第62話 治療師の弟子
台所から、規則正しい包丁の音が聞こえてくる。
野菜を刻む小気味よい音に混じって、鍋の中でスープが煮える柔らかな音がする。焼きたてのパンの香りも漂い始め、私は机に広げていた本から顔を上げた。窓の外には朝の光が差し込み、森の木々を抜けてきた風が、薄いカーテンを静かに揺らしている。
いつもと変わらない、私たちの朝だった。
けれど、その当たり前の光景が戻ってきたことを、私は以前よりもずっと嬉しく感じていた。
タクマが魔獣の牙で指を傷つけてから、十日ほどが過ぎている。高熱を出して寝込んでいたのは数日間だったけれど、熱が下がってからもしばらくは身体を休める必要があり、彼はマルタさんの指示に従って冒険者としての活動を控えていた。
傷口の赤みや腫れはすっかり消え、昨日の診察では、ようやく普段どおりの生活に戻ってよいと言われた。もちろん、いきなり激しい運動をするのは避けるよう注意されていたけれど、本人はもう十分に元気で、こうして朝食を作る姿にも以前と変わったところはない。
「リカ、朝飯できたぞ」
「はーい!」
私は本を閉じ、食卓へ向かった。
並べられていたのは、野菜と卵の入ったスープに、軽く焼いたパン、それから薄切りの肉を添えた皿だった。どれも特別な料理ではないけれど、野菜の切り方も火の通し方も丁寧で、温かい湯気からは食欲を誘う香りが立ち上っている。
「やっぱり、タクマのご飯は美味しいね」
「まだ食べてないだろ」
「匂いで分かるもん」
「そりゃどうも」
タクマは苦笑しながら向かいの椅子へ腰を下ろした。私はパンをちぎってスープに浸し、柔らかくなったところを口へ運ぶ。野菜の甘みが溶け込んだ温かな味が広がり、思わず頬が緩んだ。
先日、彼が寝込んでいる間は、私も何度か料理を作った。もちろん、食べられないようなものを作ったわけではない。けれど、材料を切って鍋に入れれば料理になるというほど、世の中は単純ではないらしい。火加減を間違えて野菜を煮崩してしまったり、味を整えようとして調味料を入れすぎたりと、なかなか思いどおりにはいかなかった。
タクマはどれも文句を言わずに食べてくれたけれど、だからこそ、こうして美味しい朝食を用意してもらえるありがたさが身に染みる。
「そういえば、今日からマルタさんのところに行くんだろ?」
「うん! 昨日、改めてお願いしてきたよ。しばらくは週に何日か通わせてもらうつもり」
「そっか。俺も今日はハーケンさんのところへ顔を出してくるかな。身体が鈍ってないか確かめたいし」
「無理しちゃ駄目だよ?」
「分かってるって。今日は軽く身体を動かすくらいにしておくよ」
タクマはそう言って笑ったけれど、私はつい、彼の右手へ目を向けてしまった。
今では指を動かしても痛みはなく、見た目にも怪我をした痕跡はほとんど残っていない。それでも、あの指先が赤く腫れ上がり、高い熱に苦しんでいた時のことは、まだ鮮明に覚えている。
私の魔法は、傷ついた組織を正しく修復していた。異物も取り除き、傷口は綺麗に塞がっていた。それなのに、タクマの身体の中では別の問題が起きていたのだ。
もし、あの時マルタさんに助けてもらえなかったら。
考えても仕方のないことだと分かっているけれど、その可能性を思い浮かべるだけで、胸の奥が少し冷たくなる。
「……本当に、軽くだからね?」
「はいはい。リカ先生の言うことを聞いておきます」
「もう! 真面目に言ってるんだから」
「俺も真面目に答えてるよ。ちゃんと気をつけるから、心配するな」
タクマは穏やかに笑い、私の頭を軽く撫でた。その手の温かさに、ようやく肩の力が抜ける。
心配しすぎなのかもしれない。それでも、大切な人が苦しむ姿を見てしまった後では、以前とまったく同じ気持ちでいることは難しかった。
朝食を終えると、私は今日持っていくものを準備し始めた。
回復魔法の専門書が三冊。人体の構造について書かれた本が二冊。それから、これまで自分でまとめてきた術式の研究ノートと、筆記具。さらに、分からないことがあった時にすぐ調べられるよう、魔法学院時代に使っていた参考書も一冊加える。
机の上に積み上げてみると、思っていたよりも立派な山ができあがった。
「……リカ、それ全部持っていくのか?」
食器を片づけていたタクマが、私の荷物を見て首を傾げた。
「うん。分からないことがあったら、すぐ調べられるように」
「いや、まずはマルタさんの話を聞くところからじゃないか?」
「もちろん聞くよ? でも、途中で気になることが出てくるかもしれないし、関連する術式を調べたくなるかもしれないでしょ?」
「それなら、気になったことをメモして、帰ってから調べればいいんじゃないか?」
私は積み上げた本とタクマの顔を交互に見た。
確かに、言われてみればそのとおりだった。
今日は魔法学院の講義を受けに行くわけではない。マルタさんの仕事を見せてもらい、実際の患者を前にして、治療というものを学ぶために行くのだ。大量の本を持ち込んだところで、読む時間があるとは限らないし、むしろ邪魔になってしまうかもしれない。
「……それもそうだね」
「まあ、気合いが入るのは分かるけどな」
タクマは笑いながら、積み上げた本の一冊を手に取った。
「俺もボーマン先生に習い始めた頃は、早く新しい技を教えてもらいたくて仕方なかったから」
「そうなの?」
「ああ。でも、最初は基本の確認ばっかりだったよ。立ち方とか、足の運び方とか、間合いの取り方とか。剣を振る前に考えることが山ほどあった」
タクマは少し懐かしそうに笑った。
「今なら、その意味がよく分かるんだけどな」
私はしばらく考えてから、積み上げた本を元の棚へ戻した。
結局、持っていくことにしたのは新しいノートと筆記具、それから小さな参考書が一冊だけだった。
「よし。これで大丈夫!」
「ずいぶん軽くなったな」
「帰ってから、いっぱい調べることにする!」
「……そっちは減らないんだな」
タクマの呟きに、私は笑って答えた。
◇
マルタさんの治療所は、ノヴァグラードの住宅街にある小さな建物だった。
冒険者ギルドから歩いてしばらくの場所にあり、表には薬草を描いた木の看板が掛けられている。建物自体はそれほど新しくないけれど、入口や窓枠は丁寧に手入れされていて、長い間この街の人々に利用されてきたことがうかがえた。
中へ入ると、乾燥させた薬草の独特な香りが鼻をくすぐった。
入口近くには患者が待つための長椅子が置かれ、その奥に診察用の寝台が二つ並んでいる。壁際には薬草や包帯、薬瓶などを収めた棚があり、反対側には水を入れた大きな容器と、布や器具を洗うための作業台が設けられていた。
王宮の医務室や魔法学院の研究室と比べれば、設備はずっと質素だった。けれど、必要なものが使いやすい場所に配置されていて、道具の置き方にも無駄がない。長年の経験を通じて、少しずつ整えられてきた場所なのだろう。
「おはようございます!」
声をかけると、奥からマルタさんが顔を出した。
「おや、来たね。ずいぶん早いじゃないか」
「はい! 今日からよろしくお願いします!」
「そんなに気合いを入れなくてもいいよ。ここは魔法学院じゃないんだからね」
マルタさんは少し呆れたように笑うと、作業台の方を指さした。
「じゃあ、まずはそこの水を替えて、布を洗っておくれ。終わったら棚の薬を並べ直してもらおうか」
「はい!」
私は元気よく返事をしてから、ふと首を傾げた。
「あの……治療の勉強は?」
「もう始まってるよ」
「……え?」
思わず聞き返すと、マルタさんは作業台の上に置かれた布を一枚持ち上げた。
「昨日、あんたの相棒を診た時にも使っただろう? 傷を洗う水も、身体に触れる布も、汚れていたら治療どころじゃなくなる。まずは使うものをきちんと整える。それも治療師の仕事さ」
「あ……なるほど」
私は納得して頷いた。
タクマの傷を処置した時、マルタさんは何度も手や器具を洗い、清潔な布を使っていた。あの時は膿を取り除く処置や、傷口の状態を確かめることに気を取られていたけれど、その前後に行っていた準備にも、きちんと意味があったのだ。
「水は私の魔法で出せますけど、それでもいいですか?」
「構わないよ。ただし、綺麗な水を出せることと、道具を綺麗に保てることは別だからね。洗った後の扱いにも気をつけるんだよ」
「はい!」
私は袖をまくり、早速作業に取りかかった。
魔法で水を用意し、使い終わった布を洗う。汚れたものと洗い終えたものを混ぜないようにしながら、マルタさんの指示に従って道具を整理していく。洗浄の必要な器具にはそれぞれ適した扱い方があり、布も用途によって分けて保管されていた。
作業そのものは難しくない。けれど、何をどの順番で使い、どこへ戻すのかを覚えるだけでも、意外と考えることが多かった。
私は普段、魔法を使う時には術式の構造や魔力の流れを意識している。ところが、ここでは魔法式より先に、布の置き場所や水の扱い方を覚えなければならないらしい。
少し不思議な気分だったけれど、嫌ではなかった。
知らないことを覚えるのは、昔から好きだったからだ。
◇
最初の患者が訪れたのは、午前の仕事が一段落した頃だった。
四十歳くらいの男性で、数日前から熱と咳が続いているらしい。顔色はあまりよくなく、時折口元を布で覆いながら咳き込んでいた。
マルタさんは男性を椅子へ案内すると、私に少し離れた場所で見学するよう指示した。
「この子は治療を勉強しているところでね。診察を見せてもらっても構わないかい?」
「ああ、別に構わないよ」
「ありがとうございます」
私は男性へ頭を下げ、ノートを開いた。
マルタさんは、すぐに薬を取り出したり魔法を使ったりはしなかった。まず熱が出始めた時期を尋ね、咳の程度や食事の量、水分が取れているかどうかを確かめていく。さらに、息苦しさがないか、胸に痛みがないかといったことまで質問していた。
「夜になると咳がひどくなるんだよ。熱も上がったり下がったりでね」
「そうかい。水は飲めてるかい?」
「ああ。食欲はあんまりないけど、水くらいなら」
「じゃあ、今度は家のことを聞こうか。同じように具合の悪い人はいないかい?」
「家族かい? そういや、女房も少し前に咳をしてたな。もう治ったみたいだけど」
私はそこで顔を上げた。
患者本人の症状を調べることは分かる。けれど、どうして家族のことまで聞くのだろう。最初は、家で看病してくれる人がいるかを確かめているのかと思ったけれど、どうやらそうではないらしい。
マルタさんは男性の呼吸や喉の状態を確認し、胸や背中に耳を当てて音を聞いてから、しばらく休養するよう伝えた。水分を十分に取り、息苦しさや高熱が強くなるようなら、すぐに再診するようにとも説明している。
診察を終えた男性が帰ると、私は早速質問した。
「マルタさん。さっき、家族のことまで聞いていましたよね?」
「ああ。気になったかい?」
「はい。患者さん本人の症状とは、どういう関係があるんですか?」
「同じ家で何人も具合が悪くなるなら、共通の原因があるかもしれないだろう? 同じものを食べて腹を壊すこともあるし、同じ水を飲んで熱を出すこともある。咳や熱の出る病気なんかは、家族の間で順番に広がることもあるね」
「……病気が、広がる?」
私は思わず聞き返した。
マルタさんは頷いた。
「昔からそういう病気はあるよ。だから、熱のある患者を診る時は、周りに同じ症状の人がいないか確かめるんだ。もちろん、家族が具合を悪くしているからって、必ず同じ病気とは限らないけどね」
私は先日、タクマが話してくれた細菌やウイルスというものを思い出した。
タクマの故郷では、目に見えないほど小さな生き物や、それに似たものが病気の原因になることが知られているらしい。彼自身も詳しい仕組みまでは分からないと言っていたけれど、そうしたものが傷口から身体に入り込んだり、人から人へ広がったりすることがあるのだという。
もし、それが本当なら、マルタさんが経験から知っている病気の広がり方にも説明がつくのかもしれない。
ただ、私にはまだ、それを確かめる方法が分からなかった。
「……さっきの患者さんには、回復魔法を使わないんですか?」
私が尋ねると、マルタさんは少し笑った。
「何を治すつもりだい?」
「え?」
「熱かい? 咳かい? それとも、まだ見つかっていない傷でも探すのかい?」
私は言葉に詰まった。
確かに、あの男性には目立った外傷がなかった。魔力で身体の状態を調べれば、何か異常が見つかる可能性はある。けれど、今の私には、それが病気の原因なのか、病気によって生じた変化なのかを判断できない。
「……分かりません」
「だったら、まずは分かることを調べるんだよ。今すぐ命に関わる様子があるか、水を飲めているか、息は苦しくないか。そういうことを確かめて、必要な手当てを考えるのさ」
「でも、魔法を使えば楽になるかもしれませんよね?」
「もちろん、役に立つ場面もあるだろうね。でも、何に効くのか分からない魔法を使うより、休ませた方がいいこともある。使う必要がないなら、使わない。それだけのことさ」
私はゆっくりと頷いた。
魔法学院では、魔法を使って何ができるかを学んできた。傷を修復する術式なら、どこまで細かく対象を指定できるか。身体の状態を調べる魔法なら、どれほど正確に内部の構造を捉えられるか。研究の中心にあったのは、いつも魔法の性能や精度だった。
けれど、ここでは魔法を使わないという判断も、治療の一つになるらしい。
それは私にとって、少し新鮮な考え方だった。
◇
昼前になると、今度は手首の痛みを訴える患者が続けて訪れた。
最初は荷運びの仕事をしている若い男性だった。重い荷物を持ち上げた時に手首を捻ったらしく、動かすと痛みが走るという。
マルタさんは腫れや変形の有無を確かめ、指先がきちんと動くか、感覚に異常がないかを調べてから、私に魔法で状態を確認するよう指示した。
私は慎重に魔力を流し、手首の内部を探った。
骨に明らかな損傷は見られない。けれど、関節を支える組織の一部に傷みがあり、周囲にも軽い腫れが生じていた。魔力によって得られる情報を頭の中で整理し、損傷した範囲を少しずつ絞り込んでいく。
「……ここですね。筋と、その周りの組織が少し傷ついています」
「そうかい。じゃあ、その部分だけ治してみな」
「はい」
私は損傷した部分を対象に術式を組み立て、必要な範囲だけを修復した。
淡い光が手首を包み、傷ついた組織が元の状態へ戻っていく。魔力の流れに不自然な乱れが生じていないことを確かめ、処置を終えてから男性にゆっくり指を動かしてもらうと、先ほどまでの痛みはほとんど消えているようだった。
「おお……すごいな。もう痛くないぞ!」
男性は驚いた顔で手首を見つめた。
私は少し嬉しくなったけれど、マルタさんはすぐに釘を刺した。
「痛みがなくなったからって、今日から重い荷物を持っていいわけじゃないよ。しばらくは無理をしないこと。もしまた腫れたり痛んだりしたら、診せに来るんだ」
「分かったよ。ありがとう!」
男性が帰ると、マルタさんは私へ向き直った。
「今のは上手だったね。傷ついた場所も正確に見つけられていたし、余計なところまで魔法をかけなかった」
「ありがとうございます!」
「でも、次も同じようにいくとは限らないよ」
その言葉の意味は、すぐに分かった。
次に訪れたのは、年配の女性だった。
女性も手首の痛みを訴えていたけれど、こちらは怪我をした覚えがないという。数週間ほど前から少しずつ痛むようになり、最近では朝起きた時に手首が動かしにくいこともあるらしい。
私はマルタさんの許可を得て、先ほどと同じように魔力で状態を調べた。
けれど、明確な損傷は見つからなかった。
骨に折れた部分はなく、筋や周囲の組織にも、先ほどの男性のような傷は確認できない。関節の周辺にはわずかな変化があるようにも見えたけれど、それが痛みの原因なのかどうかは分からなかった。
「……あれ?」
私は思わず首を傾げた。
もう一度、魔力の流し方を変えて調べてみる。組織の形状だけでなく、周囲の状態にも注意を向け、見落としている部分がないかを確かめた。
しかし、結果は変わらなかった。
「どうしたんだい?」
「傷ついている場所が、見つからないんです」
私が答えると、マルタさんは静かに頷いた。
「そうかい。じゃあ、あんたはどうする?」
「……もう少し詳しく調べてみます」
「それもいいね。でも、その前に患者さんの話を聞いてごらん」
私は女性へ向き直った。
マルタさんに助けてもらいながら、いつ頃から痛むのか、どんな動きをすると痛みが強くなるのか、朝と夜では違いがあるのかを尋ねていく。最初は何を聞けばよいのか分からず戸惑ったけれど、女性が話してくれる内容を一つずつ確かめるうちに、少しずつ状況が見えてきた。
痛みは毎日同じではなく、手を使う仕事を長く続けた日の翌朝に強くなることが多いらしい。また、指の動きが少しぎこちなくなることもあるという。
マルタさんは腫れや熱の有無、関節の動きなどを丁寧に確認したうえで、しばらく手首への負担を減らすよう勧めた。痛みが続く場合や腫れが強くなる場合には、改めて診察を受けるよう説明している。
結局、私は回復魔法を使わなかった。
女性が帰った後、私はしばらく考え込んでしまった。
「……同じ手首の痛みなのに、全然違うんですね」
「そうだね。痛い場所が同じでも、原因まで同じとは限らない。怪我をしていることもあれば、長い間の負担が関係していることもあるし、別の病気が隠れていることだってある」
「でも、魔法で調べても分からないことがあるんですね」
「あるさ。あんたの魔法は大したものだけど、何を探しているのか分からなきゃ、見つけようもないだろう?」
私はその言葉を聞いて、はっとした。
確かに、私が使っている観察用の魔法式は、組織の損傷や形状の変化を調べるために作られている。だから、そうした異常を見つけることは得意でも、それ以外の原因まで自動的に教えてくれるわけではない。
例えば、先ほどの男性には、傷ついた組織という明確な異常があった。私はそれを見つけ、元の状態へ修復した。けれど、年配の女性の場合は、そもそも何が痛みを引き起こしているのか分からない。仮に何らかの変化を見つけたとしても、それが本当に治療すべきものなのか判断できなければ、安易に手を加えるわけにはいかなかった。
私は魔法で身体の内部を見ているつもりだった。
けれど、実際には、自分が調べようとしているものしか見えていなかったのかもしれない。
「痛いところを見つけるのと、痛くなった理由を見つけるのは、別の仕事なんだよ」
マルタさんはそう言って、診察に使った道具を片づけ始めた。
私はその言葉を忘れないように、ノートへ書き留めた。
◇
午後になると、治療所は少し落ち着いた。
私はマルタさんと一緒に道具を片づけ、使った布を洗い、明日のための準備を進めた。朝には何も分からなかった棚の配置も、半日ほど仕事をしているうちに少しずつ覚えられるようになっている。
ひととおり作業を終えると、マルタさんがお茶を用意してくれた。
「さて、リカ。今日診た患者で、一番難しかったのは誰だい?」
私は湯気の立つ杯を両手で包みながら、少し考えた。
「……最後の、手首が痛いって言っていた女の人です」
「どうしてだい?」
「原因が分からなかったからです。最初の男の人は、傷ついた場所を見つけられたので、そこを治せばよかったんですけど……」
「そうだね」
「でも、最後の人は何を治せばいいのか分かりませんでした。痛みがあるのは確かなのに、私の魔法では、その理由を見つけられなかったんです」
マルタさんは頷いた。
「治療師の仕事には、そういうことがたくさんあるよ。目の前の患者が苦しんでいるのに、原因がすぐには分からない。だからこそ、話を聞いて、身体を診て、少しずつ確かめていくんだ」
「……はい」
「それにね、分からない時に分からないと言えるのも大事なことさ。自信満々に間違った治療をするより、ずっといい」
私は杯の中のお茶を見つめた。
魔法学院にいた頃、私は難しい術式に出会うと、どうすれば正しく動かせるのかを考えていた。複雑な魔法式でも、構造を分解し、一つずつ条件を確かめていけば、どこに問題があるのかを見つけられることが多かった。
術式を組み立てる時には、まず目的を明確にする。
何を対象に、どのような変化を起こしたいのか。そのためにはどの条件が必要で、どれだけの魔力を使えばいいのか。そこが曖昧なままでは、どれほど高度な術式を組み立てても、期待した結果にはならない。
考えてみれば、治療も似ているのかもしれなかった。
何を治すべきなのかが分からなければ、どんな魔法を使えばいいのかも決められない。傷ついた組織を修復するという目的が明確なら、私の魔法は十分な力を発揮できる。けれど、原因が分からないままでは、魔法の精度をいくら高めても、正しい治療につながるとは限らないのだ。
ただし、魔法式と患者の身体には、大きな違いがある。
魔法式なら、構造を調べれば条件を一つずつ確認できる。けれど、患者の身体では、最初から全ての条件が分かっているわけではない。本人が覚えていないこともあれば、症状がはっきり現れていないこともあるだろう。見た目には同じ症状でも、そこに至るまでの経緯は一人ひとり異なっている。
だから、問診や観察が必要になる。
患者の話を聞くことも、身体に触れて確かめることも、魔法を使う前の大切な作業なのだ。
「……魔法を使う前に、何を治すべきなのかを調べる必要があるんですね」
私がそう言うと、マルタさんは満足そうに笑った。
「そういうことさ。あんたは魔法が上手いんだから、その前の仕事を覚えればいい」
「でも、思っていたよりずっと難しいです」
「そりゃそうだろうね。あたしだって、この歳になっても分からないことは山ほどあるよ」
マルタさんはお茶を一口飲み、窓の外へ目を向けた。
「長く治療師をやってるとね、昔は治せなかった患者を、今なら助けられたかもしれないと思うことがある。逆に、若い頃は簡単だと思っていた怪我が、実は厄介なものだったと後から分かることもあるんだ」
その声には、普段の気さくな調子とは少し違う重みがあった。
私は黙って耳を傾けた。
「例えば、傷口が綺麗に塞がったからって、安心できるとは限らない。あんたの相棒の時がそうだっただろう? ああいうことを一度経験すれば、次に似た患者が来た時には、前より慎重に診られるようになる。そうやって覚えていくんだよ」
私は静かに頷いた。
タクマの傷を治療した時、私の魔法式は間違っていなかった。損傷した組織を修復し、認識できる異物を取り除くという目的は、きちんと達成していた。
それでも、治療としては十分ではなかった。
傷が塞がったことと、患者が回復したことは、同じではないのだ。
「患者が十人いれば、十人とも身体の状態は違う。同じ怪我をしたって、同じように治るとは限らない。だから、勉強は終わらないんだよ」
魔法学院を卒業した時、私は自分が十分に魔法を学んだつもりでいた。もちろん、知らない術式や研究途中の分野があることは理解していたけれど、少なくとも魔法使いとして必要な知識は身につけていると思っていた。
けれど、今は違う。
自分が知らないことの多さを、ようやく実感し始めていた。
それは少し悔しくもあったけれど、同時に嬉しくもあった。これまで自分が積み重ねてきた魔法の知識は、決して無駄ではない。むしろ、その知識があるからこそ、患者の身体に何が起きているのかを、もっと詳しく調べられる可能性がある。
ただ、そのためには、まず何を調べるべきなのかを知らなければならない。
魔法の力を高めることだけが、魔法使いとして成長する方法ではないのかもしれなかった。
「あの、マルタさん」
「何だい?」
「これからも、ここで勉強させてもらえませんか?」
マルタさんは少し意外そうな顔をした。
「もちろん、そのつもりで来たんだろう?」
「はい。でも、ただ見学するだけじゃなくて、ちゃんと治療のことを教わりたいんです。患者さんの診察も、怪我の手当ても、病気のことも。私、もっと勉強したいです」
私は膝の上で手を揃え、まっすぐにマルタさんを見た。
「だから……弟子にしてもらえませんか?」
少しの間、沈黙があった。
やがてマルタさんは、困ったように笑った。
「弟子だなんて、ずいぶん大げさなことを言うねぇ」
「駄目でしょうか?」
「駄目とは言ってないよ。ただ、あたしは魔法学院の先生みたいに立派な講義ができるわけじゃない。毎日患者を診て、必要なことをやってるだけの治療師だからね」
「それを教えてほしいんです」
私は迷わず答えた。
「魔法のことなら、自分でも勉強できます。でも、今日みたいなことは、本を読んでいるだけじゃ分からないと思うんです。患者さんの話を聞いて、状態を確かめて、それから治療の方法を考える。そういうことを、私はまだ全然知らないんです」
マルタさんはしばらく私を見つめていたけれど、やがて小さく息を吐いた。
「……まったく。変わった子だね、あんたは」
そう言いながらも、その表情はどこか嬉しそうだった。
「いいよ。ちゃんと勉強する気があるなら、いくらでも教えてあげる。ただし、患者の前ではあたしの指示に従うこと。勝手な判断で魔法を使うのは駄目だよ」
「はい!」
「それから、患者さんの話をよく聞くこと。分からないことがあったら、知ったかぶりをしないで聞くこと。いいね?」
「はい! よろしくお願いします!」
私は勢いよく頭を下げた。
マルタさんは笑いながら、空になった杯を片づけ始めた。
「じゃあ、明日も来るんだね?」
「もちろんです!」
「それなら、朝は今日と同じ時間でいいよ。まずは薬草の名前から覚えてもらおうかね」
「薬草ですか?」
「ああ。治療師の仕事は魔法だけじゃないからね。どんな薬があって、どういう時に使うのかも知らなきゃいけない。薬によっては、使い方を間違えると身体に悪いものだってあるんだよ」
私は慌ててノートを開いた。
「分かりました! 予習してきます!」
「……だから、そんなに気合いを入れなくてもいいんだよ」
呆れたようなマルタさんの声に、私は思わず笑ってしまった。
◇
夕方、森の家へ戻ると、タクマがちょうど夕食の準備を始めていた。
「おかえり。どうだった?」
「ただいま! すっごく勉強になったよ!」
私は荷物を机へ置くと、早速今日の出来事を話し始めた。
最初に教わったのが布の洗い方だったこと。熱のある患者には、本人だけでなく家族の症状も尋ねていたこと。同じ手首の痛みでも、原因が違えば治療方法も変わること。マルタさんがどんな質問をして、何を確かめていたのかを思い出すたびに、次から次へと言いたいことが浮かんでくる。
タクマは料理の手を動かしながら、時々相槌を打ってくれた。
「なるほどな。確かに、病気の原因が分からないと、どう治せばいいのかも分からないよな」
「そうなの! 私、今まで回復魔法の術式ばっかり考えてたけど、それだけじゃ駄目なんだって分かったんだよ」
「でも、リカの魔法が役に立たないわけじゃないんだろ?」
「もちろん! 今日も怪我をした人の手首を治したんだよ。マルタさんにも褒めてもらえた!」
「そっか。よかったな」
タクマは嬉しそうに笑った。
私はその笑顔を見て、少しだけ胸が温かくなった。
今日一日、知らないことばかりで何度も戸惑ったけれど、こうして話していると、それさえ楽しい思い出になっていく。魔法学院に通っていた頃も、難しい術式を理解できた日は誰かに話したくなったものだけれど、今はその相手がすぐそばにいる。
「そういえば、タクマはどうだったの? ハーケンさんのところ」
「ああ。軽く身体を動かしてきたよ。思ったほど鈍ってなくて安心した」
「本当に軽くだった?」
「本当だって。先生にも、病み上がりなんだから無理するなって言われたしな」
「それならよかった」
私はほっと息を吐いた。
タクマは少し笑ってから、思い出したように言った。
「でも、リカの話を聞いてると、俺がボーマン先生に習い始めた頃を思い出すな」
「どうして?」
「剣の振り方より先に、立ち方とか間合いとか、そういう基本を何度もやらされたからさ。最初は、もっと難しい技を教えてもらえると思ってたんだけどな」
「ふふっ。ボーマンさんらしいね」
「ああ。でも、結局それが一番大事だったんだよ。基本ができてないと、どんな技を覚えても上手く使えないから」
私はその言葉を聞いて、今日のマルタさんの教えを思い出した。
魔法を使う前に、患者をよく見ること。何を治すべきなのか、何をしてはいけないのかを考えること。
タクマが剣術で学んできたことと、確かに似ているのかもしれない。
彼はボーマンさんのもとで、自分がすでに知っている剣術を見直し、基本から鍛え直してきた。その結果、以前とは比べものにならないほど安定した剣技を身につけている。
私も、今まで学んできた魔法を捨てるわけではない。
ただ、その魔法をもっと正しく使うために、別の知識を身につけるのだ。
「……私も、まずは基本からなんだね」
「そういうことなんだろうな」
タクマは頷いた。
「まあ、リカならすぐに覚えられると思うけど」
「そんなことないよ。今日だけでも、分からないことがいっぱいあったもん」
「じゃあ、しばらくは勉強漬けだな」
「うん!」
私は元気よく頷いた。
夕食を終えると、早速机に向かい、今日の出来事をノートへ整理し始めた。
患者の症状。マルタさんが尋ねていたこと。診察で確かめていたこと。そして、私が疑問に思ったこと。個人が分かるような名前や事情は書かず、病気や怪我の特徴だけを記録していく。そうすれば、同じような患者を診た時に、以前の経験と比べられるかもしれない。
書き進めているうちに、私はふと手を止めた。
これまで私が作ってきた研究ノートには、魔法式の構造や魔力の制御方法がびっしりと書き込まれている。どのような条件で術式が働き、どれだけの魔力を使えば目的の効果が得られるのか。そこには、魔法を正しく動かすための記録が積み重ねられていた。
けれど、今日から使うノートには、それとは違うことを書いていくのだろう。
患者が何を訴え、どんな症状が現れ、どのような治療を受けたのか。そして、その後どうなったのか。病気や怪我の経過を一つずつ記録し、似た症状を持つ人たちの間に共通するものがないかを調べていく。
例えば、今日の熱と咳の患者のように、同じ家で似た症状が続いている人がいたら、それは何を意味するのだろう。もし別の家でも同じようなことが起きているなら、そこにも何か共通点があるのだろうか。
今の私には、まだ答えが分からない。
けれど、分からないことをそのままにせず、少しずつ確かめていけば、いつか何かが見えてくるかもしれなかった。
私は新しいページを開き、今日一日で最も大切だと思ったことを書き込んだ。
『治療の前に、患者を知ること』
書き終えてから、しばらくその言葉を見つめた。
傷を治すことはできる。けれど、傷ついた人を治すためには、まだ知らなければならないことがたくさんある。今日出会った患者たちは、それぞれ違う理由で苦しんでいたし、必要としている助けも同じではなかった。
私の魔法が役に立つ場面もあれば、マルタさんの経験や薬の知識が必要になる場面もある。時には、何もせずに様子を見ることが最善なのかもしれない。
大切なのは、魔法を使うことそのものではなく、その人が元気になるために何が必要なのかを考えることなのだ。
「……何を書いてるんだ?」
背後から声がして振り返ると、タクマが私の肩越しにノートを覗き込んでいた。
「今日の勉強のまとめだよ」
「へえ……」
彼はページに書かれた言葉を読み、少しだけ笑った。
「いい言葉だな」
「うん。マルタさんに教えてもらったことなんだ」
私はノートを閉じ、タクマを見上げた。
「ねえ、タクマ。私、もっと色々な病気や怪我のことを知りたい。回復魔法で治せるものも、治せないものも、ちゃんと理解できるようになりたいんだ」
「そっか」
「それで、いつかは……」
そこまで言って、私は少し考えた。
まだ、具体的に何ができるようになりたいのか、自分でもはっきりとは分からない。新しい術式を作りたいのか、それとも既存の回復魔法をもっと上手に使えるようになりたいのか。きっと、その両方なのだと思う。
ただ、タクマが高い熱を出して寝込んでいた時のことを思い出すと、胸の奥に小さな願いが生まれる。
あの時、私には分からないことが多すぎた。
傷口は綺麗に治っているのに、どうして熱が出るのか。どうすれば楽にしてあげられるのか。魔法を使うべきなのか、それとも使わない方がいいのか。目の前で苦しんでいる大切な人に、何をしてあげればよいのかさえ分からなかった。
マルタさんが来てくれた時、私は心から安心した。
あの人は、私よりずっと少ない魔力しか使えない。私のように身体の内部を詳しく調べる魔法も使えない。それでも、タクマの状態を確かめ、必要な処置を選び、回復へ導いてくれた。
あの時のマルタさんのように、私もなりたい。
ただ魔法を使うだけではなく、困っている人が何を必要としているのかを考え、適切な助けを差し出せるようになりたいのだ。
「……困っている人を、ちゃんと助けられるようになりたいな」
私がそう言うと、タクマは穏やかに微笑んだ。
「リカなら、きっとなれるよ」
「ふふっ。ありがとう」
私は椅子から立ち上がり、彼の胸にそっと身体を預けた。タクマは何も言わず、私の背中に腕を回してくれる。その温かさを感じながら、私は明日からのことを考えた。
マルタさんの治療所には、きっと今日とは違う患者がやって来るだろう。知らない病気も、見たことのない怪我も、まだまだたくさんあるはずだ。どれだけ勉強しても、すぐに全てを理解できるわけではないし、時には何もできずに悔しい思いをすることもあるかもしれない。
それでも、私は学び続けたいと思った。
魔法学院を卒業してから、私は冒険者として色々な経験を積んできた。森でタクマと出会い、一緒に依頼を受け、時には危険な魔獣とも戦ってきた。誰かに決められた道を歩くのではなく、自分の意思で選んだ毎日を過ごしてきたつもりだった。
そして今、また新しい道を見つけた。
冒険者としての生活を続けながら、治療師としての知識も身につけていく。魔法の研究も続けたいし、タクマと一緒に色々な場所へ行ってみたい。やりたいことは相変わらず山ほどあって、時間がいくらあっても足りそうになかった。
でも、それでいいのだと思う。
私が欲しかった自由は、何もしなくてよい暮らしではない。自分が興味を持ったことを学び、やってみたいと思ったことに挑戦できる、そんな毎日なのだから。
「……明日も楽しみだな」
私が小さく呟くと、タクマは不思議そうに首を傾げた。
「何か言ったか?」
「ううん。何でもない!」
私は笑って彼の背中に腕を回し、もう少しだけ、その温かさに甘えることにした。
明日は薬草の勉強から始まるらしい。
帰ってから調べようと思っていたことも、まだたくさん残っている。寝るまでにどこまで読み進められるか考え始めたところで、タクマが私の頭を優しく撫でた。
「勉強もいいけど、今日は早めに寝ろよ」
「……どうして分かったの?」
「顔を見れば分かるよ」
私は思わず笑ってしまった。
どうやら、私の考えていることは、すっかりお見通しらしい。
それなら仕方がない。今夜は少しだけ本を読んで、残りは明日に回すことにしよう。
そう決めた途端、明日がますます待ち遠しくなった。




