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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
【第4章】脱走王女は王宮に帰らない

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第45話 冒険者、再び


ボーマンとの修行が終わった翌朝、タクマは珍しく寝坊した。


もっとも、寝坊といっても、いつもより少し遅く起きてきただけだ。私は既に朝食の支度を終えていて、食卓には焼いたパンと卵料理、それに温かいスープが並んでいた。タクマはまだ眠そうな顔で食卓へやってくると、椅子に腰を下ろして大きく伸びをした。


「……おはよう、リカ」


「おはよう。よく眠れた?」


「うん。久しぶりにぐっすり寝た気がする」


そう言いながらもう一度背筋を伸ばしたところで、タクマが小さく顔をしかめた。


「……痛た」


「まだ筋肉痛?」


「全身がね。特に足がひどい」


「七日間、あれだけ動いてたんだもの。仕方ないわよ」


私は笑いながらスープを差し出した。


昨日、タクマはついにボーマンから一本を取った。もちろん、あの老人が本気で勝負を決めようとしたなら、結果は違っていただろう。それでも、あのボーマンの肩へ剣を届かせたことは、十分すぎるほどの成果だった。


しかも、ただ力任せに剣を振ったわけではない。ハーケンから学んだ実戦的な剣術、ボーマンから教わった魔法の使い方、そしてタクマが元の世界で身につけていた剣道。その三つを自分なりに組み合わせ、最後には一つの動きとしてまとめてみせたのだ。


見ていた私まで嬉しくなってしまって、昨日は随分とはしゃいでしまった。タクマ本人は少し照れくさそうだったけれど、あの老人に一撃を届かせたことが嬉しくないはずはない。


「今日はどうするの?」


私が尋ねると、タクマはパンをちぎりながら少し考えた。


「ボーマンさんに、これからのことを相談しようかなって」


「修行を続けるかどうか?」


「うん。まだ教わりたいことは山ほどあるんだけど、そろそろ冒険者の仕事にも戻りたいし」


「そうね」


タクマはこの一週間、ほとんど修行に専念していた。冒険者として依頼を受けることもなく、朝から夕方までボーマンと剣を交えていたのだから、そろそろ実戦へ戻りたいと思うのも自然なことだ。


私としても、タクマが学んだことを実際の依頼でどこまで使えるのか、少し楽しみだった。ボーマンとの修行では、どれだけ工夫しても簡単には攻撃が届かなかったけれど、あの老人を基準に考えてしまうのは、さすがに厳しすぎる。


「じゃあ、朝ご飯を食べたら一緒に行きましょうか」


「いいの?」


「もちろん。私もボーマンに聞きたいことがあるし」


「何を?」


「それは、行ってからのお楽しみ」


タクマは不思議そうな顔をしたけれど、それ以上は聞いてこなかった。私は自分のパンを手に取りながら、森の奥にある小さなログハウスを思い浮かべた。


*


ボーマンが暮らしているログハウスは、私たちの家から森の小道をしばらく歩いた場所にある。


元々は人の住んでいなかった建物だったけれど、ボーマンが使い始めてから随分と様子が変わった。家の周囲はきれいに片づけられ、軒下には薪が整然と積まれている。窓辺には小さな鉢植えまで置かれていて、まるで何年も前から誰かが暮らしていたようだった。


「……本当に馴染んでるよなあ」


タクマが感心したように呟いた。


「そうね。王宮にいた頃から、整理整頓にはうるさい人だったけど」


「それは何となく分かる」


扉を叩くと、すぐに中から返事があった。


「どうぞ、お入りください」


室内では、ボーマンがちょうどお茶を淹れているところだった。テーブルには読みかけの本が置かれ、窓際の棚にはいくつかの茶器が並んでいる。王宮にいた頃の執務室を思い出すほど整っていたけれど、こちらの方がずっと生活感があった。


「おはようございます、殿下。タクマ殿も、よくお休みになれましたかな」


「おはよう、ボーマン」


「おはようございます。おかげさまで、ぐっすりでした」


「ほほほ。それは何よりでございます」


私たちは勧められるまま椅子に腰を下ろした。


タクマが今後の修行について相談すると、ボーマンは特に驚いた様子もなく頷いた。


「そうですな。タクマ殿には、まだまだお教えできることがございます。しかし、ひとまず修行は一区切りとしてもよろしいでしょう」


「本当ですか?」


「ええ。剣術も魔法も、教わっただけで身につくものではございません。実戦で使い、失敗し、考え直す。その繰り返しが必要ですからな」


ボーマンはお茶を一口飲み、穏やかに続けた。


「それに、タクマ殿は冒険者でございましょう。いつまでも老人の相手ばかりしていては、本業がおろそかになってしまいます」


「いや、ボーマンさんとの修行も、すごく勉強になりましたけど」


「ほほほ。そう言っていただけるのは嬉しいことですな」


私は二人のやり取りを聞きながら、少しだけ安心していた。


ボーマンのことだから、タクマが一本取った途端、次の課題を十個くらい用意するのではないかと思っていたのだ。もちろん、本人が望めばそうしたに違いないけれど、どうやら今は実戦経験を積ませる方がいいと判断したらしい。


確かに、あの老人とばかり剣を交えていても、学べないことはある。魔獣は人間とは違う動きをするし、相手によっては剣より魔法を優先した方がいいこともある。依頼の現場では、戦うことそのものより、誰を守り、どこで戦うかを考えなければならない場面も少なくない。


今のタクマには、そういう経験も必要なのだろう。


「ところで、ボーマン」


「はい、殿下」


「あなたはこれからどうするの? マリアベルへ戻る?」


私が尋ねると、ボーマンは少し意外そうに目を瞬かせた。


「そのことでございますが……実は、殿下にお願いがございましてな」


「お願い?」


「もし差し支えなければ、今しばらくこちらに滞在させていただけませんでしょうか」


「……ここに?」


「ええ」


ボーマンは窓の外へ目を向けた。朝の光が木々の間から差し込み、窓辺の鉢植えを照らしている。


「この森は実に静かでございます。朝は鳥の声で目を覚まし、昼は気の向くままに剣を振り、夜は本を読む。王宮にいた頃には、なかなかできなかった暮らしですな」


「……気に入っちゃったんだ?」


「お恥ずかしながら」


そう言って笑うボーマンは、王宮にいた頃よりも少しだけ穏やかに見えた。


私が知っているボーマンは、いつも忙しい人だった。王宮の執事長として働き、私たち兄妹の教育にも関わり、時には近衛兵団の訓練にまで顔を出していた。誰かが困っていれば必ず呼ばれ、何か問題が起これば、いつの間にか解決している。私にとっては、そういう人だった。


そんなボーマンが、一日中誰にも呼びつけられずに過ごす生活を楽しんでいるというのは、少し不思議な気がする。


でも、考えてみれば当然なのかもしれない。あの人だって、たまには自分のためだけに時間を使いたいだろう。


「もちろんいいよ。というか、私の許可なんていらないでしょ?」


「ほほほ。そういうわけにもまいりません。殿下のお近くに居を構えておりますからな」


「別に困ってないもの。ね、タクマ?」


「はい。俺も大歓迎です」


タクマがすぐに頷くと、ボーマンは嬉しそうに目を細めた。


「ありがたいことです。折を見て、タクマ殿の稽古もつけられますからな」


「ぜひお願いします!」


タクマが即答した。


私は思わず二人を見比べる。


「……タクマ、本当に懲りないわね」


「え? だって、まだまだ教わりたいことがあるし」


「ほほほ。頼もしいことですな」


ボーマンまで嬉しそうにしている。


どうやら、この師弟関係はしばらく続くらしい。タクマが自分から稽古を願い出て、ボーマンがそれに応える。あの厳しい修行を七日間も続けた後なのに、二人とも少しも嫌そうではないのだから、私には不思議で仕方なかった。


もっとも、私も反対する理由はなかった。ボーマンが近くにいてくれるのは心強いし、何より、七年ぶりに再会した恩師と、こうして気軽にお茶を飲めるのは嬉しかった。


王宮へ戻らなければならない人だと思っていたけれど、もう少しだけ、この森で一緒に過ごせる。


私はそのことを、素直に喜んでいた。


*


数日後、タクマは冒険者としての活動を再開した。


久しぶりに訪れたギルドは、相変わらず賑やかだった。依頼掲示板の前では冒険者たちが仕事を探し、受付ではエリナが忙しそうに書類をさばいている。討伐依頼の報告をする者、護衛の人数を相談する者、報酬について交渉する者。それぞれが自分の仕事を抱えていて、私たちが修行に専念していた間も、ここではいつもどおりの日々が続いていたらしい。


「あっ、タクマ!」


私たちに気づいたエリナが、ぱっと顔を上げた。


「久しぶり! 修行、終わったの?」


「うん。とりあえず一区切りかな」


「どうだった?」


「……何回死ぬかと思ったか分からない」


「そんなに!?」


エリナが目を丸くする。


「でも、すごく勉強になったよ。今日は久しぶりに依頼を受けようと思って」


「それなら、ちょうどよかったかも」


「何かあるの?」


「うん。まだ掲示板には出してないんだけど、今朝から少し大きな依頼が入ってて……」


エリナがそう言いかけたところで、背後から聞き慣れた声がした。


「おっ、タクマじゃねえか!」


振り返ると、フリーダとクルシュがこちらへ歩いてきていた。


「久しぶりだな! 修行はどうだったよ?」


「お久しぶりです、タクマさん。お元気そうで何よりです」


「フリーダさん、クルシュさん。お久しぶりです」


タクマが挨拶すると、フリーダはその肩を軽く叩いた。


「何だ、思ったより元気そうじゃねえか。もっとボロボロになって帰ってくるかと思ってたぞ」


「昨日までなら、結構ボロボロでしたよ」


「ははっ! そりゃ大変だったな!」


クルシュも穏やかに笑っている。


私は二人に、タクマがボーマンから一本取ったことを話そうかと思ったけれど、やめておいた。あの老人の強さを知らない二人に説明するのは難しいし、何より、タクマ自身があまり大げさに言われたがらないだろう。


それなら、実際に戦うところを見てもらった方が早い。


「それで、今日は依頼を探してるのか?」


フリーダが尋ねた。


「はい。久しぶりに冒険者の仕事をしようと思って」


「なら、久々に四人で何かやるか?」


「いいですね」


クルシュも賛成した。


私も異論はない。タクマの実力を二人に見てもらうには、ちょうどいい機会だと思った。


ところが、その時だった。


ギルドの入口が勢いよく開き、一人の男が駆け込んできた。


「緊急だ! 街道に大型魔獣が出た!」


受付の周囲が、一瞬で騒がしくなった。


男は商隊の護衛をしていた冒険者らしく、肩から血を流し、服のあちこちが破れている。受付へ駆け寄ると、息を切らしながら状況を説明し始めた。


「西の街道だ! 荷馬車が襲われてる! 護衛じゃ手に負えねえ!」


エリナがすぐに駆け寄り、負傷の程度を確かめながら事情を聞き始めた。他の職員も動き出し、救援の手配や現場の確認に取りかかっている。


私たちも自然と顔を見合わせた。


「……何だか、ちょうどよさそうな依頼が来たな」


フリーダが槍を担ぎ直した。


「まだ詳細が分かりませんよ」


クルシュがたしなめる。


「分かってるって。でも、急いだ方がいいのは間違いねえだろ」


やがてエリナが戻ってきた。


「リカ、お願いできる?」


「もちろん。相手は?」


「大型の魔獣で、護衛の話だとB級上位相当らしいの。正確な種類はまだ確認できてないけど、かなり危険みたい」


「分かった。場所は?」


エリナから詳しい位置を聞き、私たちはすぐに出発することにした。


タクマは少しだけ緊張した顔をしていたけれど、以前のように不安そうではなかった。腰に下げた剣の柄を確かめ、静かに息を吐いている。


「……よし」


その横顔を見て、私は少しだけ期待してしまった。


さて、ボーマンとの修行の成果を、どれくらい見せてくれるのかな。


*


西の街道へ向かう途中、私たちは負傷した護衛から聞き取れた情報を確認した。


襲ってきた魔獣は、四本の太い脚を持つ獣型で、全身を硬い甲殻に覆われているらしい。荷馬車を横から突き飛ばすほどの力があり、護衛たちが剣や槍で攻撃しても、ほとんど傷をつけられなかったという。


「甲殻持ちか。面倒な相手だな」


フリーダが顔をしかめた。


「種類によっては、私の槍でも簡単には通りませんからね」


クルシュも少し考え込んでいる。


硬い甲殻を持つ魔獣は、それほど珍しいわけではない。森の奥や山岳地帯には、体を守るために厚い外殻を発達させた種類が何体もいる。ただし、街道近くまで出てくることは少なく、人を積極的に襲う個体となれば放置するわけにもいかなかった。


「リカ、魔法で倒せそう?」


タクマが尋ねた。


「もちろん。実物を見ないと分からないけど、甲殻ごと吹き飛ばすこともできるし、隙間を狙う方法もあるわ」


「そっか」


「でも、今回はタクマにも期待してるからね」


私が笑うと、タクマは少し困ったような顔をした。


「期待されすぎると緊張するなあ」


「無理はしなくていいのよ。危なくなったら私が何とかするから」


「うん。分かってる」


その返事は、以前よりずっと落ち着いていた。


タクマは強くなった。けれど、それ以上に変わったのは、自分が何をできて、何をできないのかを考えるようになったことだと思う。


ボーマンとの修行では、何度も剣を弾かれ、転ばされ、攻撃を見切られていた。そのたびにタクマは自分の動きを振り返り、次に何を変えるべきかを考えていた。何度失敗しても、ただ同じ攻撃を繰り返すのではなく、少しずつ方法を変えていたのだ。


今のタクマなら、相手を見ずに飛び込むようなことはしないだろう。


そう思っていると、先を歩いていたフリーダが足を止めた。


「……いたぞ」


街道の先、横倒しになった荷馬車の向こうに、大きな影が見えた。


魔獣は護衛の説明どおり、四本脚の獣型だった。肩までの高さは私の背丈を超えていて、胴体は荷馬車ほどもある。背中から首にかけて灰褐色の甲殻が重なり、頭部には前方へ突き出した太い角が一本生えていた。


地面には荷物が散乱し、車輪の壊れた荷馬車が一台、街道を塞ぐように倒れている。幸い、周囲に人の姿はなかった。商人たちは護衛に連れられて逃げたらしい。


「……でっか」


タクマが小さく呟いた。


「ありゃあ、かなり育った個体だな」


フリーダは槍を構えながら、魔獣の様子を観察していた。


魔獣はこちらに気づいたらしく、低いうなり声を上げた。前脚で地面を掻き、頭を低くして角を向けてくる。


「突進してくるつもりですね」


クルシュが杖を握り直した。


「そうみたいね。私が足を止めようか?」


私が提案すると、タクマが一歩前へ出た。


「……リカ」


「何?」


「最初、俺にやらせてもらってもいいかな」


フリーダが目を丸くした。


「おいおい、相手を見て言ってんのか? あれ、まともに食らったら鎧ごと潰されるぞ」


「分かってます。でも、試してみたいんです」


タクマは魔獣から目を離さずに答えた。


「もちろん、無理だと思ったらすぐに下がります。皆さんも、危ないと思ったら遠慮なく援護してください」


私は少しだけ考えた。


相手は大型で、動きも単純そうだ。甲殻は硬いけれど、関節や首の付け根には隙間がある。タクマが修行で身につけた動きを試すには、悪い相手ではないかもしれない。


何より、私がすぐに魔法を使える位置にいれば、万が一の時にも対応できる。


「……いいわよ」


「リカ!?」


フリーダが驚いた声を上げた。


「大丈夫。私が見てるから」


「いや、そういう問題じゃ……」


「フリーダさん」


タクマが静かに呼びかけた。


「危ないことをしたいわけじゃないんです。ちゃんと考えてやりますから」


フリーダはタクマの顔を見て、少しだけ眉を上げた。


「……分かったよ。ただし、無茶だと思ったら即座に割って入るぞ」


「はい。お願いします」


クルシュも蔦魔法を準備し、いつでも魔獣の脚を拘束できるようにしていた。


私は魔力を集中させながら、タクマの背中を見つめた。


腰から引き抜かれたのは、バルグリムに作ってもらったミスリル合金の剣。ボーマンとの修行で使っていた刃のない練習剣とは違い、実際に魔獣を斬るための武器だ。


タクマは両手で柄を握り、静かに構えた。


魔獣がうなり声を上げる。


次の瞬間、巨体が動いた。


地面を蹴り、角を突き出して突進してくる。あれだけの重量があるにもかかわらず、加速はかなり速い。正面から受け止めるのは危険だし、横へ逃げるにしても、距離を見誤れば体当たりを食らうだろう。


けれど、タクマは動かなかった。


いや、正確には、必要以上に動かなかった。


剣を構えたまま、魔獣の頭の向きと前脚の動きを見ている。肩にも腕にも余計な力が入っておらず、呼吸も乱れていない。


私は、その姿に見覚えがあった。


ボーマンとの修行の終盤、タクマが何度も繰り返していた動きだ。


相手が動いたからといって、慌てて反応するのではない。どこへ向かって動いているのか、次に何が起こるのかを見極める。そして、必要な瞬間だけ、自分の身体を動かす。


魔獣がさらに距離を詰めた。


その瞬間、タクマの魔力がわずかに変化した。


身体強化。


そして、足元にごく小さな風の流れ。


大きな魔法ではない。ほんの一瞬、踏み込みを助けるためだけのものだった。


タクマの身体が、魔獣の突進する線から外れる。


それも、大きく跳び退くのではなく、相手の角が届かないぎりぎりの位置へ。魔獣の巨体が横を通り過ぎる、そのわずかな時間を使って、タクマは剣を振り上げていた。


そして、すれ違う瞬間。


剣が振り下ろされた。


私には、その一撃がはっきり見えた。


腕だけで振った剣ではない。足の踏み込みから腰の回転、肩、腕、そして剣先まで、すべてがつながっていた。身体強化によって生まれた力が、途中で逃げることなく刃へ伝わっている。


魔力の流れにも、ほとんど無駄がない。


剣が甲殻の重なり合う隙間へ滑り込み、首の付け根を深く斬り裂いた。


鈍い音が響く。


魔獣はそのまま数歩進み、前脚から崩れ落ちた。巨体が地面へ倒れ込み、土埃が舞い上がる。しばらく脚が痙攣するように動いていたけれど、やがて完全に動かなくなった。


タクマはすぐに剣を収めず、魔獣の様子を確かめていた。呼吸が止まり、反撃の可能性がないことを確認してから、ようやく肩の力を抜く。


その間、フリーダもクルシュも、一言も発しなかった。


「…………は?」


最初に声を出したのはフリーダだった。


クルシュも杖を構えたまま、倒れた魔獣を見つめている。


「……今ので、終わりですか?」


「みたいですね」


タクマが答えた。


剣を下ろした本人も、少し驚いているようだった。


「……思ったより、うまくいったな」


「お前なあ……」


フリーダがゆっくりと近づいてくる。


「今の、どうやったんだ?」


「えっと、相手の動きを見て、避けながら斬っただけですけど」


「それが簡単にできりゃ苦労しねえんだよ!」


フリーダの声が街道に響いた。


クルシュも、まだ少し信じられない様子で魔獣を確認している。


「甲殻の隙間を、あの速度で正確に……。しかも、身体強化だけではありませんでしたね?」


「足元に、少し風魔法を使いました」


「……なるほど」


クルシュは感心したように頷いた。


「ですが、それをあの一瞬で組み合わせるのは、簡単なことではありませんよ。少しでも魔法の発動が遅れれば、あの位置へ移動することすら難しかったでしょう」


「そうですね。俺も、うまくいかなかったらすぐに距離を取るつもりでした」


タクマはそう答えながら、改めて倒れた魔獣を見た。


「でも、思ったより相手の動きが分かりやすかったんです。ボーマンさんと比べると、ずっと」


「……お前、どんな修行してきたんだよ」


フリーダが呆れたように呟いた。


私は二人の反応を見ながら、思わず胸を張った。


「ふふん。どう? 私のタクマ、すごいでしょ!」


フリーダがこちらを振り返った。


「何でお前がそんなに得意げなんだよ!」


「だって、すごかったじゃない!」


「それは認めるけどよ!」


タクマは困ったように笑っていた。


「いや、リカ。ちょっと恥ずかしいんだけど」


「いいじゃない。ちゃんと褒められてるんだから」


「そうだけどさ……」


私は笑いながら、倒れた魔獣へ近づいた。


傷口を確認すると、剣は狙いどおり甲殻の隙間を通り、急所に届いていた。少しでも角度がずれていれば、あの硬い甲殻に弾かれていただろうし、相手の突進に巻き込まれていたかもしれない。


力だけで押し切ったのではない。


相手を観察し、動きを読み、必要な瞬間に必要なだけ魔法を使う。ボーマンが教えようとしていたことを、タクマはちゃんと実戦で使ってみせたのだ。


「……本当に、上手になったわね」


私がそう言うと、タクマは少し照れくさそうに笑った。


「ありがとう。でも、今回は相手が分かりやすい動きをしてくれたからだと思う」


「それもあるでしょうね」


「ボーマンさんだったら、あそこで避けられてたと思うし」


「それはそうよ。あの人と比べたら、まだまだでしょうけど」


私は倒れた魔獣を見た。


「でも、ちゃんと倒せたじゃない」


「……うん」


タクマは嬉しそうに頷いた。


その顔を見て、私まで嬉しくなった。


*


それからの数週間、私たちは久しぶりに冒険者らしい毎日を過ごした。


朝はギルドへ顔を出し、依頼を確認する。討伐依頼があれば森や街道へ向かい、採集や護衛の仕事があれば、それに合わせて準備をする。仕事を終えれば報酬を受け取り、必要な道具を買い足し、家へ帰る。


特別なことのない、いつもの生活。


けれど、タクマにとっては、以前とは少し違う毎日になった。


最初の緊急討伐がギルド内で話題になったらしく、タクマの名前を知っている冒険者が増えたのだ。受付で声をかけられることもあれば、酒場であの時の戦いについて聞かれることもあった。


もちろん、誰もがすぐにその話を信じたわけではない。


A級冒険者の私と、B級のフリーダ、クルシュが同行していたのだから、実際には私たちが倒したのではないかと考える人もいたらしい。確かに、D級冒険者がB級上位相当の魔獣を一撃で倒したと言われても、簡単には信じられないだろう。


でも、それについてはフリーダが黙っていなかった。


「だから、タクマが一人で斬ったんだって! あたしら、何もしてねえんだよ!」


酒場でそんなふうに説明している姿を、何度か見かけた。


クルシュも、聞かれれば丁寧に事情を話していた。二人とも自分たちの手柄にしようとはしなかったし、むしろタクマの成長を喜んでくれているようだった。


タクマ本人は、少し居心地が悪そうだったけれど。


「……何だか、話が大きくなってない?」


「いいことじゃない」


「いや、俺がすごい剣士みたいになってるんだけど」


「実際、かなり強くなったと思うわよ」


「そうかなあ」


そんなことを言いながらも、タクマは依頼を受けるたびに、自分の技術を確かめるようになった。


複数の魔獣を相手にする時は、無理に一撃で倒そうとはせず、位置取りを考える。素早い相手には、剣を振る前に相手の進路を読む。魔法を使う時も、必要以上に魔力を流さないよう意識していた。


当然、毎回うまくいくわけではなかった。


ある時は、小型の魔獣に左右から挟まれて、危うく転びそうになった。別の日には、素早く跳び回る魔獣に剣を空振りさせられ、結局私が魔法で足を止めることになった。


相手が一体なら落ち着いて対処できても、複数になると視線を向けられる範囲には限界がある。足場が悪ければ、修行で覚えた踏み込みも思うようには使えない。実戦では、相手の強さだけでなく、周囲の状況まで考えなければならないのだ。


そのたびにタクマは反省していたけれど、以前のように落ち込むことは少なくなった。


「……次は、もう少し早く位置を変えた方がいいな」


「そうね。あの相手なら、無理に追いかけなくてもよかったと思う」


「うん。待ってれば向こうから来たもんな」


そんなふうに、失敗を次の依頼へつなげていく。


時にはボーマンのログハウスを訪ね、分からなかったことを相談することもあった。


ボーマンは相変わらず穏やかに話を聞き、必要なら練習剣を持ち出して、タクマの動きを確かめてくれた。


「なるほど。相手が複数の場合は、剣を振ることより、まず立つ場所を考えるべきでしょうな」


「立つ場所、ですか?」


「ええ。一度に三体を相手にする必要はございません。三体が同時に襲いかかれない位置へ移動すればよいのです」


「……なるほど」


タクマは毎回、何かを持ち帰っていた。


私も、ボーマンの説明を聞いて感心することがあった。魔法なら広い範囲をまとめて攻撃する方法もあるけれど、剣で戦う場合には、相手の数を減らす前に、まず自分が一度に相手をする数を減らすことが重要らしい。


そう考えると、剣術というのは単に剣を振る技術ではないのだろう。


ボーマンがこの森に残ってくれてよかったと、私は何度も思った。


本人も、すっかり森の暮らしを楽しんでいるらしい。最近では小さな菜園まで作り始めていて、タクマが稽古に訪ねた時には、育てている野菜の話を聞かされたこともあった。


「今年は少し遅いかもしれませんが、来年には立派なものが採れるでしょうな」


そう言って畑を眺めるボーマンは、実に楽しそうだった。


あのボーマンが、野菜の育ち具合を嬉しそうに説明している。


王宮にいた頃の姿を知っている私には、少しおかしかった。


*


タクマがC級へ昇格したのは、冒険者として復帰してから二週間ほど経った頃だった。


緊急討伐の功績に加え、それまでの依頼達成実績や、最近の活動状況が評価されたらしい。実力だけでなく、依頼を途中で投げ出さないことや、危険な状況で無理をしないことも判断材料になったと聞いた。


エリナから昇格を告げられた時、タクマは少し驚いていた。


「……もうC級になれるの?」


「もう、じゃないわよ。タクマの場合、実力に対して等級が追いついてなかったんだから」


エリナはそう言って、書類を差し出した。


「もちろん、等級は強さだけで決まるものじゃないけどね。依頼をちゃんと達成できるか、危険な状況で判断を間違えないか、そういうところも見られるから」


「そっか」


「その点、最近のタクマは問題なし。ギルドとしても安心して仕事を任せられるって判断したの」


タクマは嬉しそうに頷いた。


「ありがとう、エリナ」


「どういたしまして。これからも頑張ってね!」


私はその横で、少しだけ得意な気分になっていた。


タクマが初めてギルドへ登録した日のことを思い出す。


あの頃は剣の扱いも覚束なくて、魔法だってほとんど使えなかった。文字もまだ十分に読めず、依頼を選ぶ時には私が説明していた。魔獣の種類も知らなければ、街道の名前すら分からないことがあって、何をするにも一つずつ覚える必要があった。


それが今では、自分で依頼内容を確認し、危険性を考え、必要な準備までできるようになっている。もちろん、難しい文章を読む時にはまだ私に聞くこともあるけれど、それでも随分と成長したと思う。


そして、そのさらに二週間ほど後。


タクマは再び、ギルド長室へ呼ばれることになった。


「……B級、ですか?」


バルザックの前で、タクマが目を丸くした。


「ああ」


ギルド長は椅子に深く腰を下ろし、机の上に置かれた書類を指で叩いた。


「正直、異例の早さだ。普通なら、もう少しC級として実績を積ませるところだがな」


「だったら、無理に上げなくても……」


「最後まで聞け」


バルザックが低い声で言うと、タクマは慌てて口を閉じた。


「お前の剣の腕については、ハーケンからも以前から話を聞いていた。あいつは、お前の剣技ならB級相当だと言っていたからな」


「……はい」


「それに加えて、最近の討伐実績だ。大型魔獣の緊急討伐だけじゃねえ。その後の依頼でも、危険な状況で無茶をせず、仲間と連携して仕事を終わらせている」


バルザックは書類をめくった。


「ギルドが欲しいのは、強いだけの馬鹿じゃねえ。ちゃんと帰ってきて、次の仕事も任せられる冒険者だ」


私は思わず笑いそうになった。


いかにもバルザックらしい言い方だった。


「もちろん、経験不足なところはまだある。だが、そこを差し引いても、C級のままにしておく理由が薄い。お前に任せられる仕事が増えている以上、それに見合った等級を与えるべきだろう」


「……そうなんですね」


「だから、俺の権限でB級への昇格を認める」


バルザックはそう言って、書類に署名した。


「ただし、勘違いするなよ。B級になったからって、どんな依頼でも受けていいわけじゃねえ。自分の力量を見誤った奴から死んでいくんだ」


「はい。気をつけます」


「……よし」


バルザックは満足そうに頷いた。


「それと、リカ」


「何?」


「お前も、こいつを甘やかしすぎるなよ」


「……私?」


「何でもお前が片づけちまったら、本人の経験にならねえからな」


「分かってるわよ」


私は少しだけ頬を膨らませた。


そんなこと、言われなくても分かっている。


……たぶん。


隣でタクマが笑いをこらえていたので、私は軽く肘でつついておいた。


*


その日の夕方、私たちはフリーダとクルシュ、それにエリナも誘って、ささやかなお祝いをした。


「B級昇格、おめでとう!」


フリーダが勢いよく杯を掲げた。


「ありがとうございます!」


「いやあ、早かったな! ちょっと前まで新人だったのによ!」


「本当に。ですが、最近のタクマさんの働きを見ていれば、納得の昇格ですね」


クルシュも微笑んだ。


エリナは仕事を終えてから合流したので、少し遅れてやってきた。席に着くなりタクマへ祝いの言葉をかけ、注文した飲み物が届くと、改めて皆で杯を合わせた。


「もうB級かあ。最初に登録した時のこと、覚えてる?」


「もちろん。あの時は、何も分からなかったからね」


「そうそう。リカが横で全部説明してくれてたんだよね」


エリナが懐かしそうに笑った。


「それが今じゃ、ギルド長の特別決裁でB級だもん。すごい成長だよ」


タクマは少し照れくさそうに頭を掻いた。


「でも、まだまだ分からないことばっかりだよ」


「それでいいんじゃない?」


私は隣から言った。


「分からないことがあるなら、これから覚えていけばいいんだもの」


「……そうだね」


タクマが笑った。


フリーダはそんな私たちを見て、にやりと口元を緩めた。


「しかし、リカも嬉しそうだなあ」


「当たり前でしょ?」


「いや、もうちょっと隠すかと思ってよ」


「何を?」


「彼氏の昇格が嬉しくて仕方ねえって顔」


「……別に、隠す必要ないじゃない」


私がそう答えると、フリーダは一瞬きょとんとして、それから大きな声で笑い始めた。


「はははっ! そうだな! そりゃそうだ!」


クルシュも楽しそうに笑っている。


タクマは少し恥ずかしそうだったけれど、私の手をそっと握ってくれた。私はその手を握り返し、テーブルの向こうで笑っている友人たちを眺めた。


こんな時間が、私は好きだった。


依頼を終えて、仲間と食事をして、くだらない話で笑う。誰かが昇格すれば皆で喜び、失敗すれば励まし合う。時には意見が合わないこともあるけれど、だからといって誰かが一方的に命令するわけではない。


王宮にいた頃には、想像もしなかった暮らしだ。


あの頃の私は、毎日が決められた予定で埋まっていて、誰かに褒められても、それが自分のためなのか王女としての価値を評価されているのか、分からなくなることがあった。


でも、今は違う。


タクマがB級になったことを、皆が素直に喜んでいる。誰も、彼が将来どんな立場になるべきだとか、どんな役目を果たさなければならないとか、そんな話はしない。


私も、ただ嬉しい。


それだけで十分だった。


*


それから、さらに何日かが過ぎた。


タクマはB級冒険者として、新しい依頼を受けるようになった。もちろん、等級が上がったからといって、急に生活が変わったわけではない。朝は一緒に起きて、朝食を食べ、ギルドへ向かう。仕事が終われば買い物をして、森の家へ帰る。


時にはボーマンのところへ顔を出し、剣術の相談をする。


私も、空いた時間には魔法の研究を続けていた。


ボーマンが近くに住むようになってからは、昔の魔法について話を聞く機会も増えた。あの人は剣術だけでなく魔法にも詳しいので、話し始めるとつい時間を忘れてしまう。


ある時など、古い魔法術式の構造について意見が分かり、気づけば夕食の時間を過ぎていたこともあった。タクマが迎えに来なければ、もう少し話し込んでいたかもしれない。


「リカも、ボーマンさんの前だと生徒に戻るんだな」


帰り道でタクマにそう言われた。


「……そう?」


「うん。すごく楽しそうに話してる」


「だって、あの人の話は面白いんだもの」


私は少しだけ照れくさくなった。


七年ぶりに再会した恩師が、今ではすぐ近くに暮らしている。そのことが、思っていた以上に嬉しかった。


王宮のことを考えると、今でも少し複雑な気持ちになる。自分があの場所へ戻りたいとは思わないし、王女として暮らしていた頃の窮屈さを忘れたわけでもない。


でも、ボーマンと過ごす時間は、必ずしも嫌な思い出ばかりを呼び起こすわけではなかった。


むしろ、楽しかった頃のことを思い出す機会が増えたように思う。


ヴィルヘルム兄上や、ハインリヒ兄上のことも。


最近、ボーマンが昔の話をするたびに、私は二人の兄の顔を思い浮かべることがあった。


ヴィルヘルム兄上は、相変わらず真面目に仕事をしているのだろうか。昔から何でもきちんとこなす人だったけれど、今では父上の仕事を随分と任されているはずだ。


ハインリヒ兄上は、今でもあんなふうに適当なことを言っているのだろうか。私が小さい頃は、よく余計なことを教えてくれて、そのたびにヴィルヘルム兄上に叱られていた。


七年も会っていないのだから、二人とも随分と変わっているはずだ。


それでも、私の中にいる兄たちは、昔のままだった。


そんなことを考えていた、ある朝のことだった。


*


その日も、私たちはいつもどおりギルドへ向かっていた。


天気はよく、街には朝の活気が満ちていた。市場では商人たちが店を開き始め、通りには荷馬車が行き交っている。焼きたてのパンの香りが漂い、道端では店主と常連客が楽しそうに話していた。


「今日はどうしようか」


タクマが尋ねた。


「そうね。昨日は少し遠くまで行ったし、今日は近場の依頼でもいいんじゃない?」


「うん。俺もそう思ってた」


「午後はボーマンのところへ行く?」


「そうだな。昨日の魔獣、ちょっと動きが読みにくかったから、相談してみたいんだ」


「じゃあ、早めに終わる仕事を探しましょうか」


そんな話をしながら、私たちはギルドの扉を開けた。


いつもの喧騒が耳に入ってくる。


依頼掲示板の前には冒険者たちが集まり、受付ではエリナが書類を整理していた。顔見知りの冒険者がこちらへ手を上げたので、私も軽く挨拶を返す。


私はいつものようにエリナへ声をかけようとして、ふと足を止めた。


壁際に、見覚えのある女性が立っていた。


銀色の髪に、褐色の肌。そして、ダークエルフ特有の長い耳。


シエラだった。


「あ、シエラ!」


私が手を振ると、彼女はすぐにこちらを向いた。


「……リカ」


いつものように短い返事。


けれど、その表情を見て、私は少しだけ違和感を覚えた。


シエラは普段、あまり感情を表に出さない。嬉しい時も困っている時も、ほんの少し表情が変わるだけだ。だから、初めて会う人には何を考えているのか分かりにくいかもしれない。


でも、私は彼女と長い付き合いがある。


少なくとも、今のシエラが普段どおりではないことくらいは分かった。


「どうしたの? 今日は依頼?」


「……違う」


シエラは首を横に振った。


それから、私とタクマの顔を順番に見た。


「……待ってた」


「私たちを?」


「うん」


タクマも少し不思議そうにしていた。


「おはようございます、シエラさん。何かあったんですか?」


「……うん」


シエラは短く答え、少しだけ周囲を見回した。


ギルドの中は、いつもどおり賑やかだった。冒険者たちの笑い声や、受付で交わされる依頼の話が聞こえてくる。誰も私たちのことを気にしていないし、特別な騒ぎが起きている様子もない。


けれど、シエラはそれらを気にする様子もなく、私の方へ一歩近づいた。


「……リカ」


「何?」


「急ぎの用件がある」


その声は、いつもより少しだけ低かった。


私は思わず背筋を伸ばした。


「……何があったの?」


シエラはすぐには答えなかった。


代わりに、私の目を真っ直ぐに見つめた。


「ボーマンのところまで案内して」


私は一瞬、言葉に詰まった。


ボーマンのところへ?


シエラが王宮の依頼で私を見守っていたことは、もう知っている。だから、彼女がボーマンの存在を知っていても不思議ではないし、王宮に関係する用件を持ってくることもあるだろう。


でも、わざわざ私たちを待ち構えてまで、あの人に会いたがる理由が分からなかった。


「……ボーマンに用があるの?」


「うん」


「ここでは話せない?」


「……先に、ボーマンに」


シエラはそれだけ言った。


いつもの彼女なら、もう少しだけ柔らかく笑ってくれる。必要なことしか話さない人だけれど、私を困らせるような言い方はあまりしない。仕事の話をする時でさえ、こちらが納得できるように、少しずつ説明してくれることが多かった。


それなのに、今日は違った。


何かを急いでいる。


それも、かなり重要なことを。


私はタクマを見た。


彼も、シエラの様子がおかしいことに気づいているらしかった。私と目が合うと、小さく頷いた。


「……リカ、行こうか」


「うん」


私は頷き、シエラへ向き直った。


「分かった。案内するわ」


「……ありがとう」


シエラは小さく頭を下げた。


私たちは依頼掲示板を見ることもなく、そのままギルドを後にした。


朝の街は、相変わらず賑やかだった。商人たちは荷物を運び、子供たちは笑いながら通りを駆けていく。パン屋からは焼きたての香りが漂い、どこかで店主が客を呼び込む声が聞こえた。


私たちは人の流れに混じりながら、森へ続く道を目指した。


シエラは私たちの少し前を歩いていた。普段なら、こちらが話しかければ短くても返事をしてくれるし、時には小さな冗談を言うこともある。けれど、今日は自分から口を開こうとしなかった。


私は何度か話しかけようとして、そのたびに言葉を飲み込んだ。


彼女が先にボーマンへ話したいと言うのなら、きっと理由があるのだろう。王宮から依頼を受けている以上、私にすぐ話せない事情があっても不思議ではない。


それでも、少し気になった。


シエラは以前、私の味方だと言ってくれた。


王宮の依頼で監視を続けていることも隠さずに話してくれたし、仕事とは別に、私を友達だと思っているとも言ってくれた。


だからこそ、私は彼女を信じている。


そのシエラが、今は明らかに何かを抱えていた。


タクマも何も聞かなかった。ただ、私の歩調に合わせて隣を歩き、時折シエラの背中へ視線を向けている。


やがて街の建物が少なくなり、森へ続く道が見えてきた。


私はその先にあるボーマンのログハウスを思い浮かべた。


つい昨日まで、あの家へ向かうのは楽しい時間だった。タクマの修行の話をしたり、ボーマンと昔話をしたり、時には三人でお茶を飲んだり。今日も午後には、そんな時間を過ごすつもりだった。


けれど、シエラの様子を見ていると、どうしてもいつもどおりの気分にはなれなかった。


何かが起きたのだろう。


それが何なのか、私にはまだ分からない。ただ、シエラがボーマンに直接伝えようとしている以上、マリアベルに関係する話なのかもしれなかった。


私はもう一度、前を歩くシエラを見た。


彼女は森の入口を見据えたまま、足を緩めようとしない。


私も少しだけ歩く速度を上げ、タクマと一緒にその後を追った。


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