第60話 完璧な治療
回復魔法の研究を始めてから、数日が経った。
新しい専門書を手に入れた私は、すっかりその研究に夢中になっていた。魔法学院で学んだ基本的な治療術式を改めて書き出し、専門書に記された応用術式と比較しながら、魔力の流れや処理の順序を一つずつ確かめている。これまでも魔法式の改良は何度となく行ってきたけれど、回復魔法には攻撃魔法とは違う難しさがあり、それがかえって私の好奇心を刺激していた。
例えば、傷口に残った異物を取り除くための術式。これは回復魔法の中でも基本的な処理の一つで、砂や木片などが傷の内部に残ったまま組織を修復してしまわないようにするものだ。異物の除去を終えてから損傷した部分の修復へ移るという構造は、どの教本でも共通している。ただし、何を異物として識別するか、どの範囲まで処理するかといった細部には、術式ごとに違いがあった。
そうした仕組みを理解していくうちに、私は既存の術式にもいくつか改良の余地があることに気づいていた。魔力の流れを整理し、重複した処理をまとめれば、同じ効果をより少ない魔力で得られるかもしれない。私の魔核出力なら、通常は段階的に行う複数の処理を同時に実行することだって可能だろう。
もっとも、回復魔法は生きた身体に作用するものだ。魔法式として成立することと、安全な治療ができることは別だと、クルシュにも教わったばかりだった。だから、今のところは理論の検討が中心で、実際の治療に使うつもりはなかった。
そんなある日のことだった。
私たちはフリーダとクルシュに誘われ、ノヴァグラード近郊の森で魔獣の討伐依頼を受けることになった。
「今日の相手は、ちょっと変わった魔獣だぞ」
森へ向かう道すがら、フリーダがそう切り出した。肩に担いだ槍を軽く持ち直しながら、楽しそうに笑っている。
「変わった魔獣?」
「牙が二重になってるの。外側に大きな牙があって、その内側にも細い牙がずらっと並んでるわけ」
「へえ。そんな魔獣がいるんだ」
「戦う分には普通の四足獣と大して変わらないんだけどな。厄介なのは解体する時なんだよな」
その説明を引き継ぐように、クルシュが口を開いた。
「内側の牙が見えにくいんです。外側の大きな牙を避けたつもりでも、手を差し込んだ先に細い牙が残っていることがありますから、素材を回収する際には注意が必要ですね」
「なるほど。牙を取る時に怪我をしやすいんだね」
「ええ。特に口の内側へ手を入れる時は気をつけてください」
私は頷きながら、魔獣の口の構造を頭の中で想像した。外側の牙で獲物を捕らえ、内側の細い牙で逃げられないようにするのだろうか。生き物としては合理的な構造なのかもしれないけれど、解体する側にとっては確かに厄介そうだった。
「でも、牙は結構いい値段になるんだ。だから今回の依頼は、討伐報酬に加えて素材の売却益も期待できるってわけ」
フリーダがそう言うと、タクマが興味深そうに頷いた。
「なるほどな。だったら、なるべく傷つけずに回収したいところだな」
「そういうこと。ただし、自分の指まで一緒に差し出すなよ?」
「分かってるよ」
タクマは苦笑しながら答えた。
その横顔を眺めていると、私は少しだけ嬉しくなった。ボーマンとの修行を終えてから、タクマは戦闘だけでなく、冒険者としての仕事全般に自信を持つようになっている。以前なら私が手を貸していたような場面でも、今では自分で判断して動けるようになった。
もちろん、まだ経験の足りないこともあるだろう。それでも、こうして仲間と自然に相談しながら仕事を進める姿を見ると、彼がこの世界で積み重ねてきた時間を改めて感じる。
私はそんなことを考えながら、森の奥へと続く道を歩いていった。
◇
目的の魔獣は、森の奥にある小さな開けた場所で見つかった。
三頭とも四足歩行で、体格は大型の狼よりも一回り大きい。短く硬そうな毛に覆われた身体は筋肉質で、地面を踏みしめる前脚も太かった。何より目を引くのは口元から突き出した湾曲した牙で、威嚇するように口を開くと、その内側に細い牙がもう一列並んでいるのが見えた。
「なるほど。本当に二重になってるんだね」
私が感心していると、先頭の一頭が低く唸り声を上げた。どうやら、こちらを獲物と判断したらしい。
「じゃあ、いつも通りでいいな?」
フリーダが槍を構え、タクマも長剣を抜いた。
「ああ。俺が前に出るよ」
「お願いします。こちらは逃走を防ぎますね」
クルシュが杖を持ち直すのを見て、私は少し後方へ下がった。必要ならすぐに攻撃魔法を使える位置だけれど、今のタクマたちなら三頭程度の魔獣に苦戦することはないだろう。
そして実際、戦闘は驚くほどあっさりと終わった。
最初の魔獣が飛びかかってきた瞬間、タクマは身体強化と風魔法を組み合わせ、一歩だけ横へ滑るように移動した。相手の牙が空を切るのとほとんど同時に長剣が振り抜かれ、魔獣は勢いのまま地面へ転がる。残る二頭が左右に分かれようとしたところへクルシュの蔦が伸び、一頭の脚を絡め取った。
もう一頭にはフリーダが踏み込み、槍の穂先を深く突き入れる。タクマはその間に体勢を整えると、拘束された最後の一頭へ向かい、迷いのない一撃で戦闘を終わらせた。
私は構築しかけていた攻撃魔法を解除し、小さく息を吐いた。
「……また出番がなかった」
その呟きを聞きつけたフリーダが、振り返って笑う。
「いいじゃない。楽ができるんだから」
「そうなんだけどね。せっかく来たのに、何もしないのもちょっと落ち着かないんだもの」
「だったら、素材回収を手伝ってくれの。そっちはまだ仕事が残ってるぞ」
「ふふ。そうだね」
私は笑って頷いた。
タクマが強くなったことで、私たちの戦い方は確実に変わり始めている。以前のように私が攻撃魔法で敵を一掃する必要はなくなり、仲間の動きを見ながら必要な時に魔法を使う余裕が生まれた。だからこそ、回復魔法や補助魔法を学ぶ意味があるのだと、改めて思う。
戦闘が終わると、私たちは討伐証明となる部位と、売却できる素材の回収に取りかかった。
フリーダとクルシュは慣れた手つきで作業を進め、タクマもその横で解体の手順を確認しながら手伝っている。私は周囲に別の魔獣が近づいていないか警戒しつつ、時折彼らの作業を眺めていた。
魔獣の牙は、確かに独特な構造をしていた。外側の大きな牙を取り除いても、その内側には細く鋭い牙が残っている。しかも、口の奥へ向かうほど間隔が狭くなっているため、手を入れる位置を間違えれば簡単に怪我をしそうだった。
そんなことを考えていた時だった。
「っ……!」
タクマの方から、短く息を呑む声が聞こえた。
振り返ると、彼が右手を引っ込めていた。何かを確かめるように指先を見つめていたけれど、次の瞬間、その手から赤い血が勢いよく流れ出した。
「タクマ!?」
私は思わず駆け寄った。
「いや、ちょっとやっちまった」
タクマは顔をしかめながらも、落ち着いた声で答えた。どうやら外側の牙を避けて手を差し込んだところ、見えにくい位置にあった内側の牙が指へ深く刺さってしまったらしい。
傷は思ったより深かった。指の側面が大きく裂け、流れ出した血が手のひらを伝って地面へ落ちている。タクマは左手で傷の根元を押さえながら、私へ視線を向けた。
「リカ、水を出してくれるか? まず傷口を洗いたい」
その言葉を聞きながら、私はすでに傷の状態を確かめていた。
皮膚だけでなく、その下の組織も傷ついている。出血量は多いけれど、私の回復魔法なら十分に対応できるはずだった。しかも、ちょうど研究していた治療術式には、傷口に残った異物を除去する処理も組み込まれている。
だったら、今こそその魔法を使うべきだ。
「その必要はないわ!」
私はタクマの手を取った。
「私に任せて。ちゃんと治してあげるから!」
「えっ、いや、リカ。まず洗った方が……」
「大丈夫。異物を取り除く処理も術式に入ってるから」
私はそう説明しながら、回復魔法の構築を始めた。
使うのは、魔法学院で学んだ基本的な治療術式を土台に、最近詳しく調べ直したものだ。傷口に残った異物を排除し、損傷した組織を修復するための処理が組み込まれている。魔法式の構造は十分に理解していたし、必要な魔力量も私にとってはごくわずかだった。
淡い光がタクマの指を包み込む。
最初に異物除去の術式が働き、続いて損傷した組織の修復が始まった。裂けた皮膚が閉じ、傷ついた内部の組織が元の形へ戻っていく。細かな血管まで修復されるにつれて出血は止まり、魔法の光が消える頃には、傷跡すら残っていなかった。
「はい、終わり!」
私は満足して微笑んだ。
「どう? 痛くない?」
タクマは指を曲げ伸ばししながら、驚いたように目を丸くした。
「……すごいな。本当に何ともない」
「でしょ?」
私は嬉しくなった。
術式は正常に動作していたし、異物の除去も組織の修復も問題なく完了している。魔力の流れに乱れはなく、修復した部分にも異常は見つからなかった。これほど深い傷を短時間で治せたのだから、研究の成果としても十分に手応えがある。
けれど、タクマはしばらく自分の指を眺めた後、少し考え込むような表情を浮かべた。
「……リカ、一つ聞いていいか?」
「何?」
「異物を取り除くって言ってたけど、それってどこまで取り除けるんだ?」
「どこまで?」
「例えば、目に見えないくらい小さいものとか」
私は少し考えた。
「術式が異物として認識できるものなら、取り除けるはずだよ。砂とか、木片とか、傷口に残ったものを排除する仕組みだから」
「……そうか」
タクマは頷いたけれど、その表情は晴れなかった。
「どうしたの?」
「いや、日本じゃ、こういう傷はまず水でよく洗うって教わるんだよ。特に動物に噛まれたり、汚れたものが刺さったりした時はな」
「そうなんだ」
「だから、傷が綺麗に治っても、ちょっと気になってさ」
私は改めてタクマの指を見た。
傷跡はどこにもない。内部の組織も、魔法で確認した限りでは正常な状態に戻っている。少なくとも、私が知っている治療術式の基準では、問題なく治療を終えられたはずだった。
けれど、タクマが何を心配しているのかは、まだよく分からなかった。
その時、横からクルシュが口を開いた。
「……リカさん。少し気になることがあります」
「クルシュ?」
「魔獣の牙で負った傷は、治療した後でも熱が出ることがあるんです」
私は驚いて彼を見た。
「傷が治ってても?」
「ええ。特に深く刺さった傷は注意するように言われています。昔から、魔獣の牙や爪による傷は、見た目が治っていても安心できないことがあるそうです」
クルシュは少し考えながら続けた。
「もちろん、必ずそうなるわけではありません。ですが、傷が深かった場合や、汚れた牙が刺さった場合には、後から熱を出すことがあると聞いています。治療師の方々も、そうした傷には慎重に対応されることが多いですね」
フリーダも頷いた。
「そういえば、昔の仲間にもいたな。傷は大したことなかったのに、翌日になって熱を出した奴。結局、何日か寝込んでたんだよ」
「……そうなの?」
私は思わず眉を寄せた。
回復魔法で組織を修復した後に体調を崩すことがあるという話は、確かに聞いたことがある。けれど、それがどういう仕組みで起こるのかについては、詳しく学んだ覚えがなかった。
魔法学院で教わる回復魔法は、主に傷ついた組織を修復するための技術だ。術式が正しく動作し、損傷した部分が元通りになれば、治療は成功したと判断する。少なくとも、私がこれまで学んできた範囲では、そうした考え方が基本だった。
それなのに、傷が治った後で熱が出ることがあるという。
だとすれば、私が見落としている何かがあるのかもしれない。
「今日はもう、依頼を切り上げましょう」
クルシュが静かに言った。
「タクマさんの様子を見た方がいいと思います。今は何ともなくても、後から具合が悪くなるかもしれませんから」
「そうだね……」
私は頷いた。
タクマ自身は平気そうにしているけれど、クルシュがそう言うなら、念のため注意した方がいいだろう。彼は回復魔法の専門家ではないものの、長く冒険者として活動してきた経験がある。私が知らないことを知っていても、何も不思議ではなかった。
それに、タクマの言葉も気になっていた。
魔法式が正常に動作したことは間違いない。
けれど、それだけで本当に十分なのだろうか。
◇
その日の依頼は、予定より早く切り上げることになった。
討伐証明となる部位と必要な素材だけを回収し、私たちはノヴァグラードへ戻った。ギルドで報告を済ませると、クルシュは改めてタクマの体調に注意するよう伝えてくれた。
「もし熱が出たり、具合が悪くなったりしたら、早めに治療師へ相談してください」
「ああ。ありがとう、クルシュ」
タクマが礼を言う。
私はその横で、少しだけ落ち着かない気持ちになっていた。
帰宅してからも、何度かタクマの指を確認した。皮膚は完全に元通りで、傷跡はどこにもない。指を曲げても伸ばしても痛みはなく、タクマ自身も普段と変わらない様子だった。
「リカ、もう大丈夫だって」
「でも、気になるんだもの」
「気持ちは分かるけどな」
タクマは苦笑した。
私は彼の隣へ座り、もう一度その手を取った。
「……ねえ、タクマ」
「ん?」
「日本では、どうしてこういう傷を洗うの?」
タクマは少し考え込んだ。
「細菌とか、そういうものが傷口から入ることがあるからだよ」
「サイキン?」
「うん。ものすごく小さな生き物、って説明でいいのかな。人間の目じゃ見えないんだけど、傷口から身体の中に入ると、病気の原因になることがあるんだ」
私は目を瞬かせた。
「……そんなものがいるの?」
「ああ。日本じゃ、普通に知られてることなんだけどな」
「へえ……」
私は思わず身を乗り出した。
目に見えないほど小さな生き物が、傷口から身体の中へ入り込む。そんな話は、魔法学院でも詳しく教わった覚えがない。もちろん、肉眼では見えないほど小さな生き物が存在する可能性を否定する理由はないけれど、それが病気の原因になるという考え方は、私にとって新鮮だった。
「それって、瘴気みたいなもの?」
「いや、たぶんちょっと違うんだよなぁ」
タクマは困ったように笑った。
「瘴気って、この世界じゃ魔力が変質したものとか、そういう説明だったろ? でも細菌は、普通の生き物なんだ。小さすぎて見えないだけで」
「……生き物?」
「そう。種類も色々あって、全部が悪いわけじゃない。人間の身体にとって必要なものもいるらしいし」
私はますます興味を引かれた。
「じゃあ、どうして病気になるの?」
「それが……詳しい仕組みまでは、俺も分からないんだよ」
タクマは申し訳なさそうに頭をかいた。
「学校で習ったことはあるけど、俺は医者じゃないからな。細菌とかウイルスとか、そういうものが病気の原因になるってことくらいしか説明できない」
「ウイルス?」
「それも、ものすごく小さい病気の原因になるものだよ。ただ、細菌とは違うんだ。確か、細菌みたいに自分だけで増えることはできなくて、生き物の細胞を使って増えるんだったかな」
「……なるほど」
私は腕を組んだ。
細菌とウイルス。どちらも目には見えないほど小さく、病気の原因になることがある。けれど、同じものではないらしい。
そして、タクマの話が正しいなら、私が使った回復魔法には大きな問題があるかもしれなかった。
「……待って」
私は思わず顔を上げた。
「それって、回復魔法で傷を治しても、身体の中に残ってる可能性があるってこと?」
「そうなんだよ。俺が気にしてたのはそこなんだ」
タクマは頷いた。
「傷口を塞いでも、細菌が中に残ってたら、そこで増えるかもしれないだろ?」
「……そうか」
私は小さく呟いた。
回復魔法の異物除去術式は、傷口に残った砂や木片などを取り除くためのものだ。術式が異物として認識する対象を選別し、それを傷の外へ排除する仕組みになっている。
けれど、目に見えないほど小さな生き物が存在するという前提で、術式が組み立てられているわけではない。少なくとも、私が今日使った術式には、そうしたものを識別するための処理は組み込まれていなかった。
つまり、魔法式が正常に動作したとしても、細菌と呼ばれるものが傷の内部に残っている可能性はある。
私は自分の手を見つめた。
魔法は、確かに成功していた。
傷ついた組織は完全に修復され、異物除去の術式も正常に動作した。私が意図した通りの結果が得られたことに、間違いはない。
けれど、もしタクマの言うようなものが存在するなら、私の魔法はそれを取り除いていない可能性がある。
「……なるほどね」
私はゆっくりと息を吐いた。
少し怖くなった。
けれど同時に、頭の中ではいくつもの疑問が浮かび始めていた。
もし細菌というものが本当に存在するなら、魔法でそれを見つけることはできるのだろうか。魔力を使って取り除くことは可能なのだろうか。それとも、そもそも回復魔法とは別の仕組みが必要なのだろうか。
考えれば考えるほど、分からないことが増えていく。
私はタクマの手を握り直した。
「……ごめんね。私、そこまで考えてなかった」
「いや、リカが悪いわけじゃないよ」
タクマは穏やかに答えた。
「実際、傷は綺麗に治してくれたんだし。俺だって、細菌がどうこうって話は知ってても、魔法でどうなるのかまでは分からないからな」
「でも、ちゃんと調べてみる」
「ああ。それがいいと思う」
私は頷いた。
今はまだ、何も起きていない。
タクマの体調も普段と変わらないし、傷口にも異常はない。それでも、クルシュが言っていたことが頭から離れなかった。
魔獣の牙で負った傷は、治療した後でも熱が出ることがある。
私はその言葉を思い返しながら、タクマの手をそっと離した。
◇
翌朝。
いつもより少し早く目が覚めた私は、隣で眠っているタクマの様子がおかしいことに気づいた。
普段なら、私より先に起きていることも多いのに、今日はまだ布団の中にいる。それだけなら珍しいことではないけれど、呼吸が少し荒く、顔も赤くなっていた。額にはうっすらと汗が浮かび、時折、苦しそうに眉を寄せている。
「……タクマ?」
私は身体を起こし、彼の額へ手を伸ばした。
触れた瞬間、思わず息を呑んだ。
熱い。
明らかに、いつもの体温ではなかった。
「タクマ!」
私が呼びかけると、彼はゆっくりと目を開けた。
「……ああ、リカ。おはよう」
声がかすれている。
「おはようじゃないよ! すごい熱がある!」
「……そうか。何か、身体がだるいと思った」
タクマは起き上がろうとしたけれど、すぐに顔をしかめて布団へ戻った。私は慌てて彼の肩へ手を添え、無理に動かないように言った。
「無理しないで! 今、水を持ってくるから」
「……悪い」
タクマは苦笑しようとしたけれど、うまく表情を作れないようだった。
私は彼の右手を取った。
昨日、魔獣の牙が刺さった指だ。
傷跡はない。皮膚は綺麗に修復されているし、魔法で確かめても、組織の損傷は見つからなかった。
それなのに、タクマは今、苦しんでいる。
私は昨日の会話を思い出した。
細菌。ウイルス。目に見えないほど小さな、病気の原因になるもの。そして、クルシュの忠告。
傷が治っていても、後から熱が出ることがある。
「……まさか」
私は小さく呟いた。
タクマは薄く目を開け、私を見た。
「……リカ」
「うん。大丈夫。今、治療師を呼んでくるから」
私はできるだけ落ち着いた声で答えた。
けれど、胸の奥では不安が大きく膨らんでいた。
昨日の回復魔法は、確かに成功した。魔法式は正常に動作し、傷ついた組織は完全に修復された。そのことに間違いはない。
でも、今になってようやく分かった。
私が治したのは、タクマの傷だった。
タクマの身体に起きていることの、すべてではなかったのだ。




