第63話 二つの毒
マルタさんの治療所へ通い始めて、二日目の朝。
私は昨日よりも少し早く家を出た。タクマには、そんなに張り切っても患者が早く来るわけじゃないぞ、と笑われたけれど、昨日教わったことを思い返しているうちに、じっとしていられなくなってしまったのだから仕方がない。昨日は初めての診察に立ち会い、患者への質問の仕方や身体の調べ方を教わった。魔法学院では習わなかったことばかりで、帰宅してからもノートを見返す手が止まらなかったほどだ。
もちろん、今日は本を山ほど持っていくようなことはしなかった。鞄に入れたのはノートと筆記具、それから昨日のうちにまとめた質問だけ。昨夜は薬草の本を読み始めたところでタクマに寝るよう促されてしまったけれど、それでも基本的な種類や用途については少し予習できている。
治療所に着くと、マルタさんはすでに薬草の棚を開けていた。朝の光が窓から差し込み、乾燥させた植物の束や小瓶が並ぶ棚を照らしている。薬草特有の青臭さと、煎じ薬の残り香が混じった匂いにも、少しずつ慣れてきた。
「おはようございます!」
「おはよう。今日も早いねぇ」
「はい! 昨日、薬草の勉強をするって言ってましたよね?」
「言ったけど、そんなに楽しみにするようなものかね」
「もちろんです!」
私が即答すると、マルタさんは呆れたように笑った。
「まったく、勉強が好きな子だね。じゃあ、せっかくだから始めようか」
マルタさんは棚からいくつかの小瓶と、乾燥させた植物の束を取り出した。葉の形や色はそれぞれ違い、中には細かく刻まれているものや、粉末状になっているものもある。私が魔法薬の材料として見覚えのある植物もあったけれど、薬としての用途までは知らないものがほとんどだった。
「まずは、これ。腹の具合が悪い時に使う薬草だよ。こっちは熱を出した患者に飲ませることがある。で、こっちの根は痛みを和らげる薬に使うんだけど、扱いには気をつけなきゃいけない」
「どうしてですか?」
「量を間違えると、かえって具合が悪くなるからさ」
私は思わず小瓶を見つめた。
「薬なのに、ですか?」
「薬だからこそ、だよ。身体に何かしらの作用を起こすものなんだから、使い方を間違えれば害になることもある」
マルタさんは根を少しだけ取り出し、私の前に置いた。乾燥して縮んだそれは、見た目だけなら特別な力を持っているようには思えない。けれど、適切に使えば痛みを和らげ、量を間違えれば身体に害を及ぼすのだという。
「これも、使い方を間違えれば毒になる。薬と毒は、まるっきり別のものとは限らないんだよ」
私は根を手に取り、形や匂いを確かめた。
魔法学院でも薬草について学んだことはある。ただし、当時の授業は主に魔法薬の材料としての性質を扱うものだった。どの植物が魔力を保持しやすいか、どの成分が術式の安定に役立つか。そうした知識ならある程度覚えているけれど、患者に飲ませる薬としての使い方となると、知らないことが多い。
「……同じものでも、量によって薬にも毒にもなるんですね」
「そういうことさ。もっとも、何でも量さえ減らせば薬になるわけじゃないけどね。最初から身体に害しかないものだってある」
「なるほど……」
私はノートへ書き込んだ。薬と毒の違い、使い方と量、そして身体への作用。昨日まで、私は治療に使うものと身体に害を与えるものを、どこか別々に考えていた。けれど、どうやらその境界は、思っていたほど単純ではないらしい。
「それからね、薬には病気の原因に働きかけるものばかりじゃなく、痛みや熱を和らげるために使うものもあるんだよ」
「……痛みや熱を、ですか?」
「ああ。例えば、熱が出ている患者に薬を使ったからといって、病気そのものが消えるわけじゃないだろう? でも、熱や痛みが少し楽になれば、食べたり眠ったりしやすくなる。そうすれば、身体も回復しやすくなるんだ」
私は少し考え込んだ。病気の原因を取り除くのではなく、症状を和らげる。それも治療の一つだということは理解できるけれど、魔法によって傷や異常を直接修復してきた私には、まだ少し馴染みの薄い考え方だった。
マルタさんは私の表情を見て、穏やかに笑った。
「難しく考えなくてもいいよ。患者が苦しんでいるなら、少しでも楽にしてやる。それも治療師の仕事さ」
私は頷き、その言葉もノートへ書き留めた。
けれど、その時の私はまだ、マルタさんが教えてくれたことの意味を十分には理解できていなかった。その日のうちに、それを実感することになるとも知らずに。
◇
治療所の扉が勢いよく開いたのは、薬草の勉強を始めてしばらく経った頃だった。
「マルタさん! すぐに診てもらえますか!」
駆け込んできたのは、冒険者ギルドの職員だった。その切迫した声に、マルタさんの表情が変わった。
「どうしたんだい?」
「森で魔獣に噛まれた冒険者がいるんです。毒を受けたみたいで、手足が痺れて動けなくなっていて……!」
「分かった。すぐに連れておいで」
マルタさんは立ち上がり、私へ振り返った。
「リカ、寝台を空けておくれ。それから、綺麗な水と布を用意して」
「はい!」
私はノートを閉じ、すぐに準備へ取りかかった。昨日教わったばかりの仕事だったけれど、何をどこから取り出せばいいのかは覚えている。寝台に清潔な布を敷き、水を用意して、傷の処置に使う器具を作業台へ並べた。マルタさんはその間に薬箱を開き、必要なものを確かめている。
ほどなくして、二人の冒険者に支えられた若い男性が運び込まれてきた。
男性は二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。革鎧の袖は裂け、左腕には牙で噛まれたらしい傷があった。傷口の周囲には暗い紫色の模様が浮かび、そこから細い筋が伸びるように腕の上部へ広がっている。顔色は悪く、額には汗が滲み、自分の足で立つことも難しいようだった。
「……腕が、痺れて……」
「喋らなくていいよ。まずは横になりな」
マルタさんは男性を寝台へ寝かせると、意識がはっきりしているか、呼吸に異常がないかを確かめた。男性の目はマルタさんの動きを追っており、質問にも答えられている。ただ、左手の指はほとんど動かせず、時折、全身に力が入らないような様子を見せていた。
「何に噛まれたんだい?」
「黒い……蜥蜴みたいな魔獣です。尾が長くて、背中に棘があって……」
付き添ってきた冒険者が答えると、マルタさんは小さく頷いた。
「毒を持つ種類だね。噛まれてからどれくらい経った?」
「一時間ほどです。最初は腕が痺れるだけだったんですが、だんだん足にも力が入らなくなって……」
「分かった。リカ、魔力の状態を調べられるかい?」
「はい」
私は男性の傍らに立ち、慎重に魔力を流した。
身体の内部を観察する魔法式を展開すると、すぐに異常が見つかった。魔核から全身へ巡る魔力の流れに、明らかな乱れが生じている。しかも、それは単なる魔力の消耗ではなかった。
傷口の周辺には、患者自身の魔力とは異なる性質のものがまとわりついていた。それが魔力の流れに沿って広がり、正常な循環を妨げている。まるで、身体の中に異物が入り込み、魔力の通り道を塞いでいるようだった。
「……これ、普通の怪我じゃないですね」
「何が見えるんだい?」
「患者さん自身の魔力とは違うものが、身体の中に広がっています。魔力の流れに干渉しているみたいです」
マルタさんは頷いた。
「魔獣の毒は、そういうものさ。身体の中を流れる魔力に悪さをするんだよ」
私は改めて男性の腕を見た。暗い模様は、異質な魔力が広がっている場所とほぼ重なっている。身体の表面に現れている変化も、魔力の異常と関係しているのだろう。
「解毒魔法を使います」
「ああ。頼んだよ」
私は術式を構築した。
解毒魔法は、治癒魔法の中でも比較的よく知られているものだ。冒険者として活動していれば、毒を持つ魔獣と遭遇する機会もあるため、私も以前から使えるようにしていた。ただ、これまでは術式が何を対象にしているのか、深く考えたことがなかった。
毒を受けた人に使えば、毒が消える。
そういう魔法なのだと理解していたのだ。
けれど、今は違う。術式が捉えているものを意識し、その働きを確かめながら魔力を流してみる。すると、患者の魔力にまとわりついていた異質なものが、解毒魔法の対象として認識されていることが分かった。
術式は、その異常を患者自身の魔力から切り離すように働いていた。私は慎重に魔力を流し込み、正常な循環を妨げているものを少しずつ取り除いていく。傷口から腕へ広がっていた暗い模様が薄れ、乱れていた魔力の流れも徐々に本来の状態へ戻っていった。
「……あ、痺れが……」
男性が小さく声を漏らした。
「少し楽になったかい?」
「はい……指が、動きます」
私は最後まで術式を維持し、異質な魔力が残っていないことを確かめた。
「終わりました。魔力の流れは正常に戻っています」
「よし。じゃあ、今度は傷の方だね」
マルタさんは男性の腕を確認した。解毒魔法によって毒の影響は取り除けたけれど、牙による傷はそのまま残っている。皮膚が裂け、周囲の組織にも損傷があった。
私はすぐに回復魔法を使おうとしたけれど、マルタさんが手で制した。
「先に傷を洗うよ。何が入り込んでるか分からないからね」
「……はい」
私は頷いた。
タクマの時と同じだ。魔獣の毒を取り除けたからといって、傷口まで安全になったわけではない。牙に付着していた汚れや、目に見えないほど小さなものが入り込んでいる可能性もある。せっかく毒を取り除いても、傷の中に別の問題を残してしまっては意味がない。
マルタさんは傷口を丁寧に洗い、状態を確かめてから、私に必要な範囲だけを修復するよう指示した。私は損傷した組織を慎重に治し、処置を終えた。
男性はまだ疲れた様子だったけれど、先ほどまでの激しい痺れは消え、顔色も少しずつ戻ってきていた。
「しばらくはここで休んでいきな。毒は抜けたようだけど、身体がすぐに元気になるとは限らないからね」
「ありがとうございます……本当に、助かりました」
男性は何度も頭を下げた。
私はほっと息を吐いた。解毒魔法は確かに役に立ったし、患者の状態も改善している。けれど、今回の治療で私が得たものは、それだけではなかった。
これまで何度も使ってきた魔法が、実際には何を取り除いているのか。その仕組みを意識して観察したことで、解毒魔法に対する理解が少し変わった気がしたのだ。
◇
魔獣に噛まれた冒険者は、しばらく治療所で休んだ後、仲間に付き添われて帰っていった。
マルタさんは翌日も状態を確認するよう伝え、もし再び痺れが出たり、傷口が腫れたりするようなら、すぐに戻ってくるよう念を押していた。毒の影響がなくなったように見えても、傷口の状態や身体の回復には引き続き注意が必要なのだという。
私は使った器具を洗いながら、先ほどの解毒魔法について考えていた。
術式そのものは、昔から知っている。魔法学院でも基本的な構造を学んだし、実際に使った経験もある。けれど、あの魔法が何を対象にしているのかについては、あまり深く考えたことがなかった。
毒を取り除く魔法。
その名前と効果だけで、十分に理解しているつもりになっていたのだ。
「マルタさん。魔獣の毒って、みんなあんなふうに魔力へ作用するんですか?」
私が尋ねると、マルタさんは薬瓶を棚へ戻しながら答えた。
「少なくとも、あたしが診てきた魔獣毒はそうだね。症状は種類によって違うけど、解毒魔法が効くものには共通した特徴があるんだろうさ」
「……なるほど」
「もっとも、あたしには魔力の細かい動きまでは分からないよ。毒を受けた患者がどうなるか、どんな魔法が効くか。長年やってきて覚えたのは、そういうことだからね」
私は頷きながら、ノートへ書き込んだ。
マルタさんが知っているのは、実際に患者を診てきた経験だ。魔獣の種類によって現れる症状が違うことも、解毒魔法を使えば回復することも、何度も患者を治療する中で覚えてきたのだろう。一方、私には魔法式の構造を調べることができる。もし、マルタさんの経験と私の知識を組み合わせれば、これまで詳しく分かっていなかったことも、少しずつ明らかにできるかもしれない。
そんなことを考えていると、再び治療所の扉が開いた。
「すみません! 診てもらえませんか!」
入ってきたのは、三十歳くらいの女性だった。その肩には、顔色の悪い男性がもたれかかっている。男性は片手で腹を押さえ、苦しそうに身体を丸めていた。
「どうしたんだい?」
「夫が、昼に食べた野草に当たったみたいなんです。さっきからお腹が痛いって言って、何度も吐いていて……」
マルタさんはすぐに男性を寝台へ案内した。
「リカ、手を貸しておくれ」
「はい!」
私は男性が横になるのを手伝い、呼吸や意識の状態を確認した。男性は質問には答えられるものの、顔色は悪く、額には汗が浮かんでいる。腹部の痛みが強いらしく、時折苦しそうに顔をしかめ、身体を丸めようとしていた。
「何を食べたんだい?」
「森で採ってきた野草です。いつも食べてるやつと同じだと思ったんですけど……」
女性はそう言いながら、持ってきた布包みを開いた。
中には、細長い葉と白い根を持つ植物が何本か入っていた。マルタさんはそれを手に取り、葉の付け根や根の形を丁寧に確かめる。やがて、その表情が少し険しくなった。
「……こいつは食べちゃいけない草だね」
「えっ?」
「よく似た食用の野草があるんだけど、こっちは違う。葉の根元を見てごらん。形が少し違うだろう?」
女性は青ざめた。
「そんな……いつもと同じものだと思って……」
「責めてるわけじゃないよ。似てるから間違える人はいるんだ。今は食べた量と時間を教えておくれ」
マルタさんは落ち着いた声で質問を続けた。男性が野草を食べたのは昼前で、調理したものを一皿ほど食べたらしい。女性は別の料理を食べていたため、今のところ症状はないという。
マルタさんは男性の腹部の状態や呼吸、意識を確認し、私へ向き直った。
「リカ、魔力の状態を調べてみな」
「はい」
私は男性の身体へ慎重に魔力を流した。
先ほどの冒険者の時と同じように、魔核から全身へ巡る魔力の状態を確かめる。けれど、今度は異常が見つからなかった。魔力の循環は正常で、外部から入り込んだ異質な魔力も存在しない。身体が苦しんでいることは確かなのに、魔力の流れには目立った変化が見られなかった。
「……魔力には、何の異常もありません」
「そうだろうね。これは魔獣の毒とは違うからね」
マルタさんは頷いた。
私はもう一度、男性の状態を確かめた。腹部には不調を示す変化が見られるものの、先ほどの冒険者のように、取り除くべき異質な魔力は存在しなかった。
「……解毒魔法は、効かないんですか?」
「普通は効かないよ。植物の毒は、魔獣の毒とは違うんだ」
私は少し迷った。それでも、術式が何を対象にするのか確かめてみたくなり、マルタさんに尋ねた。
「魔法を試してみてもいいですか? 患者さんの状態を悪くしない範囲で、術式が反応するかだけ確認したいんです」
マルタさんは私の顔を見た。
「何を確かめたいんだい?」
「解毒魔法が、どんな異常を対象にしているのかです。さっきの魔獣毒では、患者さんの魔力にまとわりついていた異質なものを取り除いていました。でも、この人にはそれが見つからないので……」
「なるほどね。患者さんに負担をかけないなら、やってみな。ただし、あたしが止めたらすぐにやめるんだよ」
「はい」
私は男性に説明し、了承を得てから、解毒魔法の術式を慎重に展開した。
魔法式は問題なく構築できた。魔力の流れにも乱れはなく、術式そのものは正常に働いている。けれど、対象となる異常が見つからなかった。
先ほどの冒険者では、術式が異質な魔力を捉え、取り除こうとしていた。ところが、今度はその反応がまったくない。どれだけ慎重に探っても、魔法が対象として認識するものが存在しなかった。
私はすぐに術式を解除した。
「……駄目です。魔法は正常に働いているのに、取り除くものが見つかりません」
「そうだろうね」
マルタさんは落ち着いて答えると、男性の状態を改めて確認した。
「リカ、今はこっちを手伝っておくれ。考えるのは後でもできるよ」
「……はい!」
私は慌てて頷いた。
そうだった。今、目の前には苦しんでいる患者がいる。魔法の仕組みを調べることに夢中になって、肝心の治療を忘れてはいけない。
マルタさんは食べた植物の種類と量、症状が現れるまでの時間を確認しながら、男性の状態を慎重に見守っていた。吐き気や腹痛が続いているため、水分が不足しないよう注意し、呼吸や意識に変化がないかを繰り返し確かめている。
「……マルタさん。毒そのものを取り除けないのに、何ができるんでしょう?」
私が尋ねると、マルタさんは男性の様子を確認しながら答えた。
「毒を消せないからって、何もできないわけじゃないよ。まずは、今この人が何に苦しんでいるのかを見るんだ」
「……腹痛と、吐き気ですね」
「ああ。それから、何度も吐けば身体の水が減る。弱った身体では、余計に具合が悪くなることもある。だから、苦しさを和らげながら、身体が持ち直すまで支えてやるのさ」
私は男性の顔を見た。先ほどから何度も吐いているため、すっかり疲れ切っている。今は水を飲もうとしても、また吐いてしまうかもしれない。
マルタさんは無理に飲ませることはせず、吐き気が落ち着くのを待ちながら、口を湿らせたり、少しずつ水分を取れるか確かめたりしていた。さらに、症状に応じて使える薬を慎重に選び、患者の負担を減らす処置を進めていく。
「でも……それで毒が消えるわけじゃないですよね?」
「そうだね。少なくとも、あたしが今使ってる薬は、毒そのものを消してくれるわけじゃない」
「それなら、どうして……」
「身体にはね、自分で元気になろうとする力があるんだよ」
マルタさんはそう言って、男性の額に浮かんだ汗を拭った。
「小さな傷なら、放っておいても少しずつ塞がるだろう? 腹を壊したって、何日かすれば元気になることもある。身体は、悪くなったところを元へ戻そうとするんだ。もちろん、何でも自然に治るわけじゃないけどね」
私はその言葉を聞いて、少し考え込んだ。
確かに、傷ついた身体が自然に回復することは知っている。回復魔法は、その働きを魔力によって補い、傷ついた組織を短い時間で修復するものだ。だからこそ、魔法を使わなくても、時間をかければ治る怪我があることも理解していた。
けれど、私はそれを治療の中心に置いて考えたことがなかった。原因を取り除き、傷ついた部分を修復する。それが治療だと思っていたのだ。
「……身体が自分で回復するまで、助けてあげるんですね」
「そういうことさ。苦しくて眠れないなら、少しでも休めるようにしてやる。水が足りなくなりそうなら、飲めるようになるまで気を配る。身体が弱りきってしまわないように、支えてやるんだよ」
マルタさんは穏やかに続けた。
「治療師が病気を全部追い払ってるわけじゃない。患者の身体が頑張ってる間、手を貸してるだけのことも多いんだ」
私はその言葉を、忘れないように心へ刻んだ。
原因を取り除けなくても、症状を和らげることには意味がある。そして、身体が自分で回復しようとする働きを助けることも、立派な治療なのだ。
男性の症状はすぐには治まらなかった。けれど、時間が経つにつれて吐き気の間隔が少しずつ長くなり、腹痛も最初よりは和らいできたようだった。マルタさんは引き続き状態を確認する必要があると判断し、男性をしばらく治療所で休ませることにした。
私は寝台の傍らで、その様子を見守っていた。
先ほどの冒険者は、解毒魔法を使うことで比較的短い時間で症状が改善した。けれど、今度の男性には同じことができない。それでも、何もできないわけではなかった。
私は今日、もう一つ大切なことを学んだ気がした。
◇
男性の容体が落ち着いた頃には、午後もだいぶ過ぎていた。
マルタさんは患者の妻へ今後の注意点を説明し、症状が再び強くなったり、意識や呼吸に異常が現れたりした場合には、すぐに知らせるよう伝えた。男性はまだ身体を起こすだけでも辛そうだったため、その日は無理に帰宅させず、治療所で休ませながら様子を見ることになった。
その後、私たちは使った器具を片づけ、治療所の中を整えた。私は作業をしながらも、二人の患者のことを考え続けていた。
魔獣に噛まれた冒険者と、有毒植物を食べた男性。どちらも毒を受けた患者だったけれど、一方には解毒魔法が効き、もう一方には効かなかった。
「……マルタさん」
「何だい?」
「魔獣の毒も、植物の毒も、同じ『毒』って呼びますよね?」
「ああ、そうだね」
「でも、身体の中で起きていることは、全然違うんですね」
マルタさんは作業の手を止め、私へ向き直った。
「そうだね。昔から、魔獣の毒には解毒魔法が効くけど、植物や普通の動物の毒には効かないことが多いんだよ」
「……普通の動物の毒も、ですか?」
「ああ。毒を持つ蛇や虫なんかもいるだろう? ああいうものの毒は、魔獣の毒とは違うんだ。種類によって症状も違うし、対処の仕方も変わる」
私は頷いた。
魔獣と普通の動物は、見た目が似ている場合もある。けれど、魔獣には魔核があり、身体の働きにも魔力が深く関わっている。その違いが、毒の性質にも現れているのだろうか。
「……少し、分かった気がします」
「何がだい?」
「解毒魔法が、どういう魔法なのかです」
私はノートを開き、先ほどの冒険者の状態を思い出しながら説明を始めた。
「魔獣の毒を受けた人には、本人の魔力とは違うものが身体の中に広がっていました。それが魔力の流れを乱していて、解毒魔法はその異常を取り除いていたんです」
「ふむ」
「でも、植物の毒を受けた人には、そういう異常がありませんでした。魔力の流れは正常だったんです。だから、解毒魔法を使っても、取り除くものが見つからなかったんだと思います」
マルタさんは興味深そうに私の話を聞いていた。
「つまり、どういうことだい?」
「解毒魔法は、毒なら何でも消してくれる魔法じゃないんです。魔力に作用する異常を取り除くための魔法なんだと思います」
口に出してみると、頭の中で考えていたことが、少しずつ整理されていくのを感じた。
解毒魔法という名前から、私は毒というものを一つの種類として考えていた。けれど、実際には違う。魔獣の毒は、魔力の働きを乱す特殊な異常だ。呪いに近い性質を持っていて、身体の魔力循環や魔核の働きに干渉する。だから、解毒魔法によって異質な魔力を取り除けば、その影響を解除できる。
一方、植物や普通の動物の毒は、身体に取り込まれた物質そのものが害を及ぼす。魔力の流れが正常でも、身体の働きが妨げられることはある。そうした毒に対して、魔力の異常を取り除く術式を使っても、原因そのものには何の影響も与えられないのだ。
「……なるほどねぇ」
マルタさんは感心したように呟いた。
「あたしは、効く毒と効かない毒があるとしか知らなかったけど、あんたにはそう見えるのかい」
「はい。魔法式の構造から考えると、そういうことだと思います」
「面白いねぇ。あたしには難しい話だけど、長年診てきた患者の違いに、ちゃんと理由があるってことなんだろうね」
私は少し嬉しくなった。
マルタさんが経験から知っていることと、私が魔法理論から考えたことが、一つにつながった気がしたからだ。
ただ、同時に新しい疑問も浮かんできた。
「でも、それなら……自然の毒には、どうして解毒魔法みたいなものがないんでしょう?」
「さあねぇ。あたしに聞かれても分からないよ」
マルタさんは肩をすくめた。
「ただ、自然の毒にも色々あるからね。腹を壊すものもあれば、手足が痺れるものもある。呼吸が苦しくなるものだってあるんだ。全部を同じ方法で治せるとは限らないだろう?」
「……そうですね」
私は考え込んだ。
自然の毒は、身体に作用する物質だ。ならば、毒の種類によって、身体のどこに影響が現れるのかも違うはずだ。ある毒は胃や腸に、別の毒は神経や筋肉に作用するのかもしれない。
そう考えると、自然毒を一つの魔法で取り除くことが難しいのも、少し理解できる気がした。魔法式は、何を対象にして、どのように働きかけるのかを定める必要がある。対象の性質がまったく違うのであれば、同じ術式で対応できないことも不思議ではない。
「だったら、自然の毒にも、それぞれに合った治療が必要なんですね」
「そういうことさ。毒だって一つじゃないんだからね」
マルタさんは頷いた。
「それに、毒そのものを取り除けなくても、患者を助けられないとは限らないよ。身体が回復するまで支えてやることも、治療の一つだからね」
私はその言葉を聞いて、今日の患者のことを思い出した。
マルタさんは解毒魔法を使わなかった。けれど、何もしなかったわけではない。患者の状態を確かめ、苦しさを和らげる処置を行い、身体が回復するまで支えていた。原因を取り除けないからといって、治療を諦めることはなかったのだ。
「……原因を取り除くことだけが、治療じゃないんですね」
「そういうことさ。もちろん、原因を取り除けるなら、それに越したことはない。でも、できない時に何もせず見ているだけじゃ、治療師とは言えないだろう?」
マルタさんはそう言って笑った。
私はその言葉をノートへ書き留めた。
今日学んだことは、単に毒の種類が二つあるというだけではなかった。治療には、原因を取り除く方法と、患者の身体が回復するまで支える方法がある。どちらか一方だけを知っていれば十分というわけではなく、患者の状態に応じて、何が必要なのかを考えなければならないのだ。
◇
夕方、森の家へ戻ると、タクマは居間で剣の手入れをしていた。
「おかえり。今日はどうだった?」
「ただいま! 今日はね、すっごく面白いことが分かったんだよ!」
「……昨日も同じこと言ってなかったか?」
「昨日とは違うことだもん!」
私がそう答えると、タクマは笑いながら剣を鞘へ収めた。
「はいはい。じゃあ、聞かせてもらおうか」
私は椅子へ腰を下ろし、今日の出来事を順番に話し始めた。
最初に薬草の勉強をしたこと。薬と毒は、使い方や量によって境界が変わる場合があること。そして、魔獣の毒を受けた冒険者と、有毒植物を食べた男性が運び込まれてきたこと。
タクマは時折質問を挟みながら、私の話を聞いてくれた。彼自身も以前、魔獣に噛まれた傷から感染症を起こしたばかりだからだろう。治療の話になると、以前よりも真剣に耳を傾けてくれるようになった気がする。
「なるほどな。つまり、魔獣の毒は魔法で起きる異常で、植物の毒は普通の物質ってことか?」
「うん。少なくとも、今日調べた限りではそういう違いがあるみたい」
「そりゃ、同じ魔法が効かないのも分かる気がするな」
「そうなの! 私、今まで解毒魔法って、毒なら何でも取り除けるものだと思ってたんだ。でも、実際には魔力に作用する異常を取り除く術式だったんだよ」
私はノートを開き、今日描いた魔力の流れの図を見せた。
魔獣毒を受けた患者の身体には、本人の魔力とは違うものが入り込み、正常な循環を妨げていた。その異常を解毒魔法が取り除くことで、症状が改善した。一方、植物の毒を受けた患者には同じような異常がなく、魔法は正常に発動していても治療の効果が現れなかった。
「……こうして考えると、魔法って結構理屈っぽいんだな」
「そうだよ? 魔法式にはちゃんと構造があるんだから」
「いや、それは知ってるけどさ。解毒魔法って名前だから、俺も何となく毒なら何でも治せると思ってたよ」
「でしょ?」
私は嬉しくなって頷いた。
タクマも同じように考えていたらしい。けれど、彼は少し考えてから続けた。
「まあ、俺のいた世界でも、毒って色々あるからな。植物の毒もあれば、蛇とか虫の毒もあるし、種類によって身体への作用が違うって聞いたことがある」
「そうなの?」
「ああ。でも、俺も詳しいことは知らないぞ。学校で習ったり、テレビで見たりした程度だからな」
タクマはそう前置きしてから、少し考え込んだ。
「確か、神経に作用する毒とか、血液に影響する毒とか、色々あるんだったと思う。だから、何でも同じ薬で治せるわけじゃないんじゃないかな」
「……なるほど」
私は頷いた。
タクマの話は、マルタさんが教えてくれたこととも一致している。自然の毒には様々な種類があり、それぞれ身体への作用が違う。だから、治療方法も異なるのだ。
「それとね、今日はもう一つ、大事なことを教えてもらったんだ」
「何だ?」
「毒そのものを取り除けなくても、患者さんを助ける方法はあるってこと」
私は有毒植物を食べた男性の治療について説明した。
解毒魔法は効かなかった。けれど、マルタさんは患者の腹痛や吐き気を和らげ、水分が不足しないように気を配りながら、身体が回復するのを助けていた。患者が苦しんでいる症状を一つずつ確かめ、その負担を減らすことで、身体が持ち直すまでの時間を支えていたのだ。
「マルタさんがね、身体には自分で元気になろうとする力があるって言ってたんだ。だから、原因を取り除けなくても、身体が回復するまで支えてあげることができるんだって」
タクマは頷いた。
「ああ、対症療法ってやつだな」
「……たいしょう、りょうほう?」
聞き慣れない言葉に、私は首を傾げた。
「俺のいた世界で使う言葉だよ。病気の原因そのものを治すんじゃなくて、今出ている症状を和らげる治療のこと」
「……症状を、和らげる?」
「ああ。例えば、風邪をひいた時に熱を下げる薬を飲んだり、咳を抑える薬を使ったりするだろ? あれは病気の原因を直接消してるわけじゃない。でも、症状が楽になれば眠れるし、食事も取りやすくなる。身体が回復するまでの負担を減らせるんだ」
私は目を見開いた。
「……それ、今日マルタさんがやってたことだ!」
「だろうな。経験のある治療師なら、普通にやってることなんだと思うよ」
「対症療法……」
私はその言葉を、ゆっくりと繰り返した。
原因を取り除く治療と、症状を和らげる治療。どちらも患者を助けるための方法なのに、私はこれまで、前者のことばかり考えていた。
魔法で傷を治す。毒を取り除く。異常な状態を元へ戻す。
それが治療だと思っていたのだ。
けれど、身体には自分で回復しようとする働きがある。例えば、小さな傷なら時間が経てば自然に塞がるし、軽い病気なら十分に休むことで元気になることもある。もちろん、放っておいてはいけない病気もあるけれど、身体が本来持っている回復する力を助けることには、大きな意味がある。
「……ねえ、タクマ」
「ん?」
「それって、回復魔法にも応用できるのかな?」
「どういうことだ?」
「例えば、自然の毒が身体のどこに作用しているのか分かったら、その部分の負担を減らすことはできるかもしれないでしょ? 毒そのものを取り除けなくても、傷ついた組織を修復したり、身体が回復するのを助けたりすることはできるかもしれない」
タクマは少し考えた。
「可能性はあるんじゃないか? ただ、毒そのものが残ってたら、また悪くなるかもしれないけどな」
「うん。だから、何を治して、何を残しているのかをちゃんと理解しないといけないんだと思う」
私はノートへ目を落とした。
例えば、毒によって身体の組織が傷ついたとする。その傷ついた部分を回復魔法で修復することは、きっとできるだろう。けれど、毒そのものが身体に残っていれば、修復した組織が再び傷つく可能性がある。それでは、根本的な治療にはならない。
しかし、だからといって、組織を修復することに意味がないわけではない。身体が自分で毒を処理し、回復するまでの間、傷ついた部分を支えることができれば、患者の負担を減らせるかもしれない。場合によっては、それが命を救うことにつながる可能性だってある。
ただし、そのためには、どのような異常が起きているのかを正確に把握する必要がある。傷ついた組織を修復することが本当に患者の助けになるのか、それとも原因が残っているために別の問題を引き起こしてしまうのか。そうしたことを考えずに魔法を使うのは、以前の私と同じだ。
「……なるほど。原因を治すことと、症状を和らげることは、別々に考えた方がいいんだね」
「そういうことなんだろうな」
タクマは頷いた。
「俺も医学の専門家じゃないから詳しいことは分からないけど、少なくとも、原因が分からないから何もできないってわけじゃないと思うよ」
私はその言葉を聞いて、少し嬉しくなった。
今日マルタさんが教えてくれたことと、タクマの知っている言葉が、一つにつながった気がしたからだ。
「……対症療法」
私はもう一度、その言葉を口にした。
短い言葉だったけれど、そこには今日学んだ大切な考え方が詰まっているように思えた。
◇
夕食を終えると、私は机に向かい、今日のノートを整理し始めた。
まず、魔獣毒について。
『魔獣毒:魔力に干渉する異常。解毒魔法によって解除可能』
次に、自然毒について。
『自然毒:身体に作用する物質。通常の解毒魔法では除去できない。種類に応じた治療が必要』
私はそこまで書いてから、少し考えた。
今日の二人の患者は、どちらも毒によって苦しんでいた。けれど、身体の中で起きていたことは違っていた。魔獣毒の患者には解毒魔法が必要で、自然毒の患者には別の処置が必要だった。どちらも、正しく原因を理解しなければ、適切な治療を選ぶことはできない。
ただし、今日学んだことはそれだけではない。
原因が分からない場合や、原因そのものを取り除けない場合でも、患者を助ける方法はある。
私はノートに、新しい項目を書き加えた。
『対症療法:病気や毒の原因そのものではなく、現れている症状を和らげる治療。身体が回復するまでの負担を減らす』
書き終えてから、しばらくその言葉を見つめた。
身体には、自分で元の状態へ戻ろうとする働きがある。
私の回復魔法は、その働きを魔力によって補い、傷ついた組織を短い時間で修復することができる。けれど、身体が本来持っている回復する力について、私はこれまであまり意識してこなかった。
魔法で治せるなら、それでいい。
そんなふうに考えていたのかもしれない。
しかし、魔法で原因を取り除けない時でも、患者の身体が回復するまで支えることはできる。苦しさを和らげ、必要な水分や休息を確保し、身体が弱りきらないように助ける。もちろん、患者自身の力だけでは回復できない場合もあるだろうし、症状を和らげるだけでは危険な病気もあるはずだ。だからこそ、原因を調べることと、今起きている症状に対応することの両方が必要になる。
私はノートの最後に、一行を書き加えた。
『治療する前に、何が身体を傷つけているのかを知ること。そして、原因を取り除けなくても、患者を助ける方法を考えること』
昨日書いた言葉と、よく似ている。
『治療の前に、患者を知ること』
その意味が、今日になって少し深く理解できた気がした。
患者を知るということは、単に症状を調べるだけではない。どうしてその症状が現れたのか。身体の中で何が起きているのか。そして、何をすれば回復へ向かうのか。そうしたことを一つずつ確かめていく必要があるのだ。
私はノートを閉じ、椅子の背にもたれた。
魔法学院で学んできた知識は、決して無駄ではなかった。むしろ、今まで覚えてきた術式の構造や魔力の性質が、治療師としての勉強に役立っている。けれど、それだけでは足りない。
マルタさんが長年の経験から身につけてきた知識には、私の知らないことがたくさんある。今日だって、あの人が植物の種類を見分けられなければ、患者が何によって苦しんでいるのか分からなかったかもしれない。そして、毒そのものを取り除けなくても、患者の身体が回復するまで支えるという考え方も、私はあの人から教わった。
さらに、タクマの故郷には、私たちの知らない考え方や言葉がある。対症療法という言葉も、その一つだった。
私には魔法がある。マルタさんには経験がある。そして、タクマには別の世界で暮らしてきた知識がある。
その三つを組み合わせれば、もっと多くのことができるようになるかもしれなかった。
「……楽しみだなぁ」
思わず呟くと、背後からタクマの声がした。
「何が?」
「明日の勉強!」
「……本当に好きだな、勉強」
「だって、知らないことがいっぱいあるんだもん!」
私は振り返り、笑顔で答えた。タクマは呆れたように笑っていたけれど、その表情はどこか嬉しそうだった。
私はもう一度ノートへ目を向けた。
今日、私は二つの毒について学んだ。魔獣の毒と、自然の毒。同じ名前で呼ばれていても、その正体は違い、身体に及ぼす影響も、必要な治療も異なる。
そして、治療には原因を取り除く方法だけでなく、患者の身体が回復するまで支える方法もある。
魔法で異常を取り除くことができれば、それは大きな助けになる。けれど、魔法だけで全てが解決するわけではない。患者の身体がどのような状態にあり、何を必要としているのかを理解しなければ、本当に役立つ治療を選ぶことはできないのだ。
それは、昨日マルタさんから教わったことともつながっている。
治療の前に、患者を知ること。
その言葉は、私が思っていた以上に深い意味を持っているらしい。
まだ分からないことは山ほどある。けれど、その一つひとつを調べていくことが、今は楽しくて仕方がなかった。魔法学院にいた頃も新しい術式を学ぶのは好きだったけれど、今はそれとは少し違う。覚えた知識が、目の前の誰かを助けることにつながっていく。その実感が、私をますます勉強へ向かわせているのだと思う。
私はノートを大切に閉じ、明日のために本棚から薬草の本を一冊取り出した。
「……リカ?」
「ちょっとだけ! 本当にちょっとだけだから!」
タクマが何か言う前にそう答えると、彼はとうとう声を上げて笑った。
どうやら、今夜も少しだけ勉強の時間が必要になりそうだった。




