第73話 空いていくギルド
翌朝、私はいつもより少し早く朝食を済ませ、タクマに声を掛けてから家を出た。
向かった先は、我が家から歩いてすぐのところにある小さなログハウスだ。以前はボーマンが暮らしていた家だけれど、彼がマリアベルへ戻ってからはシエラが住んでいる。
ボーマンがここにいた頃は、朝になると庭先でタクマの剣の稽古をしていることが多かった。私も時々その様子を眺めていたけれど、今では庭に木剣の打ち合う音が響くこともない。家の周囲は静かで、朝の風に揺れる木々の葉擦れだけが聞こえていた。
もっとも、シエラがこの家に住むようになってから、辺りが寂しくなったというわけではない。彼女はもともと物静かな性格だし、必要以上に人と関わろうとはしないけれど、こうして近くに暮らしているだけでも私としては心強かった。
少し懐かしい気持ちになりながら扉を叩くと、ほどなくしてシエラが顔を出した。
「リカ。どうしたの?」
「おはよう、シエラ。ちょっとお願いがあるんだけど、今いいかな?」
「うん。入って」
シエラはいつも通りの落ち着いた表情で私を迎え入れてくれた。
家の中は綺麗に片づいていたけれど、ボーマンが暮らしていた頃とは少し雰囲気が違っている。以前は剣の手入れ道具や稽古に使う木剣が目についたものだけれど、今はそうしたものが整理され、代わりにシエラの弓や旅道具が壁際に置かれていた。
家具の配置そのものは大きく変わっていない。それでも、暮らす人が変われば家の印象も変わるものなのだと、私は少し不思議に思った。
「お茶、飲む?」
「ありがとう。でも、今日はちょっと話をしに来ただけだから」
「そう」
シエラは椅子を勧め、自分も向かい側に腰を下ろした。
彼女はもともと口数が少ない。こちらが話し始めるまで静かに待ってくれるので、私はどう切り出そうかと少し考えてから、本題に入ることにした。
「実はね、マリアベルの様子を調べてもらえないかなって思って」
シエラは私の顔を見たまま、黙って続きを待っている。
「グラニスクで王軍が負けたって聞いたでしょ? お父様がどうしているのか、それから王宮にいる人たちが無事なのか、どうしても気になっちゃって」
昨日から考えていたことを、私はできるだけ素直に伝えた。
お父様は、王国のことを気にせず自由に生きればいいと言ってくれた。私自身も、王女として王宮へ戻るつもりはない。それでも、家族のことを心配しないわけにはいかなかった。
王軍が敗れたからといって、すぐに王都が危険になるとは限らない。マリアベルにはまだ王軍の部隊が残っているはずだし、王都の守りも簡単に崩れるようなものではないだろう。
けれど、これから何が起きるのか分からない以上、せめて向こうの状況を知っておきたい。お父様が無事でいるのか、ユリアナや王宮の人たちがどうしているのか、それだけでも分かれば少しは安心できると思ったのだ。
そう説明すると、シエラは小さく頷いた。
「分かった」
「……えっ?」
「調べる」
あまりにもあっさりした返事に、私は思わず聞き返してしまった。
「本当にいいの? マリアベルは今、戦争の真っ最中なんだよ?」
「知ってる」
「それに、王宮の様子なんて簡単には分からないと思うんだけど……」
「方法はある。時間はかかるけど」
シエラは特に難しいことでもないように答えた。
もちろん、彼女が何でも知っているわけではない。けれど、これまでの付き合いから、シエラには私たちの知らない伝手や情報を集める手段があることは分かっていた。
何より、できないことを簡単に引き受けるような性格ではない。彼女が方法はあると言うのなら、少なくとも調べるための見通しは立っているのだろう。
「ありがとう、シエラ!」
私はほっとして笑った。
すると、シエラは少しだけ首を傾げ、いつもと変わらない口調で付け加えた。
「でも、請求はする」
「……えっ?」
「仕事だから」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
けれど、すぐにその意味を理解して、私は思わず吹き出してしまった。
「もう、シエラったら! もちろん、ちゃんと払うよ」
「うん」
シエラも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
彼女は普段から私の護衛をしてくれているけれど、今回お願いしたのは、その仕事とは別のことだ。私個人の都合で情報を調べてもらうのだから、当然報酬は支払うつもりだった。
それに、こうしてはっきり仕事として引き受けてもらえる方が、私としても気兼ねせずに済む。シエラが私のことを大切に思ってくれているのは分かっているけれど、だからといって何でも無償で頼んでいいわけではない。
「それで、シエラが直接マリアベルへ行くの?」
「今は行かない。まずは伝手を使う」
「そっか。そうだよね」
シエラがここを離れれば、普段の護衛の仕事にも影響が出る。私としても、無理に危険な場所へ向かってほしいわけではなかった。
彼女の説明によれば、まずは知り合いを通じて情報を集め、必要に応じて別の方法を考えるつもりらしい。具体的にどんな伝手なのかは教えてくれなかったけれど、私はそれ以上尋ねなかった。情報を集める仕事には、依頼人にも話せないことがあるのだろうし、シエラが必要だと判断したことなら信頼して任せたい。
「知りたいのは、戦況じゃなくて、お父さんたちのこと?」
シエラが確認するように尋ねた。
私は少し考えてから頷いた。
「うん。もちろん戦争のことも気になるけど、一番はそこかな。お父様が無事なのか、王宮の人たちはどうしているのか、それが知りたいんだ」
「分かった。そっちを優先する」
短い返事だったけれど、私の気持ちは十分に伝わったようだった。
シエラは私が王女だったことも、王宮へ戻るつもりがないことも知っている。だからこそ、今回のお願いが政治的な情報収集ではなく、家族を心配する私個人の依頼なのだと理解してくれたのだろう。
王国の戦況を知ることも大切だけれど、私が一番知りたいのは、お父様たちが無事でいるかどうかだった。
「急がなくていいからね。危ないこともしないで」
「分かってる」
「それと、費用がたくさんかかりそうだったら、先に相談してね」
「うん。請求する」
「そこはもう分かったってば!」
私が笑うと、シエラも小さく笑った。
家を出る頃には、朝から胸の奥に残っていた落ち着かない気持ちが、少しだけ軽くなっていた。
もちろん、これでお父様たちの無事が確認できたわけではない。情報が届くまでには時間がかかるだろうし、望んでいるような知らせが得られるとも限らない。
それでも、ただ遠くの戦争を心配しているだけではなく、自分にできることを一つ始められた。そのことが、今の私には大切だった。
◇ ◇ ◇
自宅へ戻った私は、タクマと一緒に冒険者ギルドへ向かった。
道中、シエラにマリアベルの情報収集を頼んだことを話すと、タクマは少し驚いた後、納得したように頷いた。
「なるほど。シエラなら、俺たちには分からないことも調べられるかもしれないな」
「うん。すぐに引き受けてくれたよ」
「そうか。それなら少し安心だな」
「でもね、ちゃんと請求するって」
私が笑いながら付け加えると、タクマも吹き出した。
「ははっ、シエラらしいな」
「でしょ? あんなに真面目な顔で言うんだもん」
そんな話をしているうちに、ギルドの建物が見えてきた。
入口の前には、いつもより多くの荷車が停まっている。積まれているのは木箱や麻袋で、近くでは軍の腕章をつけた男たちが何かを確認していた。
私たちはその横を通り、ギルドの中へ入った。
すると、普段とは少し違う光景が目に飛び込んできた。
依頼掲示板の横に、新しい掲示板が設けられていたのだ。そこには大公国軍からの依頼書がまとめて貼り出されており、周囲には多くの冒険者たちが集まっていた。
「……随分増えたね」
私が呟くと、タクマも掲示板を見上げた。
「昨日バルザックさんが言ってた通りだな」
軍用物資の輸送護衛、後方集積地の警備、国境付近の街道巡回、軍用魔石の運搬。依頼の内容はさまざまだったけれど、共通しているのは報酬が高いことだった。
しかも、数日で終わるものだけではない。二週間から一か月以上の長期契約も多く、まとまった収入を得たい冒険者にとっては魅力的な条件になっている。
普段の商隊護衛なら、目的地まで荷物を運べば仕事は終わる。けれど、軍の輸送護衛では、複数の拠点を行き来したり、補給路の安全を確保したりする必要があるらしい。その分だけ拘束期間は長くなるものの、報酬も相応に高く設定されていた。
「一か月の護衛でこの報酬か。悪くねえな」
「集積地の警備なら、魔獣討伐より危険は少なそうだぞ」
「でも、国境に近いんだろ? 戦争に巻き込まれたらどうする?」
「大公国軍の後方任務だぞ。すぐ戦場になるわけじゃねえだろ」
掲示板の前では、冒険者たちがそんな話を交わしていた。
報酬の高さに惹かれる者もいれば、軍の仕事に関わることを不安に思う者もいる。特に、ある程度経験を積んだC級からB級の冒険者たちが、長期の軍務依頼を真剣に検討しているようだった。
彼らにとって、今回の依頼は大きな収入を得る機会でもある。危険な魔獣を討伐しなくても、護衛や警備の経験を活かしてまとまった報酬を得られるのだから、興味を持つのも当然だろう。
けれど、軍の仕事には普段の依頼とは違う難しさもあるはずだ。契約期間中は自由に街へ戻れないだろうし、軍の指揮に従わなければならない場面も増える。何より、今は隣国で大きな戦争が起きているのだ。
それでも、掲示板の前に集まった冒険者たちの表情を見る限り、軍務依頼を前向きに考えている者は少なくなさそうだった。
私は、昨日バルザックが話していたことを思い出した。
ギルドの中核を担う冒険者たちが、軍務依頼を受けて街を離れていくかもしれない。
その予測が、早くも現実になろうとしていた。
◇ ◇ ◇
掲示板の前を離れ、食堂へ向かうと、見慣れた二人の姿があった。
フリーダとクルシュだ。
二人はテーブルに依頼書を広げ、何やら相談しているようだった。
「おう、リカ! タクマも一緒か!」
私たちに気づいたフリーダが、片手を上げて声を掛けてきた。
「おはよう、フリーダ。クルシュも」
「おはようございます、お二人とも」
クルシュはいつもの穏やかな笑顔で挨拶してくれた。
私たちは二人の向かい側に腰を下ろした。
「何を見てたの?」
「ああ、新人の面倒を見ることになっただろ? どんな依頼から始めさせるか、クルシュと相談してたんだ」
フリーダはそう言って、机の上の依頼書を軽く叩いた。
「バルザックのおっさんも人使いが荒いぜ。こっちだって仕事があるってのにな」
「でも、フリーダはすぐに引き受けたじゃありませんか」
クルシュが穏やかに指摘すると、フリーダは肩をすくめた。
「そりゃ、困ってる新人を放っとくわけにもいかねえだろ。人手が足りねえってんなら、できる奴が手を貸すしかねえさ」
その言葉に、私は思わず笑ってしまった。
口では文句を言いながらも、結局は面倒を見てしまう。そういうところが、いかにもフリーダらしい。
彼女は豪快で少々乱暴な言葉遣いをすることもあるけれど、仲間のことはよく見ている。経験の浅い冒険者が無茶をしようとすれば、誰よりも先に止めるだろうし、困っている者がいれば放っておけない性格なのだ。
「私たちもミレイユとユリウスを見てるんだけど、二人とも少しずつ慣れてきたよ」
「おう、そいつは何よりだ。新人は最初が肝心だからな。変な癖がつく前に、しっかり教えといた方がいい」
「そうですね。特に今は報酬の高い依頼が増えていますから、経験の浅い方が無理をしないよう気をつける必要があります」
クルシュはそう言って、依頼書の一枚を指差した。
それは街道沿いの魔獣討伐依頼だった。報酬は以前より高くなっているものの、対象となる魔獣の数も多く、経験の浅い冒険者だけで挑むには危険が大きい。
「こうした依頼を見ると、どうしても報酬に目が行ってしまう方もいるでしょう。ですが、依頼の難易度を正しく判断できなければ、思わぬ事故につながります」
「そういうこった」
フリーダは腕を組んで頷いた。
「稼げる時に稼ぐのは悪かねえ。だが、死んじまったら報酬もへったくれもねえからな。まずは自分の腕を知ることだ」
普段は豪快に笑っているフリーダだけれど、冒険者としての危険について話す時は真剣だった。
彼女自身、これまで数えきれないほどの依頼をこなしてきたはずだ。経験があるからこそ、無理をした時に何が起きるのかもよく分かっているのだろう。
「それにしても、軍の依頼が随分増えたな」
タクマが言うと、フリーダは掲示板の方へ顎をしゃくった。
「ああ。朝からあの有様だ。顔見知りの連中も、何人か軍の仕事を受けるって言ってたぜ」
「長期契約が多いようですね」
クルシュも頷いた。
「数週間から一か月以上戻らない方もいるようです。そうなると、普段の依頼を受ける冒険者が不足するでしょうね」
「だから新人を育てろって話なんだろうけどな。そう簡単に穴が埋まるわけでもねえ」
フリーダはそう言って、少し難しい顔をした。
確かに、経験豊富な冒険者が一人いなくなったからといって、新人を一人育てれば同じ仕事を任せられるわけではない。
冒険者の仕事は、ただ魔獣を倒せればいいというものではない。危険を察知し、依頼の条件を確認し、仲間と協力して無事に帰還する。そのためには、実際に経験を積む時間が必要だった。
だからこそ、今のうちから新人たちに基礎を教え、少しずつ仕事を任せられるようにしておくことが大切なのだろう。
「まあ、今のうちにできることをやっとくしかねえな」
フリーダはそう言って立ち上がった。
「そろそろ行くか、クルシュ。新人どもを待たせるわけにもいかねえ」
「そうですね。では、リカさん、タクマさん。また後ほど」
「うん。二人とも気をつけてね」
「おう! そっちもな!」
二人は依頼書をまとめると、連れ立って食堂を出ていった。
その背中を見送りながら、私は少しだけ安心した。
ギルドの状況は厳しくなりそうだけれど、フリーダとクルシュも協力してくれている。私たちだけで何とかしようとする必要はないし、経験豊富な冒険者が力を合わせれば、少しずつでも状況を改善していけるはずだ。
◇ ◇ ◇
それから数日が過ぎた。
軍務依頼を受けた冒険者たちは、次々とノヴァグラードを離れていった。
ある者は軍用物資を積んだ荷車の護衛として西へ向かい、ある者は後方集積地の警備を任され、またある者は国境付近の街道を巡回するために出発していった。
いずれも大公国軍の後方支援を目的とした仕事であり、直接戦場へ向かうわけではない。それでも、普段の依頼より長期間拘束されるものが多く、一度出発すればしばらく街へ戻ってこない。
最初のうちは、それほど大きな変化には感じられなかった。
軍務依頼を受ける者が増えても、ギルドにはまだ大勢の冒険者がいたし、受付の前にはいつも通り人が並んでいた。食堂でも相変わらず賑やかな声が響いていたので、私自身、そこまで深刻なことになるとは思っていなかった。
けれど、日が経つにつれて、その違いは少しずつ目立つようになっていった。
普段なら食堂の奥で大声を上げていた冒険者たちの姿がなくなり、依頼掲示板の前に集まる人数も減っていく。
いつも同じ席に座っていた顔見知りの冒険者が、数日続けて姿を見せなくなることも珍しくなくなった。
軍務依頼に出発する者たちを見送る時は、誰もが明るく声を掛けていた。長期の仕事とはいえ、契約が終われば戻ってくるのだから、別れを惜しむような雰囲気ではなかったのだ。
けれど、そうして何人も送り出しているうちに、いつの間にかギルドの中から見慣れた顔が減っていた。
ある日の朝、ギルドへ入った私は、思わず足を止めた。
「……何だか、今日は人が少ないね」
隣にいたタクマも広間を見回した。
「そうだな。いつもなら、この時間はもう少し賑やかなんだけど」
まだ朝の依頼を選ぶ時間帯だというのに、掲示板の前にはまばらにしか人がいなかった。
食堂にも空席が目立ち、以前なら聞こえていた冒険者たちの賑やかな話し声が、今日は随分と少ない。
もちろん、ギルドが閑散としているというほどではない。新人冒険者たちは相変わらず依頼を探しているし、受付では職員たちが忙しそうに働いている。
けれど、普段からここに通っている私たちには、明らかに何かが違って感じられた。
そして、その理由はすぐに分かった。
通常依頼の掲示板に、受注されない依頼が増えていたのだ。
魔獣討伐、街道の護衛、素材採取。普段なら朝のうちに誰かが受けていた依頼が、何枚もそのまま残っている。
しかも、その中にはC級やB級の冒険者を対象としたものが多かった。
「……なるほど。こういうことか」
タクマが呟いた。
軍務依頼を受けて街を離れた冒険者たちは、ギルドの中でも経験豊富な者が多い。
新人には任せられないけれど、A級冒険者が出向くほどでもない。そんな仕事を引き受けていた中堅冒険者たちが、今は不足しているのだ。
「おはよう、リカ、タクマ!」
受付から声を掛けてきたのはエリナだった。
私たちが挨拶を返すと、彼女は困ったように笑った。
「今日は随分静かでしょ?」
「うん。いつもと雰囲気が違うね」
「そうなのよ。軍務依頼を受けた人たちが、ここ数日でかなり出発しちゃってね。受付の仕事が少しは減るかと思ったんだけど、全然そんなことないの」
エリナはそう言って、手元の書類を示した。
「むしろ、依頼の調整が大変になっちゃって。受けてくれる人がなかなか見つからない仕事も増えてるのよ」
「やっぱり、中堅の冒険者が足りないの?」
「そうなの。新人には難しい依頼だし、かといってA級の人に頼むほどでもない仕事が多くてさ。ちょうどいい実力の人たちが、みんな軍の仕事に行っちゃうんだもの」
エリナは小さく息を吐いた。
「バルザックさんも、できるだけ依頼が滞らないように調整してるんだけど、さすがに全部は難しいみたい」
私は掲示板へ視線を向けた。
依頼書が残っているということは、それだけ仕事を頼みたい人たちが待っているということだ。
魔獣の被害に困っている村もあれば、街道を安全に通りたい商人もいる。素材を必要としている職人や治療院だってあるだろう。
戦争が始まったからといって、そうした人々の困り事がなくなるわけではない。
むしろ、軍の物資調達が増え、輸送や採取の仕事が忙しくなっている分、以前よりも人手が必要になっているのかもしれなかった。
それなのに、依頼を引き受ける冒険者の数は減っている。
軍務依頼が増えること自体は、冒険者たちにとって悪い話ではない。報酬のいい仕事が増えれば、それだけ生活に余裕ができる者もいるだろう。
けれど、ギルド全体で考えれば、必ずしも喜んでばかりはいられないのだと、私は改めて感じた。
◇ ◇ ◇
そんな中、依頼掲示板の前に見覚えのある二人の姿を見つけた。
ミレイユとユリウスだ。
二人は並んで依頼書を眺めながら、何やら真剣に相談している。
「こっちの採取依頼なら、前に行った森と同じ方面だよね」
「ああ。でも、採取場所が少し奥になるみたいだ。帰りの時間を考えると、こっちの方がいいんじゃないか?」
「そっちは報酬が少し安いけど……確かに、安全そうだね」
私は少し離れたところから、その様子を見守った。
以前の二人なら、報酬の高さや依頼の内容だけで選んでいたかもしれない。けれど、今は移動時間や採取場所の危険度まで考えながら相談している。
何度か一緒に依頼を受けたことで、少しずつ自分たちで判断できるようになってきたのだろう。
もちろん、まだ経験が十分とは言えない。けれど、少なくとも自分たちの実力を過信せず、無理のない依頼を選ぼうとしていることは分かった。
やがて二人は一枚の依頼書を選び、受付へ向かった。
「エリナさん、この依頼を受けたいんですけど」
「はい、ちょっと待ってね」
エリナは依頼書を確認し、二人の冒険者証と照らし合わせた。
それから採取場所や依頼の条件についていくつか質問すると、二人は落ち着いて答えていた。
問題がないことを確認したエリナは、受注の手続きを進める。
「うん、大丈夫そうね。じゃあ、気をつけて行ってらっしゃい!」
「ありがとうございます!」
ミレイユが元気よく返事をすると、こちらに気づいて手を振った。
「あっ、リカさん! タクマさん!」
「おはよう、二人とも」
「今日は私たちだけで行ってきます!」
ミレイユは嬉しそうに依頼書を掲げた。
ユリウスも少し緊張した様子ではあったけれど、その表情には以前より自信が感じられた。
「この前教えてもらったことを思い出しながら、ちゃんと準備してきました」
「うん。いいと思うよ。無理はしないでね」
私がそう言うと、タクマも頷いた。
「帰る時間はちゃんと決めておくんだぞ。予定より遅れそうなら、無理せず戻ってくること。それと、魔獣に遭遇しても、倒す必要がなければ戦わなくていいからな」
「はい!」
「分かりました!」
二人は元気よく返事をすると、ギルドを出ていった。
その背中を見送りながら、私は少しだけ嬉しくなった。
冒険者が減っていく一方で、新しく育っていく者たちもいる。
ミレイユとユリウスは、まだ難しい依頼を任せられるほど経験豊富ではない。けれど、こうして自分たちで仕事を選び、安全にこなせるようになれば、少しずつギルドを支える存在になっていくはずだ。
私が冒険者になった頃も、最初から何でもできたわけではなかった。魔法については自信があったけれど、冒険者としての仕事の進め方は、実際に依頼を受けながら覚えていった部分も多い。
だからこそ、二人がこうして少しずつ成長していく姿を見るのは嬉しかった。
「何だか、あっという間だったね」
私が呟くと、タクマも笑った。
「ああ。最初は二人とも、かなり緊張してたのにな」
「うん。でも、ちゃんと成長してるみたい」
もちろん、これで二人が一人前になったわけではない。これからも失敗することはあるだろうし、危険な目に遭うこともあるかもしれない。
それでも、冒険者として自分の足で歩き始めたことは、間違いなかった。
◇ ◇ ◇
夕方になっても、ギルドの広間は以前ほどの賑わいを取り戻さなかった。
仕事を終えて帰ってきた冒険者たちが受付に並び、報酬の精算を受けている。それでも、食堂の席には空きが目立ち、いつもなら聞こえてくる大きな笑い声も少なかった。
私たちはエリナから、今後の依頼について少し話を聞くことにした。
「軍務依頼は、まだしばらく続きそうなの?」
タクマが尋ねると、エリナは頷いた。
「うん。大公国軍からは、これからも追加の依頼が出るみたい。国境の警戒が続く限り、輸送や警備の仕事はなくならないだろうって話よ」
「そうなると、戻ってきた冒険者がまた別の軍務依頼を受けることもありそうだね」
「そうなのよ。報酬がいいから、長期契約を続けたいって人もいるだろうしね」
エリナは困ったように笑った。
冒険者たちにとって、条件のいい仕事を選ぶことは当然の権利だ。危険を冒して働く以上、できるだけ高い報酬を得たいと考えるのは自然なことだろう。
だからといって、軍務依頼を受ける者たちを責めるわけにはいかない。
問題は、彼らが街を離れることで、普段の仕事を引き受ける人が足りなくなってしまうことだった。
「バルザックさんも、依頼の優先順位を調整してるの。急ぎのものや危険度の高いものから、できるだけ対応できるようにしてるんだけど……」
「全部をすぐに片づけるのは難しいよね」
「そうなんだよね。だから、リカたちが新人の面倒を見てくれてるのは、本当に助かってるよ」
エリナはそう言って、私たちに笑いかけた。
「フリーダたちも協力してくれてるし、少しずつでも自分たちで依頼を受けられる人が増えてくれれば、状況も変わってくると思うんだ」
「うん。私たちも、できるだけ協力するよ」
私は頷いた。
もちろん、私たちだけでギルドの仕事をすべて引き受けることはできない。新人の育成にも時間がかかるし、私自身、治療院での魔法研究を続けたいと思っている。
それでも、今できることを少しずつ積み重ねていけば、何かの役には立てるはずだ。
ミレイユとユリウスのように、自分たちだけで依頼を受けられるようになる冒険者が増えれば、ギルドの負担も少しずつ軽くなっていくだろう。
そして、フリーダやクルシュのように経験豊富な冒険者が協力してくれていることも心強かった。
軍務依頼を受けて街を離れた冒険者たちが戻ってくるまで、残った者たちでできることを続けていくしかない。
それは決して簡単なことではないけれど、何もできないわけでもなかった。
私たちはエリナに挨拶をして、ギルドを後にした。
外へ出ると、夕方の柔らかな日差しが街を照らしていた。
通りには仕事を終えた人々が行き交い、商店の前では夕食の買い物をする客たちが品物を選んでいる。
ノヴァグラードの街は、今日も普段と変わらない一日を終えようとしていた。
「しばらく忙しくなりそうだな」
タクマが言った。
「うん。でも、みんなで協力すれば、何とかなると思う」
「そうだな。フリーダたちもいるし、ミレイユたちも少しずつ成長してる。俺たちにできることも、まだまだありそうだ」
私は頷き、歩きながらギルドの建物を振り返った。
あの広間には、以前よりも空席が増えている。
けれど、それは冒険者たちが仕事を失ったからではない。むしろ、戦争によって生まれた新しい仕事へ向かう者が増えた結果だった。
軍の仕事を受けて街を離れた人たちも、それぞれの事情や考えがあって依頼を選んだのだろう。彼らが無事に仕事を終え、またノヴァグラードへ戻ってきてくれることを願わずにはいられなかった。
そして、今朝シエラへお願いしたことを思い出す。
マリアベルの様子が分かるまでには、まだ時間がかかるだろう。お父様やユリアナたちがどうしているのか、今すぐ知ることはできないけれど、少なくとも調べるための手掛かりは得られた。
シエラなら、きっと何か分かった時には知らせてくれるはずだ。
それまでは、私も自分の生活を続けていこうと思う。
王国の戦争を止めることはできないし、遠く離れた家族のために何ができるのかも、まだ分からない。けれど、だからといって、今ここで暮らしている人たちのことを後回しにしていいわけではない。
目の前で困っている人たちを助けることならできるし、新人たちが無事に仕事を終えられるよう手を貸すこともできる。必要な薬草や魔石を集めることだって、私にとっては大切な仕事だった。
そうした一つ一つの仕事は、遠く離れた戦場で起きていることに比べれば、ずっと小さなものなのかもしれない。
それでも、誰かの暮らしを支えるという意味では、決して無駄なことではないはずだ。
戦争は、遠く離れた国で起きている。
けれど、その影響は確実にノヴァグラードの日常を変え始めていた。
いつも賑やかだった冒険者ギルドから、一人、また一人と顔馴染みの冒険者たちが姿を消していく。依頼掲示板には受け手の決まらない仕事が残り、受付の職員たちはその調整に追われている。
それでも、残された人たちの暮らしは続いていくのだ。
私は隣を歩くタクマに笑いかけ、再び家へ向かって歩き始めた。




