第51話 父と母
翌朝、私たちが朝食を終えてしばらくすると、約束どおりユリアナが宿へ迎えに来てくれた。
昨日と同じ濃紺の騎士服に身を包み、長い髪をきちんと後ろでまとめた姿は、相変わらず凛々しい。宿の主人に案内されて現れた彼女は、私たちの顔を一人ずつ確認すると、穏やかな笑みを浮かべた。
「おはようございます、殿下。昨夜はよくお休みになれましたか?」
「おはよう、ユリアナ。ええ、おかげさまで。久しぶりにちゃんとした寝台で眠れたわ」
「それは何よりでございます。馬車の準備も整っておりますので、ご都合がよろしければ出発いたしましょう」
「うん。私たちも準備はできているわ」
そう答えながら、私は自分の服装を改めて確かめた。
今日はいつもの冒険者用の装備ではなく、王都で購入した少し上品な仕立ての服を選んでいる。長旅で使っていた外套や革の装備は部屋に置き、動きやすさを損なわない程度に身なりを整えた。王宮で暮らしていた頃なら、朝から侍女たちが何人も集まって礼服を着せてくれただろうけれど、今さらそんな格好をするつもりはない。
もっとも、父上と母上に会うのだから、少しくらいはきちんとした服を着ていこうと思ったのも事実だった。七年前に何も告げずに出ていった娘が、久しぶりに帰ってきたと思ったら、泥だらけの冒険者装備というのも、さすがにどうかと思ったのだ。
「……なあ、リカ」
隣にいたタクマが、小さな声で話しかけてきた。
「何?」
「俺、本当にこの格好で大丈夫なのか?」
タクマも普段の冒険者装備ではなく、落ち着いた色合いの服を着ていた。剣を持たずに出かけることにも少し落ち着かない様子だったけれど、それ以上に、これから国王夫妻と会うかもしれないことが気になっているらしい。
「大丈夫よ。別に正式な謁見をするわけじゃないんだから」
「いや、そういう問題じゃないだろ。相手は国王陛下なんだぞ?」
「ふふっ。私にとっては父上と母上だもの。そんなに怖がらなくても大丈夫よ」
「リカはそうだろうけどさ……」
タクマが困ったように笑うと、隣でボーマンが楽しそうに頷いた。
「ほほほ。もっとも、殿下の恋人となれば、陛下も少々違ったご対応をなさるかもしれませぬな」
「……ボーマン?」
「いえ、何でもございません」
「絶対、何でもなくないでしょ!」
私が睨むと、ボーマンはいつもの穏やかな笑顔を浮かべたまま、何食わぬ顔でお茶を飲み終えた。
まったく、この人は昔からこうなのだ。こちらが真剣に悩んでいる時ほど、わざと余計なことを言って楽しんでいる節がある。タクマの緊張をほぐしてあげるつもりだったのに、これでは逆効果ではないだろうか。
そう思って彼を見ると、案の定、先ほどよりも少し表情が硬くなっていた。
「……タクマ。父上は、あなたのことをもう知っているのよ?」
「ああ。ボーマンさんが報告してくれたんだよな」
「そうよ。だから、いきなり追い返されたりはしないと思うわ」
「……その言い方だと、別の心配が出てくるんだけど」
「もう。心配しすぎよ」
私は笑いながら彼の腕を軽く叩いた。
けれど、タクマの気持ちも分からなくはない。私だって、七年ぶりに両親と会うのだから、まったく緊張していないわけではなかった。
昨日、ユリアナと再会した時には、懐かしさと嬉しさが先に立っていた。でも、父上と母上は少し違う。私が何も告げずに王宮を飛び出したことで、二人にどれほど心配をかけたのか。そのことを考えると、どうしても胸の奥が落ち着かなかった。
それでも、会いたいと思っている。
七年前には、そんな気持ちを素直に認めることさえできなかったのだから、私も少しは大人になったのかもしれない。
*
王宮へ向かう馬車の中では、ユリアナが窓の外を眺めながら、街の変化について話してくれた。
七年間で新しく建てられた施設や、整備された道路。昔からあった商店が代替わりした話など、聞いているうちに懐かしい名前がいくつも出てくる。私は時折質問を挟みながら、その一つ一つに耳を傾けた。
やがて、馬車は王宮へ続く広い通りへ入った。
遠くに見える白い城壁と、その向こうにそびえる王宮の尖塔。幼い頃から何度も眺めてきた景色だったけれど、今は少し違って見えた。
七年前、私はあの城壁の内側から逃げ出した。
王女としての生活が嫌で、自分の人生を自分で決めたくて、誰にも告げずに王宮を飛び出したのだ。あの時は、もう二度と戻らないつもりだったし、実際、ノヴァグラードで暮らし始めてからも帰国しようとは思わなかった。
けれど今、私は自分の意思で王宮へ向かっている。
それも、一人ではない。隣にはタクマがいて、向かいにはシエラとボーマンが座っている。ユリアナまで迎えに来てくれたのだから、七年前の私がこの光景を見たら、きっと驚くだろう。
「……リカ?」
タクマに声をかけられ、私は顔を上げた。
「どうしたの?」
「いや、さっきからずっと外を見てるから」
「……ちょっと、昔のことを思い出していたの」
「そっか」
タクマはそれ以上尋ねず、私と同じように窓の外へ目を向けた。
王宮の正門が近づくにつれ、通りを行き交う人々の数が減っていく。やがて馬車は大きな門の前で止まり、警備に当たっていた近衛兵たちがユリアナの姿を確認すると、すぐに道を開けた。
門をくぐった先には、広い庭園が広がっていた。
丁寧に刈り込まれた生け垣に、色とりどりの花々。中央には大きな噴水があり、その向こうに王宮の正面玄関が見える。建物の外壁は昔と同じ白い石で造られていて、朝の光を受けて柔らかく輝いていた。
「……懐かしい」
思わず呟いた。
この庭園では、幼い頃に兄上たちと何度も遊んだものだ。ヴィルヘルム兄上はいつも私たちを見守る役で、ハインリヒ兄上は遊びの最中でも妙に理屈っぽかった。私が魔法を使って花壇の水を跳ね上げ、二人に怒られたこともある。
そんな思い出が、次々と浮かんでくる。
けれど、王宮の景色そのものは変わらなくても、そこで働く人々の様子は少し違っていた。
門の内側には以前より多くの近衛兵が配置され、建物へ続く通路にも警備の姿が目立つ。馬車が進む間にも、武装した騎士たちが何度か行き交い、使用人たちも普段より足早に動いているように見えた。
「……随分と警備が厳しくなっているのね」
私が呟くと、ユリアナは少しだけ表情を引き締めた。
「現在、王宮では警備体制を強化しております」
「……兄上のこと?」
「……詳しいことは、陛下から直接お聞きになるのがよろしいかと存じます」
「……そう」
私は頷いた。
昨日から感じていた違和感は、やはり間違いではなかったらしい。王都では普段どおりの生活が続いているのに、王宮の中だけが緊張に包まれている。ヴィルヘルム兄上の死がまだ公表されていないことも含めて、何か事情があるのだろう。
それでも、今は余計なことを考えないようにした。
まずは父上と母上に会う。それから、兄上のことをきちんと聞こうと思っていた。
*
王宮の玄関で馬車を降りると、私たちはユリアナに案内されて建物の中へ入った。
磨き上げられた大理石の床に、高い天井。壁には歴代の国王や王族の肖像画が並び、窓から差し込む光が長い廊下を照らしている。幼い頃には当たり前だった光景だけれど、七年ぶりに見ると、王宮という場所がいかに立派な建物だったのかを改めて感じた。
ノヴァグラードの森に建てた私たちの家とは、何もかもが違う。
もっとも、今の私には、あの小さな家の方がずっと落ち着くのだけれど。
「……リカルティール殿下?」
廊下を歩いていると、突然、後ろから声をかけられた。
振り返ると、年配の侍女が驚いた顔で立っていた。手には布の束を抱えていたけれど、私の顔を見たまま動こうとしない。
「……もしかして、マルタ?」
私が名前を呼ぶと、侍女は目を見開いた。
「まあ……! 本当に殿下でいらっしゃるのですね!」
「久しぶりね。元気にしていた?」
「はい、はい……! 殿下こそ、お元気そうで……」
マルタは少し涙ぐみながら、深く頭を下げた。
彼女は、私が幼い頃から王宮に勤めていた侍女の一人だった。直接の教育係ではなかったけれど、よく私の部屋へお菓子を運んでくれたし、魔法の練習で服を汚してしまった時には、何度も助けてもらった覚えがある。
「ふふっ。そんなにかしこまらなくてもいいのに」
「そういうわけにはまいりません。七年ぶりにお会いできたのですから……」
マルタは嬉しそうに微笑んだ。
その姿を見ていると、胸の奥が少し温かくなる。王宮での生活が嫌だったとはいえ、ここで働く人たちまで嫌いだったわけではない。むしろ、懐かしい顔を見るたびに、自分が随分と長い間この場所から離れていたことを実感する。
マルタはふと、私の髪へ視線を向けた。
「……それにしても、殿下。髪のお色が……」
「ああ、これ?」
私は金色に染めた髪を一房つまみ、少し笑った。
「今は金髪にしているの。昔のままだと、いろいろ目立っちゃうから」
「まあ……。最初は別の方かと思いました。でも、お声を聞いて、すぐに分かりましたよ」
「ふふっ。七年も経ったのに、よく覚えていてくれたわね」
「忘れるはずがございません」
マルタはそう言って、少しだけ目元を拭った。
私はもう一度彼女に微笑みかけた。
「また後で、ゆっくりお話ししましょうね」
「はい。ぜひ、お待ちしております」
マルタと別れ、私たちは再び廊下を進んだ。
タクマは少し感心したように周囲を見回していたけれど、何も言わずに歩いている。シエラもいつもどおり静かで、ボーマンだけが懐かしそうに建物の様子を眺めていた。
やがて、ユリアナが一つの扉の前で立ち止まった。
「殿下。陛下と王妃殿下は、この先でお待ちでございます」
「……父上と母上が?」
「はい」
私は小さく息を吸った。
いよいよ、七年ぶりに両親と会うのだ。
「タクマたちには、こちらの控室でお待ちいただきます。ボーマン様には、別途お話があるとのことでございますので、後ほどご案内いたします」
「分かったわ」
私はタクマへ振り返った。
「……少し待っていてね」
「ああ。ゆっくり話してこいよ」
タクマはいつもどおりの笑顔を見せてくれた。私はその顔を見て、少しだけ緊張が和らぐのを感じた。
「……うん。ありがとう」
そう答えてから、私はユリアナとともに奥の廊下へ進んだ。
歩き慣れたはずの王宮の廊下が、今日は妙に長く感じられる。壁に飾られた絵画も、窓から見える庭園も、記憶にあるものとほとんど変わらない。それなのに、そこを歩いている私自身は、七年前とはまったく違う人間になっていた。
王女として暮らしていた十五歳の私と、冒険者として生きる二十二歳の私。その二人が、今になって同じ場所へ戻ってきたような、不思議な気分だった。
*
ユリアナが案内してくれたのは、公式の謁見の間ではなく、王族が私的に使用する小さな応接室だった。
扉の前には近衛兵が二人立っていたけれど、ユリアナの姿を確認すると、すぐに姿勢を正して道を開けた。
「陛下。リカルティール殿下をお連れいたしました」
ユリアナが声をかけると、室内から聞き慣れた声が返ってきた。
「……入れ」
その声を聞いた瞬間、胸が大きく跳ねた。
七年ぶりに聞く、父上の声だった。
扉が開かれる。
室内には、二人の人物が待っていた。
一人は、窓際に立つ壮年の男性。七年前より白髪が増え、顔には疲労の色が浮かんでいたけれど、背筋を伸ばした立ち姿には、今も国王としての威厳が感じられた。
グスタフ・マリアベル。
私の父であり、マリアベル王国の国王。
そして、その少し後ろに立っていたのが、母上だった。
エリザベート・マリアベル王妃。
上品な衣装に身を包み、柔らかな表情を浮かべた姿は、記憶にある母上とほとんど変わっていなかった。ただ、目元には以前より深い皺が刻まれ、どこか疲れた様子も感じられる。
「……父上、母上」
私が小さく呼びかけると、二人がこちらを向いた。
父上はしばらく何も言わずに私を見つめていた。まるで、本当に私が戻ってきたのか確かめようとしているようだった。
一方、母上は違った。
「……リカルティール!」
母上はすぐに立ち上がり、私の方へ歩み寄ってきた。
そして、私が何か言うより早く、強く抱きしめてくれた。
「……よく、無事でいてくれました」
「……母上」
懐かしい香りがした。
子供の頃、怖い夢を見て眠れなくなった時、母上が抱きしめてくれたことがある。その時と同じ、優しい香りだった。
「……本当に、心配したのですよ」
母上の声が、少し震えていた。
私はその背中にそっと腕を回した。七年前には、こんなふうに母上を抱きしめ返したことなど、ほとんどなかったように思う。王宮での生活が窮屈になっていくにつれて、私は両親と距離を置くようになっていたからだ。
「……ごめんなさい、母上」
「いいのです。こうして無事に帰ってきてくれたのですから」
母上は少し身体を離すと、私の顔を両手で包むようにして見つめた。
「……大きくなりましたね」
「ふふっ。もう二十二歳ですから」
「ええ。本当に……」
母上は涙を拭いながら微笑んだ。
そして、ふと私の髪へ視線を向けた。
「……それに、髪まで金色になっているのね」
「ああ、これですか?」
私は少し照れながら、金色の髪を指先でつまんだ。
「王女だった頃の私を知っている人に、気づかれにくくするために染めたんです。もう随分と長いこと、この色で暮らしています」
「……そうだったの」
母上は少しだけ目を細めた。
「最初は驚いたけれど、とてもよく似合っていますよ」
「……ありがとうございます」
「でも、どんな髪の色になっても、あなたは私の娘ですからね」
その言葉に、私は思わず笑ってしまった。
「ふふっ。そんなの、当たり前じゃないですか」
「ええ。そうね」
母上も笑った。
その後ろで、父上がゆっくりと近づいてきた。
「……リカルティール」
「……父上」
父上は私の前で立ち止まると、しばらく顔を見つめていた。
そして、静かに肩へ手を置いた。
「……よく帰ってきたな」
その声は、記憶にあるものより少し低く、疲れているように聞こえた。
私は父上を見上げた。
七年前、王宮を飛び出した時には、父上に何を言われるのか怖かった。連れ戻されることも、王女としての役割を押しつけられることも嫌で、何も告げずに逃げ出した。
けれど、父上は私を連れ戻さなかった。
ボーマンから聞いた話では、何度も迎えを出そうと考えながら、最後には私の意思を尊重してくれたのだという。
そのことを思い出すと、胸の奥が少し熱くなった。
「……ただいま、父上」
私がそう答えると、父上は静かに頷いた。
「……うむ」
それだけだった。
けれど、その短い返事には、七年間の思いが込められているように感じられた。
*
しばらくして、私たちは応接室の椅子に腰を下ろした。
ユリアナは一礼して退室し、室内には私と両親の三人だけが残された。侍女が温かいお茶を運んできてくれたけれど、母上はそれを飲むより先に、私の顔を何度も見つめていた。
「……本当に、元気そうでよかったわ」
「ふふっ。母上、さっきからそればかりですよ」
「だって、七年ぶりなのですもの」
母上は少し困ったように笑った。
「あなたがノヴァグラードで暮らしていることは知っていましたけれど、こうして顔を見るまでは、やっぱり心配だったのです」
「……ごめんなさい」
「もう。謝らなくてもいいのですよ」
母上は優しく微笑んだ。
父上もお茶を一口飲むと、私へ目を向けた。
「ボーマンから報告は受けておる。随分と立派な冒険者になったそうだな」
「……はい。今はA級冒険者として活動しています」
「うむ。お前なら、いずれそこまで到達するだろうとは思っておった」
「ふふっ。ありがとうございます」
父上は少し誇らしそうに頷いた。
「お前は幼い頃から魔法の才能に恵まれておったからな。ボーマンも、ユリアナも、随分と感心しておった」
「……まあ、二人にはよく叱られましたけどね」
「ははっ。お前が無茶ばかりするからだろう」
「……否定できません」
私が苦笑すると、父上も少しだけ笑った。
母上は、私の冒険者としての活躍よりも、普段の暮らしの方が気になるらしい。
「ところで、リカルティール。ちゃんと食事は取っているの?」
「もちろんですよ」
「無理をしていない? 怪我をしたり、病気になったりは?」
「大丈夫です。私だって、自分の体調くらい管理できますから」
「そうは言っても、あなたは昔から魔法のことになると、食事も忘れて夢中になってしまうでしょう?」
「……それは、昔の話です」
私は少し視線を逸らした。
確かに、今でも魔法の研究に夢中になって、食事の時間を忘れてしまうことはある。でも、最近はタクマが声をかけてくれるし、一緒に暮らしているのだから、以前ほど無茶はしていないつもりだった。
「それに、料理だって自分で作っているんですよ?」
「まあ……あなたが?」
母上が目を丸くした。
「ええ。毎日というわけではありませんけど、タクマと一緒に作ることもあります」
「……タクマ?」
母上が少し嬉しそうな顔になった。
私は、その反応を見て少しだけ嫌な予感がした。
「……ええと」
「ボーマンから聞いていますよ。あなたに、大切な方ができたのでしょう?」
「……はい」
私は少し照れながら頷いた。
すると、父上が静かに茶器を置いた。
「……その件については、わしも話を聞いておる」
何だろう。
急に父上の表情が真面目になった気がする。
「ボーマンは、誠実で信頼できる青年だと申しておった」
「……はい。私も、そう思っています」
「うむ」
父上は頷いた。
けれど、それだけでは終わらなかった。
「……それで、そのタクマという青年は、どこの家の者なのだ?」
「……え?」
「いや、冒険者だということは聞いておる。だが、出自については詳しく聞いておらんのでな」
私は少し考えた。
タクマが異世界から来たことについては、ボーマンの助言もあり、対外的には別の説明をすることにしている。王宮で暮らしていた頃の私なら、父上には何でも話していたかもしれない。けれど、タクマの出自が建国神話と結びつけられる危険を考えると、今は慎重になった方がいいと思っていた。
「タクマは、魔族領域より遥か東の、東方最辺境の出身なんです」
「……東方最辺境?」
「はい。転移事故に巻き込まれたらしくて、気がついた時にはノヴァグラードの森にいたそうです」
父上は少し驚いた様子だった。
「……転移事故か。それは、随分と珍しい話だな」
「ええ。本人も、どうしてこちらへ来たのか分からないそうです」
「ふむ……」
父上はしばらく考え込んでいたけれど、やがて頷いた。
「なるほど。ボーマンが詳しい出自を報告しなかったのは、そういう事情か」
「……たぶん、そうだと思います」
私は少し曖昧に答えた。
父上はそれ以上深く追及せず、母上へ目を向けた。
「それにしても、故郷から遠く離れた土地へ突然転移するとは、本人も随分と苦労しただろうな」
「本当にそうですね」
母上も心配そうに頷いた。
「今は、こちらの暮らしに慣れているの?」
「はい。最初は言葉も文字も分からなくて大変でしたけど、今では冒険者として頑張っています」
「まあ。それは立派ね」
母上は嬉しそうに微笑んだ。
父上は少しだけ考え込んでから、私へ視線を戻した。
「……いずれ、その青年にも会ってみたいものだな」
「……え?」
「お前が選んだ男なのだ。父親として、一度は顔を見て話しておきたい」
私は少し驚いた。
けれど、考えてみれば当然なのかもしれない。ボーマンから話を聞いているとはいえ、父上はまだタクマ本人と会ったことがないのだから。
「……分かりました。タクマも一緒に王宮へ来ていますから、後で紹介しますね」
「……そうか」
父上は少しだけ姿勢を正した。
その様子が妙に真面目だったので、私は思わず笑ってしまった。
「……父上。そんなに構えなくても大丈夫ですよ?」
「別に、構えてなどおらん」
「……本当ですか?」
「うむ」
母上が小さく笑った。
「ふふっ。あなた、昔からリカルティールのことになると、少し心配しすぎるところがありますものね」
「……エリザベート」
「だって、本当のことでしょう?」
母上は楽しそうに微笑んだ。
父上は少し困ったように咳払いをしたけれど、それ以上は何も言わなかった。
私はそんな二人の様子を見て、少し懐かしくなった。
王宮で暮らしていた頃も、父上と母上は時々こんなふうに言い合っていた。父上は国王として威厳を保とうとするけれど、母上の前では少しだけ調子が狂う。そんな姿を見るのが、私は好きだった。
七年も経ったのに、二人は変わっていない。
少なくとも、私の前では。
*
しばらく和やかな会話が続いた後、私は少し迷ってから口を開いた。
「……父上、母上」
二人がこちらを向いた。
「……七年前のことなんですけど」
私は一度言葉を切った。
ずっと、謝らなければならないと思っていた。王宮を飛び出したこと自体を後悔しているわけではないし、あの時に戻れたとしても、私はきっと同じ道を選ぶだろう。
けれど、何も告げずに出ていったことで、両親に心配をかけたことは事実だった。
「……あの時は、何も言わずに出ていってごめんなさい」
私は二人の顔を見つめた。
「私、自分のことばかり考えていました。王女としての生活が嫌で、自由になりたくて……。でも、父上と母上がどれだけ心配するかなんて、ちゃんと考えていなかったんです」
父上は静かに私の話を聞いていた。
母上も、何も言わずに頷いている。
「……ボーマンから聞きました。父上は、私を連れ戻そうと考えたこともあったけれど、最後には私の意思を尊重してくれたって」
「……あの老人め」
父上が小さく苦笑した。
「随分と余計なことまで話したようだな」
「……でも、嬉しかったんです」
私は微笑んだ。
「父上が、私のことを分かってくれていたんだって」
父上はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……お前が王宮での生活を窮屈に感じていたことは、分かっておった」
「……はい」
「王女として生まれた以上、果たさねばならぬ役割がある。それは、わしも理解しておるし、お前にも教えてきた」
父上は少しだけ目を伏せた。
「だが、それがお前にとって、どれほど重荷になっていたのか。わしは、十分に考えてやれなかったのかもしれんな」
「……父上」
「お前が出ていった時、最初は連れ戻そうと思った。まだ十五歳だったのだからな。父親として、心配せずにいられるはずがない」
父上は静かに続けた。
「だが、無理に連れ戻したところで、お前は幸せになれただろうか。そう考えると、どうしても命令を下せなかった」
私は黙っていた。
その話はボーマンから聞いていたけれど、父上本人の口から聞くと、また違った気持ちになる。
「……お前が無事に暮らしていることは、報告を受けておった。冒険者として名を上げ、A級にまで昇格したこともな」
父上は少しだけ笑った。
「……わしの娘は、やはり大したものだと思ったよ」
「……ありがとうございます」
私は小さく頭を下げた。
母上が、そっと私の手を握った。
「……リカルティール。私も、あなたに帰ってきてほしいと思わなかった日はありませんでした」
「……母上」
「でも、あなたが自分で選んだ道を歩いているのなら、それを無理に変えさせるべきではないと思ったのです」
母上は少し寂しそうに微笑んだ。
「もちろん、心配でしたよ。怪我をしていないか、病気になっていないか。ちゃんと食事を取っているか。そんなことばかり考えていました」
「……ごめんなさい」
「ふふっ。だから、謝らなくてもいいのです」
母上は私の手を優しく握り直した。
「こうして元気な姿を見せてくれたのですから、それだけで十分です」
私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
七年前、私は王宮から逃げ出すことしか考えていなかった。自由になりたくて、誰にも止められたくなくて、家族に何も告げずに出ていった。
けれど、父上と母上は、そんな私をずっと見守ってくれていた。
私が選んだ道を、遠くから認めてくれていたのだ。
「……ありがとう、父上。母上」
私は二人の顔を見つめた。
「私、今は本当に幸せに暮らしています」
父上は静かに頷き、母上は嬉しそうに微笑んだ。
「……それなら、何よりだ」
父上の声は、少しだけ柔らかくなっていた。
*
けれど、いつまでも懐かしい話ばかりしているわけにはいかなかった。
私はお茶を一口飲み、少しだけ気持ちを落ち着かせてから、二人へ向き直った。
「……父上、母上。ヴィルヘルム兄上のことを、聞かせてください」
その瞬間、室内の空気が変わった。
母上は目を伏せ、父上の表情からも、先ほどまでの穏やかさが消えていく。
私は胸が締めつけられるのを感じた。
王都へ来る途中から、何度も考えていたことだった。ヴィルヘルム兄上が亡くなったという知らせを受けても、まだどこか現実のこととして受け止められていなかった。王宮へ戻れば、いつものように兄上がいて、私を見つけて苦笑するのではないか。そんな気持ちが、今でも心のどこかに残っている。
けれど、父上と母上の表情を見れば、それが叶わないことは分かった。
「……ヴィルヘルムは、亡くなった」
父上が静かに告げた。
私は小さく頷いた。
「……はい」
「……突然のことだった」
父上は少しだけ目を伏せた。
「わしも、まだ信じられん。あれほど真面目で、責任感の強い男だったというのに……」
母上が、そっと目元を押さえた。
「……あの子は、本当に優しい子でした」
その声は震えていた。
「小さい頃から、いつも弟や妹のことを気にかけて……。自分のことより、家族のことを優先するような子だったのです」
私は兄上の姿を思い浮かべた。
ヴィルヘルム兄上は、昔から真面目だった。王太子としての責任を誰よりも理解し、父上の期待に応えようと努力していた。私が魔法の練習で無茶をすれば叱られたし、王宮の授業をさぼれば、ボーマンと一緒になって探しに来たこともある。
けれど、ただ厳しいだけの兄ではなかった。
私が本当に困っている時には、必ず力になってくれた。王女としての生活に不満を漏らした時も、すぐに否定することなく、最後まで話を聞いてくれたことがある。
そして、私が王宮を飛び出した後も、無理に連れ戻すことには賛成しなかったのだという。
「……兄上には、もう一度会いたかったです」
私は小さく呟いた。
「ちゃんと、自分の言葉で話したかった。今は元気に暮らしていることも、冒険者として頑張っていることも……。全部、聞いてほしかったんです」
母上が私の手を握った。
父上も、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに口を開いた。
「……あれは、良い王になっただろう」
その言葉には、国王としての評価だけでなく、一人の父親としての思いが込められているように感じられた。
「誰よりも王国のことを考え、民の暮らしを案じておった。わしよりも、ずっと立派な王になったかもしれん」
「……父上」
「……それなのに、わしより先に逝くとはな」
父上は小さく息を吐いた。
私は何も言えなかった。
父上は国王だ。どれほど悲しいことがあっても、王国を治める責任から逃れることはできない。王太子が亡くなったという事実は、父親としての悲しみだけでなく、国の将来に関わる重大な問題でもある。
それでも、今ここにいる父上は、大切な息子を失った一人の父親だった。
「……兄上は、どうして亡くなったのですか?」
私は思い切って尋ねた。
父上はしばらく黙っていた。
「……まだ、調べておる」
「……調べている?」
「うむ。詳しいことは、今は話せん」
その答えに、私は少しだけ違和感を覚えた。
病気や事故で亡くなったのなら、そう説明すればいいはずだ。それなのに、父上は詳しいことを話そうとしない。
私はそれ以上追及するべきか迷ったけれど、父上の表情を見て、ひとまず言葉を飲み込んだ。
今は、まだ話せない事情があるのだろう。
*
「……そういえば、父上」
私は少し考えてから、もう一つ気になっていたことを尋ねた。
「王都では、兄上が亡くなったことがまだ公表されていないようでしたけど……」
父上は頷いた。
「……ああ。今はまだ、正式な発表を控えておる」
「どうしてですか?」
「王宮内で、確認せねばならぬことがいくつか残っておる。それに、王太子の死を公表すれば、王位継承についても正式な判断を示さねばならん」
私は少し考えた。
ヴィルヘルム兄上が亡くなった以上、王位継承順位は変わる。第一王位継承者だった兄上がいなくなれば、次はハインリヒ兄上が繰り上がるはずだった。
「……ハインリヒ兄上が、次の王太子になるのではないのですか?」
父上はすぐには答えなかった。
母上も、少しだけ表情を曇らせている。
「……まだ、決めておらん」
「……え?」
私は思わず聞き返した。
「でも、ハインリヒ兄上が第二王位継承者ですよね?」
「……そうだ」
「だったら……」
「リカルティール」
父上が静かに私の名前を呼んだ。
「……この件については、もう少し時間をくれ」
私は口を閉じた。
父上の声は穏やかだったけれど、これ以上は話さないという意思が感じられた。
ハインリヒ兄上は、昔から何を考えているのか分からないところがあった。ヴィルヘルム兄上ほど親しかったわけではないけれど、私が王宮を飛び出した時には、無理に連れ戻すことに反対してくれたと聞いている。
そんな兄上が次の王太子になることに、何か問題があるのだろうか。
私は少し考えたけれど、答えは出なかった。
七年間、私は王宮から離れて暮らしていたのだ。その間に何が起きたのか、今の私には分からないことが多すぎる。
「……分かりました」
私は静かに頷いた。
「でも、兄上の葬儀には、必ず参列させてください」
父上は私を見つめた。
「……もちろんだ。そのために帰ってきたのであろう?」
「……はい」
私は頷いた。
兄上にもう一度会うことはできない。それでも、最後のお別れくらいは、きちんとしたかった。
*
その後、父上は私がこれからどうするつもりなのかを尋ねた。
「……リカルティール。葬儀が終わった後は、どうするつもりだ?」
私は少しだけ姿勢を正した。
「ノヴァグラードへ帰るつもりです」
父上は驚かなかった。
ただ、静かに頷いた。
「……そうか」
「はい。私の家も、仕事も、友人たちも、あちらにありますから」
「……うむ」
父上は少しだけ目を伏せた。
「お前の帰る場所は、もうあちらなのだな」
「……はい」
私ははっきりと答えた。
王宮へ戻って暮らすつもりはない。王女としての生活に戻るつもりもない。
私は自分の意思で自由を選び、ノヴァグラードで暮らしてきた。そこにはタクマがいて、シエラやフリーダたちがいて、私たちの家がある。
あの生活を手放すつもりはなかった。
けれど、父上は私の言葉を否定しなかった。
「……分かった。無理に引き止めはせん」
「……ありがとうございます」
「ただし、一つだけ約束してくれ」
「……何でしょう?」
父上は少しだけ笑った。
「今度は、何も言わずにいなくなるな」
私は思わず笑ってしまった。
「……はい。今度は、ちゃんとお別れを言います」
「うむ。それでよい」
母上が、少し寂しそうに微笑んだ。
「……でも、リカルティール。できれば、もう少しこちらで過ごしていってほしいわ」
「……母上」
「もちろん、あなたの暮らしを邪魔するつもりはありません。でも、七年ぶりなのですもの。もう少し、一緒に過ごしたいと思ってしまうのです」
私は少し考えた。
王都へ来た目的は、兄上を見送ることだった。その後はノヴァグラードへ帰るつもりだったけれど、何も葬儀が終わった瞬間に出発しなければならないわけではない。
「……葬儀が終わるまでは、王都にいるつもりです。その間なら、何度でも会いに来ますよ」
母上は嬉しそうに微笑んだ。
「本当?」
「はい」
「それなら、今度は一緒に食事をしましょうね。あなたの好きだった料理も、用意させますから」
「ふふっ。楽しみにしています」
私は頷いた。
父上も、少しだけ表情を和らげた。
「……リカルティール」
「はい?」
「お前が自分の道を選んだことを、わしは否定するつもりはない」
父上は静かに続けた。
「だが、ここもお前の故郷だ。帰りたくなった時には、いつでも帰ってくるがよい」
私は父上を見つめた。
七年前、私は王宮を飛び出した。
あの時は、もう二度と戻らないつもりだった。王女としての生活から逃げ出し、自分の人生を自分で選ぶために、故郷そのものを捨てる覚悟をしていた。
けれど、父上は今でも、私が帰ってくることを待っていてくれる。
母上も、こうして再会を喜んでくれている。
王宮で暮らすつもりはないし、王女としての役割に戻るつもりもない。それでも、ここには私を大切に思ってくれる家族がいるのだ。
「……はい。ありがとうございます、父上」
私は微笑んだ。
*
面会を終える頃には、随分と時間が経っていた。
父上は、タクマたちにも改めて会いたいと言ってくれたけれど、今日はまだ王宮内で片づけなければならない仕事があるらしい。私たちは後日、改めて時間を設けることにした。
「……では、また後ほど」
私が立ち上がると、母上も席を立った。
「……リカルティール」
「はい?」
母上は私へ歩み寄り、もう一度抱きしめてくれた。
「……本当に、帰ってきてくれてありがとう」
私は母上の背中に腕を回した。
「……ただいま、母上」
その言葉を口にすると、母上は少しだけ身体を離し、嬉しそうに微笑んだ。
父上も立ち上がり、私の肩へ手を置いた。
「……また、顔を見せに来い」
「はい、父上」
私は頷いた。
そして、扉へ向かって歩き始めた。
けれど、部屋を出る直前、ふと振り返った。
父上と母上は、並んで私を見送っていた。
七年前と比べると、二人とも随分と年を取ったように見える。特に父上は、ヴィルヘルム兄上の死によるものなのか、疲労の色が濃かった。
私は少しだけ胸が苦しくなった。
父上と母上は、七年間ずっと私のことを心配してくれていた。そして今は、ヴィルヘルム兄上を失った悲しみを抱えている。
私は、二人に何ができるのだろう。
王女として王宮へ戻るつもりはないし、王国の政治に関わるつもりもない。それでも、父上と母上のことを大切に思う気持ちは、七年前と何も変わっていなかった。
「……父上、母上」
二人がこちらを向いた。
「また、会いに来ます」
父上は少し驚いた顔をした。
けれど、すぐに穏やかに微笑んだ。
「……ああ。待っておる」
母上も、嬉しそうに頷いた。
私は二人に頭を下げ、今度こそ部屋を後にした。
*
廊下へ出ると、ユリアナが待っていた。
「……いかがでしたか、殿下?」
私は少し考えてから答えた。
「……会えてよかったわ」
ユリアナは穏やかに微笑んだ。
「それは何よりでございます」
「父上も母上も、随分と年を取ったみたい。でも、昔と変わらないところもたくさんあって……何だか、不思議な気分よ」
「七年という年月は、長いですからね」
「……そうね」
私は頷いた。
七年間、私はノヴァグラードで暮らしてきた。
冒険者になり、たくさんの人と出会い、タクマと恋人になった。自分の意思で選んだ生活を送り、今では森の家が私にとって一番落ち着く場所になっている。
そのことは、これからも変わらないと思う。
けれど、今日、父上と母上に会って、改めて気づいたことがあった。
王宮は、私が逃げ出した場所だ。
でも、それだけではなかった。
ここには、私を育ててくれた両親がいて、昔から見守ってくれていた人たちがいる。ヴィルヘルム兄上との思い出も、ハインリヒ兄上と過ごした日々も、確かに残っている。
私は、自由になるために王宮を出た。
けれど、自由になることと、故郷を嫌いになることは、同じではないのだ。
そんなことを考えながら廊下を進むと、やがてタクマたちの待つ控室が見えてきた。
扉を開けると、タクマがすぐに顔を上げた。
「……おかえり、リカ」
私は思わず微笑んだ。
「……ただいま、タクマ」
その言葉が、自然に口から出た。
父上と母上にも、同じ言葉を伝えたばかりだった。
けれど、不思議と違和感はなかった。
私の帰る場所は、ノヴァグラードにある。
それでも、ここにも私を待っていてくれる人たちがいる。
七年前には、どちらか一つしか選べないと思っていた。でも、今は違う。王宮での生活に戻らなくても、家族を大切にすることはできるし、自分の人生を選んだからといって、故郷との繋がりまで捨てる必要はないのだ。
私はタクマの隣へ歩み寄った。
七年前、あれほど必死になって逃げ出した場所へ、今度は自分の足で帰ってきた。そして、そこには私を責める人ではなく、変わらずに迎えてくれる家族がいた。
そのことが、何より嬉しかった。
もう、故郷から逃げ続ける必要はないのだから。




