と御者の確保には少し時間が必要でしょう」


「食料や医薬品も、避難先へ先に運んでおいた方がいいですね」


 行政担当者が続ける。


「住民が到着してから準備を始めるのでは遅すぎます。受け入れ施設の確保と並行して、物資の輸送も進めましょう」


 話し合いが進むにつれて、漠然としていた避難計画に少しずつ具体的な形が与えられていった。


 どの集落から先に避難させるのか。どの道を使えば比較的安全なのか。荷馬車を何台用意できるのか。中継地点にはどれほどの人数を収容できるのか。


 行政担当者が住民の受け入れについて整理し、衛兵隊長が護衛の配置を検討する。商人組合の代表者は車両と物資の手配を引き受け、バルザックは冒険者の配置を調整していった。


 タクマもその中で、移動に時間がかかる住民のことや、荷物を減らさなければ避難が遅れることなど、実際に動き始めてから問題になりそうな点を挙げていた。


 私はその様子を見ながら、彼が以前、住宅の営業をしていたという話を思い出した。


 タクマはよく、家を買う人たちの事情を聞き、暮らしに必要なことを一緒に考える仕事だったと話している。今の彼も、住民たちを単なる人数として扱うのではなく、それぞれに生活があり、移動するだけでもさまざまな問題が生じることを考えているようだった。


「……リカ」


 バルザックに呼ばれ、私は顔を上げた。


「お前には、防衛拠点の補強を頼みたい。魔法で土塁や障害物を作ることはできるか?」


「うん。場所と規模にもよるけど、できると思う」


「なら、衛兵隊と相談して、必要な場所を補強してくれ。特に避難の中継地点になる集落は、少しでも守りを固めておきたい」


 私は頷いた。


 巨大な城壁を一瞬で作るようなことはできないけれど、土を盛り上げて柵の外側を補強したり、魔獣が入り込みやすい場所に障害物を作ったりすることなら可能だ。以前から研究していた防御魔法も、こうした場面で役に立つかもしれない。


「分かった。できるだけやってみる」


 その後も協議は続き、周辺集落の避難を段階的に進める方針が決まった。


 まずは魔獣の目撃が多い地域から避難を始め、街に近い集落はノヴァグラードへ直接移動させる。遠方の集落については、比較的安全な場所に中継地点を設け、そこから護衛付きで移動する。


 街道の警戒は必要な区間に絞り、冒険者と衛兵隊の戦力を避難路と防衛拠点へ集中させることになった。


 全域を守ることは、もうできない。


 けれど、それは人々を見捨てるという意味ではなかった。守る場所を絞ることで、そこにいる人たちを確実に守ろうとしているのだ。


     ◇ ◇ ◇


 会議を終えてギルドへ戻ると、バルザックから新しい装備が用意されていた。


 厩舎へ案内された私たちの前にいたのは、二頭の馬だった。


「……馬?」


 私が尋ねると、バルザックは頷いた。


「ああ。お前らには今後、各地を走り回ってもらうことになる。毎回徒歩で移動してたんじゃ、時間がかかりすぎるからな。ギルドで使ってる馬を二頭、貸し出すことにした」


「いいの?」


「もちろんだ。任務に必要なものだからな。ただし、無茶な乗り方はするなよ。馬まで潰されちゃ困る」


 私は馬の方へ近づき、そっと首筋を撫でた。


 二頭ともよく手入れされており、人にも慣れているらしい。私が触れても嫌がる様子はなく、落ち着いた様子でこちらを見ていた。馬具も既に整えられており、すぐに出発できるよう準備されている。


「タクマ、馬には乗れるんだよね?」


「ああ。マリアベルへ行った時に、ボーマンさんから教わったからな」


 タクマはそう言って、少し懐かしそうに笑った。


「最初はかなり苦労したけど、街道を普通に走らせるくらいなら何とかなると思う。ただ、急な方向転換とか、荒れた道を全速力で走るのはまだ自信がないな」


「ふふっ。ボーマン、厳しかったでしょ?」


「そりゃもう。姿勢が悪いって何度も直されたよ。剣の稽古だけでも大変だったのに、馬に乗る時まで細かく指導されるとは思わなかった」


 私は思わず笑ってしまった。


 ボーマンが真面目な顔でタクマの姿勢を直している光景が、簡単に想像できたからだ。あの人は教える時に妥協しないし、タクマも途中で投げ出すような性格ではない。きっと、二人で何度も練習したのだろう。


「まあ、乗れるなら問題ねえ。今日は東側の集落へ向かってもらう。昨日、お前らが救援に行った場所だ」


 バルザックの言葉に、私は顔を上げた。


「あの集落?」


「ああ。避難の対象になった。行政から正式な通達が出るから、お前らには住民の移動を手伝ってもらいたい。それと、避難が終わるまでの間、集落の守りも少し補強してくれ」


「分かった」


 私たちは馬具の確認を済ませ、それぞれ馬に跨った。


 タクマは慎重に手綱を握り、馬の歩調に合わせて姿勢を整えている。最初こそ少し硬い動きだったけれど、しばらくすると落ち着いて進めるようになった。ボーマンから教わったことを思い出しているのか、時折自分の姿勢を確かめながら手綱を調整している。


「……どう?」


「大丈夫。思ったより覚えてるもんだな」


「ボーマンの教え方がよかったんじゃない?」


「それは間違いないと思う」


 タクマは苦笑した。


 私たちは馬を並べ、東門へ向かった。


     ◇ ◇ ◇


 昨日訪れた集落へ到着した時、住民たちは壊れた柵の修理を続けていた。


 入口付近には新しい木材が運び込まれ、数人の男性が杭を打ち直している。家畜小屋の周囲でも片づけが進んでおり、昨日よりは少し落ち着きを取り戻しているように見えた。


 けれど、集落の代表者に避難の方針を伝えると、その表情は一変した。


「……集落を離れろ、と?」


「はい。魔獣の数が増えていて、今後さらに大きな群れが現れる可能性があります。行政からも正式な通達が出ています」


 タクマが説明すると、代表者は困惑した様子で周囲を見回した。


「ですが、昨日ようやく柵を直し始めたばかりなんです。家畜小屋も、まだ片づけが終わっていません。それなのに、今度は村を離れろと言われても……」


 その声を聞いて、近くにいた住民たちも集まってきた。


「畑はどうするんですか?」


「家畜を全部連れていくなんて無理ですよ」


「街へ行ったところで、どこに泊まればいいんです?」


 次々と上がる声に、私はすぐには答えられなかった。


 住民たちの言っていることは、どれももっともだった。この人たちは、ここで暮らしている。家も畑も家畜も、生活のすべてがこの集落にある。昨日魔獣に襲われたばかりなのに、今度は自分たちの家を離れなければならないと言われたのだ。


 簡単に納得できるはずがなかった。


「……皆さんの心配は分かります」


 タクマが落ち着いた声で言った。


「ただ、今後さらに大きな群れが現れた場合、この集落を守り続けるのは難しくなります。昨日は衛兵隊が間に合いましたが、次も同じように助けが来るとは限りません」


「それは……分かっています。でも、ここを離れたら、私たちはどうやって暮らせばいいんですか」


 代表者の言葉に、タクマはすぐには答えなかった。


 少し考えてから、彼は行政から渡されていた書類を広げた。


「まず、避難先についてはノヴァグラード側で準備を進めています。食料や寝る場所も確保する予定です。それと、家畜については全部を連れていくのは難しいかもしれませんが、移動できるものから優先して運ぶ方法を考えましょう」


 タクマは住民たちの話を聞きながら、必要なことを一つずつ整理していった。


 歩くのが難しい老人や小さな子供が何人いるのか。荷馬車は何台使えるのか。家畜のうち、移動させられるものはどれくらいあるのか。食料や水はどれほど必要なのか。


 最初は戸惑っていた住民たちも、具体的な話が進むにつれて、少しずつ落ち着きを取り戻していった。


 私はその様子を見ながら、タクマが以前、住宅の営業をしていたという話を思い出した。


 家を買う人たちの事情を聞き、生活に必要なことを考えながら仕事をしていたのだろう。今の彼は、住民たちの不安を無理に押さえつけるのではなく、一つずつ聞き取りながら、できる方法を探しているように見えた。


「……リカ」


 タクマが私を呼んだ。


「避難の準備が終わるまで、集落の入口を少し補強してもらえるか? もし魔獣が来ても、時間を稼げるようにしておきたい」


「うん。任せて」


 私は頷き、集落の入口へ向かった。


 昨日壊された柵は、まだ完全には直っていなかった。木材を組み直している途中の場所もあり、このまま魔獣が来れば簡単に突破されてしまうだろう。


 私は周囲の地形を確認し、柵の外側に土を盛り上げることにした。


 地面へ魔力を流し込むと、土がゆっくりと隆起し、低い土塁が形作られていく。柵の前に深い溝を作ることも考えたけれど、住民たちが避難する時に邪魔になってしまう。そこで、荷馬車が通る場所は空け、魔獣が入り込みやすい部分を中心に補強することにした。


 土塁が完成すると、近くで作業していた住民たちが驚いたように声を上げた。


「……すごい。こんなことまでできるんですか」


「うん。でも、これだけで全部の魔獣を防げるわけじゃないからね。避難が終わるまでの時間を稼ぐためのものだと思って」


 私はそう説明し、衛兵たちにも土塁の位置を確認してもらった。


 その後、集落の裏手にある細い道にも簡単な障害物を設け、魔獣が入り込みやすい場所を塞いでいく。避難に使う道だけは広く残し、荷馬車が通れることを確認した。


 大きな魔法を使って一度に魔獣を倒すのとは違い、こうした作業には細かな調整が必要だった。土を盛り上げすぎれば人の通行を妨げてしまうし、位置を間違えれば、かえって避難の邪魔になる。


 それでも、少しずつ形になっていく土塁を見ていると、魔法にはこういう使い方もあるのだと改めて感じた。


     ◇ ◇ ◇


 避難の準備が整ったのは、午後になってからだった。


 集落の荷馬車に加え、行政から手配された車両も到着し、歩くのが難しい老人や小さな子供たちが優先して乗せられていく。運べる家畜もできるだけまとめられ、残された荷物については、後日状況が落ち着いてから回収することになった。


 住民たちはそれぞれの家から必要なものを持ち出し、何度も振り返りながら荷馬車へ向かっていた。


 ある女性は家の扉を閉めた後、しばらくその場から動けずにいた。別の男性は畑の様子を確かめ、土を手に取ってから、ようやく荷馬車へ戻ってきた。


 私はその光景を見ながら、胸の奥が苦しくなるのを感じた。


 この人たちは、昨日まで当たり前のようにここで暮らしていた。朝になれば畑へ出て、家畜の世話をして、夜になれば家へ帰る。そんな日常が、魔獣の増加によって突然失われようとしている。


 もちろん、避難は一時的なものになるはずだ。魔獣の問題が落ち着けば、また戻ってくることもできるだろう。


 けれど、それがいつになるのか、誰にも分からなかった。


「……リカ」


 タクマが隣へやってきた。


「準備は終わったみたいだ。そろそろ出発する」


「うん。分かった」


 私は頷き、馬の手綱を取った。


 避難する住民たちの列は、荷馬車を中心にゆっくりと動き始めた。前方には衛兵が付き、私たちは後方を警戒しながら進むことになった。


 街道へ出ると、集落の代表者が馬上の私たちへ声を掛けてきた。


「……本当に、ありがとうございました」


「ううん。無事に街まで着くことが一番大事だから、まだ気を抜かないでね」


 私がそう答えると、代表者は小さく頷いた。


 その後、私たちは周囲を警戒しながら、避難する住民たちと一緒にノヴァグラードへ向かった。


 幸い、途中で魔獣に遭遇することはなかった。


 ただ、街道の脇には昨日まで見かけなかった足跡がいくつも残っていた。森から離れた場所にも魔獣が現れ始めていることを思うと、今日の避難が間に合ったことに安堵すると同時に、明日以降のことが心配になった。


     ◇ ◇ ◇


 ノヴァグラードへ到着した頃には、夕方になっていた。


 東門の近くには避難してきた住民たちを受け入れるための職員が待機しており、荷馬車から降りた人たちを順番に案内していた。食料や寝る場所についての説明も行われ、歩くのが難しい老人や小さな子供たちは、先に休める場所へ連れていかれている。


 私たちは住民たちが無事に受け入れられたことを確認してから、ようやく任務を終えることができた。


 馬を厩舎へ戻し、ギルドへ報告に向かう途中、私はタクマに声を掛けた。


「……ねえ、タクマ」


「ん?」


「今日、あの人たちを避難させたけど……本当に、これでよかったのかな」


 タクマは少し考えてから答えた。


「少なくとも、あの集落に残っていたら危険だったと思う。昨日みたいな襲撃がまた起きるかもしれないし、今度はもっと大きな群れが来る可能性もあるからな」


「うん。それは分かってるんだけど……」


 私は言葉を探した。


 昨日、あの集落では住民たちが壊れた柵を直していた。今日も、私たちが到着した時には修理を続けていた。


 それなのに、今はもう誰もいない。


 家も、畑も、家畜小屋も、昨日と同じ場所に残っているはずなのに、そこに暮らしていた人たちは街へ避難してきた。


「……何だか、あの人たちから大切なものを取り上げちゃったみたいで」


 私がそう言うと、タクマは首を振った。


「取り上げたわけじゃないと思う。あの人たちがまた戻れるようにするためにも、今は生き延びてもらわないといけないんだ」


 私は顔を上げた。


「……戻れるようにするため?」


「ああ。家や畑は、壊れても直せるかもしれない。でも、そこに住んでる人たちがいなくなったら、元の暮らしには戻れないだろ」


 タクマはそう言って、少しだけ笑った。


「だから、今は人を守ることを優先する。それでいいんじゃないかな」


 私はしばらく考えてから、ゆっくりと頷いた。


「……うん。そうだね」


 街の中には、避難してきた人たちの姿があった。


 荷物を抱えて歩く人、子供の手を引く人、職員から説明を受けている人。みんな不安そうな顔をしていたけれど、少なくとも今は安全な場所にいる。


 それは、今日の私たちが守れたものだった。


 けれど、まだ避難できていない集落もある。魔獣の群集相への移行が本当に始まっているのなら、これからさらに多くの人たちが住み慣れた場所を離れなければならないかもしれない。


 私は遠くに見える東門へ視線を向けた。


 その向こうには、今日訪れた集落がある。


 昨日、魔獣に襲われた場所。今日、住民たちが避難した場所。そして、いつかまた人々が戻って暮らせるようにしなければならない場所だった。


 守るべきものは、必ずしも守るべき場所と同じではない。


 今は、そこに暮らす人たちを守ることが何よりも大切なのだと、私は思った。


 そして、そのためにできることを、これからも続けていこうと決めた。


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