第49話 帰還の門
マリアベル王国との国境が近づくにつれ、街道を行き交う人々の様子が少しずつ変わり始めた。
最初に気づいたのは、すれ違う商人たちの表情だった。ノヴァグラードから続く街道では、旅人同士で挨拶を交わしたり、道の状態について情報を交換したりすることも珍しくない。ところが、マリアベル方面からやってくる馬車の御者たちは、どこか疲れた顔をしている。道端で休憩している商人たちも、集まって何やら不満げに話し込んでいた。
どうやら、国境の検問が随分と厳しくなっているらしい。
「荷物を全部降ろして調べられたんだ。おかげで半日も足止めされたよ」
街道沿いの休憩所で話しかけた行商人は、そう言って大きく肩をすくめた。荷馬車には布や日用品が積まれており、どうやら王都方面から商品を仕入れてきたところらしい。
「普段からそんなに厳しいんですか?」
タクマが尋ねると、男は呆れたように首を振った。
「とんでもない。いつもなら通行証を見せて、荷物をざっと確認すりゃ終わりだよ。ところが今は、袋の中身まで調べられる。何かあったのか聞いても、兵隊は何も教えてくれないしな」
「王都の方も同じような状況なんでしょうか」
「さあな。ただ、あっちでも兵隊が増えてるって話は聞いたよ。俺はしばらく近づきたくないね」
男はそう言って水筒を取り出し、喉を潤した。
私たちは礼を述べ、再び馬に乗って街道へ戻った。
王都でも警備が強化されているという話を聞いて、私は先頭を進むボーマンの背中へ視線を向けた。ヴィルヘルム兄上の死が関係していることは、まず間違いないだろう。けれど、行商人の話を聞く限り、その事実はまだ一般には知らされていないようだった。
王太子の死は、国全体に関わる重大な出来事だ。普通であれば、速やかに各地へ知らせが届けられ、葬儀の準備とともに服喪の布告が出されるはずだった。少なくとも、私が王宮で教わった儀礼ではそうなっている。
それが、今は行われていない。
兄上が亡くなってから、まだそれほど日が経っていないとはいえ、王宮が何も発表していないことには違和感があった。葬儀の日程が決まっていないのか、それとも王位継承を巡って何か問題が起きているのか。七年間も王宮から離れていた私には、今の内情を知る手段がなかった。
「リカ、少し休むか?」
隣を進むタクマが声をかけてきた。
「ううん、大丈夫よ。ちょっと考え事をしてただけ」
「国境のことか?」
「それもあるけど……兄上のことが、まだ公表されていないみたいだから」
「そうだな。あの商人も何も知らない様子だった」
タクマは少し考えてから、前を向いた。
「王都に着けば事情が分かるかもしれないけど、今は気をつけて進むしかないな」
「……ええ。そうね」
彼の言うとおりだった。ここでいくら考えても、王宮の事情が分かるわけではない。それなら、まずは無事に王都へ到着することを優先した方がいい。
私は手綱を握り直し、少しだけ馬の速度を上げた。
先頭を進んでいたボーマンが、私たちに合わせて馬を緩める。
「殿下。検問所では、できるだけわたくしにお任せいただけますかな」
「ええ。お願いするわ」
「今は警備が厳しくなっております。余計な説明をすれば、かえって時間がかかることもございましょう。わたくしを王都まで護衛するということであれば、何も不自然なことはございません」
「そうね。私たち三人とも、ちゃんと冒険者証を持ってるんだもの」
私はタクマとシエラを見た。
タクマはB級冒険者。シエラも、表向きはノヴァグラード所属のB級冒険者として活動している。彼女の本当の仕事については色々と複雑な事情があるけれど、冒険者証そのものは正式なものだ。
そして私はA級冒険者。
高位の冒険者三人が、身なりの良い老人を王都まで護衛する。報酬の高そうな依頼ではあるけれど、冒険者ギルドでは珍しくない仕事だった。
「……問題ないと思う」
シエラも短く答えた。
「ほほほ。では、そのようにいたしましょう」
ボーマンは満足そうに頷いた。
私は無意識に、自分の髪へ手を伸ばした。
今ではすっかり見慣れた金色の髪だけれど、もともとの色は茶色だった。七年前、王宮から逃げ出してしばらくしてから、追っ手に見つかりにくくするために染め始めたものだ。
当時は髪を染めるだけでも随分と苦労したけれど、今では魔法と薬剤を組み合わせて、手軽に色を維持できるようになっている。変装のために始めたことだったのに、長年続けているうちに、こちらの方が自分らしく感じられるようになってしまった。
もっとも、髪の色を変えただけで別人になれるわけではない。
王宮にいた頃の私を知る人間が、今の姿を見てどう思うのか。そればかりは、実際に会ってみなければ分からなかった。
「……リカ」
シエラが声をかけた。
「どうしたの?」
「……検問所、見えてきた」
彼女の視線の先には、街道を横切るように設けられた木製の柵と、その周囲に並ぶ兵士たちの姿があった。
私たちは自然と口数を減らし、馬を進めた。
*
国境検問所は、私が想像していた以上に物々しい雰囲気に包まれていた。
街道の両側には槍を持った兵士が並び、馬車の荷台を調べる者、通行人の身分を確認する者、周囲を警戒する者と、それぞれ役割を分担している。少し離れた場所には騎兵まで待機しており、何かあればすぐに動けるよう準備しているらしかった。
検問を待つ列も長く、商人たちが苛立った様子で順番を待っていた。兵士たちは一人ずつ丁寧に対応しているものの、荷物の確認に時間がかかるため、なかなか列が進まない。
「……確かに厳重だな」
タクマが小声で呟いた。
「うん。ここまでの警備は、私も初めて見るわ」
「昔はもっと簡単に通れたのか?」
「……実は、よく知らないの」
タクマが不思議そうな顔をした。
「そうなのか?」
「ええ。王宮にいた頃は、国境まで出かける機会なんてなかったし……七年前に逃げた時も、検問所は通ってないもの」
「じゃあ、どうやって国境を越えたんだ?」
「身体強化魔法と隠蔽魔法を使って、警備の目を潜り抜けたのよ。見張りの少ない場所を探して、夜のうちに一気に越えちゃった」
「……十五歳でそれをやったのか?」
「ふふっ。あの頃は必死だったから。見つかったら連れ戻されると思ってたし、多少の無茶は仕方ないでしょ?」
タクマは呆れたように笑った。
「いや、多少どころじゃないと思うけどな」
「もう。ちゃんと成功したんだからいいじゃない」
そう答えながら、私も少し笑ってしまった。今ならもっと安全な方法を考えられるけれど、当時はとにかく王宮から遠ざかることしか頭になかった。隠蔽魔法で姿を隠し、身体強化魔法で移動速度を上げて、警備兵に気づかれる前に国境を越える。魔法の扱いには自信があったとはいえ、見つかれば逃げ切れる保証などなかった。
それでも、あの時の私には立ち止まるという選択肢がなかったのだ。
そんな話をしているうちに、ようやく私たちの順番が回ってきた。
「次の方、前へ!」
若い兵士に呼ばれ、私たちは馬を降りて指定された場所へ進んだ。
「身分証の提示をお願いします。入国の目的と、行き先も教えてください」
私は冒険者証を差し出した。
「ノヴァグラード所属の冒険者です。王都マリアベルクまで、護衛の仕事で来ました」
兵士は冒険者証を確認し、少しだけ目を見開いた。
「A級冒険者ですか。では、こちらのお二人も?」
「はい。俺たちも同じパーティです」
タクマが自分の冒険者証を差し出す。
シエラも無言で冒険者証を提示した。
兵士は二人の身分証を確認し、書類へ何かを書き込んだ。
「B級冒険者が二名……。護衛対象はこちらの方ですか?」
兵士がボーマンを見る。
「ええ。わたくしでございます」
ボーマンは穏やかに答えた。
「王都まで、この者たちに同行をお願いしておりましてな」
「承知しました。王都では、どちらへ向かわれる予定ですか?」
「知人を訪ねる予定でございます」
「分かりました」
兵士は頷くと、もう一度書類を確認した。
「最近は警備が厳しくなっておりまして、少々お時間をいただくこともございます。申し訳ありません」
「いえ。お務め、ご苦労様でございます」
ボーマンがそう答えると、兵士は軽く頭を下げた。
続いて荷物の確認が行われたけれど、特に問題は見つからなかった。武器についても冒険者として登録されていることを確認すると、兵士は通行許可を出してくれた。
「確認できました。どうぞ、お通りください」
「ありがとうございます」
タクマが礼を言い、私たちは馬を連れて検問所を通過した。
随分と時間はかかったけれど、特別な問題は起こらなかった。
国境を越えてしばらく進んだところで、タクマが小さく息を吐いた。
「思ったより、すんなり通れたな」
「ふふっ。私たち、別に怪しいことをしてるわけじゃないもの」
「それもそうか。警備が厳しいって聞いてたから、もう少し時間がかかるかと思ってた」
「身分証があるのは、こういう時に便利よね」
私は笑って答えた。
もっとも、何も問題がなかったからこそ、少し不思議な気分でもあった。
七年前、私は身体強化魔法と隠蔽魔法を使い、警備兵の目を潜り抜けて国境を越えた。見張りの位置や巡回の間隔を確かめながら、見つからないよう慎重に進んだことを今でも覚えている。あの頃は、自分の姿を誰かに見られることすら怖かった。
それが今では、堂々と冒険者証を提示し、正規の手続きを踏んで国境を越えることができる。
七年という時間の長さを、こんなところでも実感することになるとは思わなかった
*
マリアベル王国に入ってから、私たちは王都へ向かう街道を進んだ。
国境周辺では兵士の姿をよく見かけたけれど、内陸へ進むにつれてその数は少なくなっていった。代わりに、農村や小さな町が増え、街道沿いには広い畑や牧草地が広がるようになる。
私にとっては懐かしい景色だった。
もちろん、七年前とまったく同じというわけではない。新しい橋が架けられていたり、以前はなかった宿屋が建っていたりする。道の整備も進んでいるようで、馬で移動するには随分と楽になっていた。
「……この辺り、昔も通ったことがあるのか?」
タクマが尋ねてきた。
「ええ。王宮にいた頃、何度か通ったわ。もちろん、当時は馬車だったけど」
「そうか。王族なら、移動も馬車が基本だよな」
「そうね。私が自分で馬に乗って出かけたいって言っても、なかなか許してもらえなかったもの」
「リカなら、言い出したら聞かなさそうだな」
「……ちょっと。どういう意味よ?」
私が睨むと、タクマは笑った。
「いや、今までの付き合いで何となく分かるってだけだよ」
「もう……」
私は少し頬を膨らませた。
けれど、否定できないのが悔しい。
実際、王宮にいた頃の私は、随分とわがままだったと思う。決められた時間に勉強をして、決められた時間に食事をして、決められた相手と会話をする。そんな生活が嫌で、何度も侍女や教師たちを困らせたものだ。
ボーマンも、その一人だった。
「ほほほ。殿下は昔から、なかなかお元気でございましたからな」
前を進んでいたボーマンが、楽しそうに笑った。
「ボーマンまで!」
「いえいえ。今となっては懐かしい思い出でございます」
「……絶対、余計なことを言おうとしてるでしょ」
「ほほほ。さて、どうでしょうな」
タクマが笑い、シエラも口元を緩めていた。
私はため息をついたけれど、不思議と嫌な気分ではなかった。
こうして昔の話をすることができるのも、ボーマンが一緒にいてくれるからだ。王宮で暮らしていた頃、彼には何度も叱られたけれど、その一方で、私の話を最後まで聞いてくれる数少ない大人でもあった。
王女としての立場を重んじるあまり、私のわがままを許してくれないことも多かった。それでも、私が本当に困っている時には必ず力になってくれたし、どれほど忙しくても、剣術や乗馬の稽古に付き合ってくれた。
七年前、王宮を飛び出した時には、もう二度とこんなふうに笑い合うことはないと思っていた。
けれど、今は違う。
私は冒険者として生きていて、タクマという恋人がいて、シエラという友達もいる。そして、ボーマンとも再会できた。
自分で選んだ人生の中に、昔の大切な人たちとの繋がりが戻ってきたことが、少し嬉しかった。
ただ、兄上だけはもういない。
そのことを思い出すと、胸の奥が痛んだ。
私は少しだけ目を伏せた。
隣を進むタクマが、何も言わずにこちらを見ていた。
私は彼に小さく笑いかけた。
今は、まだ大丈夫。
そう伝えるつもりだった。
*
王都へ近づくにつれ、街道は次第に賑やかになっていった。
荷馬車の数が増え、行商人や旅人たちの姿も目立つようになる。道沿いには宿場町が点在し、農村から運ばれてきた野菜や穀物を積んだ馬車が、次々と王都へ向かっていた。
マリアベルクは王国最大の都市だ。
王宮が置かれているだけでなく、商業や行政の中心地でもある。王国各地から人や物が集まるため、街道の交通量も他の都市とは比べものにならない。
タクマは周囲を眺めながら、興味深そうに話していた。
「随分と人が増えてきたな。王都が近いって感じがする」
「ええ。この辺りからは、王都へ物資を運ぶ馬車が多くなるのよ」
「なるほど。あの荷馬車も食料を運んでるのか」
「多分ね。王都は人口が多いから、周辺の村だけじゃ食料を賄いきれないの」
タクマは頷いた。
「大きな都市ほど、外からの供給が重要になるんだな」
「そういうこと。だから、街道の整備にも力を入れてるのよ」
私は昔、王宮で教わったことを思い出しながら説明した。
当時は退屈で仕方がなかった経済や行政の授業も、冒険者として各地を旅するようになってからは、意外と役に立つことが多かった。
もっとも、だからといって王宮での勉強が好きだったわけではないけれど。
そんな話をしているうちに、街道の先に緩やかな丘が見えてきた。
ボーマンが馬の速度を落とす。
「……殿下。もう間もなくでございます」
私は顔を上げた。
丘を登りきると、その向こうに広大な平野が広がっていた。
そして、その中央に。
巨大な城壁に囲まれた都市が見えた。
いくつもの尖塔が空へ伸び、城壁の内側には赤茶色の屋根が幾重にも重なっている。街の奥には、周囲の建物よりも遥かに大きな王宮がそびえていた。
マリアベル王国の王都、マリアベルク。
私は思わず馬を止めた。
「……帰ってきたのね」
口に出してから、少しだけ不思議な気分になった。
帰ってきた。
そう言ってしまったけれど、私にとって帰る場所は、もうノヴァグラードの森の家だ。
それでも、この街には十五年間暮らした記憶がある。
王宮の庭を走り回ったことも、兄上と一緒に本を読んだことも、侍女たちに叱られたことも、すべてこの街での出来事だった。
七年前、私はここから逃げ出した。
王女としての役割を押しつけられることが嫌で、誰にも相談せずに王宮を飛び出した。
あの時は、二度と戻るつもりなどなかった。
けれど、今はこうして、自分の意思で戻ってきている。
「……大きいな」
隣でタクマが呟いた。
私は彼を見た。
「ノヴァグラードとは、随分違うでしょ?」
「ああ。想像してたよりずっと大きい。あの奥に見えるのが王宮か?」
「ええ。私が育った場所よ」
タクマはしばらく王宮を眺めていた。
「……そっか」
それだけ言って、彼は私の方を見た。
「行こうか?」
私は少しだけ考えてから頷いた。
「……うん。行きましょう」
ボーマンが静かに頭を下げた。
シエラも何も言わず、馬を進め始める。
私たちは丘を下り、王都へ続く街道を進んだ。
*
王都の城門が近づくと、国境とはまた違った緊張感が漂っていることに気づいた。
城壁の上には兵士が立ち、門の周囲には武装した警備兵が何人も配置されている。通行人の身分確認も行われているようで、門の前には馬車や旅人の列ができていた。
ただし、国境と違って、兵士たちの装備は随分と立派だった。
磨かれた胸甲に、揃いの外套。
腰には剣を下げ、槍を持った兵士たちが整然と並んでいる。
「……あれが近衛兵団か」
タクマが小声で言った。
「ええ。王都の警備を担当しているの。王宮の警備も、基本的には彼らの仕事よ」
「なるほど。国境の兵士とは、雰囲気が違うな」
「訓練も厳しいからね」
私はそう答えながら、門の周囲を見回した。
近衛兵団。
王家直属の精鋭部隊であり、王都と王宮の安全を守るために組織されている。
私が王宮にいた頃も、毎日のように彼らの姿を見かけていた。
けれど、今は少し事情が違う。
七年も経っていれば、兵士の顔ぶれも随分と変わっているはずだ。
それに、今の私は金髪に染めている。
簡単には気づかれないだろう。
そう思っていた。
やがて、私たちの順番が近づいてきた。
門の前では、数人の近衛兵が通行人の身分証を確認している。その少し後ろには、年配の兵士が立ち、部下たちへ指示を出していた。
私たちが馬を降りたところで、その男がふとこちらを見た。
最初は何気なく視線を向けただけだったのだろう。
けれど、ボーマンの顔を見た瞬間、男の動きが止まった。
「……え?」
男は目を見開いた。
それから、信じられないものを見るようにボーマンを見つめた。
「……ボーマン様?」
ボーマンも男へ視線を向けた。
「……おや」
男は慌てて近づいてきた。
「ボーマン様! 戻られたのですか!」
思ったより大きな声だった。
周囲の近衛兵たちが一斉に振り返る。
私は思わず肩をすくめた。
ボーマンは少し困ったように笑った。
「ほほほ。お久しゅうございますな」
「ご無沙汰しております! まさか、このような場所でお会いできるとは……!」
男は感激した様子で頭を下げた。
ボーマンはその肩に軽く手を置いた。
「どうか、顔をお上げください。今はただの旅人でございますぞ」
「……は、はい」
男は慌てて姿勢を正した。
けれど、すぐに私へ視線を移した。
「……ところで、そちらの方は……」
私は何も言わなかった。
男の視線が、私の顔に留まる。
最初は不思議そうな表情だった。
けれど、次第に目を見開いていく。
「……まさか」
私は息を呑んだ。
男は私とボーマンを交互に見た。
「……そちらの女性は、もしや……?」
その言葉を遮るように、ボーマンが静かに口を開いた。
「この者たちは、わたくしの同行者でございます」
「……は」
「少々、事情がございましてな。できれば、騒ぎにはしたくないのです」
ボーマンの声は穏やかだった。
けれど、その言葉には、相手に理解を求める確かな意思が込められていた。
男は一瞬だけ迷ったようだった。
そして、何かを決意したように頷いた。
「……承知いたしました」
男は部下たちへ向き直った。
「この方々の身分確認は私が行う。通行を許可する準備を」
「はっ!」
近衛兵たちはすぐに動き始めた。
私は少し安心した。
どうやら、騒ぎになることは避けられそうだ。
けれど、その時だった。
「……ボーマン様」
男が小声で呼びかけた。
「王宮へ、すぐに使いを出しましょうか?」
私は思わず顔を上げた。
ボーマンは静かに首を横に振った。
「いえ。その必要はございません」
「……しかし」
「王宮へは、こちらから連絡をいたします。今は、できるだけ静かにしておきたいのです」
男は少しだけ困った顔をした。
近衛兵としては、王宮に報告すべきことなのだろう。
それでも、ボーマンの言葉を無視するわけにはいかないらしい。
「……承知いたしました」
男は深く頭を下げた。
ボーマンも頷いた。
「ご配慮、感謝いたします」
男はそれ以上何も言わず、部下たちに通行の手続きを進めさせた。
私たちは再び馬に乗り、城門へ向かう。
門をくぐる直前、私は振り返った。
先ほどの近衛兵が、まだこちらを見送っていた。
彼は私と目が合うと、慌てて姿勢を正した。
そして、深く頭を下げた。
私は軽く会釈を返し、前を向いた。
巨大な石造りの門が、目の前に迫っている。
その向こうには、七年ぶりの王都マリアベルクが広がっていた。
私は手綱を握り直した。
七年前、この門を出た時には、もう二度と戻らないつもりだった。
けれど、今は違う。
私は兄上を見送るために戻ってきた。
そして、その用事が済めば、またノヴァグラードへ帰るつもりだ。
それだけは、誰に何を言われても変えるつもりはなかった。
私は隣を進むタクマを見た。
彼は私の視線に気づき、穏やかに微笑んだ。
「……行こう、リカ」
「……うん」
私は頷いた。
こうして私たちは、七年ぶりにマリアベルクの城門をくぐった。




