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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
聖女と英雄編

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第59話 森の新しい隣人


 ノヴァグラードへ戻ってきてからというもの、朝の時間が少しだけ慌ただしくなった気がする。


 別に、何か特別な用事が増えたわけではない。むしろ王都にいた頃と比べれば、時間の使い方はずっと自由になった。それでも、やりたいことが次々に見つかってしまうのだから仕方がない。


 今日もそうだった。


 昨日、クルシュと話しているうちに、回復魔法を本格的に研究してみようと思い立った私は、早速ノヴァグラードの書店へ行くつもりでいた。魔法学院で使っていた教本は一通り覚えているけれど、回復魔法を専門とする治療師たちがどんな術式を使っているのかについては、まだ知らないことも多い。


 タクマはタクマで、ハーケンの訓練場へ顔を出す予定らしい。ボーマンとの修行を終えてからも剣の稽古を欠かすつもりはないようで、朝食の時にも新しい動きについて何やら考え込んでいた。


「それじゃ、そろそろ行こうか」


「ああ。今日は本を探すんだったな」


「うん。回復魔法の専門書があればいいんだけど」


「リカなら、見つけたらその場で読み始めそうだな」


「……そんなことないよ?」


 タクマが笑う。


「本当か?」


「少しくらいは読むかもしれないけど」


「やっぱりな」


 私は軽く頬を膨らませたけれど、反論はできなかった。


 森の家を出ると、朝の空気がひんやりと頬に触れた。木々の間から差し込む日差しはまだ柔らかく、足元の草には夜露が残っている。鳥の鳴き声を聞きながら、私たちはいつもの小道を歩き始めた。


 家から転移魔法陣までは、それほど遠くない。途中にはボーマンが修行中に使っていたログハウスがあり、その前を通り過ぎてもう少し歩けば、魔法陣を設置した場所へ着く。


 ボーマンが王都へ戻ってから、あのログハウスは空き家になっているはずだった。


 ところが、その前を通りかかった時だった。


 ぎい、と木の扉が開く音がした。


「おはよう」


 中から出てきたのは、シエラだった。


「……シエラ?」


「うん」


 彼女はいつもの無表情のまま、こちらを見ている。銀色の髪が朝日を受けて淡く光り、片手には小さな荷物を持っていた。


 私は思わずタクマと顔を見合わせた。


「えっ、どうしてここにいるの?」


「住んでる」


「……住んでる?」


「うん」


 あまりにも当たり前のように答えられたので、私は一瞬、何を聞いたのか分からなくなってしまった。


「ちょっと待って。ここって、ボーマンが使ってた家だよね?」


「そう」


「じゃあ、どうしてシエラが?」


「使って良いと言われた。こっちの方が便利」


 シエラは短く答えると、開け放した扉の方を振り返った。


 中を覗くと、以前ボーマンが使っていた家具がそのまま残っているようだった。窓際には小さな荷物が置かれ、壁にはシエラの弓が立てかけられている。どうやら、すでに生活を始めているらしい。


「ボーマンが、ここを使っていいって言ったの?」


「うん。帰る前に」


「そうだったんだ……」


 私は改めてログハウスを見上げた。


 ボーマンがここで暮らしていた頃は、朝から晩までタクマの修行が続いていた。私も何度か様子を見に来たことがあるけれど、あの厳しい稽古の光景がすっかり印象に残っている。


 その場所に、今度はシエラが住むことになるとは思わなかった。


「でも、街から結構離れてるよ? 不便じゃない?」


「平気。森の方が落ち着く」


「そうなんだ」


「街にもすぐ行ける」


 確かに、シエラなら森の中を身軽に移動できる。普通の人が歩くよりもずっと速く、木々の間を抜けていけるのだから、距離そのものは大した問題にならないのだろう。


 それに、彼女はもともと森での活動に慣れている。街の宿で暮らすより、こうした静かな場所の方が性に合っているのかもしれない。


「そっか。じゃあ、これからはご近所さんだね!」


「うん」


 シエラが小さく頷いた。


 私は何だか嬉しくなってしまった。森の中で暮らしていると、街の人たちとはどうしても距離ができてしまう。もちろん、転移魔法陣を使えばすぐに会いに行けるけれど、歩いて行ける場所に友人が住んでいるというのは、また違った楽しさがある。


 隣でタクマがログハウスを眺めながら、少し複雑そうな顔をしていた。


「まさか、ここにシエラが住むとはな……」


「どうしたの?」


「いや。ここを見ると、どうしてもボーマンさんとの修行を思い出してさ」


 タクマは苦笑した。


「朝から走らされて、剣を振らされて、何度も地面に転がされたからな」


「ふふ。そうだったね」


 私は思わず笑ってしまった。


 ボーマンは本当に容赦がなかった。タクマがどれほど疲れていても、まだ動けると判断すれば稽古を続けさせたし、少しでも隙を見せれば容赦なく木剣が飛んできた。


 もちろん、あの厳しい修行があったからこそ、今のタクマがいるのだけれど。


「タクマも住む?」


 シエラが唐突に尋ねた。


「いや、俺は遠慮しておくよ」


「そう」


 シエラは特に残念そうな様子もなく頷いた。


 そのあっさりした返事がおかしくて、私はまた笑ってしまった。


◇


「そうだった。これ」


 シエラが何かを思い出したように、懐から一通の封書を取り出した。


「何?」


「王宮から」


 私は差し出された封書を受け取り、表面を確認した。


 そこには見慣れた王家の封蝋が押されていた。宛名は私の本名で記されており、差出人の名前を見た瞬間、思わず目を瞬かせる。


「……お父様から?」


「うん」


 父王グスタフからの手紙だった。


 王都を離れる際、父とはきちんと別れの挨拶を交わしている。それからまだそれほど日が経っていないのに、こうして手紙が届くとは思っていなかった。


「わざわざ届けてくれたの?」


 私が尋ねると、シエラは少しだけ眉を動かした。


「勘違いしないで欲しい。私は郵便屋じゃない」


 ごもっともである。


 王宮からの連絡を受け取れる立場にいるとはいえ、シエラは私の護衛を任されているのであって、手紙を運ぶためにここへ来たわけではない。


 もっとも、実際にはこうして届けてくれているのだから、何だか少しおかしかった。


「分かってるよ。でも、ありがとう」


「うん」


 シエラはそれだけ答えた。


 隣ではタクマが笑いをこらえている。私が横目で見ると、彼は何でもないという顔をしたけれど、口元が緩んでいるのは隠せていなかった。


「……タクマ、笑ってるでしょ」


「いや、別に」


「絶対笑ってる」


「少しだけな」


 私は小さくため息をついた。


 それから、封蝋を丁寧に外して中の手紙を取り出した。


 父の筆跡は、昔と少しも変わっていなかった。


 書かれていたのは、私たちが無事にノヴァグラードへ戻れたことへの安堵と、長旅の疲れが残っていないかという気遣いだった。王都での出来事についても少しだけ触れられていたけれど、政治的な話題はほとんどない。食事はきちんと取っているか、無理をしていないか、困ったことがあれば遠慮なく知らせてほしい。そんな、父親らしい言葉が並んでいた。


 私は手紙を読み終えると、しばらくその文字を眺めていた。


 王宮にいた頃、父はいつも忙しかった。国王としての仕事が山ほどあり、私たち家族とゆっくり過ごす時間も限られていた。それでも、幼い頃から私のことを気にかけてくれていたのは知っている。


 七年前、私が王宮を飛び出した時には、きっと随分心配をかけたのだろう。


 それでも父は、私が戻らないという選択を受け入れてくれた。


 だからといって、父娘でなくなるわけではない。


「……今度、返事を書こうかな」


 私が呟くと、タクマが穏やかに頷いた。


「いいんじゃないか。きっと喜ぶと思うよ」


「うん。そうだね」


 私は手紙を大切にしまい、シエラへ向き直った。


「そうだ、シエラ。街へ行くなら、転移魔法陣を使えるようにしてあげようか?」


「……いいの?」


「うん。今は私とタクマしか使えないようにしてあるんだけど、シエラも登録すれば使えるようになるよ」


 シエラは少し考えるように首を傾げた。


「歩いても困らない」


「それはそうかもしれないけど、急いでる時には便利でしょ?」


「……確かに」


「じゃあ、今日設定を変えておくね」


「助かる」


 そこでシエラが、いつもの無表情のまま続けた。


「それなら、リカの家にも入れるようにしてくれると仕事が捗る」


「それはダメ!!」


 自分でも驚くほど大きな声が出た。


 シエラは目を瞬かせ、少しだけ首を傾げた。


「どうして?」


「どうしても何もないでしょ! 私たちの家なんだから!」


「護衛の仕事がしやすくなる」


「だからって勝手に入ってこられたら困るの!」


 シエラは真剣な顔で考え込んでいる。


 どうやら、本当に仕事の効率だけを考えて言っているらしい。彼女にとっては、護衛対象の家に自由に出入りできた方が都合がいいという、ごく単純な話なのだろう。


 でも、私には私の都合というものがある。


 タクマと二人で暮らしている家なのだ。朝だって夜だって、誰にも邪魔されたくない時間はある。そんな場所へ、いくら親しい友人だからといって、いつでも自由に入ってこられては困る。


「……分かった」


 シエラは素直に引き下がった。


 ただ、少し残念そうだった。


「不便」


「不便でもダメ!」


 隣でタクマがとうとう吹き出した。


「タクマ!」


「ごめん。でも、二人とも真剣だからさ……」


「私は真剣だよ!」


「知ってるよ」


 タクマは笑いながら頷いた。


 シエラはそんな私たちを見比べていたけれど、やがて小さく首を傾げた。


「……仲がいい」


「もう!」


 私は思わず顔を赤くした。


 シエラは何も悪いことを言っていないのだけれど、どうしてこう、時々こちらが困るようなことを平然と言うのだろう。


◇


 それから私たちは、転移魔法陣のある場所へ向かった。


 森の中に設置した魔法陣は、外から見ただけでは分からないようにしてある。周囲には認識を妨げる術式を組み込んでおり、知らない人が近くを通っても、特に気に留めず通り過ぎてしまう仕組みだ。


 もちろん、魔法陣そのものにも使用制限を設けている。


 転移魔法は便利だけれど、誰でも自由に使えるようにしてしまえば、森の家の近くへ見知らぬ人が入り込む可能性がある。それでは安心して暮らせないため、私は魔法陣に使用者を識別する仕組みを組み込んでいた。


 現在、登録されているのは私とタクマの二人だけだ。


「ここで登録するの?」


 シエラが魔法陣を見下ろしながら尋ねた。


「うん。まず私が認証の術式を開くから、シエラはそこへ自分の魔力を注いでね」


「分かった」


 私は魔法陣の端にしゃがみ込み、認証用の術式へ魔力を流した。


 すると、普段は見えないようにしてある細い魔法文字が、淡い光を帯びて浮かび上がる。転移そのものを行う術式とは別に、使用者を管理するための部分だ。


 私はそこへ新しい登録枠を作り、シエラを手招きした。


「この部分に触れて、自分の魔力を少しだけ流してみて」


「これ?」


「そう。ほんの少しでいいよ」


 シエラが指先を魔法文字へ触れさせる。


 次の瞬間、彼女の魔力に反応した術式が淡く輝き、文字の一部がゆっくりと形を変え始めた。


 魔力には個人ごとに異なる性質がある。私はその違いを利用して、登録した本人の魔力でなければ転移魔法陣を起動できないようにしている。使用する時には魔法陣へ魔力を注ぐ必要があり、その魔力が登録情報と一致して初めて、転移術式が動作する仕組みだ。


 だから、私がシエラに使用を許可しただけでは、まだ魔法陣を使うことはできない。


 本人が実際に魔力を注ぎ、その性質を認証術式に登録する必要があるのだ。


「……これでいい?」


「うん。もう少しだけ、そのままにしてて」


 私は術式の変化を確認し、登録された魔力の情報が正しく保持されているかを確かめた。


 しばらくすると、浮かび上がっていた文字が静かに光を失う。


「はい、登録完了!」


「もう使える?」


「うん。ただし、使えるのはこの魔法陣と、ノヴァグラード側の対応する魔法陣だけだからね」


「分かった」


「あと、転移する時はここに魔力を流して。今みたいに認証されてから、行き先を指定すればいいよ」


 私は実際の操作方法を説明し、シエラにも一度試してもらうことにした。


 シエラが魔法陣へ魔力を注ぐと、認証術式が反応し、転移用の魔法文字がゆっくりと光り始める。


「……動いた」


「うん。ちゃんと認証できてるね」


 私は満足して頷いた。


 シエラは興味深そうに魔法陣を見つめている。


「便利」


「でしょ?」


「リカの家にも……」


「それはダメ!」


「……まだ何も言ってない」


「言おうとしたでしょ!」


 タクマが横で肩を震わせていた。


 私はそんな彼を睨んだけれど、結局自分でも笑ってしまった。


 シエラは少しだけ不満そうな顔をしていたものの、それ以上は何も言わなかった。


 こうして、森とノヴァグラードを結ぶ転移魔法陣に、新しい使用者が一人増えた。


 ただし、シエラはそのまま街へ転移するつもりはないらしい。


「じゃあ、私たちは先に行くね。シエラも街へ行くんでしょ?」


「うん。後で行く」


「転移魔法陣、使わないの?」


「今日は歩く」


「……せっかく使えるようにしたのに?」


「森を歩くのが好き」


 シエラは平然と答えた。


 私は思わず苦笑したけれど、何となく彼女らしい気もした。


「そっか。じゃあ、また街でね」


「うん」


 シエラは小さく手を振ると、木々の間へ姿を消した。


 その身軽な動きを見送りながら、私は改めて思った。


 やっぱり、彼女には転移魔法陣がなくてもあまり困らないのかもしれない。


◇


 ノヴァグラードへ到着すると、私たちはいったん別行動を取ることにした。


 タクマはハーケンの訓練場へ向かい、私は回復魔法の専門書を探すため、街の書店へ足を運ぶ。


 ノヴァグラードには何軒か書店があるけれど、魔法に関する専門書を扱っている店は限られている。一般的な魔法の入門書なら比較的簡単に手に入るものの、特定の分野を詳しく扱った本となると、そう簡単には見つからない。


 私は以前にも利用したことのある書店へ入り、魔法書の並んだ棚を眺めた。


 攻撃魔法や生活魔法に関する本はそれなりに揃っているけれど、回復魔法の専門書は思ったより少ない。何冊か手に取ってみたものの、魔法学院で習った内容と大きく変わらないものも多かった。


「うーん……もう少し詳しい本が欲しいんだけどな」


 私は小さく呟きながら、棚の奥へ目を向けた。


 そこで、少し古びた装丁の本が目に留まった。


 表紙には、治療魔法の術式と運用について書かれているらしい題名が記されている。


 私は早速その本を手に取り、目次を開いた。


 そこには、傷の種類に応じた術式の使い分けや、魔力の与え方、治療後の経過観察など、実際の治療を意識した項目が並んでいた。


「……これ、面白そう」


 思わず、その場でページをめくってしまう。


 回復魔法の基本的な仕組みについては、私も理解しているつもりだった。傷ついた組織の修復を促し、身体が本来持っている回復の働きを魔法で補助する。魔法学院で教わった説明も、おおむねそうしたものだった。


 けれど、専門書にはそれだけでは済まない問題がいくつも書かれていた。


 例えば、同じように見える傷でも、深さや傷ついた場所によって必要な処置は変わる。表面だけを治しても、内部に損傷が残っていれば十分な治療とはいえない。魔力を与える量や時間についても、単純に多ければよいというものではないらしい。


 私はページを読み進めながら、少しずつ興味を引かれていった。


 魔法式そのものは、決して理解できないほど複雑ではない。むしろ、既存の術式を見ていると、もっと効率よく構築できそうな部分も見つかる。


 ただ、問題はその先だった。


 術式を改良したとして、それが実際の治療にどんな影響を与えるのか。魔力の消費が減ればよいというわけではないし、処理を速くしたからといって、必ずしも身体にとって良い結果になるとは限らない。


 その違いを理解するには、魔法だけでなく、治療そのものについても学ぶ必要がありそうだった。


「……なるほどね」


 私は小さく頷いた。


 今までの私は、回復魔法を必要な時に使うための技術として覚えていた。けれど、こうして詳しく調べてみると、まだ知らないことが随分と多い。


 それが、何だか楽しかった。


 結局、私はその本を含めて数冊の専門書を購入した。店主からは、回復魔法を専門に扱う治療師の中には、独自の術式を研究している人もいると教えてもらったので、機会があれば話を聞いてみたいと思った。


 店を出る頃には、すでに昼が近づいていた。


 私は購入した本を抱え直し、午後にクルシュと約束していた補助魔法の勉強会へ向かうことにした。


◇


 午後、ギルドの訓練場でクルシュと合流した。


 フリーダは別の用事があるらしく、今日は彼一人だった。私が購入した本を見せると、クルシュは少し驚いたように目を丸くした。


「もうそんなに揃えたんですか?」


「うん。思ってたより専門書が少なかったけど、面白そうなのが見つかったよ」


「さすがですね。昨日お話ししたばかりなのに」


「ふふ。気になったら、早く調べたくなるんだもの」


 私は笑って答えた。


 クルシュも穏やかに微笑み、それから訓練場の中央へ視線を向けた。


「では、今日は補助魔法の基本的な考え方から始めましょうか」


「うん。よろしくね!」


 私は早速、彼の隣へ立った。


 クルシュが最初に説明してくれたのは、補助魔法では魔法の威力よりも、対象にどんな効果を与えるかという判断が重要になる、ということだった。


 例えば身体強化の魔法なら、単純に筋力や速度を高めればよいというわけではない。剣を振るう人と、槍を扱う人では必要な動きが違うし、同じ剣士でも戦い方によって適した補助は変わる。


「相手が求めている動きを、魔法で邪魔しないことが大切なんです」


 クルシュはそう言って、簡単な補助術式を組み立ててみせた。


 魔法式そのものは比較的単純だったけれど、対象の動きに合わせて効果を変化させる部分が工夫されている。私はその構造を眺めながら、思わず感心してしまった。


「なるほど。効果を一定に保つんじゃなくて、動きに合わせて調整してるんだね」


「ええ。例えば足場が悪い場所では、単純に速度を高めるより、姿勢を安定させる方が役に立つこともあります」


「確かに。タクマの風魔法にも似た考え方があるかも」


「そうですね。タクマさんはご自身で動きを調整されていますが、他人へ補助魔法をかける場合には、その人の動きを予測する必要がありますから」


 私は頷いた。


 自分自身に魔法を使うのであれば、次にどう動きたいのかは分かっている。けれど、他人に使う場合はそうはいかない。相手がどの方向へ動くのか、どの程度の力を必要としているのかを判断しなければ、かえって動きを妨げてしまう可能性がある。


 それは、私が普段使っている攻撃魔法とは随分違う考え方だった。


「じゃあ、少し試してみましょうか」


「うん!」


 クルシュの指示に従い、私は簡単な補助術式を構築した。


 魔法式を理解すること自体は難しくなかった。必要な魔力も少なく、構造も比較的単純だ。けれど、クルシュが実際に動き始めると、その動作に合わせて効果を調整するのは思ったより難しかった。


 魔法が強すぎれば動きが不自然になり、弱すぎれば補助にならない。対象の状態を見ながら細かく調整する必要があり、単純に出力を高めればよいわけではないのだ。


「……なるほど。これは慣れが必要だね」


「ええ。ですが、術式の理解はとても早いですよ」


「でも、実際に使うのはクルシュの方がずっと上手だね」


 私がそう言うと、クルシュは少し照れたように笑った。


「私はこれまで、そうした魔法を中心に使ってきましたから。リカさんの攻撃魔法と同じですよ」


「ふふ。そうだね」


 私は改めて彼の魔法を見直した。


 クルシュは普段、目立つような大きな魔法を使うことは少ない。けれど、仲間が戦いやすいように敵の動きを制限し、必要な時には補助を加える。その一つ一つの判断が、戦闘全体を支えているのだ。


 今までも優れた魔法使いだと思っていたけれど、こうして教わってみると、その技術の奥深さがよく分かる。


 私は彼からいくつかの術式を教わり、使い方についても詳しく説明してもらった。


 気づけば、随分と時間が経っていた。


◇


 勉強会を終えた後、私たちはギルドの静かな談話室へ移動した。


 私は購入した専門書を机に並べ、気になった部分をクルシュに見せることにした。


「これなんだけど、ちょっと見てもらってもいい?」


「もちろんです」


 クルシュは本を受け取り、開かれたページへ目を落とした。


 そこには、回復魔法の基本的な術式が記されていた。傷ついた部分に魔力を作用させ、身体の修復を促すための構造だ。


「この術式、少し回りくどい気がするんだよね」


「回りくどい、ですか?」


「うん。ここで一度魔力の流れを分けてるでしょ? でも、この部分を別の形にすれば、もっと簡単に処理できるんじゃないかなって」


 私は紙を取り出し、考えていた魔法式を書き始めた。


 クルシュはその様子を興味深そうに眺めている。


 私が考えているのは、既存の術式を根本から作り変えるようなものではない。魔力の流れを整理し、重複している処理をまとめることで、より効率的に動作させられないかというものだった。


 攻撃魔法では、こうした改良を何度も行ってきた。魔法式の構造を理解し、不要な部分を削り、必要な処理をより適切な順序で組み直す。そうすることで、同じ魔力でも大きな効果を得られる場合がある。


 けれど、回復魔法では事情が違う。


「……なるほど。確かに、術式としては成立しそうですね」


 クルシュは紙を見ながら頷いた。


「ですが、実際に治療へ使うとなると、少し慎重になった方がいいかもしれません」


「うん。私もそう思う」


「回復魔法は、生きた身体へ直接作用しますからね。魔法式として正しく動作することと、安全に治療できることは別です」


 私は頷いた。


 攻撃魔法なら、狙った対象に十分な威力を与えられれば、それで目的を達成できることが多い。もちろん周囲への被害を考える必要はあるけれど、魔法そのものの効果は比較的分かりやすい。


 一方、回復魔法では、見た目に傷が治ったとしても、それだけで十分とは限らない。身体の内部で何が起きているのか、魔法がどこまで作用しているのかを理解しなければ、正しい治療ができたとは言えないだろう。


 それでも、術式を眺めていると、いくつもの可能性が浮かんでくる。


 私の魔核出力なら、複雑な処理を同時に行うこともできるはずだ。魔法式を工夫すれば、傷の状態に合わせて作用を調整する仕組みを組み込むこともできるかもしれない。


 もちろん、まだ考えているだけだ。


 実際に使えるかどうかは、これから確かめなければならない。


「まずは、今ある術式をもっと詳しく調べてみようかな」


「それが良いと思います」


 クルシュは穏やかに頷いた。


「リカさんなら、きっと新しい発見があるでしょうね」


「ふふ。そうだといいな」


 私は書きかけの魔法式を眺めながら、少しだけ笑った。


 回復魔法は、思っていた以上に奥が深い。


 けれど、だからこそ面白い。


 まだ知らないことがたくさんあって、それを一つずつ理解していけば、今までできなかったことにも手が届くかもしれない。


 そんな期待が、胸の中で少しずつ膨らんでいた。


◇


 夕方、ハーケンの訓練場から戻ってきたタクマと合流し、私たちは森の家へ帰ることにした。


 転移魔法陣を使って森へ戻り、いつもの小道を歩く。朝と同じようにボーマンのログハウスの前を通りかかると、窓から柔らかな灯りが漏れていた。


「……本当に住み始めたんだね」


 私が呟くと、タクマが頷いた。


「ああ。何だか、少し賑やかになった気がするな」


「ふふ。そうだね」


 森の中にある家は、街の喧騒から離れていて静かだ。私はその静けさが好きだったけれど、近くに友人が住むことになったのも嬉しい。


 シエラなら、きっと時々顔を出してくれるだろう。もっとも、彼女のことだから、何の前触れもなく突然現れることもありそうだけれど。


 私は朝のやり取りを思い出し、思わず笑ってしまった。


「……どうした?」


「ううん。シエラのことを思い出してたの」


「ああ。家に入れるようにしてほしいって話か」


「もう! あれは本当に困るんだからね!」


「分かってるよ」


 タクマは笑いながら答えた。


「でも、シエラも本気で言ってたんだろうな」


「そうなんだよね……」


 私は小さくため息をついた。


 シエラは真面目で、仕事にも忠実だ。だからこそ、護衛対象の家に自由に出入りできた方が便利だと考えたのだろう。


 でも、それとこれとは別だ。


 私たちには、私たちの生活があるのだから。


 そんなことを話しているうちに、自宅へ到着した。


 家へ入ると、私は早速、今日購入した本を机へ並べた。回復魔法の専門書に、治療術式の解説書、それから魔法の運用について書かれた本。どれもまだ少ししか読めていないけれど、気になる部分がいくつもある。


 私は椅子へ腰を下ろし、早速一冊目を開いた。


「……帰ってきたばかりなのに、もう勉強か?」


 タクマが呆れたように笑った。


「だって、面白いんだもの」


「ほどほどにな」


「分かってるよ」


 そう答えながら、私はページをめくった。


 魔法式の構造を眺めていると、自然と考えが広がっていく。既存の術式がどんな仕組みで動いているのかを理解すれば、もっと効率の良い形に組み直せるかもしれない。魔核出力の高さを活かせる部分も、きっとあるはずだ。


 もちろん、回復魔法は攻撃魔法とは違う。生きた身体に作用する以上、安易に術式を変更するわけにはいかないし、治療の知識も必要になる。


 それでも、今日一日調べただけで、随分と多くのことが分かった。


 今まで使っていた回復魔法にも、まだ改良の余地がある。少なくとも、魔法式の構造だけを見れば、より効率的に動かせそうな部分はいくつも見つかった。


 私は紙を取り出し、気になった術式を書き写していく。


 その横に、自分なりに考えた改良案を書き加えた。


 魔力の流れを整理し、処理をまとめ、必要な部分だけを残す。攻撃魔法の研究で何度も繰り返してきた作業だけれど、対象が回復魔法に変わるだけで、考えなければならないことが随分と違っていた。


 けれど、それが面白い。


「リカ、夕食の準備を始めるけど、何か食べたいものはあるか?」


 台所からタクマの声がした。


「うーん……タクマの作るものなら何でも!」


「それ、一番困る答えなんだけどな」


「ふふ。じゃあ、今日はお任せ!」


「了解」


 タクマは苦笑しながら、調理の準備を始めた。


 私はその背中を少しだけ眺め、それから再び本へ視線を戻した。


 タクマが強くなったことで、私たちの戦い方は変わり始めている。


 これからは、私が前に出て敵を倒すだけでなく、後ろから仲間を支える場面も増えるだろう。回復魔法や補助魔法をもっと使いこなせるようになれば、タクマだけでなく、フリーダやクルシュ、シエラの力にもなれるはずだ。


 そのために学ぶことがあるなら、私はいくらでも時間を使いたいと思う。


 私は書きかけの魔法式へ目を落とし、もう一度、魔力の流れを頭の中で組み立て直した。


 まだ実際に試したわけではない。


 けれど、少なくとも理論の上では、今より効率よく動作する術式が作れそうだった。


「……これなら、できるかもしれない」


 思わず、小さく呟いた。


 窓の外では、森がゆっくりと夕暮れに包まれていく。


 台所からはタクマが料理をする音が聞こえ、机の上には今日手に入れたばかりの専門書が並んでいる。少し離れたログハウスには、新しい隣人もできた。


 王都から帰ってきたばかりだというのに、私たちの暮らしには、もういくつもの新しい変化が生まれていた。


 そして今、私には新しく取り組みたい研究がある。


 回復魔法をもっと深く理解し、自分の魔法で大切な人たちを守れるようになりたい。


 そのために何が必要なのか、まだすべてが分かっているわけではない。それでも、今日見つけた可能性を一つずつ確かめていけば、きっと今までとは違う魔法の使い方が見えてくるはずだ。


 私はそんな期待を胸に、再び本のページをめくった。


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