第6話 異世界の歓迎会
初めての仕事を終えたタクマは、どこか機嫌がよさそうだった。
ギルドを出てからというもの、通りに並ぶ店を眺めては商品の値段を確かめ、ときどき腰の袋へ手を伸ばしている。何かを買いたいというより、自分で稼いだお金で何ができるのか、それを知ること自体が楽しいようだった。先ほどまで倉庫と商店を行き来していたせいか、歩き方には多少の疲れが見えるものの、表情は明るい。
夕暮れのノヴァグラードは、一日のうちでも特に賑やかな時間帯を迎えていた。昼間から店を開いていた商人たちが商品を片づけ始める一方で、仕事帰りの人々を目当てにした露店が次々と天幕を広げている。焼いた肉の匂いが漂い、荷車の車輪が石畳を鳴らし、夕食の買い物をする人々の声が通りを満たしていた。
「串焼きが七百ディールか」
タクマが足を止めたのは、炭火で肉を焼いている露店の前だった。串に刺された肉から脂が滴り、炭に落ちるたびに小さな炎が上がっている。香ばしい匂いにつられたのか、タクマはしばらくその様子を眺めていた。
「食べる?」
「いや、あとで飲みに行くんだろ? せっかくだから腹を空かせておこうと思って」
「それもそうだね」
「それにしても、今日の報酬で串焼きが三十本以上買えるんだな」
「……そんなに食べるつもり?」
「いや、計算しただけだよ」
タクマは苦笑しながら、腰の袋へ手を戻した。
今日の報酬は二万三千ディール。新人冒険者の初仕事としては悪くない金額だと思う。もっとも、毎日同じように稼げるとは限らないし、宿代や食事代を考えれば、決して大金というわけでもない。けれど、タクマにとっては特別なお金なのだろう。こちらの世界へ来てから、彼はずっと私の家で暮らしている。食事も寝る場所も今のところ私が用意しているけれど、本人はそれを気にしているようだった。
今日の仕事も、早く自分の力で生活できるようになりたいという気持ちがあったからこそ、あれだけ真剣に取り組んでいたのだと思う。
そんなことを考えながら歩いていると、不意に背後から声をかけられた。
「おや、リカじゃないか」
聞き覚えのある、少し低めの女性の声だった。
振り返ると、通りの向こうから二人の冒険者が歩いてくるところだった。一人は背の高い女性で、使い込まれた革鎧の上から長い槍を背負っている。もう一人は、落ち着いた色合いの外套を羽織った男性で、細身の杖を手にしていた。二人とも旅装には薄く土埃がついていて、街の外から戻ったばかりなのが分かる。
「あ、フリーダ。クルシュも。おかえり」
「ただいま。そっちは買い物かい?」
「ううん。今日はギルドの依頼を受けてたんだ」
「へえ、珍しいね。こんな時間に仕事を終わらせるなんて」
フリーダはそう言って笑った。
彼女はB級冒険者の槍使いで、私が冒険者になったばかりの頃から何かと面倒を見てくれている人だ。少し口は悪いけれど、面倒見がよく、困っている仲間を放っておけない。私にとっては、姉のような存在でもある。
隣にいるクルシュもB級冒険者で、魔法を得意としている。穏やかな物腰と整った顔立ちのせいで、初対面の人からは優男だと思われがちだけれど、実際にはなかなか頼りになる魔導士だ。フリーダが前に出て敵を引きつけ、クルシュが後方から援護する二人の連携は、私も何度か見たことがある。
ちなみに、この二人は恋人同士でもある。
「討伐帰り?」
「そう。森の奥でちょっと厄介なのが出たっていうから、二人で片づけてきたところ」
「怪我は?」
「ないない。クルシュがちゃんと援護してくれたからね」
「僕は後ろから魔法を撃っていただけだよ。ほとんどフリーダが倒してしまったし」
「そういうこと言うんじゃないよ。アンタの魔法がなかったら、もっと面倒だったんだから」
フリーダはクルシュの肩を軽く叩いた。
いつもどおりの二人だ。フリーダが豪快に笑い、クルシュが穏やかに受け答えをする。性格はずいぶん違うのに、不思議と息が合っている。討伐帰りで疲れているはずなのに、二人の間には妙な余裕があった。
そのとき、フリーダの視線が私の隣へ移った。
「……ところで、そっちの兄ちゃんは?」
「ああ、紹介するね。タクマっていうんだ。最近ギルドに登録したばかりの新人で、今日はその付き添いをしてたの」
「新人?」
フリーダは眉を上げた。
タクマは少し姿勢を正し、丁寧に頭を下げる。
「初めまして。タクマ・イザワです。よろしくお願いします」
「フリーダだ。こっちはクルシュ。よろしくね」
「初めまして、タクマ。リカの友人のクルシュです」
クルシュは柔らかく微笑んだ。
ところが、フリーダは挨拶を済ませても、タクマから視線を外そうとしなかった。頭の先から足元まで、遠慮なく眺めている。鎧も武器も持たず、冒険者らしい装備といえば腰の袋くらいしかないタクマの姿は、彼女にとって少し奇妙に映ったのかもしれない。
……あ。
これは、少し面倒なことになりそうだ。
「ふうん……」
フリーダは腕を組んだ。
「アンタ、リカのこと騙してないだろうね?」
「……え?」
タクマが目を丸くした。
「ちょっと、フリーダ。いきなり何を言ってるの」
「何って、確認だよ。この子、妙なところで人がいいからね。困ってるって言われると、放っておけないんだ」
「そんなことないでしょ」
「あるよ。昔からそうじゃないか」
私は反論しようとして、少しだけ言葉に詰まった。
確かに、困っている人を見かけると、つい手を貸したくなることはある。けれど、それは別に悪いことではないはずだ。少なくとも、相手の事情も聞かずに放っておくよりは、ずっといいと思っている。
フリーダはそんな私の反応を見て、呆れたように笑った。
「ほらね」
「ほらね、じゃないよ」
クルシュが苦笑しながら口を挟んだ。
「ごめんね、タクマ。フリーダはリカのことになると、少し心配性なんだ」
「心配性で悪かったね」
「悪いとは言ってないよ」
クルシュは慣れた様子で答えた。
タクマは少し戸惑っていたけれど、やがてフリーダへ向き直った。
「今は確かに、リカにずいぶん世話になっています。でも、いつまでも頼るつもりはありません。今日から仕事も始めましたし、少しずつ自分で生活できるようになりたいと思っています」
フリーダは黙って彼の顔を見つめた。
タクマも視線を逸らさなかった。彼女の言葉に腹を立てた様子はなく、かといって必要以上に取り繕うこともない。ただ、自分の考えをそのまま伝えているように見えた。
ほんの少しの沈黙のあと、フリーダの口元が緩んだ。
「……そうかい。なら、頑張んな」
「はい。ありがとうございます」
「ただし、リカを泣かせるようなことをしたら承知しないからね」
「だから、フリーダ!」
私が抗議すると、彼女は声を上げて笑った。
「冗談だよ、冗談。半分くらいはね」
「半分は本気なんだ……」
タクマが小さく呟いた。
クルシュは申し訳なさそうに笑いながら、フリーダの背中へ手を添えた。
「そろそろ行こうか。報告もまだだろう?」
「ああ、そうだったね」
フリーダはうなずき、もう一度タクマへ目を向けた。
「ま、リカが連れて歩いてるくらいだから、悪い奴じゃないんだろうさ。また会ったら声をかけな」
「はい。ぜひ」
「今度、時間が合えば一緒に食事でもどうかな」
クルシュがそう言うと、タクマは嬉しそうにうなずいた。
「ありがとうございます。そのときはぜひ」
私たちは軽く手を振り、二人と別れた。
フリーダは去り際に私の肩をぽんと叩き、何か言いたげに笑っていたけれど、私はあえて気づかないふりをした。
まったく、余計な心配をするんだから。
*
「……なかなか迫力のある人だったな」
二人の姿が見えなくなった頃、タクマがようやく口を開いた。
「怖かった?」
「ちょっとな。いきなり騙してないかって聞かれるとは思わなかった」
「ごめんね。悪い人じゃないんだけど」
「いや、それは分かったよ。リカのことを心配してるんだろ?」
私は少し驚いてタクマを見た。
「……そうだね。昔から、いろいろ面倒を見てもらってるから」
「姉ちゃんみたいな人?」
「うん。そんな感じかな」
フリーダと知り合ったのは、私が冒険者になって間もない頃だった。
当時の私は魔法の腕にはそれなりの自信があったけれど、冒険者としての経験はほとんどなかった。依頼の受け方も、ほかの冒険者との付き合い方も、何もかも手探りだったのだ。
そんな私に、フリーダは何かと声をかけてくれた。
危険な場所へ一人で行くなとか、依頼書は最後まで読めとか、知らない相手の話を簡単に信用するなとか。今になって思えば、ずいぶん当たり前のことばかりだけれど、当時の私にはそれが新鮮だった。最初の頃は口うるさいと思うこともあったけれど、何度か依頼をこなすうちに、彼女の言葉がどれだけ大切だったのか分かるようになった。
フリーダは仲間を失うつらさも知っている。だからこそ、誰かが危ない橋を渡ろうとすると、黙っていられないのだろう。あの強い言葉の裏には、彼女なりの優しさがある。
「それにしても、クルシュさんとはずいぶん雰囲気が違うな」
「でしょ? でも、あの二人、付き合ってるんだよ」
「やっぱり。何となくそんな気がした」
「結構長いんだよ。クルシュがいなかったら、フリーダはもっと怖いと思う」
「……それはちょっと想像したくないな」
タクマが真顔で答えたので、私は思わず笑ってしまった。
それから、私たちは待ち合わせの酒場へ向かった。
*
ギルドから少し歩いたところにある酒場は、夕食時になるといつも賑わっている。
大きな木の扉を開けると、焼いた肉と香草の匂いが鼻をくすぐった。店内には丸い木の卓がいくつも並び、冒険者や職人、商人らしい人々が思い思いに食事を楽しんでいる。壁際の暖炉には火が入り、天井から吊るされた魔道具の灯りが、店内を柔らかく照らしていた。杯を打ち合わせる音や笑い声が絶えず、仕事を終えた人々の開放感が店いっぱいに広がっている。
「いらっしゃい……お、リカじゃないか」
奥から声をかけてきたのは、恰幅のいい店主だった。
「こんばんは。三人で使える席、空いてる?」
「空いてるよ。いつもの奥の席でいいか?」
「うん。ありがとう」
私はタクマを連れて、窓際の卓へ向かった。
席に着くと、彼は店内を興味深そうに見回した。鎧を着たまま酒を飲んでいる冒険者もいれば、仕事着のまま食事をしている職人らしい人たちもいる。身分も職業も違う人々が、同じ卓を囲んで笑い合っている光景が珍しいのかもしれない。
「結構賑やかなんだな」
「この時間はいつもこんな感じだよ。冒険者も多いけど、近くで働いてる人たちもよく来るんだ」
「なるほど。居酒屋みたいなものか」
「イザカヤ?」
「ああ、俺のいたところで、お酒を飲んだり食事をしたりする店のこと」
「それなら、ほとんど同じだね」
タクマはうなずき、壁に掲げられた料理の札へ目を向けた。
「……当然だけど、メニューも読めないな」
「今日は私が注文してあげるよ。嫌いなものとかある?」
「いや、特には。リカのおすすめで頼むよ」
「分かった。じゃあ、適当にいくつか頼もうか」
私は店員を呼び、香草焼きの肉と豆の煮込み、焼きたてのパン、それから野菜の盛り合わせを注文した。どれもこの店では定番の料理で、初めて来た人にも勧めやすい。特に肉料理は香草の使い方が上手で、私もよく注文している。
飲み物については、タクマに好みを聞いてから決めることにした。
「お酒は飲める?」
「ああ、普通に飲むよ」
「じゃあ、麦酒はどう? この店のは結構おいしいよ」
「麦酒?」
「麦から造ったお酒。少し苦くて、泡が出るやつ」
「……ああ、ビールみたいなものか」
「ビール?」
「いや、こっちの話。じゃあ、それにしてみようかな」
そんな話をしているところへ、店の扉が開いた。
「ごめん、ごめん! 遅くなっちゃった!」
エリナだった。
仕事用の服から着替えてきたらしく、いつもより少し気楽な格好をしている。受付にいるときはきちんとまとめている髪も、今日は肩に下ろしていた。ギルドの中では常に笑顔を絶やさない彼女だけれど、こうして仕事を終えたあとは、表情も声もずいぶん柔らかくなる。
「お疲れ様。大変だった?」
「もう、聞いてよ。最後の最後で面倒な依頼が来ちゃってさ。今日は早く終わると思ってたのに」
エリナは椅子に腰を下ろすと、大きく息をついた。
「まったく、どうして帰ろうとすると仕事が増えるのかしら」
「そういう日もあるよね」
「あるある。……って、リカは最近そういう仕事してないでしょ」
「まあ、そうだけど」
私は笑いながら答えた。
エリナはタクマへ向き直り、いつもの受付嬢らしい笑顔を浮かべた。
「タクマさん、お待たせしてすみませんでした」
「いえ、大丈夫ですよ。それより、エリナさんもそんな堅苦しくなくていいですよ」
「え?」
「タクマって普通に呼んでください。敬語もなしで。仕事中じゃないですし」
エリナは少し意外そうな顔をしたあと、すぐに笑った。
「あ、そう? じゃあ、私もエリナでいいよ!」
「分かった。よろしく、エリナ」
「こちらこそ、タクマ!」
ずいぶんあっさり打ち解けたものだ。
私は二人のやり取りを眺めながら、何となく微笑ましい気持ちになった。タクマは初対面の相手にも礼儀正しいけれど、必要以上に距離を置くわけではないらしい。相手の様子を見ながら自然に話し方を変えられるのは、彼が以前していた仕事の影響なのかもしれない。
すると、エリナがこちらへ顔を向けた。
「大丈夫、大丈夫。タクマ取らないから!」
「……は?」
思わず間の抜けた声が出た。
「何の話?」
「いや、リカがじっと見てたから」
「普通に見てただけでしょ!」
「はいはい。そういうことにしておくね」
エリナは楽しそうに笑った。
タクマは何とも言えない顔で私たちを見比べている。
「……二人って、いつもこんな感じなのか?」
「そうだよ」
「違うからね」
エリナと私の声が重なった。
それを聞いたタクマが笑い出し、結局、私もつられて笑ってしまった。
*
飲み物が運ばれてくると、エリナは真っ先に杯を持ち上げた。
「それじゃあ、改めまして。タクマの冒険者登録と、初仕事の成功を祝って!」
「乾杯!」
「乾杯」
三人の杯が軽く触れ合い、澄んだ音を立てた。
私は麦酒を一口飲んだ。ほどよい苦味と香ばしさが口に広がり、仕事のあとの身体に心地よく染み込んでいく。冷たい酒が喉を通る感覚は、何度味わっても悪くない。
タクマも一口飲み、少し驚いたように目を見開いた。
「……うまいな、これ」
「でしょ?」
「ああ。思ったよりずっと飲みやすい」
「この店の麦酒は評判いいんだよ」
エリナが嬉しそうに説明した。
「ほかにも果実酒とか蒸留酒とか、いろいろあるからね。気になるものがあったら頼んでみて」
「へえ。結構種類があるんだな」
「もちろん。お酒好きにはいい店だよ」
エリナはそう言って、ちらりと私を見た。
「……ねえ、リカ」
「何?」
「今日はずいぶんおとなしいね」
「そう?」
「うん。いつもなら、もう次のお酒を注文してる頃じゃない?」
「まだ一杯目を飲んでるんだから、別に普通でしょ」
「それが普通じゃないんだって」
エリナは呆れたように笑った。
タクマが興味深そうにこちらを見る。
「リカって、そんなに酒飲むのか?」
「普通だよ。普通」
「……本当に?」
「本当だって」
私が答えると、エリナが横から口を挟んだ。
「この子ね、結構飲むのよ。しかも酔うと人に絡み始めるの」
「ちょっと、エリナ」
「肩を組んできたり、同じ話を何回もしたり。あと、急に説教を始めることもあるかな」
「説教なんかしてないでしょ」
「この前なんて、私の腕をつかんで『エリナはもっと休みを取るべきだと思う!』って、ずっと言ってたじゃない」
「……それは正論でしょ」
「正論でも、同じ話を三回も聞かされたら困るのよ」
タクマが吹き出した。
私は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
……そんなにひどかっただろうか。
確かに、エリナと飲みに行くと、つい楽しくなってしまうことはある。普段はギルドの受付で忙しく働いている彼女も、お酒が入ると仕事の愚痴をこぼしたり、私の依頼の話を聞きたがったりする。それが嬉しくて、気づけば長い時間話し込んでいることも珍しくない。
でも、今日は少し違う。
タクマがいるからだ。
別に、彼の前で格好をつけたいわけではない。……いや、少しくらいはあるかもしれないけれど、少なくとも初めての歓迎会で酔いつぶれるようなことはしたくなかった。私は一応、彼の先輩なのだから。
「まあ、今日は控えめにしておこうかな」
そう呟くと、エリナが目を細めた。
「へえ。控えめに、ねえ」
「……何?」
「別に?」
私は嫌な予感がした。
エリナは笑顔のまま、タクマへ顔を向けた。
「ねえ、タクマ。リカって、普段は結構しっかりしてるでしょ?」
「ああ。いろいろ教えてもらってるし、頼りにしてるよ」
「そうなんだ。ふふっ」
「……エリナ?」
「いやあ、リカも先輩らしく振る舞いたいんだなあと思って」
「……悪い?」
「ううん。ちょっと可愛いなと思って」
私は杯を持ち上げ、麦酒を飲んだ。
こういうときは、何を言ってもエリナの思うつぼだ。それにしても、今日はどうしてこんなにからかわれるのだろう。タクマが来てからというもの、エリナはやたらと楽しそうだ。
*
料理が運ばれてくると、話題は自然と食べ物へ移った。
香草をまぶして焼いた肉は表面がこんがりと色づき、切り分けると中から肉汁があふれた。豆の煮込みは野菜の甘味がよく出ていて、焼きたてのパンを浸して食べるとおいしい。タクマも気に入ったようで、何度も感心したようにうなずいていた。
「これ、普通にうまいな」
「普通にって何?」
私が尋ねると、タクマは少し困ったように笑った。
「いや、もっと変わった料理が出てくると思ってたんだよ。知らない食材ばっかりとか、見たこともない調理法とか」
「何それ。私たち、普段何食べてると思われてるの?」
エリナが笑った。
「いや、そういうわけじゃないんだけどさ」
「まあ、珍しい食材を使った料理もあるけどね。魔物の肉とか」
「……魔物の肉?」
タクマの手が止まった。
私は思わず笑った。
「大丈夫。今日のは普通の家畜のお肉だから」
「……そうか。よかった」
「そんなに嫌?」
「いや、食べたことがないから、ちょっと身構えるだろ」
「ふふ。確かにそうかもね」
私はパンをちぎりながら、タクマの様子を眺めた。
こちらの料理が彼の故郷とどのくらい違うのか、私には分からない。でも、初めて見るものを警戒しながらも、少しずつ試してみようとするところは、いかにもタクマらしい気がした。
そのうち、エリナが今日の依頼について尋ね始めた。
「そういえば、タクマ。今日の仕事、結構評判よかったみたいだね」
「そうなのか?」
「うん。商人さん、追加依頼の手続きに来たとき、ずいぶん褒めてたよ。店の配置まで考えてくれたって」
「いや、ちょっと提案しただけだよ」
「でも、初仕事でそこまでやる人って珍しいと思う」
エリナは感心したように言った。
私はうなずいた。
「本当にね。私なんて、最初はただ荷物を運べばいいと思ってたから」
「リカらしいね」
「……どういう意味?」
「そのままの意味だけど?」
エリナは笑った。
それから、何かを思い出したように手を叩いた。
「あ、そうだ。タクマ、聞いてよ。この子、新人の頃から結構無茶してたんだから」
「……エリナ?」
「初めての討伐依頼だったかな。魔物を倒して帰ってきたのに、討伐証明になる部位を何も持ってこなかったことがあるの」
「ちょっと待って。それ、今話す必要ある?」
「あるある。せっかくの歓迎会だし」
エリナは楽しそうに続けた。
「それでね、受付で『ちゃんと倒したよ』って言い張るの。でも、証拠がないから報酬を出せないって説明したら、すごく不満そうな顔をして」
「……だって、本当に倒したんだよ?」
「ほら、今でも言ってる」
タクマが笑った。
「それで、どうなったんだ?」
「結局、もう一度現場まで行って、討伐した魔物を探したの」
「……それは大変だったな」
「本当よ。しかも、見つけた頃にはほかの魔物に食べられかけててね」
「エリナ、もうその辺で……」
「でも、何とか証明部位だけは回収できたんだよね?」
「……うん」
私は少しだけ視線を逸らした。
あれは、確かに失敗だった。
当時の私は、魔物を倒せば依頼は終わりだと思っていた。討伐証明が必要だということは説明されていたはずなのに、実際に魔物を倒したことが嬉しくて、すっかり忘れてしまったのだ。しかも、ギルドへ戻ってからエリナに説明されるまで、何が問題なのかさえ分かっていなかった。
今なら、そんな失敗はしない。
……たぶん。
「でも、リカが新人だった頃って、そんな感じだったんだな」
タクマが少し意外そうに言った。
「まあね。最初から何でもできたわけじゃないよ」
「そっか」
彼はうなずいた。
その表情が少し柔らかくなったように見えたのは、気のせいだろうか。
昨日の研修で、自分の剣や魔法の実力に少し落ち込んでいたタクマにとって、私にも失敗ばかりしていた時期があったという話は、多少の慰めになったのかもしれない。
……まあ、あまり詳しく知られるのも困るけれど。
*
お酒が進むにつれて、三人の会話もずいぶん気楽なものになっていった。
タクマは最初こそ少し遠慮していたけれど、エリナの気さくな性格に慣れてきたのか、今では普通に冗談を返している。エリナも仕事中とは違い、よく笑い、よく喋った。私も二人の会話に加わりながら、果実酒を口に運んでいた。
……あれ?
いつの間にか、三杯目だ。
まあ、まだ大丈夫だろう。
「そういえば、タクマって東の方から来たんだっけ?」
エリナが尋ねた。
「ああ、まあ……そんな感じかな」
「どんなところなの? ノヴァグラードとは全然違う?」
タクマは少し考えた。
私は何気ないふりをしながら、彼の返事を待った。
タクマが別の世界から来たことは、まだエリナには話していない。そもそも、そんな話をして簡単に信じてもらえるとも思えなかったし、今は余計な騒ぎを起こしたくなかった。タクマ自身も、そのことは理解しているはずだ。
「そうだな。街の造りも違うし、食べ物も結構違うよ。あと、仕事のやり方なんかも」
「へえ。例えば?」
「俺のいたところだと、家を建てるときに、ものすごく細かく計画を立てるんだ。何をどこに置くかとか、どういう順番で工事するかとか」
「なるほど。それで今日も、あんなに段取りがよかったんだ」
「まあ、多少は関係あるかもしれないな」
タクマは苦笑した。
エリナは興味深そうに身を乗り出した。
「じゃあ、タクマって、向こうでは結構偉い人だったの?」
「いやいや、全然。普通の会社員だよ」
「カイシャイン?」
「ああ……そうか、そういう言葉もないのか」
タクマは少し考えた。
「商会で働いてる人、みたいな感じかな。俺は家を建てたい人の相談に乗ったり、職人さんと打ち合わせしたりする仕事をしてたんだ」
「へえ。じゃあ、商人に近いのかな」
「そうかもしれないね」
私は横から口を挟んだ。
エリナは納得したようにうなずき、さらに質問を続けた。
「じゃあ、家族も向こうにいるの?」
その言葉に、タクマの表情がほんの少し変わった。
「ああ。いるよ」
「そっか。遠くまで来たんだね」
「……そうだな」
タクマは杯を見つめ、少しだけ笑った。
「今頃、どうしてるかな」
その声を聞いて、私は胸の奥が少しだけ痛くなった。
タクマはこの世界で働き始め、こうして新しい知り合いもできた。でも、それで故郷への思いが消えるわけではない。突然、何の前触れもなく知らない世界へ連れてこられたのだ。残してきた家族が心配なのは当然だろうし、自分がいなくなったことで、向こうの人たちがどんな思いをしているのかも気になっているはずだ。
私は何か声をかけようとして、結局、言葉を見つけられなかった。
すると、エリナが少し明るい声を出した。
「まあ、せっかくノヴァグラードに来たんだし、こっちでも友達を増やしていけばいいよ。困ったことがあったら、ギルドでも相談に乗るからさ」
「……ありがとう、エリナ」
タクマは顔を上げ、笑った。
私はその様子を見て、少しだけ安心した。
エリナはタクマの本当の事情を知らない。でも、知らないなりに、彼の気持ちを気遣ってくれたのだと思う。無理に事情を聞き出そうとせず、今できることを伝える。そのさりげない優しさが、私は好きだった。
*
「ところでさ」
エリナが、ふと思い出したように口を開いた。
その表情を見た瞬間、私は嫌な予感がした。
「タクマって、今リカの家に住んでるんだよね?」
「ああ。世話になってるよ」
「……男の人と二人暮らしなんだ?」
「エリナ」
私は少し低い声で名前を呼んだ。
けれど、彼女はまったく気にしていない。
「だって、事実でしょ?」
「事情があるんだから、そういう言い方しないでよ」
「へえ、事情ねえ」
エリナは意味ありげに笑った。
タクマが困ったように口を挟む。
「いや、本当に世話になってるだけだよ。俺が一人で生活できるようになるまで、って話だから」
「ふうん。そうなんだ」
エリナはうなずき、それから私へ視線を向けた。
「それで、今日はお酒も控えめ、と」
「……それとこれとは関係ないでしょ」
「そうかなあ?」
「そうだよ」
私は杯を置いた。
……四杯目だった。
いや、四杯くらいなら普通だ。いつもに比べれば、むしろかなり控えている方だと思う。
すると、エリナが楽しそうに笑った。
「タクマ、知ってる? リカがいつもどおり飲んでたら、今頃もっと大変なんだから」
「そんなに違うのか?」
「違う違う。そろそろ私に肩を組んで、何か説教を始める頃だよ」
「だから、説教じゃないってば」
「じゃあ、この前の『エリナはもっと休むべきだと思う』は何だったの?」
「心配してただけでしょ」
「それを延々と聞かされる私の身にもなってよ」
タクマは声を出して笑った。
私は少しむっとしたけれど、反論しようとして、ふと気づいた。
……確かに、エリナにはよく絡んでいるかもしれない。
でも、それは彼女と一緒に飲むのが楽しいからだ。仕事の話も、昔の話も、どうでもいい話も、気兼ねなくできる相手だからこそ、つい長話になってしまう。それを全部、酔ったせいにされるのは少し納得がいかない。
「でもさ、エリナ」
「何?」
「実際、最近ちょっと働きすぎじゃない?」
「……ほら、始まった」
「始まってない!」
エリナが笑い、タクマもまた笑った。
私はため息をついて、残っていた果実酒を飲み干した。
……もう一杯くらい、頼んでもいいかな。
*
しばらくして、店主が料理を追加で運んできた。
「お、リカ。今日はずいぶん楽しそうだな」
「うん。新しい仲間の歓迎会なんだ」
「ほう。そっちの兄ちゃんか?」
「そう。タクマっていうんだ」
タクマは椅子から少し身を起こした。
「初めまして。タクマです。よろしくお願いします」
「おう。リカの連れなら歓迎するよ。うちの料理、気に入ったか?」
「はい。すごくおいしいです」
「そりゃよかった」
店主は満足そうに笑った。
それから、私の前に並んだ空の杯を見て、少し眉を上げた。
「……今日はまだ大人しい方だな」
「ちょっと、店主まで何を言ってるの」
「いや、いつもより静かだと思ってな」
エリナがすかさず口を挟んだ。
「でしょ? 今日はタクマがいるから、少し控えてるみたいなの」
「なるほどなあ」
「なるほどじゃない!」
私は思わず抗議した。
店主は豪快に笑いながら、タクマへ顔を向けた。
「兄ちゃん、こいつが酔っ払っても、ちゃんと家まで連れて帰ってやれよ」
「……分かりました。気をつけます」
「タクマまで真面目に答えなくていいから!」
また笑い声が上がった。
私は頬杖をつきながら、三人の顔を見回した。
……何だろう。
今日の歓迎会は、タクマのために開いたはずなのに、いつの間にか私の飲み方を話す会になっている気がする。
まあ、みんな楽しそうだからいいけれど。
私は追加で運ばれてきた料理を取り分け、タクマの皿へ置いた。
「はい、タクマ。これもおいしいよ」
「ありがとう」
「ちゃんと食べてね。今日、結構働いたんだから」
「ああ。リカもな」
「私は大丈夫。まだまだ元気だよ」
「……それは見れば分かる」
タクマが笑った。
私は少しだけ胸を張った。
そうだとも。これくらいのお酒で酔いつぶれるようでは、A級冒険者の名が廃る。
……まあ、冒険者の等級とお酒の強さには、何の関係もないけれど。
*
歓迎会が終わる頃には、すっかり夜も更けていた。
店の外へ出ると、昼間の賑わいは落ち着き、通りには魔道具の街灯が柔らかな光を落としていた。遠くからは、まだ営業している酒場の笑い声や、荷車の車輪が石畳を鳴らす音が聞こえてくる。昼間は人の波で見えなかった建物の輪郭も、今は夜空を背景にはっきりと浮かび上がっていた。
「いやあ、楽しかった!」
エリナが大きく伸びをした。
「久しぶりにこんなに笑った気がする」
「私も楽しかったよ」
「タクマは?」
「ああ。すごく楽しかった。誘ってくれてありがとう」
「どういたしまして。また飲みに行こうね」
「ぜひ」
エリナは嬉しそうに笑った。
それから、私へ顔を向ける。
「リカ、今日は最後までちゃんと大人しくしてたね」
「……だから、いつもそんなにひどくないでしょ」
「はいはい。そういうことにしておく」
エリナは笑いながら手を振った。
「じゃあ、二人とも気をつけて帰ってね。おやすみ!」
「おやすみ、エリナ」
「おやすみ」
私たちはエリナと別れ、夜の街を歩き始めた。
酒場を出てしばらくすると、タクマが小さく息を吐いた。
「今日は楽しかったな」
「うん。エリナも楽しそうだったね」
「ああ。フリーダさんとクルシュさんにも会えたし、何というか……いろんな人と知り合えた一日だった」
「そうだね」
私はうなずいた。
タクマは少し考えたあと、続けた。
「リカって、こっちでちゃんと自分の居場所を作ってきたんだな」
その言葉に、私は思わず彼の顔を見た。
「……どうして?」
「いや、今日会った人たち、みんなリカのことをよく知ってたからさ。フリーダさんは心配してたし、エリナは遠慮なくからかってたし、酒場の店主も昔からの知り合いみたいだったし」
「まあ、長く住んでるからね」
「それだけじゃないと思うよ」
タクマは笑った。
「みんな、リカのことを大事に思ってるんだなって感じた」
私は少しだけ言葉に詰まった。
七年前、王宮を飛び出したばかりの私は、この街に知り合いなんて一人もいなかった。
自分が何者なのかを知られないように気をつけながら、冒険者として依頼をこなし、少しずつ人と関わるようになった。フリーダに助けられ、クルシュと知り合い、エリナと友達になり、気づけば行きつけの店までできていた。
どれも、王女という身分とは関係のないつながりだった。
私がリカとして、この街で過ごしてきた時間そのものなのだ。
「……そうかもね」
私は小さく笑った。
タクマは夜の通りへ目を向けた。
「俺も、少しずつそうなれたらいいな」
「なれるよ」
私は迷わず答えた。
「今日だって、もう商人さんに顔を覚えてもらったじゃない。エリナとも仲良くなったし、フリーダたちだって、また会ったら声をかけてくれると思う」
「そうかな」
「うん。大丈夫だと思う」
タクマは少し照れくさそうに笑った。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
私は前を向き、夜の街灯を見上げた。
タクマがこの世界へ来てから、まだそれほど時間は経っていない。知らない土地で、知らない人に囲まれ、帰る方法も分からないまま暮らしているのだから、不安がないはずはない。
それでも、今日の彼はよく笑っていた。
仕事をして、お金を稼いで、人と知り合い、一緒に食事をする。そんな当たり前のことを一つずつ積み重ねていけば、いつかこの街も、彼にとって居心地のいい場所になるのかもしれない。
私がこの街でそうしてきたように。
「それにしても、フリーダさんにはもう一回面接されそうだな」
タクマがぽつりと言った。
私は思わず笑った。
「ありそうだね」
「次は何を聞かれるんだろうな」
「うーん……仕事はちゃんとしてるのか、とか?」
「それは今日、ちゃんと説明しただろ」
「じゃあ、リカに迷惑かけてないか、とか」
「……それも聞かれそうだな」
二人で笑った。
しばらく歩いたところで、タクマがふと思い出したように私へ顔を向けた。
「そういえば、リカ」
「ん?」
「今日は結局、何杯飲んだんだ?」
「……え?」
「いや、エリナが控えめだって言ってたからさ。実際、どのくらい飲んだのかなと思って」
私は少し考えた。
麦酒を一杯、果実酒を何杯か。それから、途中で店主が勧めてくれた蒸留酒も少し飲んだような気がする。
……あれ?
「……数えてない」
「数えてないのかよ」
「でも、今日は本当に控えめだったんだよ?」
「ああ、うん。それは分かった」
「本当だからね?」
「分かったって」
タクマは笑っていた。
私は少しむっとしたけれど、すぐにおかしくなって笑ってしまった。
まあ、いいか。
今日はタクマの歓迎会だったのだ。本人が楽しんでくれたのなら、それで十分だろう。
それに、私も楽しかった。
いつもの酒場で、いつもの友達と飲んでいるだけなのに、そこにタクマが加わったことで、何だか少し違う夜になった気がする。今まで当たり前だった景色を、初めて見る彼の目を通して眺めると、私自身も新しい発見をすることがある。
それは、案外悪くないことだった。
「ねえ、タクマ。明日も何か仕事探してみる?」
「ああ。そうしようかな」
「じゃあ、またギルドに行こうか」
「よろしく頼むよ、先輩」
「ふふ。任せて」
私は少しだけ歩く速度を上げ、隣を歩くタクマへ笑いかけた。
夜の街灯が、私たちの足元を柔らかく照らしている。石畳の上に並んだ二つの影は、歩くたびに伸びたり縮んだりしながら、静かな通りの先へ続いていた。
明日もきっと、何か新しいことが待っている。
そんな予感を抱きながら、私たちは家路についた。




