第71話 割のいい仕事
ノヴァグラードの北東に広がる森は、朝のうちこそ薄い霧に包まれていたものの、昼が近づく頃には木々の隙間から柔らかな日差しが差し込むようになっていた。雨が降ったのは二日前だったはずだけれど、木陰の地面にはまだ湿り気が残っていて、落ち葉を踏むたびに小さな音がする。
私は足元にしゃがみ込み、低木の根元に生えている草を指差した。
「これが薬草。葉っぱの先が少し丸くなっているでしょう? 似た種類もあるけど、こっちは茎の根元が赤みを帯びているから見分けやすいよ」
「なるほど……。あっ、リカさん! こっちにもあります!」
隣にしゃがんでいたミレイユが、少し離れた場所を指差して顔を輝かせた。茶色い髪を後ろで結んだ十八歳の少女は、先日ギルドで出会った時と変わらず、何にでも興味を示す明るい性格をしている。
私が覗き込むと、確かに同じ種類の薬草が数株まとまって生えていた。ただ、そのうちの一株は葉の色が薄く、まだ十分に育っていないようだった。
「うん、正解。でも、小さい株は残しておこうか。大きくなったものだけ採れば、またここで採取できるからね」
「分かりました! 根っこは残しておくんですよね?」
「そうそう。必要なのは葉と茎だから、根元から少し上を切ってね」
ミレイユは小さなナイフを取り出し、教えたばかりの手順で薬草を刈り取った。動きに多少のぎこちなさはあるものの、採取そのものに慣れていないわけではないらしい。マリアベルでもD級冒険者として活動していたのだから、当然といえば当然だった。
ただ、土地が変われば採れる植物も変わる。見た目が似ていても用途が違うものや、間違って口にすると体調を崩すものもあるため、最初のうちは現地の知識を持つ冒険者と行動した方が安全だった。
少し離れたところでは、タクマがユリウスと一緒に周囲の様子を確認している。
「この辺りは比較的安全だけど、採取に集中していると足音を聞き逃すことがある。特に、ああいう向こう側が見えない茂みには気をつけた方がいい」
「はい。マリアベルでも森には入っていましたが、こちらは木の生え方も随分違いますね」
「そうだな。俺も最初は地形を覚えるだけで苦労したよ。慣れるまでは、来た道と帰る方向を意識しておくといい」
ユリウスは十九歳の剣士で、ミレイユとは幼馴染だという。慎重な性格をしているらしく、タクマの説明を聞きながらも時折周囲へ視線を巡らせていた。腰には片手剣を下げ、左腕には小ぶりな盾を装備している。
二人とも冒険者としての基礎は身につけているようだけれど、ノヴァグラード周辺の森に入るのは今回が初めてだった。
それにしても、タクマが新人に指導している姿というのは、なかなか新鮮だった。
彼がこの世界へ来たばかりの頃は、森の歩き方から魔獣との距離の取り方まで、私が一つずつ教えていた。剣を握った経験はあっても、この世界の魔獣については何も知らなかったのだから、最初は戸惑うことばかりだったはずだ。
それが今では、立派なB級冒険者として後輩に助言している。
剣の腕が上達したことはもちろん大きい。でも、それ以上に、相手の経験や理解度に合わせて言葉を選び、必要なことを伝えられるようになったのが、彼らしい成長なのだと思う。
そんなことを考えていると、ユリウスが不意に足を止めた。
「……タクマさん」
「どうした?」
「あの茂みの奥、何かいます」
私も顔を上げ、ユリウスが見ている方向へ意識を向けた。低い茂みの向こうから、地面を掘り返すような音が聞こえてくる。しばらく様子を窺っていると、灰色の毛皮に覆われた小型の魔獣が姿を現した。
四本足で歩く、猪によく似た魔獣だ。ただし、体格は普通の猪よりも小さく、牙もそれほど長くない。単独で行動しているらしく、こちらにはまだ気づいていないようだった。
「小型の牙猪だね。あのくらいなら、そこまで危険な相手じゃないよ」
私が小声で告げると、ミレイユも採取の手を止めて立ち上がった。
「倒しますか? それとも、迂回した方がいいですか?」
ユリウスも判断に迷っているようだった。
採取依頼の途中で魔獣を見つけた場合、無理に戦う必要はない。むしろ、余計な危険を避けて依頼を達成することが基本とされている。
少なくとも、これまではそうだった。
「安全に倒せる相手なら、討伐した方がいいな」
タクマがそう答えると、二人は少し意外そうな顔をした。
「採取依頼なのに、ですか?」
「ああ。今はギルドから、そういう方針が出てるんだ」
私は二人の顔を見比べ、小さく笑った。
「実はね、少し事情が変わったんだよ」
話は、数日前にさかのぼる。
◇ ◇ ◇
その日、タクマと一緒に冒険者ギルドを訪れた私は、依頼掲示板の前にできている人だかりを見て首を傾げた。
「……今日は随分と賑やかだね」
「何か大きな依頼でも出たのかな」
普段から依頼掲示板の前には冒険者が集まっているけれど、今日は少し様子が違っていた。特にC級からB級くらいの中堅冒険者たちが、何枚もの依頼書を見比べながら熱心に話し込んでいる。
中には見覚えのある顔もあった。普段は魔獣討伐を中心に活動している三人組が、珍しく護衛依頼の条件を読み比べている。別の冒険者は仲間と指を折りながら報酬を計算し、どうやら金額の大きさに驚いているようだった。
私たちも近づいてみると、掲示板の一角に見慣れない依頼書がまとめて貼り出されていた。
依頼主は、フロンティア大公国軍。
内容は軍用物資の輸送護衛や、後方集積地の警備、軍用魔石の運搬などだった。中には数週間単位の長期契約もあり、提示されている報酬は通常の護衛依頼と比べてかなり高い。
「うわ、これ結構いい金額だね」
思わず声が出ると、隣で依頼書を読んでいたタクマも頷いた。
「確かにな。ただ、期間が長いな。こっちは三週間、こっちは一か月か」
「一か月も街を離れるのは、ちょっと困るかなあ」
私は週に二回、マルタの治療院へ通っている。回復魔法の研究も少しずつ進んでいるところだし、今の生活を中断してまで遠征するつもりはなかった。
それに、依頼先が西方というのも気になる。
マリアベル王国が政治的に分裂してから、まだそれほど時間は経っていない。それでも両陣営の緊張は高まり続けており、いつ大きな戦いが始まっても不思議ではない状況だった。
「この報酬なら、しばらく働かなくても暮らせそうだな」
近くにいた冒険者が、仲間に向かってそんなことを言っていた。
「その代わり、一か月も軍に付き合うんだぞ。途中で帰りたくなっても帰れねえだろ」
「分かってるよ。だから条件を確認してるんじゃねえか」
そんなやり取りを聞いて、私は少し感心した。
高い報酬に惹かれるのは当然だけれど、冒険者たちも金額だけで仕事を選んでいるわけではない。契約期間や危険度、途中で何かあった場合の扱いなど、確認しなければならないことは多いのだろう。
特に軍の仕事となれば、普通の商隊護衛とは違う決まりもあるはずだ。
「こっちも見てみろよ。魔石の買い取り価格が上がってる」
タクマに促され、私は別の掲示板へ視線を移した。
そこには、薬草や魔草、魔獣素材、魔石などの納品依頼が並んでいた。どれも普段から見かけるものばかりだけれど、報酬の欄には以前より高い金額が記されている。
「本当だ。薬草まで上がってるんだね」
「しかも、こっちは追加の買い取りもあるみたいだ」
私は依頼書を読み直した。
通常の採取依頼とは別に、一定量を超えて納品した素材にも追加報酬が支払われるらしい。魔石についても、種類や大きさに応じて買い取りが強化されている。
これなら、街の近くで採取や討伐をするだけでも、以前よりずっと稼ぎやすい。
ただ、どうして急にこんな方針になったのだろう。
疑問に思った私たちは、受付にいるエリナへ話を聞きに行くことにした。
「エリナ、ちょっと聞いてもいい?」
「もちろん。どうしたの?」
「掲示板の素材の買い取り、随分と条件が良くなってるよね。何かあったの?」
エリナは納得したように頷いた。
「ああ、それね。ギルド本部から通達が来たのよ。しばらくの間、薬草や魔草、それに魔石や魔獣素材の供給量を増やしてほしいんですって」
「ギルド本部から?」
「ええ。ノヴァグラードだけじゃなくて、各地の支部に同じような指示が出ているみたい」
どうやら、軍需物資の需要が急激に増えているらしい。
治療用の薬草や魔法薬の原料となる魔草はもちろん、魔道具に使われる魔石も大量に必要とされている。各地の商人や工房からの注文が増え、ギルド本部としても供給を強化する必要が出てきたのだという。
私がマルタの治療院で見かける薬草も、冒険者が採取して納品したものが多い。治療院ではそれを乾燥させたり、薬師が調合したりして患者の治療に役立てている。普段なら街で消費する分だけでも相応の量が必要なのに、軍が負傷者への備えを始めれば、需要が増えるのも無理はなかった。
「それと、もう一つ変更があるの」
エリナはそう言って、受付の下から一枚の通達書を取り出した。
「採取依頼中に魔獣と遭遇した場合、今までは無理に戦わず、できるだけ回避するように案内していたでしょう?」
「うん。採取が目的なら、余計な危険を冒す必要はないからね」
「それは今も同じなんだけど、これからは脅威度が低くて安全に討伐できる相手なら、積極的に狩って素材と魔石を持ち帰るよう推奨することになったの」
「へえ……」
私は少し驚いた。
冒険者ギルドは、依頼の達成だけでなく、冒険者の生存も重視している。特に経験の浅い冒険者に対しては、必要のない戦闘を避けるよう指導するのが基本だった。
もちろん、今回の通達も無謀な戦闘を勧めているわけではない。あくまで自分たちの実力で安全に討伐できる相手に限る、という条件が付いている。
それでも、方針としては明らかな変化だった。
「採取と討伐を、できるだけ一緒にこなしてほしいってことか」
タクマが言うと、エリナは頷いた。
「そういうことね。今は魔石も素材も、いくらあっても足りないみたい」
私は、先日街道で見かけた大量の荷車を思い出した。
食料や薬品、武具、それに魔石。
西へ向かって運ばれていた物資は、あの時点でもかなりの量だった。それでもまだ足りないというのだから、軍がどれほど大きな準備を進めているのか、想像するだけでも気が重くなる。
「ところで、二人とも」
エリナが少し声を落とした。
「ギルド長が呼んでるわよ。時間があったら、部屋まで来てほしいって」
「バルザックが?」
「ええ。二人に頼みたいことがあるそうよ」
私とタクマは顔を見合わせた。
ギルド長から直接呼び出されること自体は、これまでにも何度かあった。でも、今回は何の用事なのか見当がつかない。
ひとまず、私たちはギルド長室へ向かうことにした。
◇ ◇ ◇
「入れ」
扉を叩くと、中から聞き慣れた低い声が返ってきた。
ギルド長室に入ると、バルザックは大きな机の上に何枚もの書類を広げていた。依頼の報告書や軍から届いた募集書類に混じって、周辺諸国の地図まで置かれている。
いつもなら豪快に笑って迎えてくれることもあるけれど、今日は少し真剣な顔をしていた。
「おう、来たか。まあ座れ」
勧められた椅子に腰を下ろすと、バルザックは机の上の地図をこちらへ向けた。
「まずは、今の西の状況を少し話しておく」
地図にはマリアベル王国とフロンティア大公国、それに周辺諸国の国境が描かれていた。
バルザックが指を置いたのは、マリアベル王国のヴェルミニア海沿岸に位置する都市、グラニスクの周辺だった。
「今、ここに王軍とハインリヒ軍が集結しつつある」
「グラニスク……」
私はその地名を口にした。
王国の東西を結ぶ重要な港湾都市であり、陸上交通の要衝でもある。王都マリアベルクからはかなり西に位置するものの、ここを巡って大きな戦いが起これば、王国全体に影響が及ぶことは間違いない。
幼い頃、王宮で地理を学んだ時にも、この街の名前は何度も耳にした。海上交易の拠点であると同時に、西部と東部を結ぶ物流の中心でもあるため、王国の経済を支える重要な都市として教えられた記憶がある。
「まだ本格的な会戦にはなってねえ。だが、両軍とも相当な兵力を集めてるらしい。あそこでぶつかりゃ、ちょっとした小競り合いじゃ済まねえだろうな」
バルザックは指を動かし、今度はフロンティア大公国の西部国境を示した。
「こっちでも軍の一部動員が始まってる。大公国が戦争に参加するって話じゃねえ。国境を守るための警戒だ」
「だから、あんなに軍の依頼が増えてるんだね」
「ああ。軍が動きゃ、食料も薬も武具も必要になる。魔石だって大量に使う。お前らが掲示板で見た依頼も、その一部ってわけだ」
私は地図に目を落とした。
マリアベル王国が分裂したことは知っていたし、父がハインリヒを王太子に指名しなかった理由も理解している。
けれど、こうして地図の上で両軍の集結地点を示されると、事態が想像以上に進んでいることを実感させられた。
グラニスクで大きな戦いが始まれば、そこにいる兵士たちの中には、私が王宮にいた頃から知っている人もいるかもしれない。父は今も王都にいるはずだし、ユリアナも魔法騎士団長として王宮を守る立場にある。二人とも、今はきっと忙しくしているのだろう。
心配ではある。
それでも、だからといって私が王宮へ戻るつもりはなかった。
王宮で過ごした日々を忘れたわけではないし、家族への思いが消えたわけでもない。ただ、私は自分の生き方を選び、あの場所を離れた。王国で何が起ころうとも、その決意まで簡単に変えられるものではなかった。
「それでだ」
バルザックの声に、私は顔を上げた。
「お前らも、今のギルドの状況は何となく分かるだろう」
「軍の依頼が増えてること?」
「ああ。報酬が良いからな。恐らくこれから、使える奴はどんどん西へ行く」
バルザックは腕を組み、椅子の背にもたれた。
「今はまだ問題ねえ。だが、C級やB級の連中が長期契約で抜け始めりゃ、こっちの仕事を回す人間が足りなくなる。そんなことは目に見えてる」
確かに、その通りだった。
冒険者ギルドには毎日さまざまな依頼が持ち込まれる。魔獣の討伐や街道の護衛、素材の採取など、どれも街の生活を支える大切な仕事だ。
その中でも、経験豊富なC級からB級の冒険者たちは、難易度の高い依頼を安定してこなせる貴重な存在だった。
例えば、街道に魔獣が現れた時、危険度の低い相手なら新人でも対応できるかもしれない。しかし、複数の魔獣が群れを作っていたり、護衛対象を守りながら戦わなければならなかったりする場合は、経験の差が大きく表れる。
強い魔獣を倒せることと、依頼を安全に遂行できることは、必ずしも同じではない。
そうした仕事を任せられる冒険者が長期間街を離れてしまえば、通常の依頼に影響が出るのは当然だった。
「しかも、ギルド本部は素材と魔石をもっと集めろって言ってきてる。仕事は増えるのに、働く奴は減るって寸法だ」
「……それは大変そうだね」
「大変になる前に、手を打っておきてえんだよ」
バルザックは私たちを順番に見た。
「一応聞くが、お前らは西へ行くつもりはねえんだろ?」
「うん。私は治療院もあるし、しばらくはこの街にいるつもりだよ」
「俺も同じだ。今のところ、長期遠征を受ける予定はない」
タクマが答えると、バルザックは予想通りだったという顔で頷いた。
「だったら、一つ頼みがある」
「頼み?」
「ああ。一人でも多くの新人を、使えるようにしてやってくれ」
私は思わずタクマと顔を見合わせた。
「新人を?」
「そうだ。別に、お前らに教官になれって話じゃねえ。普段の依頼に若い奴らを連れていって、現場で必要なことを教えてやってほしいんだ」
バルザックは机の上に置かれた依頼書を指で叩いた。
「強い奴を一人育てるのも大事だが、今のギルドに必要なのは、普通の依頼をきちんとこなせる連中だ。薬草を採って帰ってこられる。街道の護衛を任せられる。危険な魔獣に出くわしたら、無理せず逃げられる。そういう奴が増えるだけでも違う」
その言葉を聞いて、私は納得した。
冒険者だからといって、全員がA級やB級を目指す必要はない。自分の実力に合った依頼を選び、確実にこなしていくことも立派な仕事だ。
むしろ、街の生活を支えているのは、そうした日々の依頼を引き受ける冒険者たちなのだろう。
薬草が不足すれば治療院が困るし、街道の護衛が足りなくなれば商人たちの往来にも影響が出る。魔獣討伐の依頼が放置されれば、周辺の村や農地に被害が及ぶかもしれない。
どれも王国の大きな戦争と比べれば小さな出来事に見えるけれど、そこで暮らす人々にとっては決して軽い問題ではなかった。
「でも、俺たちが毎日付きっきりで教えるのか?」
タクマが尋ねると、バルザックは首を振った。
「いや、そこまでは求めねえ。お前らにも自分の仕事があるだろう。手が空いた時に同行させたり、助言してやったりするだけでも十分だ」
「それなら、できそうだな」
「ただし、勘違いするなよ」
バルザックは少しだけ表情を引き締めた。
「新人を危険な場所に連れ回せって話じゃねえ。生きて帰って、次の依頼も受けられるようにしてやれ。それが一番大事だ」
私は頷いた。
冒険者は、生きて帰ってこなければ次の仕事を受けられない。
当たり前のことだけれど、経験の浅い頃ほど、その当たり前を忘れてしまうことがある。目の前の報酬に気を取られたり、自分の実力を過信したりして、取り返しのつかない失敗をする冒険者も少なくない。
バルザックが求めているのは、単に戦える人間を増やすことではない。自分で危険を判断し、仲間と協力して仕事を終え、無事に帰ってこられる冒険者を増やすことなのだ。
そして、ふと先日出会った二人の顔が浮かんだ。
「ねえ、タクマ。ミレイユとユリウスはどうかな?」
「ああ、昨日の二人か」
「うん。マリアベルで冒険者をやってたんだから、基礎はできてると思うんだ。でも、こっちの森や魔獣には慣れてないでしょう?」
「確かに。最初の何回か、一緒に依頼を受けるだけでも違うかもしれないな」
バルザックが興味深そうに眉を上げた。
「知り合いか?」
「昨日、マリアベルから来た二人と知り合ったんだ。どっちもD級だよ」
「ほう。なら、ちょうどいいじゃねえか。最近は向こうから移ってくる冒険者も増えてるからな。土地に慣れてねえ連中を支えるのも大事だ」
私はタクマを見た。
彼も小さく頷いている。
「分かった。私たちにできることなら協力するよ」
「ああ。俺も手伝う」
「助かる。頼んだぞ」
バルザックはそう言って、机の上の書類へ視線を戻した。
その姿を見ながら、私は少しだけ感心していた。
まだ冒険者が足りなくなったわけではない。それでも、これから起こることを予測して、既に準備を始めている。
長年このギルドを預かってきた人なのだと、改めて思わされた。
◇ ◇ ◇
ギルド長室を出た私たちは、もう一度依頼掲示板の前へ戻った。
「さて、どうしようか」
「まずは二人に声を掛けるとして、最初は採取依頼がいいんじゃないかな」
タクマは薬草と魔草の採取依頼を指差した。
「この辺りなら、比較的危険度も低い。土地を覚えるのにも向いてるし、魔獣が出たら俺たちが対応できる」
「うん、いいと思う」
私は依頼書を読みながら頷いた。
薬草や魔草の採取なら、私もある程度教えられる。治療院で薬草の扱いを学ぶようになってからは、以前よりも用途や保存方法に詳しくなっていた。
それに、今は素材の買い取り価格が上がっている。
採取のついでに危険度の低い魔獣を討伐できれば、魔石や素材も持ち帰れる。新人二人にとっても、悪くない収入になるはずだ。
「それにしても、タクマが新人を教える側になるなんてね」
私が笑いながら言うと、彼は少し照れたように頭をかいた。
「いや、俺だってまだ教わることばかりだけどな」
「そんなことないよ。今のタクマなら、ちゃんと教えられると思う」
「……そう言ってもらえると嬉しいな」
彼はそう答えてから、掲示板へ視線を戻した。
私はその横顔を見ながら、少し前のことを思い出していた。
初めて彼を森へ連れていった時、タクマは何も知らない世界で生きていくために、必死で私の話を聞いていた。魔獣の習性も、依頼の受け方も、素材の買い取り相場も、彼にとっては初めて知ることばかりだった。
それでも、分からないことをそのままにせず、一つずつ覚えていった。
剣術の稽古を重ね、実戦を経験し、時には痛い目にも遭いながら、今では誰もが認めるB級冒険者になっている。
そんな彼が、今度は別の誰かに自分の経験を伝えようとしている。
恋人として、少し誇らしい気持ちになった。
私たちは二人で依頼の内容を確認し、ミレイユとユリウスに声を掛けることにした。
幸い、二人はその日の午後にもギルドへ顔を出していた。
私たちから同行を提案すると、ミレイユは目を輝かせ、ユリウスも少し驚きながら了承してくれた。
こうして、四人での最初の依頼が決まったのだった。
◇ ◇ ◇
「……というわけで、今は安全に倒せる魔獣なら、積極的に討伐する方針になってるんだよ」
私はミレイユとユリウスに説明を終え、茂みの向こうにいる小型の牙猪へ視線を戻した。
魔獣はまだこちらに気づいていない。鼻先で地面を掘り返し、何かを探しているようだった。時折耳を動かしているものの、私たちのいる方向には注意を向けていない。
「なるほど。だから採取依頼でも討伐を勧められるんですね」
ユリウスが納得したように頷く。
「でも、無理に戦う必要はないんですよね?」
「もちろん。そこは変わらないよ。魔獣の素材や魔石が欲しいからって、怪我をしたら意味がないでしょう?」
私が答えると、タクマも続けた。
「まずは、相手を見て判断することだ。あの魔獣なら、二人でも十分に対応できると思う。でも、どう戦うかは自分たちで考えてみてくれ」
ユリウスは少し考え、ミレイユと顔を見合わせた。
「僕が前に出て注意を引く。その間にミレイユが横から攻撃する、でどうだ?」
「いいと思う。でも、あいつ結構素早そうだよ? 突っ込んでこられたら大丈夫?」
「無理に追いかけず、こっちへ向かってきたところを盾で受けるよ。動きが止まったら、ミレイユが横から攻撃してくれ」
「分かった。じゃあ、私は右側に回るね」
二人の相談を聞きながら、タクマは小さく頷いた。
「いいと思う。ただ、その前に確認することがあるな」
「……周りに、ほかの魔獣がいないか、ですか?」
「そう。目の前の一匹だけ見ていると、別の相手に気づくのが遅れることがある」
「あっ、そうでした」
ユリウスが慌てて周囲を見回す。ミレイユも茂みの向こうへ視線を巡らせ、耳を澄ませていた。
私は魔力の気配を探りながら、近くにほかの魔獣がいないことを確認した。もっとも、私のように魔力を探れる冒険者ばかりではない。二人には、足跡や物音、周囲の草木の動きなどから危険を察知する習慣を身につけてもらう必要がある。
「大丈夫そうだよ。二人とも、準備ができたら始めていいよ」
「はい!」
ユリウスが盾を構え、慎重に前へ出る。
足音に気づいた牙猪が顔を上げた。短い牙をこちらへ向け、低く唸る。小型とはいえ魔獣であることに変わりはなく、怒った時の動きにはそれなりの迫力があった。
次の瞬間、魔獣が地面を蹴った。
「来る!」
ユリウスは盾を前へ突き出し、突進を受け止めた。
体格の小さな魔獣とはいえ、その勢いは侮れない。ユリウスの体がわずかに後ろへ押されたものの、足を踏ん張って姿勢を保つ。
その隙に、ミレイユが側面へ回り込んだ。
「今!」
彼女の短剣が魔獣の脇腹を捉えた。
牙猪が悲鳴を上げ、ユリウスから離れようとする。しかし、ユリウスはすぐに剣を振り下ろし、魔獣の動きを止めた。
戦闘は、思ったよりも短時間で終わった。
「やった!」
ミレイユが嬉しそうに声を上げる。
ユリウスも安堵したように息を吐いた。盾を構えていた腕にはまだ少し力が入っているようだったけれど、怪我はしていないらしい。
「うん、よくできたと思うよ」
私が声を掛けると、二人は嬉しそうにこちらを振り返った。
ただ、タクマは褒めるだけでは終わらなかった。
「連携は良かった。でも、ユリウスは少し前に出すぎたな。あの位置だと、もしもう一匹いたら対応しにくかったと思う」
「確かに……。目の前の魔獣に集中しすぎました」
「それと、ミレイユも攻撃の後は周囲を確認した方がいい。倒したと思っても、まだ動くことがあるから」
「はい。気をつけます」
二人は真剣な表情で頷いた。
タクマの説明は落ち着いていて、必要なことを順番に伝えている。自分が戦う時には当たり前にできていることでも、人に教えるとなると難しいはずだ。
それでも彼は、二人が理解できるように言葉を選んでいた。失敗を責めるのではなく、何が危険だったのか、次にどうすればいいのかを具体的に伝えている。
私は少し離れたところから、その様子を眺めていた。
初めて出会った頃のタクマを思い出す。
森へ入るだけでも緊張していた彼が、今ではこうして後輩の冒険者に助言している。彼が努力してきたことは誰よりも知っているつもりだけれど、改めてその成長を目の当たりにすると、やっぱり嬉しくなる。
「リカさん、魔石ってどうやって取り出すんですか?」
ミレイユに声を掛けられ、私は我に返った。
「あ、うん。じゃあ、今度はそっちを教えるね」
私は魔獣の死骸のそばにしゃがみ込み、解体用のナイフを取り出した。
魔石は魔獣の体内にある魔力の結晶だ。種類によって位置や大きさは異なるけれど、取り出す時には周囲の組織を傷つけすぎないよう注意する必要がある。魔石そのものを傷つければ買い取り価格が下がることもあるため、解体の手順は意外と重要だった。
私は二人に説明しながら、慎重に刃を入れた。
ほどなくして、小さな魔石が姿を現した。
「これが、この魔獣の魔石だよ」
「へえ……。思ってたより小さいんですね」
「この種類は小型だからね。でも、今はこういう魔石でも買い取りが強化されてるんだよ」
ミレイユは興味深そうに魔石を覗き込んだ。ユリウスも隣にしゃがみ、取り出した位置を確認している。
「次は僕たちでもできるでしょうか?」
「もちろん。最初は私が横で見ているから、少しずつ覚えていこうね」
その後も私たちは森を歩き、薬草や魔草を採取しながら、何度か小型の魔獣を討伐した。
もちろん、見つけた魔獣を片っ端から倒したわけではない。
群れで行動している相手や、二人には少し危険だと思われる魔獣については、無理に近づかず迂回した。中には素材の買い取り価格が高い種類もいたけれど、報酬のために危険を冒していては、今回の研修の意味がなくなってしまう。
タクマはその都度、なぜ戦うのか、なぜ避けるのかを二人に考えさせていた。
私も採取対象の見分け方や、魔獣素材の扱い方を教えながら、できるだけ二人自身に判断してもらうよう心掛けた。
最初は何かと私たちに確認していた二人も、時間が経つにつれて少しずつ自分たちで動けるようになっていった。
特にユリウスは、最初の戦闘で前に出すぎたことを気にしていたらしく、その後は仲間との距離を意識して動くようになった。ミレイユも攻撃に集中しすぎないよう注意しているようで、戦闘が終わるたびに周囲を確認する姿が見られた。
もちろん、一日で何もかも身につくわけではない。
それでも、自分たちで気づき、考え、次の行動に活かそうとしているのなら、きっと少しずつ上達していくはずだ。
昼を過ぎた頃には、持参した袋もかなり膨らんでいた。
「結構集まりましたね!」
ミレイユが満足そうに袋を持ち上げる。
「うん。今日はこのくらいでいいと思うよ。あまり遅くなると帰りが大変だからね」
「そうですね。そろそろ戻りましょうか」
ユリウスも頷き、私たちは街へ戻ることにした。
帰り道、ミレイユは歩きながら何やら指を折って数えていた。最初は今日採取した薬草の数でも確認しているのかと思ったけれど、どうやらそうではないらしい。
「どうしたの?」
「今日の報酬を計算してたんです」
「ああ、なるほど」
「薬草と魔草の採取報酬があって、魔石と素材の買い取りもありますよね。それに、今は追加報酬もつくんですよね?」
「うん。納品した量にもよるけど、普段よりは良い金額になると思うよ」
ミレイユは目を丸くした。
「それって、普通の採取依頼よりずっと割がよくないですか?」
「今はそういう時期なんだろうな」
タクマが答えると、ユリウスも感心したように頷いた。
「マリアベルにいた頃は、採取依頼だけでここまで稼げることはあまりありませんでした」
「そうなんだね」
「はい。もちろん、こっちの方が物価も違うんでしょうけど……それでも、ありがたいです」
ユリウスは少し照れくさそうに笑った。
マリアベルを離れ、慣れない土地へやって来た二人にとって、安定して仕事を得られることは何より大切なのだろう。宿代も食費も、自分たちで稼がなければならない。冒険者としての仕事が見つからなければ、せっかく新しい街へ来ても生活を続けることは難しい。
その気持ちは、私にもよく分かる。
八年前、王宮を飛び出したばかりの私は、自分の力で生活していけるのか不安だった。自由になりたいという気持ちは強かったけれど、自由に生きるためには、自分で仕事を見つけ、自分で稼がなければならない。
冒険者ギルドで初めて報酬を受け取った時の嬉しさは、今でも覚えている。
決して大きな金額ではなかったけれど、誰かに与えられたお金ではなく、自分で働いて得た報酬だった。その重みは、王宮で暮らしていた頃には知らなかったものだ。
ミレイユとユリウスも、きっと今は似たような気持ちなのかもしれない。
ただ、少しだけ複雑な思いもあった。
薬草や魔草の買い取り価格が上がり、魔石の需要が増えているのは、西方で大きな戦いが始まろうとしているからだ。
冒険者にとっては割のいい仕事でも、その背景には軍の動員があり、戦争への備えがある。治療用の薬草が大量に求められているということは、それだけ多くの負傷者が出る可能性を想定しているということでもあった。
軍用魔石の需要が増えているのも、同じ理由なのだろう。
私たちが今日採取した素材や魔石も、いずれは西へ運ばれていくのかもしれない。
そう考えると、少しだけ胸の奥が重くなった。
それでも、目の前で嬉しそうに報酬の計算をしている二人を見ていると、今はそのことばかり考える必要もないのだと思えた。
私たちにできることは、目の前の依頼をきちんとこなし、無事に街へ帰ること。そして、まだ慣れない土地で頑張ろうとしている二人が、自分たちの力で仕事を続けられるよう手助けすることだ。
「リカ、どうした?」
隣を歩いていたタクマが、私の顔を覗き込んだ。
「ううん、何でもないよ」
「そうか?」
「うん。……それより、タクマ」
「ん?」
「今日は先生みたいだったね」
私が笑うと、彼は少し困ったような顔をした。
「先生ってほどじゃないだろ。俺だって、まだまだ勉強中だよ」
「でも、ちゃんと教えられてたよ。二人とも、すごく真剣に聞いてたし」
「それなら良かった。俺も昔、リカやハーケンさんに色々教えてもらったからな。今度は少しでも、誰かの役に立てたらいいと思う」
タクマはそう言って、小さく笑った。
その表情を見ていると、私まで嬉しくなる。
少し前まで、私が彼に教えていたことを、今度は彼が誰かに伝えている。もちろん、私だって今でも新しいことを学び続けているし、タクマに助けられることも増えた。
冒険者としての経験は、誰か一人が持っていればいいものではない。
先輩から後輩へ、仲間から仲間へと伝わっていくことで、少しずつ多くの人が安全に仕事をこなせるようになる。
バルザックが私たちに頼んだことも、きっとそういうことなのだろう。
前を歩くミレイユとユリウスは、今日の討伐について楽しそうに話し合っていた。
「次はもっと上手く連携できると思うんだよね」
「その前に、ミレイユは攻撃した後の確認を忘れないようにしないと」
「分かってるってば! ユリウスだって、最初は前に出すぎてたじゃない」
「それは反省してるよ……」
二人のやり取りが聞こえてきて、私は思わず笑ってしまった。
失敗したことを素直に認め、次はどうすればいいかを話し合っている。それだけでも、今日一緒に依頼を受けた意味はあったのかもしれない。
私はその背中を眺めながら、隣を歩くタクマの手をそっと握った。
彼は少し驚いたようにこちらを見たけれど、すぐに握り返してくれた。
西の空の向こうでは、今も大勢の兵士たちが集結しているのだろう。
グラニスクという街を巡って、王国の未来を左右する戦いが始まろうとしている。父や、かつての知人たちが、その争いに巻き込まれていくことも避けられないのかもしれない。
けれど、少なくとも今この瞬間、私たちの目の前には穏やかな森と、今日の仕事を終えて満足そうに歩く二人の若い冒険者がいる。
彼らが明日もこうして仕事を選び、自分たちの足で歩いていけるように。
私は、今の自分にできることを続けていこうと思った。




