第36話 馴染んだ剣
翌朝、訓練場へ向かうと、ボーマンは既に私たちを待っていた。
いつもと変わらない穏やかな表情で一礼した彼は、訓練場の端に置かれた木剣の中から一本を取り上げると、タクマに向かって差し出した。
「タクマ殿。本日からはこちらをお使いいただきましょう」
「……え? 剣を変えるんですか?」
タクマは、いつものように片手用の木剣を取ろうとしていた手を止めた。私も少し意外だった。これまでタクマが使ってきたのは、冒険者の間でも一般的な片手剣を模した木剣だ。実際に彼が携えているショートソードも片手で扱うものだし、ハーケンとの訓練でも、それを前提に基本的な剣の扱いを教わっている。
ところが、ボーマンが差し出した木剣は明らかに長かった。柄の部分にも十分な長さがあり、両手で握ることを前提に作られている。刃を模した部分は幅広く、見た目だけでもこれまでの木剣より重そうだった。
「昨日の立ち合いで、ようやく理解いたしました。タクマ殿には、既に身につけておられる剣術がございます。それを無理に捨てさせる必要はないでしょう」
「でも、俺が習っていたのは剣道ですよ? こっちの剣とは全然違うと思いますけど」
「だからこそ、確かめてみたいのです。まずは構えていただけますかな」
促されたタクマは、少し戸惑いながら木剣を受け取った。
両手で柄を握り、足を前後に開く。剣先を相手へ向け、背筋を伸ばして静かに息を吐いた。
その姿を見た瞬間、私は思わず目を見開いた。
昨日までとは、明らかに違う。
片手剣を持ったタクマは、いつもどこかぎこちなかった。ハーケンに教わった構えを思い出しながら、正しい姿勢を取ろうとしているのが分かったし、剣を振るときにも、頭の中で動きを確認しているようなところがあった。
けれど、今のタクマにはそれがない。
肩の力が抜け、剣先はほとんど動かない。何か特別なことをしているわけでもないのに、その姿勢が不思議なほど自然に見えた。
「……タクマ、そんな構え方もできたんだ」
「まあ、一応ね。こっちの方が慣れてるから」
そう言って笑うタクマに、ボーマンがゆっくりと頷いた。
「やはり、こちらの方がよろしいようですな。では、軽く振ってみてください」
タクマは一度剣を持ち上げると、正面へ向かって振り下ろした。続けてもう一度、さらにもう一度と振っていくが、最初の数回こそ滑らかだったものの、やがて表情が少しずつ変わっていった。
「……重いな、これ」
「扱いにくうございますか?」
「いや、逆です。こっちの方がずっと分かるんですけど、思ったより剣先が動かなくて」
タクマは木剣を見つめながら、何度か手首を動かした。
「竹刀とは全然違いますね。重さもそうだけど、重心の位置が違うというか……」
「シナイ、でございますか?」
「ああ、俺が日本で使っていた剣道の道具です。竹で作った剣みたいなもので、実際の剣とはかなり違うんですよ」
ボーマンが興味深そうに眉を上げたので、タクマは剣道について簡単に説明し始めた。
日本では、竹を組み合わせた竹刀という道具を使い、防具を身につけて試合を行うらしい。相手の頭や胴、手首など、決められた場所を打つことで勝敗を競うという。
私は以前にも剣道の話を聞いたことがあったけれど、実際にどんな動きをするものなのかは、ほとんど想像できていなかった。
「つまり、相手を殺傷することを目的とせず、剣を交える技術を競うのでございますな」
「そうですね。もちろん、昔の剣術が元になっているんですけど」
「実に興味深い。危険を抑えながら、繰り返し技を磨くことができるわけですか」
ボーマンはしばらく考え込んでいたが、やがて木剣を手に取った。
「ただし、その技術をそのまま実戦へ持ち込めるとは限りません。相手は定められた場所だけを狙ってくるわけではございませんし、剣を使うとも限りませんからな」
「それは分かってます。剣道じゃ、足を狙われたり、いきなり組みつかれたりすることは基本的にありませんから」
「よろしい。では、その違いを一つずつ確かめてまいりましょう」
そう言って構えたボーマンに、タクマも改めて木剣を向けた。
昨日とは違う訓練が始まろうとしていた。
◇
最初の立ち合いでは、身体強化を使わないことになった。ボーマンによれば、まずはタクマが本来持っている技術を確認し、それを基準に訓練を組み立てたいらしい。
「では、いつでもどうぞ」
ボーマンが静かに告げる。
タクマはすぐには動かなかった。剣先を相手へ向けたまま、じっとボーマンを見つめている。普段なら、どう攻めるべきか迷っているように見えるところだけれど、今は少し違った。
私は訓練場の端から二人を眺めながら、その理由を考えた。
タクマの視線は、ボーマンの剣だけを追っているわけではない。肩や足の位置を確かめ、ときどき小さく剣先を動かしている。まるで相手の反応を探っているようだった。
やがて、タクマがわずかに前へ出た。
ボーマンは動かない。
さらに半歩ほど距離を詰めると、今度はボーマンの剣先がほんの少しだけ下がった。
その瞬間、タクマが踏み込んだ。
「っ!」
鋭い足音とともに木剣が振り下ろされる。しかし、ボーマンは慌てることなく半歩だけ体をずらし、タクマの剣を横から軽く押さえた。
「なるほど。今の踏み込みは見事でございます」
「……でも、全然届きませんでした」
「剣の重さに対して、腕の動きが遅れておりますな。足が先に進みすぎているのでしょう」
タクマは自分の木剣を見下ろし、納得したように頷いた。
「確かに。竹刀だったら、もう少し速く振れてると思います」
「それと、もう一つ。先ほどは私の剣先が下がった瞬間を狙われましたな?」
「はい。隙ができたと思ったので」
「隙ができたのではなく、隙を作ったのでございます」
「……あ」
ボーマンは穏やかに笑いながら、もう一度剣を構えた。
「相手の動き出しを捉えることは、剣術において非常に重要でございます。しかし、見えた隙が本物とは限りません。相手もまた、こちらの動きを誘おうとしておりますからな」
「なるほど……」
「ですが、今のタクマ殿は、ただ隙を待っていたわけではございませんね。ご自身から間合いを詰め、私の反応を引き出そうとなさっていた」
タクマは少し驚いたように顔を上げた。
「分かるんですか?」
「当然でございます。剣先を動かし、少しずつ距離を詰めることで、こちらに何らかの対応を迫っておられました。なかなか面白い攻め方でございますな」
「剣道では、そういう駆け引きも大事なんです。相手が動くのを待つだけじゃなくて、自分から攻めて、相手を動かすというか……」
「相手の動きを誘い、その始まりを捉える。なるほど、理にかなっております」
ボーマンは感心したように頷いたが、すぐに表情を引き締めた。
「ただし、その駆け引きを生かすためには、タクマ殿ご自身が相手の攻撃を受けられることも必要でございます。攻めることばかりに意識を向ければ、足元を払われることも、懐へ入り込まれることもありましょう」
そう言うと、ボーマンはタクマの構えを確かめながら、ゆっくりと前へ出た。
タクマも剣先を向け直すが、ボーマンは正面から打ち込まず、斜めへ足を運んで間合いを変える。タクマがそれに合わせて向きを変えたところで、今度は木剣を低く構え、脚を狙うような動きを見せた。
「うわっ!」
慌てて後退したタクマの体勢が崩れ、そこへボーマンの木剣が軽く肩に触れた。
「そこまででございます」
「……今の、剣道じゃ絶対にない動きですね」
「でしょうな。ですが、こちらでは十分に起こり得ることでございます」
ボーマンは木剣を下ろすと、タクマの足元を指した。
「先ほどの構えでは、前へ踏み込むことには優れておりますが、横や後ろへの動きには少々不向きなようです。そこは修正する必要がございますな」
「構えを変えるんですか?」
「いえ、全てを変える必要はございません。攻める際には今の構えを生かし、相手の出方によって足の運びを変えられるようにいたしましょう」
その言葉に、タクマは少し安心したようだった。
それから何度も立ち合いが繰り返された。
タクマは剣先を動かして相手の反応を誘い、ときには踏み込むと見せかけて距離を詰める。片手剣を使っていた頃には見られなかった動きが次々に現れ、私は思わず身を乗り出してしまった。
ただし、それでボーマンに攻撃が届くわけではない。
タクマが正面から打ち込めば、ボーマンは剣を合わせて軌道を逸らす。間合いを詰めようとすれば、わずかに足を引いて距離を保ち、逆に踏み込みすぎたところへ木剣を差し込んでくる。
何度目かの攻防で、タクマはボーマンの動き出しに合わせて剣を振った。しかし、剣先が届くより先にボーマンの木剣がタクマの肩へ触れた。
「そこまででございます」
「くそっ……見えてるんだけどな」
悔しそうに息を吐くタクマに、ボーマンは穏やかに笑った。
「それは大きな強みでございます。相手の動きを捉える目も、踏み込む判断も、既に十分なものをお持ちです」
「でも、体が追いつかないんですよね」
「ええ。それに、タクマ殿はまだ、この剣の重さと長さを把握しきれておりません。見えていることと、届くことは別でございますからな」
昨日も似たようなことを言われていた気がする。
けれど、今日のタクマは少し違った。失敗するたびに首を傾げたり、握り方を変えたりしながら、自分の動きを確かめている。
そして、ボーマンもまた、彼の構えを大きく変えようとはしなかった。
「今の踏み込みは、そのままでよろしいでしょう。ただし、剣を振り下ろす際には、もう少し体全体を使ってみてください」
「体全体、ですか?」
「腕だけで剣を動かそうとせず、腰と肩の動きを合わせるのです。今のタクマ殿は、足が動いた後に剣を振っておられます。これを一つの動作にまとめてみましょう」
タクマは何度か素振りを繰り返し、ボーマンの助言を確かめていた。
その姿を見ながら、私は少し不思議な気持ちになっていた。
これまで、タクマに魔法を教えたのは私だった。冒険者としての基本を教えたのはハーケンで、依頼の受け方も、魔物との戦い方も、ほとんどがこの世界に来てから身につけたものだ。
でも、今のタクマは違う。
ボーマンに教わりながらも、その土台にあるのは彼が日本で積み重ねてきた技術だった。私の知らない場所で、私の知らない人たちと、何年もかけて磨いてきたものが、今、目の前で少しずつ形になっている。
そう思うと、なんだか嬉しかった。
◇
昼前になって休憩を挟むと、今度は身体強化を併用した訓練が始まった。
「まずは、先ほどの動きをそのまま再現していただきましょう。身体強化は、必要な部分にだけ使ってみてください」
ボーマンの言葉に、タクマは私の方を振り返った。
「リカ、ちょっと見てもらっていい?」
「もちろん。最初から全身を強化する必要はないと思うよ。まずは踏み込む瞬間に脚を強化して、それから剣を振る動きに合わせて腕や肩の強化も調整してみて」
「分かった。やってみる」
タクマは木剣を構え、ゆっくりと呼吸を整えた。
身体強化の術式が働き、脚へ向けた魔力の出力が高まっていく。私にはその魔力の流れが分かるけれど、タクマ自身はまだ、どの程度の出力が適切なのかを感覚で確かめている段階だった。
そして、踏み込んだ。
「うわっ!」
勢いよく前へ飛び出したタクマは、剣を振るより先に体が進んでしまい、慌てて足を止めた。
私は思わず笑ってしまった。
「ちょっと、強化しすぎ!」
「いや、分かってるんだけどさ! 思ったより足が速く動いて……」
「魔力の出力が高すぎるんだよ。もっと少なくていいから」
ボーマンも苦笑しながら頷いた。
「今のままでは、相手の懐へ飛び込むだけになってしまいますな。まずは普段の踏み込みを崩さないことを意識なさってください」
タクマは気を取り直し、もう一度構えた。
今度は脚への強化を抑え、普段の踏み込みに近い動きを意識する。先ほどより自然になったものの、剣を振り下ろす途中で腕に力が入りすぎてしまい、剣先が大きくぶれた。
「……難しいな」
「そりゃそうだよ。今まで全身をまとめて強化することはあっても、こんな細かい使い方はあんまりしてこなかったでしょ?」
「そうなんだよな。魔法って、もっと単純なものだと思ってた」
「身体強化の術式そのものは単純だけど、どこをどれだけ強化するかは本人次第だからね。私だって、こんなふうに剣の動きに合わせて細かく調整したことはあんまりないし」
そう答えてから、私は少し考え込んだ。
これまで私は、身体強化を使うときに魔力の出力や配分を意識することはあっても、剣を振る動作そのものに合わせて細かく調整しようとは考えていなかった。
私の場合、そもそも身体強化を使わなくても十分に戦えるし、必要になれば出力を上げることで大抵の問題は解決できてしまう。
けれど、タクマは違う。
魔核から引き出せる魔力の出力も、一度に扱える魔力量も、私とは比べものにならないほど小さい。だからこそ、限られた魔力をどう使うかが重要になる。
ただ強化するだけなら簡単でも、それを剣の動きに合わせて制御するとなれば話は別だ。必要のない筋肉まで強化すれば、かえって動きが硬くなることもあるだろうし、出力を上げすぎれば、今のように体だけが先に進んでしまう。
「……ねえ、タクマ。ちょっと試してほしいことがあるんだけど」
「ん?」
「踏み込むとき、脚だけを強化するんじゃなくて、剣を振り始める動きに合わせて、強化する場所と出力を変えてみてくれない?」
「場所と出力?」
「うん。踏み込む瞬間は脚を少し強くして、体が前に出たら脚の強化を弱めるの。それから、剣を振る動きに合わせて腕や肩の強化を少しだけ高めてみて」
タクマはしばらく考え込んでいたが、やがて頷いた。
「なるほど。ずっと全力で強化するんじゃなくて、必要なところだけ順番に使うわけか」
「そういうこと。うまくいくか分からないけどね」
「試してみるよ」
それから、私たちは何度も同じ動きを繰り返した。
タクマが踏み込むたびに魔力の流れを観察し、どこで出力を変えるべきかを考える。ボーマンは剣の動きを確認しながら、踏み込みと振り下ろしが自然につながるように助言してくれた。
最初は、なかなかうまくいかなかった。
脚の強化を早く弱めすぎれば踏み込みが鈍り、逆に腕の強化を高めるのが遅れれば、剣の重さに振り回されてしまう。剣を振る動作に意識を向けすぎて足の運びがおろそかになることもあり、タクマは何度も動きを止めては、最初からやり直していた。
「……これ、剣道の練習より頭使うかもしれない」
「剣道って、そんなに考えなくてもできるものなの?」
「いや、めちゃくちゃ考えるよ。ただ、昔はこんなふうに自分の体の動きを一つずつ意識してなかったからさ」
タクマは木剣を肩に担ぎ、少し懐かしそうに笑った。
「構えとか踏み込みとか、何年も繰り返してるうちに、考えなくてもできるようになるんだよ。もちろん、試合中は相手の動きを見て色々考えるけど、体の動かし方自体はもう癖になってるというか」
「なるほどね。じゃあ今は、昔覚えた動きを魔法に合わせて作り直してる感じかな」
「そうかも。なんか変な感じだけど、面白いな」
そう言うと、タクマは再び剣を構えた。
何度失敗しても嫌そうな顔をすることはなく、むしろ少しずつ動きが変わっていくことを楽しんでいるようだった。ボーマンもそんな彼の様子を見ながら、ときどき小さく頷いている。
何十回目かの素振りを終えたところで、タクマがふと動きを止めた。
「……なんか、分かってきた気がする」
確かに、最初の頃と比べると動きが滑らかになっている。魔力の出力も以前ほど乱れておらず、踏み込みから振り下ろしまでが一つの動作としてまとまり始めていた。
「うん、今のはよかったと思う」
「では、もう一度立ち合ってみましょうか」
ボーマンが木剣を手に取ると、タクマの表情が引き締まった。
◇
午後の立ち合いは、午前中とは少し違った。
タクマは以前のように、ただ速く動こうとはしなかった。相手との距離を測りながら、必要なときにだけ身体強化の出力を高め、剣を振る動作へつなげようとしている。
もちろん、ボーマンの動きにはまだまだ及ばない。
それでも、午前中には見られなかった変化があった。
タクマは剣先をわずかに動かし、ボーマンの反応を確かめる。相手が動かないと見るや、一歩だけ間合いを詰めた。
ボーマンはその場を動かず、剣先だけを少し下げる。
午前中にも見せた、攻撃を誘うための動きだった。
けれど、今度のタクマはすぐには飛び込まなかった。
剣先を相手へ向けたまま、さらに半歩だけ距離を詰める。ボーマンがわずかに足を引くと、タクマもそれに合わせて間合いを保ち、相手の剣先が戻るのを待った。
私は思わず息を呑んだ。
今のタクマは、ただ攻撃の機会を待っているのではない。自分から距離を詰めることでボーマンに対応を迫り、その動きの中から攻める機会を探している。
剣道というものがどんな競技なのか、私にはまだ十分に理解できていない。それでも、タクマがこれまでとは違う考え方で戦っていることだけは分かった。
ボーマンの木剣が、わずかに動いた。
その瞬間、タクマが踏み込んだ。
脚への身体強化が一瞬だけ高まり、体が前へ進む。踏み込みに合わせて剣が振り上げられ、続いて肩と腕の強化が高まると、木剣が鋭く振り下ろされた。
乾いた音が響いた。
ボーマンの木剣が、タクマの攻撃を受け止めていた。
「……っ!」
タクマが驚いたように目を見開く。
しかし、次の瞬間にはボーマンが剣を返し、タクマの脇腹へ軽く木剣を当てていた。
「そこまででございます」
「……今の、どうでした?」
息を切らしながら尋ねるタクマに、ボーマンは満足そうに頷いた。
「悪くございません。少なくとも、こちらも剣を使う必要がございました」
「えっ?」
「これまでは、体を動かすだけで避けられる攻撃がほとんどでしたからな。今の一撃は、受ける方が確実だと判断いたしました」
タクマはしばらく呆然としていたが、やがて嬉しそうに笑った。
「……よし!」
思わず握り拳を作る彼を見て、私も笑ってしまった。
「やったじゃん、タクマ!」
「いや、結局やられてるんだけどね」
「それでも、今のはちゃんと進歩してたよ!」
私がそう言うと、タクマは照れくさそうに頭をかいた。
もちろん、ボーマンとの実力差はまだ大きい。今の一撃だって、本気で戦っていれば簡単に防がれていただろうし、タクマ自身もそのことは分かっているはずだ。
けれど、今までとは違う。
タクマが日本で身につけた技術と、この世界で覚えた魔法が、ようやく一つにつながり始めたのだ。
「本日は、この辺りにしておきましょう」
ボーマンが木剣を下ろす。
「え、もう終わりですか?」
「ええ。新しい動きを覚えたばかりのところで無理をしても、かえって悪い癖がつくことがございます。それに、随分とお疲れのご様子ですからな」
そう言われたタクマは、ようやく自分の腕を見下ろした。
「……あ、確かに」
木剣を握っていた手を開いたり閉じたりしながら、苦笑する。
「腕がもう、結構きてます」
「慣れない重さの剣を振り続けたのです。今夜は十分に休まれるとよろしいでしょう」
そう言って笑うボーマンに、タクマは素直に頭を下げた。
「ありがとうございました。明日もよろしくお願いします」
「こちらこそ。私も、なかなか興味深いものを見せていただきました」
ボーマンは穏やかに答えたが、その後、ほんの少しだけ考え込むような表情を浮かべた。
◇
訓練を終えたタクマが木剣を片づけている間、ボーマンが私に声をかけてきた。
「リカ様。少々、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「ん? どうしたの?」
「タクマ殿の魔力についてでございます」
思いがけない話題に、私は首を傾げた。
「魔力?」
「ええ。以前から、あの程度の身体強化を続けておられたのでしょうか」
「ううん。最初の頃はもっと少なかったよ。身体強化だって、少し使うだけですぐ疲れてたし」
「左様でございますか」
「でも、最近は魔力の扱いにも慣れてきたからね。今日だって、無駄に強化しなくなった分、消耗が少なかったんだと思う」
そう答えると、ボーマンは静かに頷いた。
「なるほど。確かに、魔力の扱いは随分と上達しておられるようですな」
「でしょ? 私もちょっと驚いたくらい」
実際、今日のタクマはよく頑張っていた。
身体強化の出力を抑え、必要な部分にだけ魔力を流すことで、以前よりも効率よく動けるようになっている。魔力の消耗が少なくなったとしても、不思議なことではない。
ただ、ボーマンは何かを考えているようだった。
「……いえ、私の考えすぎかもしれません」
「何か気になることでもあった?」
「本日の訓練量を考えますと、最後まで随分とよく動いておられたものですから。もちろん、魔力の使い方が改善されたのであれば、十分に説明のつくことでございましょう」
私は少し考えたものの、特に気になることは思い当たらなかった。
魔力の消耗には個人差があるし、同じ術式でも使い方によって必要な魔力量は変わる。タクマが以前より長く身体強化を使えるようになったのも、訓練の成果だと考えるのが自然だった。
「まあ、本人も前より楽になったって言ってたしね。いい傾向なんじゃないかな」
「ええ。そうでございますな」
ボーマンはそれ以上何も言わなかった。
私も、そのときは特に気に留めなかった。タクマの魔法が上達しているのなら、それは素直に喜ばしいことだったからだ。
ただ、ボーマンが最後にタクマの方へ向けた視線には、ほんの少しだけ、何かを確かめようとするような色があった。
◇
夕方、私たちは並んで家へ向かっていた。
訓練場を出た頃から、タクマは何度も肩を回している。慣れない両手剣を一日中振っていたせいで、腕だけでなく背中まで疲れているらしい。
「いやあ、剣道やってた頃は、こんなに腕が重くなることなかったんだけどな」
「そりゃ、剣が違うもん。しかも、何年も離れてたんでしょ?」
「まあね。最後にまともに竹刀を振ったのって、いつだったかな……」
タクマは少し考えてから、苦笑した。
「大学を出てからは、ほとんどやってなかったしなあ。仕事が忙しくて、それどころじゃなかったから」
「でも、今日の動きはすごかったよ。私、ちょっとびっくりした」
「そう?」
「うん。今までのタクマとは、全然違って見えた」
そう言うと、タクマは少し照れくさそうに笑った。
「まあ、あれだけやってたからね。体が覚えてる部分もあるんだと思う」
「そんなに長くやってたの?」
「小さい頃からずっとね。高校のときは、ほとんど毎日練習してたし」
「へえ……」
私はタクマの横顔を見上げた。
日本にいた頃の彼について、私はまだ知らないことがたくさんある。
タクマがこの世界に来たとき、彼は森の中で魔物に襲われ、何も分からないまま途方に暮れていた。剣も魔法も使えず、この世界の言葉すら満足に理解できなかった彼を、私は放っておけなかった。
それから一緒に暮らすようになり、冒険者として依頼をこなし、魔法を教え、気がつけば恋人同士になっていた。
今では、彼が隣にいることが当たり前になっている。
けれど、私が知っているタクマは、この世界に来てからの彼がほとんどだった。
「……ねえ、タクマ」
「ん?」
「今日の訓練、楽しかった?」
そう尋ねると、タクマは少し驚いたような顔をした。
「え? ああ、うん。結構楽しかったよ」
「そっか」
「なんていうか、久しぶりだったんだよな。昔やってたことを思い出す感じがして」
タクマは前を向いたまま、少し懐かしそうに笑った。
「もちろん、剣道とこっちの剣術じゃ全然違うんだけどさ。それでも、相手の動きを読んだり、間合いを測ったりするのは、やっぱり面白いなって」
その言葉を聞いて、私は少しだけ胸が温かくなった。
この世界に来てからのタクマは、いつも必死だった。生きていくために冒険者になり、危険な依頼にも挑戦して、少しでも強くなろうと努力してきた。自分の身を守るため、そして私の隣に立つために、できることを増やそうとしていた。
でも、今日の彼は少し違っていた。
強くならなければいけないという気持ちだけでなく、剣を振ることそのものを楽しんでいたように思う。何度失敗しても嫌そうな顔をせず、ボーマンの助言を聞きながら繰り返し剣を振っていた姿は、私がこれまで見てきたタクマとは少し違っていた。
それはきっと、日本にいた頃の彼にとって、ごく当たり前の姿だったのだろう。
「ねえ、今度さ」
「うん?」
「日本で剣道やってた頃の話、もっと聞かせてよ」
タクマがこちらを向いた。
「いいけど、結構長くなるぞ?」
「いいよ。聞きたいから」
「そんなに面白い話でもないと思うけどなあ」
「それは私が決めることじゃない?」
そう言って笑うと、タクマもつられたように笑った。
「じゃあ、今度ゆっくり話すよ。高校の頃とか、色々あったし」
「うん、楽しみにしてる」
私たちはそのまま、夕暮れの街を歩いていった。
タクマがこの世界に来たとき、彼は何も持っていなかった。少なくとも、私はそう思っていた。
けれど、今日の訓練を見て、その考えが間違っていたことに気づかされた。彼はちゃんと持ってきていたのだ。二十五年間を生きて、学んで、積み重ねてきたものを。
それは剣でも魔法でもなく、目に見える道具ですらない。けれど、彼がこの世界で生きていくための、大切な力になるものだった。
今日、ボーマンはその一つを見つけてくれた。
私が知らなかっただけで、タクマの中には、まだたくさんの経験や思い出が残っているのだろう。彼がどんな子供だったのか、誰と笑い、何に夢中になっていたのか。これまであまり考えたことのなかったそんな話も、今なら聞いてみたいと思う。
隣を歩くタクマは、相変わらず疲れた様子で肩を回している。そんな彼を見ているうちに、私は思わず笑ってしまった。
「……なんだよ?」
「ううん、なんでもない」
「絶対なんかあるだろ」
「別に。ただ、タクマのこと、まだまだ知らないんだなって思っただけ」
そう答えると、タクマは少し不思議そうな顔をした後、照れくさそうに笑った。
「それは、お互い様じゃない?」
「……そうかもね」
確かに、タクマだって私のことを全て知っているわけではない。彼に話していないことも、まだいくつもある。
けれど、今はそれでいいのだと思う。
一緒に過ごして、少しずつ知っていけばいい。今日のように、思いがけないところで新しい一面を見つけることだってあるのだから。
私は隣を歩くタクマの手を取り、指を絡めた。
「じゃあ、これからもっと色々教えてね」
「……うん。リカもな」
タクマが握り返してくれた手は、いつもより少しだけ熱かった。
その温もりを感じながら、私はまだ知らない彼の話を聞ける日を、楽しみに思った。




