第42話 届かない剣
翌朝、タクマはいつもより少し早く朝食を済ませた。
食器を片づけながら窓の外を見ると、森の木々の間から柔らかな朝日が差し込んでいる。風も穏やかで、屋外で剣を振るには申し分ない天気だった。
「今日は随分と張り切ってるね」
私が声を掛けると、タクマは少し照れくさそうに笑った。
「そりゃあね。昨日、ボーマンさんに一撃入れるって約束したからさ」
「……簡単じゃないと思うよ?」
「分かってる。でも、やってみないと始まらないだろ?」
そう言って、タクマは壁に立て掛けていた訓練用の模擬剣を手に取った。
昨日、ボーマンから借りたものだ。マリアベル王国の魔法騎士団で使われているという、魔法を通すことのできる金属製の剣。刃は付いていないけれど、形状や重さは実際の武器に近く、魔法と剣術を組み合わせる訓練には適している。
私はそんな彼を眺めながら、少しだけ心配になった。
タクマは確かに強くなった。ハーケンからは剣術の腕前をB級冒険者相当と評価され、最近では身体強化と風魔法を組み合わせた戦い方も身につけ始めている。以前のように、魔法を使うこと自体に意識を奪われる場面も減ってきた。
けれど、相手がボーマンとなれば話は別だ。
かつてマリアベル王国の近衛兵団を率いた、歴戦の武人。剣術だけでなく魔法にも精通し、私が幼い頃にはその両方を教えてくれた人でもある。現役を退いて久しいとはいえ、あの人が簡単に一撃を許すとは思えなかった。
「じゃあ、行こうか」
「うん。私も今日は見学させてもらうね」
二人で家を出ると、朝の森はひんやりとした空気に包まれていた。木々の間を抜ける小道には柔らかな日差しが落ち、足元の草にはまだ露が残っている。
向かう先は、私たちの家からそう遠くない場所に建つ、ボーマンのログハウスだ。
この森へやって来たボーマンは、私たちと同居するのではなく、自分の住まいを構えて暮らしている。王宮で長年執事長を務めていた人が、今では森の中で一人暮らしをしているのだから、人生というのは分からないものだ。もっとも、本人は随分と気に入っているらしく、静かな環境で過ごすのも悪くないと、いつも楽しそうに話している。
ログハウスの前には、木々が途切れた少し開けた場所があった。地面も比較的平らで、周囲には剣を振るための十分な余裕がある。今では、タクマとボーマンが訓練するための、ちょうどいい広場になっていた。
私たちが到着すると、ボーマンは既に外へ出ていた。
「おはようございます、殿下。タクマ殿」
「おはよう、ボーマン」
「おはようございます! 今日もよろしくお願いします!」
「ほほほ。随分と気合いが入っておられますな」
ボーマンは楽しそうに笑い、傍らに置いていた模擬剣を手に取った。タクマが持つものより少し短く、片手でも扱いやすい形をしている。どちらも魔法を通すことができる訓練用の剣だけれど、使い手に合わせて長さや重さが異なるらしい。
「さて、タクマ殿。準備はよろしいですかな?」
「はい!」
「では、早速始めましょうか」
タクマが両手で剣を構える。対するボーマンは、模擬剣を片手に持ったまま、どこか力の抜けた自然な姿勢で向かい合った。
私は少し離れた木陰へ移動し、二人を見守ることにした。
そして、訓練が始まった。
*
最初の一撃は、あまりにもあっけなかった。
ボーマンが踏み込んだと思った瞬間、タクマの胸元に模擬剣の先端が突きつけられていたのだ。
「……え?」
タクマが目を見開く。私も思わず息を呑んだ。
速い。
身体強化によって踏み込みを加速させ、さらに風魔法で移動を補助している。けれど、驚くべきなのは速度そのものではない。魔法の発動から身体の動きまで、ほとんど無駄がなかったのだ。
身体強化を使う際、魔法の出力を急激に高めれば、それだけ身体の動きにも変化が生まれる。風魔法を組み合わせれば、なおさらだ。普通なら魔法を使った瞬間に動きが大きくなったり、姿勢が崩れたりするものだけれど、ボーマンにはそれがない。必要な時に必要なだけ魔法を使い、剣の動きと自然に結びつけている。
その一連の動作が、まるで最初から一つの技術であるかのように見えた。
「まずは一本、でございますな」
ボーマンは何事もなかったかのように剣を下ろした。
「……昨日より、ずっと速くないですか?」
「昨日までは、タクマ殿の動きを確認することが目的でしたからな」
「今日は違うんですか?」
「ええ。今日は私に一撃を入れることが目標でございましょう?」
ボーマンは穏やかに微笑んだ。
「でしたら、私も相応の動きをお見せしなければなりませんな」
……ああ、これは大変だ。
私は心の中で、タクマに少しだけ同情した。
ボーマンは昔からこういう人だった。普段は穏やかで、誰に対しても丁寧に接する。けれど、ひとたび教育となれば、相手が王族だろうと容赦しない。できないことを叱るのではなく、できるようになるまで付き合ってくれるのだ。
もちろん、相手を無理に追い込むようなことはしない。本人の力量を見極め、少し頑張れば届きそうな目標を示し、そこへ向かって努力させる。そういう教え方をする人だった。
ただ、その「少し頑張れば」という判断が、普通の人より随分と厳しいのである。
私も幼い頃、何度泣きそうになったことか。
「……もう一回、お願いします!」
ところが、タクマは目を輝かせていた。
ボーマンも嬉しそうに頷く。
「ええ。何度でもお相手いたしましょう」
こうして、長い一日が始まった。
最初の一時間で、タクマは何度も剣を突きつけられた。
正面から踏み込めば、横へ回り込まれる。相手の動きを見て反撃しようとすれば、その前に間合いを詰められる。身体強化で速度を上げても、ボーマンは必要最小限の動きでかわしてしまう。
もちろん、タクマもただ負け続けているわけではない。
何度も剣を交えるうちに、少しずつ動きを変えていた。最初は速度を上げることばかり考えていたのに、途中からは間合いを意識するようになり、相手の剣先を見ながら攻撃の機会を探り始めている。
私はその様子を見ながら、時折声を掛けた。
「タクマ! 今のは風を使うのが早すぎたよ!」
「分かってる! でも、ボーマンさんが速くて!」
「魔法で追いつこうとしないで! まずは足を動かして!」
「了解!」
返事だけは元気だ。
けれど、次の攻撃でも同じようにかわされてしまう。
「……参りました」
タクマが肩で息をしながら剣を下ろすと、ボーマンは静かに頷いた。
「タクマ殿。今の攻撃で、私をどちらへ動かそうとなさいましたかな?」
「……どちらへ?」
「ええ。私がどう動くかを見てから、次の攻撃を考えておられたのでは?」
タクマは少し考え、やがて頷いた。
「……そうですね。ボーマンさんの動きに合わせようとしてました」
「それでは、いつまでも後手に回ってしまいますぞ」
ボーマンは模擬剣を軽く持ち上げた。
「相手がどう動くかを読むことは大切です。しかし、それだけでは足りませぬ。時には、相手を自分の望む方向へ動かすことも必要なのです」
「……相手を、動かす」
「左様。攻撃とは、ただ剣を当てるためだけのものではございません。相手に防御を選ばせ、回避を誘い、次の攻撃へつなげる。その積み重ねが、戦いの流れを作るのでございます」
タクマは真剣な表情で聞いていた。
私も、その説明には納得できるものがあった。
魔法でも同じことが言える。相手へ火球を放つ時、必ずしも命中させることだけが目的とは限らない。回避する方向を制限したり、別の魔法を使うための時間を稼いだりすることもある。相手が火球を避けるために横へ動けば、その先に別の攻撃を用意することだってできる。
逆に、こちらが攻撃を仕掛ける時も、相手がどのように対応するかを考えなければならない。防御するのか、回避するのか、それとも反撃してくるのか。その選択肢を一つずつ減らしていけば、こちらの攻撃はそれだけ通りやすくなる。
剣術と魔法は違う技術だけれど、戦い方の考え方には共通する部分が多いのだ。
「……もう一度、お願いします」
タクマが剣を構え直す。
ボーマンは満足そうに頷いた。
「ええ。では、今度は私を動かしてみてくださいませ」
タクマは大きく息を吸い、踏み込んだ。
剣を振り下ろすと同時に、身体強化の出力を高める。さらに、風魔法で剣の軌道をわずかに変化させた。
ボーマンは横へかわす。
そこへタクマが追撃する。
しかし、その剣も受け流され、次の瞬間にはボーマンの模擬剣がタクマの肩へ軽く触れていた。
「……まだまだ、でございますな」
「……はい!」
タクマは悔しそうに笑った。
それでも、すぐに構え直す。
私はそんな二人を見ながら、思わず小さく笑ってしまった。
……これは、長くなりそうね。
*
昼食は、ボーマンのログハウスで取ることになった。
朝のうちに私が用意しておいたパンと簡単なおかずを持参していたので、ボーマンが淹れてくれたお茶と一緒にいただく。窓からは、先ほどまで二人が剣を交えていた広場が見えていた。
「……ボーマンって、本当に嫌な戦い方するよね」
私がそう言うと、ボーマンは楽しそうに笑った。
「ほほほ。お褒めいただき、光栄でございます」
「褒めてないんだけど」
「相手に嫌がられる戦い方ができるというのは、武人にとって悪いことではございませんからな」
隣で水を飲んでいたタクマが、深く頷いた。
「いや、本当に嫌ですよ。こっちが何か考えて仕掛けると、全部分かってるみたいに対応されるんですから」
「すべて分かっているわけではございませんぞ」
「……そうなんですか?」
「ええ。ただ、タクマ殿が取り得る選択肢を、ある程度絞っているだけでございます」
ボーマンは窓の外へ目を向けた。
「剣を振り下ろした後、そのまま続けて攻撃できる方向は限られます。足の位置や身体の向きによっては、選べない動きもございますからな。相手が何を考えているか分からなくとも、何ができるかを考えれば、対応は随分と容易になります」
「……なるほど」
「もっとも、それは相手も同じこと。自分の選択肢を増やし、相手の選択肢を減らす。そのために剣術を磨き、魔法を使うのでございます」
タクマはしばらく考え込んでいた。
そして、何か思いついたように顔を上げる。
「じゃあ、攻撃する時に、わざと別の動きを見せるのもありですか?」
「もちろんですとも。ただし、見せかけの動きに気を取られ、本来の攻撃が疎かになっては意味がございませんぞ」
「……ですよね」
タクマは苦笑した。
その様子を見て、私は少し安心した。
最初はボーマンの訓練についていけるのか心配していたけれど、タクマは思っていた以上に楽しんでいるらしい。失敗すれば理由を考え、指摘を受ければ次の攻撃で試してみる。以前、ハーケンから剣術を教わり始めた頃もそうだったけれど、彼は新しいことを覚えるのが好きなのだ。
そしてボーマンも、そういう教え子が好きなのだろう。
「では、午後は少し趣向を変えてみましょうか」
ボーマンが立ち上がった。
「タクマ殿。今度は私から攻撃いたします。まずは、それを防いでいただきましょう」
「……防ぐだけですか?」
「ええ。反撃は考えなくて結構。私の剣がどこから来るのか、よく見てくださいませ」
食事を終えると、二人は再び広場へ出ていった。
私はログハウスの前に置かれた椅子へ腰掛け、訓練を見守ることにした。
ボーマンが攻撃する。
タクマが受ける。
最初の一撃で、タクマの剣が弾かれた。
「……っ!」
「力で受け止めようとなさらずに。剣の向きを少し変えるだけでも、相手の力は逃がせますぞ」
「はい!」
再び攻撃。
今度はタクマが剣を斜めに構え、ボーマンの一撃を受け流した。
けれど、次の攻撃には間に合わない。
「……参りました!」
「今の受け方はよろしかったですな。では、もう一度」
それからも、何度となく同じような攻防が続いた。
タクマは徐々にボーマンの剣を受けられるようになっていったけれど、反撃する余裕までは生まれない。ボーマンは彼が一つの動きに慣れると、少しずつ攻撃の速さや角度を変えていく。
最初は正面からの攻撃だけだったものが、やがて斜めからの斬撃に変わり、時には足元を狙うような低い軌道も混ざる。タクマがそれらに対応できるようになると、今度は攻撃の途中で速度を変え、受け流そうとした剣の内側へ入り込んでくる。
私には、そのやり方が懐かしかった。
幼い頃、魔法の授業でも同じことをされたものだ。最初は簡単な術式を使わせ、できるようになると条件を変える。ようやく成功したと思えば、また新しい課題が出てくる。しかも、ボーマンは答えをすぐに教えてくれない。こちらが何を間違えたのか、自分で考えさせるのだ。
あの頃は、いつになったら終わるのかと何度も思った。
……今のタクマは、どうやら違うみたいだけれど。
「もう一回お願いします!」
夕方になっても、彼はそう言っていた。
結局、その日タクマの剣がボーマンに届くことはなかった。
帰り道、タクマは随分と疲れていたけれど、表情は明るかった。
「……いやぁ、すごいな。ボーマンさん」
「でしょ? 昔からああなのよ」
「リカもあんな授業受けてたの?」
「……思い出したくないくらいにはね」
タクマが笑った。
「でも、すごく勉強になるよ。明日はもう少し、こっちから仕掛けてみようと思う」
「……ほどほどにね?」
「分かってるって」
そう言って笑うタクマを見ながら、私は小さく息を吐いた。
どうやら、明日も長い一日になりそうだった。
*
二日目の朝。
私が台所へ下りていくと、タクマは既に食卓で何やら考え込んでいた。目の前には紙が広げられ、剣の軌道らしき線がいくつも描かれている。
「……何してるの?」
「あ、おはよう、リカ。昨日の訓練、ちょっと整理してたんだ」
「朝から?」
「うん。昨日はボーマンさんの動きについていくだけで精一杯だったからさ。今日はもう少し、こっちから仕掛けてみようと思って」
紙を覗き込むと、二人の立ち位置を表したらしい丸と、いくつもの矢印が描かれていた。剣術のことは専門外だけれど、何を考えようとしているのかは何となく分かる。昨日の攻防を思い出しながら、ボーマンがどちらへ動いたのか、その時に自分がどう動けばよかったのかを整理しているらしい。
「へえ。ちゃんと考えてるんだ」
「……その言い方、ちょっとひどくない?」
「ふふっ。褒めてるんだよ?」
タクマは苦笑し、紙を畳んだ。
朝食を済ませると、二人でボーマンのログハウスへ向かった。
ボーマンは既に広場へ出ており、私たちの姿を見ると穏やかに微笑んだ。
「おはようございます、殿下。タクマ殿」
「おはよう、ボーマン」
「今日もよろしくお願いします!」
「ほう。今日は何か考えてこられたようですな」
「……分かるんですか?」
「ええ。昨日とは目つきが違いますからな」
タクマが困ったように笑う。
「そんなに分かりやすいですかね……」
私は思わず口を挟んだ。
「大丈夫。私も分かったから」
「……それ、全然大丈夫じゃない気がする」
ボーマンが声を立てて笑った。
「では、早速始めましょうか」
二人が構える。
先に動いたのはタクマだった。
正面から踏み込み、ボーマンの右肩を狙って剣を振り下ろす。ボーマンは身体をわずかに左へ動かしたが、その瞬間、タクマは踏み込む足を変え、身体を回転させながら反対側へ剣を振り抜いた。
風魔法が剣の動きを補助し、通常なら一度止まるはずの攻撃が、ほとんど途切れることなく続いていく。
「おっ……!」
思わず声が出た。
昨日までとは違う。
最初の攻撃を当てようとしているのではない。ボーマンが左へ動くことを見越して、次の攻撃を用意していたのだ。
けれど、ボーマンは慌てなかった。
模擬剣を斜めに構え、タクマの追撃を受け流す。そのまま身体を半歩だけ前へ進め、タクマの懐へ入り込んだ。
「……っ!」
タクマが慌てて後退する。
しかし、間に合わない。
ボーマンの剣先が、彼の胸元で止まった。
「……参りました」
「ほほほ。今のは、なかなか良い攻撃でございましたぞ」
ボーマンは剣を下ろした。
「私を左へ動かそうとなさったのでしょう?」
「はい。昨日の話を考えて、最初から二回目の攻撃を狙ってみたんです」
「結構。ただ、私がその意図に気づいていた場合は、どうなさいますかな?」
「……あ」
「相手を動かそうとするのは良いことです。しかし、相手もまた、あなたを動かそうとしていることをお忘れなく」
タクマは苦笑した。
「……そう簡単にはいきませんね」
「簡単にいってしまっては、私も困りますからな」
その言葉に、私まで笑ってしまった。
もっとも、ボーマンの言っていることは正しい。
実際の戦いでは、相手だって考えている。こちらが仕掛けた罠に、必ずしも引っかかってくれるわけではない。むしろ、こちらの狙いを読んで利用してくる相手こそ、本当に厄介なのだ。
例えば、相手を右へ動かそうとして攻撃を仕掛けたとする。普通なら、その攻撃を避けるために右へ動くかもしれない。けれど、こちらの狙いに気づいている相手なら、あえて別の方向へ動いたり、攻撃を受け流して反撃してきたりするだろう。
そうなれば、こちらが用意していた次の攻撃は意味を失ってしまう。むしろ、相手にとって都合のいい状況を作ってしまうことさえある。
その点で言えば、ボーマンは間違いなく厄介な相手だった。
タクマが何か工夫を見せるたびに、彼はその意図を読み取り、別の対応を示してみせる。しかも、必要以上に説明しない。タクマ自身に考えさせ、答えを見つけさせようとしているのだ。
私はその様子を眺めながら、昔の授業を思い出していた。
……本当に、変わらない人ね。
*
午前中の終わり頃、タクマは一度だけ、ボーマンの体勢を大きく崩しかけた。
最初の攻撃を受け流された後、あえて追撃せずに足を止めたのだ。
それまでのタクマは、剣を受け流されるとすぐに次の攻撃へ移ろうとしていた。ボーマンもその動きを見越し、反撃に備えて重心を移動させる。
けれど、今回は違った。
タクマが踏み込んでこない。
その一瞬、ボーマンの身体がわずかに前へ流れた。
タクマは、その隙を逃さなかった。
身体強化の出力を一気に高め、地面を蹴る。さらに風魔法を使って踏み込みを加速させると、模擬剣をボーマンの肩へ向けて振り抜いた。
……届く!
そう思った。
けれど、ボーマンはその場で身体を回転させ、タクマの剣をかわした。さらに、風魔法を使って踏み込みの方向を変え、タクマの背後へ回り込む。
「……一本、でございますな」
模擬剣が、タクマの背中へ軽く触れる。
「……うわぁ」
タクマが思わず声を漏らした。
「今の、ちょっといけると思ったんですけど……」
「ええ。実際、少々驚かされましたぞ」
「本当ですか?」
「もちろんです。ただ、あそこで攻撃を急がず、もう半歩だけ間合いを詰めておられれば、結果は違ったかもしれませんな」
タクマは自分の足元を見た。
「……半歩、ですか」
「ええ。剣が届く距離と、相手が反応できる距離は、必ずしも同じではございませんからな」
その言葉に、タクマは深く頷いた。
私も感心していた。
今の攻防は、昨日までとは明らかに違う。タクマがボーマンの動きを予測し、さらにその予測を利用して攻撃を組み立てていた。最後はかわされてしまったけれど、少なくとも一方的に翻弄されていた昨日とは違う。
それに、ボーマンもほんの少しだけ、真剣な顔をしていた。
もちろん、まだまだ余裕はある。けれど、タクマの攻撃が単なる練習の延長ではなく、実際に自分へ届く可能性を持ち始めていることは、ボーマン自身も感じているのだろう。
「……もう一回、お願いします!」
「ええ。何度でも」
ボーマンは嬉しそうに構え直した。
私はそんな二人を見ながら、小さく息を吐いた。
……本当に、似た者同士ね。
*
その日の夕方、ボーマンを夕食に招くことにした。
訓練が終わる頃、私が声を掛けると、ボーマンは少し遠慮した様子を見せた。
「よろしいのですかな? 殿下のお手を煩わせるのも申し訳ございませんが」
「いいのよ。今日は少し多めに作ろうと思ってたし。それに、たまには三人で食べるのも楽しいでしょ?」
「では、お言葉に甘えさせていただきましょう」
そうして、三人で私たちの家へ戻った。
タクマも料理を手伝い、夕食の準備は思ったより早く終わった。食卓には焼いた肉と野菜、それに温かいスープを並べる。ボーマンは料理を口へ運ぶたびに満足そうに頷き、王宮ではこうした家庭料理をいただく機会が少なかったと、懐かしそうに話していた。
食事が始まると、当然のように今日の訓練の話になった。
「今日の最後の踏み込みなんですけど、あれって最初から俺が反撃するのを待ってたんですか?」
「ええ。タクマ殿は剣を受け流した後、すぐに前へ出る傾向がございますからな」
「……そこまで見てたんですね」
「剣を交えるというのは、相手を知ることでもございます」
タクマは感心したように頷いた。
「日本で剣道をやってた頃も、相手の癖を読むことはありましたけど……ここまで細かく考えたことはなかったです」
「ほう。では、その剣道というものについても、いずれ詳しく伺いたいものですな」
「もちろんです!」
私は二人の会話を聞きながら、肉を口へ運んだ。
剣道。
タクマの故郷にあった剣術の一種で、竹で作った剣を使って試合をするものだという。以前、タクマから少し教えてもらったことがあるけれど、こちらの剣術とは随分と違うところがあるらしい。
特に、相手との間合いを測ることや、攻撃を仕掛ける瞬間を見極めることを重視するという話は興味深かった。魔法を使わない世界だからこそ、身体の動きや相手の反応を、より細かく考える必要があったのかもしれない。
ボーマンも、その違いに興味を持っているようだった。
最初は私も、二人の話を楽しく聞いていた。
けれど、食事が終わっても会話は続く。
お茶を淹れ直しても、まだ続く。
タクマが立ち上がり、今日の攻撃を再現し始めた時には、さすがに声を掛けた。
「……ねえ、二人とも。そろそろお開きにしない?」
「おや、もうそんな時間でございましたか」
ボーマンが窓の外へ目を向けた。
「申し訳ございません、殿下。つい話し込んでしまいましたな」
「ごめん、リカ。あとちょっとだけ!」
「……その『ちょっと』、さっきも聞いたんだけど」
タクマは苦笑した。
「いや、今度こそ本当にちょっとだから」
「……本当?」
「本当!」
そう言って、再びボーマンへ向き直る。
「それで、さっきの話なんですけど……」
私は深くため息をついた。
……駄目だ、これ。
もう完全に、二人の世界ができあがっている。
ボーマンは昔から、教えることが好きだった。タクマは新しいことを覚えるのが好きだ。そんな二人が出会ってしまったのだから、こうなるのも当然なのかもしれない。
結局、ボーマンがログハウスへ帰っていったのは、夕食を終えてから随分と時間が経った頃だった。
玄関先で見送ると、ボーマンは満足そうに微笑んだ。
「本日はご馳走になりました、殿下。大変美味しゅうございました」
「どういたしまして。また気が向いたら食べに来てね」
「ええ。楽しみにしております」
そう言って、ボーマンは森の小道を歩いていった。
隣でタクマが大きく伸びをする。
「いやぁ、今日も勉強になったなぁ」
「……本当に楽しそうだね」
「うん。ボーマンさん、すごい人だよ」
「それは、昔から知ってるけどね」
私は笑いながら、タクマの腕を軽く叩いた。
「でも、明日も朝からなんでしょ? そろそろ休まないと」
「そうだな。明日こそ、一撃入れたいし」
「……頑張ってね」
そう答えながら、私は心の中で思った。
……明日も、きっと長い一日になるんだろうなぁ。
*
三日目。
朝食を終えると、タクマは当然のように訓練用の模擬剣を手に取った。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
私も後を追い、二人でボーマンのログハウスへ向かう。
ボーマンは既に広場で待っていた。
「おはようございます、殿下。タクマ殿」
「おはよう、ボーマン」
「今日もよろしくお願いします!」
「ええ。では、始めましょうか」
もはや、すっかりお馴染みのやり取りになっていた。
私は広場の端に置かれた椅子へ腰掛け、二人の訓練を見守る。
最初のうちは、私もそれなりに集中していた。
タクマの剣の軌道は少しずつ安定してきたし、風魔法を使うタイミングも以前より自然になっている。身体強化の出力を細かく変えながら、攻撃の速度に緩急をつけることも覚え始めていた。
初日には、ボーマンの踏み込みに反応することさえ難しかった。それが今では、相手の動きを予測して剣を構え、時には反撃の機会を作れるようになっている。もちろん、ボーマンの方も攻撃の仕方を変えているので、結果としては相変わらず一撃も入らないのだけれど、それでもタクマの成長は確かなものだった。
ボーマンも、タクマが新しい動きを見せるたびに嬉しそうに頷いている。
それは分かる。
分かるんだけど。
……いつまで続くの、これ?
午前中も半ばを過ぎた頃、私は椅子に座ったまま、大きく伸びをした。
最初の二日間は、私も随分と熱心に見ていたと思う。タクマの魔法に問題があれば助言したし、ボーマンの動きについても、気づいたことを伝えていた。
でも、三日目ともなると、さすがに少し飽きてくる。
そもそも、私は剣術の専門家ではない。
魔法なら何時間でも研究していられるけれど、剣の打ち合いを朝から晩まで眺め続けるのは、また別の話なのだ。ましてや、二人とも訓練に夢中で、こちらが何か言わなくても勝手に話し合い、次の攻防を始めてしまう。
私がここにいる意味も、だんだん薄くなってきた気がする。
私は一度家へ戻り、読みかけの魔法書を持ってきた。
再び広場の端へ座り、本を開く。
最初は時折顔を上げて、二人の様子を確認していた。けれど、しばらくすると魔法書の内容に夢中になってしまった。
最近考えていた術式の改良について、ちょうど参考になりそうな記述を見つけたのだ。魔力の流れを複数に分ける際、出力の変化をどう抑えるか。以前から少し気になっていた問題だったので、つい読み込んでしまう。
「……参りました!」
「では、もう一度」
広場の向こうから声が聞こえる。
私はページをめくった。
「……参りました!」
「今のは、なかなか良い動きでしたぞ」
また声が聞こえる。
私はさらにページをめくった。
……うん。
もう、好きにしてもらおう。
*
昼休憩になって、ようやく二人が剣を置いた。
今日はボーマンが用意してくれた軽食を、ログハウスの前でいただくことになった。簡単なパンと温かいスープだけれど、朝から動き続けていたタクマには十分だったらしく、随分と美味しそうに食べている。
「ふう……。今日も全然駄目だなぁ」
タクマが汗を拭いながら、私の隣へ腰掛けた。
「そう? 昨日よりずっと良くなってると思うけど」
「いや、そうなんだけどさ。ボーマンさん、こっちが何か覚えると、すぐに違う動きしてくるんだよ」
「……まあ、そういう人だからね」
私は苦笑した。
昔から、ボーマンの授業はそうだった。
一つできるようになると、すぐに次の課題が出てくる。ようやく終わったと思っても、今度は条件を変えて同じことをさせられる。本人は楽しそうなのだから、なおさら困る。
「ねえ、タクマ」
「ん?」
「これ、いつまで続けるの?」
タクマは少し不思議そうな顔をした。
「え? ボーマンさんに一撃入れるまでだけど」
「……今日中に終わりそう?」
「いや、どうだろうな。まだ全然届かないし」
「そっかぁ……」
私は思わず空を見上げた。
青い空が広がっている。風も穏やかで、絶好のお出かけ日和だ。
……なのに、私は三日続けてここに座っている。
「殿下」
向かいに座っていたボーマンが、楽しそうに声を掛けてきた。
「退屈でしたら、無理にお付き合いいただかなくても結構ですぞ」
「……えっ、いいの?」
「もちろんでございます。タクマ殿の魔法も随分と安定してまいりましたし、私もおりますからな。必要な時には、お声がけいたしましょう」
私は少し考えた。
確かに、タクマの魔法制御は以前よりずっと上達している。身体強化と風魔法を組み合わせることにも慣れてきたし、今のところ危険な兆候も見られない。
それに、ボーマンは魔法にも精通している。
私が一日中付き添っていなくても、問題はないだろう。
「……じゃあ、明日は久しぶりにギルドへ顔を出そうかな」
「いいんじゃないか?」
タクマがあっさりと頷いた。
「最近行ってなかっただろ?」
「うん。エリナにも会いたいしね」
「そういえば、俺も最近ギルドに顔出してないなぁ」
「タクマは今、修行で忙しいでしょ」
「まあ、そうなんだけど」
タクマは笑った。
「でも、早く依頼にも戻りたいんだよな。せっかく少しずつ強くなってきたんだし」
「ふふっ。焦らなくてもいいと思うけど」
「分かってるよ。でも、今は覚えることが多くて面白いんだ」
その言葉に、私は少しだけ目を細めた。
タクマは、本当に楽しそうだった。
最初にこの世界へ来た頃は、何もかも分からず、私の後をついてくるだけで精一杯だったのに。今では自分から目標を見つけ、そこへ向かって努力している。
その姿を見るのは、素直に嬉しい。
……ただし。
「……本当に剣のことばっかりだね、タクマ」
「えっ?」
「昨日も一昨日も、ずっとその話してるんだもん」
タクマは少し困ったように笑った。
「いや、だって面白いんだよ」
「……そうみたいね」
私は肩をすくめた。
すると、ボーマンが満足そうに頷いた。
「結構なことでございます。何事も、楽しんで学ぶのが一番ですからな」
「はい!」
タクマが元気よく返事をする。
……ああ、駄目だ。
この二人、すっかり意気投合してしまっている。
私は思わず笑ってしまった。
「分かったわよ。じゃあ、午後も頑張ってね」
「うん!」
「ただし、怪我だけはしないでよ?」
「もちろん!」
タクマがそう答えると、ボーマンも穏やかに頷いた。
「ご安心ください、殿下。私が責任を持ってお預かりいたします」
……その言い方も、何だか昔を思い出す。
私が幼い頃、父上に向かって同じようなことを言っていた気がする。もっとも、その後に待っていた授業は、決して楽なものではなかったけれど。
*
午後になると、私は二人を広場に残して家へ戻った。
魔法書の続きを読み、気になっていた術式を紙へ書き出してみる。途中で夕食の準備を始め、野菜を切りながら、明日の予定を考えた。
久しぶりにノヴァグラードへ行こう。
ギルドへ顔を出して、エリナとおしゃべりでもしようかな。最近の依頼の状況も気になるし、そろそろ私自身も仕事を再開しないといけない。
A級冒険者だからといって、毎日依頼を受けなければならないわけではない。でも、ここしばらくはタクマの修行に付き合ってばかりで、まともに活動していなかった。
まあ、少しくらい休んだところで、バルザックも文句は言わないだろう。
……たぶん。
私は切り終えた野菜を鍋へ入れ、火加減を調整した。
タクマは今頃、まだボーマンと剣を交えているのだろうか。それとも、ようやく一撃を入れられたのだろうか。
もし成功していたら、きっと帰ってきた途端に教えてくれるはずだ。あの人のことだから、成功した時の動きまで、身振り手振りを交えて説明してくれるに違いない。
そう考えると、少しだけ可笑しくなった。
タクマにはタクマの目標がある。私には私のやりたいことがある。いつも一緒にいるのは楽しいけれど、だからといって、何もかも同じことをする必要はない。
それぞれが好きなことに打ち込み、夕方になったら同じ食卓を囲む。今日あったことを話し、笑い合い、明日は何をしようかと相談する。
そんな暮らしも、悪くない。
私は鍋の中身をゆっくりとかき混ぜながら、明日の予定を思い浮かべた。
エリナは元気にしているだろうか。フリーダやクルシュにも、運が良ければ会えるかもしれない。最近のギルドの様子を聞いて、何か面白そうな依頼があれば、少し考えてみてもいいだろう。
……うん。
やっぱり、明日はギルドに行こう。
私はそう決めると、再び夕食の支度に取りかかった。




